第22話 記憶の抜け道
――血の記憶、その深部。
煉の視界がふわりと揺れた次の瞬間、彼はそこにいた。
金属の通路。壁の継ぎ目にこびりつく古い血痕。
どこからか薬品と消毒液の混じる匂い――嗅覚が狂いそうだった。
走っている。いや、“駆けている”――四肢で。
フェンリスの記憶が、まるで自分の肉体のように流れ込んでくる。
呼吸が荒く、空気が熱い。喉が焼ける。
見下ろす腕が、毛に覆われている。
背後には、赤色灯が点滅する。警報と怒号。銃声。
けれど恐怖よりも強く胸を締めつけるのは、怒りと飢えだった。
「ッ、そこだ!止まれ――!」
叫ぶ声に、身が自然と反応する。
壁を蹴り、反転。迫る者に向かって爪が振るわれる。
……裂けた。皮膚、骨、叫び。
肉片が飛び、血が霧となって吹き出した。
(止まれない――止まったら、“戻される”)
咆哮。
足音が重なる。誰かが横に並ぶ。
「……こっちよ! 早く!」
振り向くと、そこにいたのは――
「……リサ!?」
銃を手に、軍用ジャケットを着た彼女が、まっすぐこちらを見ていた。
弾丸の雨を切り裂くように、迷いなく動いていた。
(なんで……なんで、リサがここに――?)
煉の意識に、強い混乱と震えが生まれる。
これはただの記憶じゃない。フェンリスと自分の感情が、どこかで重なっていた。
◇ ◇ ◇
時間は少し巻き戻る――現実世界。
控室のような空間。
煉が記憶から戻ったとき、ヴィオレットは彼の頬に手を添えて、いつものように笑っていた。
「おかえり、子猫くん。ちゃんと“記録”は持ち帰ってこれたかしら?」
「……ああ。場所も、逃走ルートも……それに、リサもいた」
その名前を口にした瞬間、ヴィオレットの指がすっと止まる。
だが彼女はそれ以上は何も言わず、代わりに優しく煉の髪を撫でる。
「この先は、あなたの試練。だから――私は、ついていかない」
「……は?」
「大丈夫よ。あなたならきっと、乗り越えられるもの。
それに……」
指先が煉の顎を撫で、囁くように口元に触れる。
「一人で寂しくなったら、ちゃんと思い出して。私の“牙”、まだあなたの中に残ってるでしょう?」
煉はため息混じりに視線を逸らす。
「……お前って、ほんと……」
「溺愛してるだけよ?」
そのやり取りの隣で、アマリリスがくすくすと笑った。
「ふふっ、もしあなたが飽きたら、その子、私に譲ってね?
ねえ、煉くん。私も甘やかすの、得意なのよ」
煉は即座に顔を背けるようにしながら立ち上がった。
「もういい。行くぞ、フェンリス」
「はいはい……あーあ、置いていかれた」
フェンリスは肩を回しながら付いていく。
だがその背に、アマリリスが追い打ちのように軽口を投げた。
「でも煉くん、気をつけて?
その子、借りてるだけだからね?
下等種の血、吸いすぎて癖になっちゃダメよ?」
煉は返事もせず、足を速めた。
そのとき、ヴィオレットの声が後ろから届いた。
「――それと。もう一人、あなたに会う予定の子がいるわ。
きっと、すぐに“出会う”ことになるわよ?」
振り返ることなく、煉は静かに答えた。
「……わかった」
夜の回廊を、彼とフェンリスは歩き出す。
新たな情報と、新たな謎と共に――
――“血の記憶”は、まだ続いている。
◆ ◆ ◆
夜明け前。
空の端がわずかに白み始めた頃――煉は、《ノクターン》の闘技場を後にし、フェンリスとともに人の少ない市街地へ向かっていた。
二人きり。
フェンリスは途中から無言になり、肩で息をしながらも、並んで歩く煉に不思議な視線を投げていた。
だが、煉は特に何も言わず、与えられた地点まで黙々と進んでいった。
そして。
レンガ造りの建物が連なる裏通りの一角。
そこには、一台の黒いSUVが静かに停まっていた。
その傍らで待っていたのは――リサ・クレアモントだった。
「遅かったわね。……ほんとにフェンリスを連れて来るなんて、ちょっと驚いたわ」
リサは腕を組んで煉たちを見下ろすように言った。
「お前が……ヴィオレットの言ってた“もう一人”か。それに、フェンリスのことも――最初から知ってたのか?」
煉が目を細めながら問い返すと、リサは小さく笑い、肩をすくめた。
「名前と噂ぐらいはね。彼女、《ノクターン》じゃちょっとした看板娘だったんでしょ?
〈灰嵐〉の戦乙女って呼ばれて、吸血鬼の間でも結構人気があったらしいわよ。もちろん私は、実物を見るのはこれが初めてだけど」
彼女はちらりと煉の隣――150cmほどの背丈で眠たげに立っている少女の姿へと視線を送った。
「思ってたより……小さいのね、こうなると」
言葉にはわずかな戸惑いと興味が混じっていた。
フェンリスは聞こえているのかいないのか、軽くあくびをして背伸びをしただけだった。
煉はその様子を見て、しばらく黙ったままだったが――やがてリサへと目を戻す。
「……まさか、“あの言い方”で伝わるとは思ってなかった、か」
皮肉のような声音に、リサは苦笑いを浮かべた。
「ええ、私もね。……でも通じたんだから、結果オーライでしょ?」
彼女が軽く顎をしゃくり、後ろに停めてある車を指差す。
「さあ、乗って。陽が出る前に、出発するわよ」
煉は無言で頷く。
その横で、フェンリスがフードを脱ぎながら、面倒そうに口を開いた。
「車の中で寝ていい? ちょっと……疲れた」
「勝手にしろ」
フェンリスはためらいなく後部座席に乗り込むと、シートに足を投げ出して丸くなった。
「おいおい、アンタどこまで図太いんだよ……」
リサが半分あきれながら運転席に座り、ドアを閉める。
煉も無言で後部座席に乗り込んだ。
リサが特別に用意した遮光処理の空間――外光を完全に遮断した密閉型の後部シェルターだった。
ドアを閉じた瞬間、夜の残光すら届かず、車内は薄暗く静かな照明に包まれる。
エンジンが静かに唸る。
「で、目的地は?」
リサが問うと、煉は持っていた地図をディスプレイに転送する。
「記憶の中で見た。フェンリスが逃げた通路、外の風景、光の角度――全部照らし合わせて辿った。
……ここだ。郊外の旧研究開発区の裏山。人間の開発計画から外されたまま、手付かずで残ってる」
リサが唸るように頷く。
「よく調べたわね。じゃあ、夜になるまでは近くで待機。それまで仮眠でも取っときなさい」
車はゆっくりと発進する。
数分後、沈黙のなかで――煉がぼそりと口を開いた。
「……なあ。お前、本当にあの研究施設のこと……何も知らないのか」
「ん? 研究施設?」
リサはルームミラー越しにちらりと煉を見やり、それから何事もなかったように前を向いた。
「悪いけど、初耳よ。……なんで?」
「いや……気にするな。こっちの問題だ」
煉はそれ以上言わなかった。
だが、胸の奥には拭いきれぬ違和感が残っていた。
そのとき、後部座席の隅で身体を丸めていたフェンリスが、うつらうつらしながら煉の方へもたれかかってきた。
「ん……いい匂い、する……」
寝言のように呟いて、煉の肩口に鼻先を押し付ける。
「おい、やめろ」
煉は小さく呻きながらフェンリスを押し返したが、彼女は気にせずそのまま眠りに落ちていった。
煉は疲れたように額に手を当て、再び静かに瞼を閉じる。
(……“記憶”が混じった? それとも――)
胸の内に渦巻く違和感は、まだ晴れそうになかった。




