第21話 血の記憶
部屋の空気が、微かに張り詰める。
「――吸えばいいのよ」
ヴィオレットが何気ない調子で言った。
その声音はいつも通り軽やかだったが、言葉の意味は重く沈んでいた。
「……何を、って」
煉が眉をしかめる。
「フェンリスの血を。ねえ、あなたも知ってるでしょう? 吸血で“記憶”を読むことができるって」
ヴィオレットは指で自分の唇をなぞるようにしながら、続けた。
「あなた、血を吸ったときも――少しは見えたんじゃない?」
その言葉に、アマリリスがピクリと反応した。
「……ふぅん、記憶を“読む”ねえ。それは面白い」
ワインレッドの唇をつり上げ、銀の扇子で口元を隠す。
「でも対象が“狼人”じゃなければ、もっと興味が湧いたのに」
まるで虫でも見るかのように、フェンリスに視線を流す。
煉はヴィオレットに向き直った。
「……それ、本気で言ってるのか」
「当然。こういう情報源、そうそう転がってないわ。何より――彼女自身も記憶を失ってる」
ヴィオレットは瞳を細め、囁くように言う。
「血の奥に眠ってる記憶なら、きっと“見える”。貴方ならできるわ」
「ふざけるな。俺は――」
煉が拒絶の色を強く出す前に、ヴィオレットは言葉を重ねた。
「動物の血で飢えを凌いでたんでしょう? あの二年。
それに比べたら……フェンリスの血なんて、ずっと“人間に近い”わ」
「……っ」
「それとも何? 目の前の真相より、“匂い”が気になるのかしら?」
挑発的な笑み。まるで煉を試すように、わざとその視線を絡めてくる。
その時だった。
「――私は別にいいけどね」
フェンリスが、壁にもたれたまま肩をすくめた。
「研究所で何をされたのか、全部思い出せたら……その場所をぶっ潰せる」
拳を鳴らす音が、部屋にこだました。
「それに……煉、だっけ? 吸うの、怖いのか?」
彼女の瞳はまっすぐだった。
冷笑ではない。誇りでもない。
ただ――自分の過去を、他人の血によって“回収”しようという、それだけの覚悟がそこにあった。
「……違う。そういうことじゃない」
煉は答えた。だが、その声音は少しだけ揺れていた。
アマリリスはその様子を見ながら、銀の扇子の奥でふふっと笑う。
目は細めているが――視線は、獣のように鋭く煉を見据えていた。
「さて、どうするのかしら。可愛い“血嗣”くん」
その言葉は、からかいではなく――“次の扉”の鍵を握る問いだった。
煉は、拳を強く握ったまま動けずにいた。
フェンリスは相変わらず、壁に片肩を預けて、腕を組んでいる。
「……わかった。少しだけだ」
絞り出すように言って、煉はフェンリスの前に歩み寄る。
視線は逸らさない。だが、額の皮膚は引き攣るように強ばっていた。
「手首を出せ」
そう言うと、フェンリスが小さく鼻を鳴らした。
「……ふん、やっぱり“子猫”だな」
その声に、ヴィオレットが割って入る。
「手首じゃ、記憶はあまり拾えないわよ?」
彼女は微笑を浮かべながら、扇情的な口調で続けた。
「命脈――首のここ。血の流れが集中する場所。そこなら、“心”が溶け出すの」
煉の肩が、わずかに震えた。
迷いがまた生まれる。
「おい、男だろ?」
フェンリスが言う。
「ぐずぐずしてると、もう自癒が始まるぞ。吸うならさっさとしろ。ちゃんと深く噛め」
煉は黙って頷くと、息を整え――
そっと、彼女の首筋に顔を寄せた。
灰色の毛の間から覗く、白くしなやかな肌。
喉元へ、牙を立てる。
――ザクリ。
血が、口内に流れ込んだ。
……異質だった。
鉄の味でも、人の甘さでもない。
まるで毒のように、舌にざらりとした苦みが走る。
(……これは……っ)
次の瞬間、視界が歪む。
◆
叫び。
鎖の音が耳を裂く。
鋼鉄のベッドに縛りつけられた躯。冷たい感触が背中に染み込む。
無数の管が肉体を穿ち、鋭い器具が皮膚の下に押し込まれる――!
痛い。違う、これは……俺の身体じゃない。だが、感じる。
「あ゛あっ、やめろッ……!」
声にならない獣の咆哮。
喉が焼け、肺が潰れそうな叫びの中で、少女はまだ抗っていた。
……フェンリス。
器として扱われ、名を奪われても。
彼女は――生きようとしていた。
意志も形も曖昧なまま、それでも叫び続けていた
。
(……なんだこれは……)
煉の意識が滲み、痛みと怒りと、何より“恐怖”が喉元を締めつける。
◆
「……っ!」
煉は突然、跳ねるようにフェンリスから離れた。
胸が焼けつくように痛い。
心臓が異常なほど跳ね、全身に苦痛が走る。
「ダメよ、煉」
ヴィオレットが背後から腕を伸ばし、彼の襟を引くようにして引き離す。
「狼の血は、やっぱり合わないわね。吸血鬼には“毒”みたいなものだもの」
煉はそのまま、崩れるように床に倒れた。
歯を食いしばって痛みに耐える。
その隣で、アマリリスが楽しげに笑う。
「うふふ……惜しいわねぇ。あんな美味な“演目”、もし舞台でやってくれたら――入場券、殺到だったわよ?」
銀の扇をひらひらと煽ぎながら、彼女は実に嬉しそうに言った。
「きっと、前座じゃなくメインアクトね。興奮と絶望が混ざった血の香り……最高だわ」
「で? なんなの、これ」
フェンリスが首を軽くさすりながら尋ねる。
頸の咬痕はもう消えており、ほんのかすかな血痕が残るだけだった。
「答えは簡単よ」
アマリリスが代わって応える。
「吸血鬼は、基本的に狼の血を吸わない。臭いし、力を削がれるし……それにね」
彼女は煉の方へ目を向ける。
「吸った側が、“深く見すぎる”こともあるのよ。野生って、理性を焼くの」
煉は苦痛に顔をしかめながらも、視線を落とした。
その内側で、まだ体の奥に残る異様な感覚が、熱のようにくすぶっていた。
「……最初から分かってて、俺にやらせたのか」
激しい息の中で、煉はヴィオレットを睨みつけた。
声は低いが、怒りが滲んでいた。
「ええ、当然」
ヴィオレットはまったく動じず、むしろ楽しげに、煉の顎をそっと持ち上げ、顔を覗き込む。
「でも、あなたが“どこまで踏み出せるか”も、見たかったの」
彼の唇の端に残っていた血を、指先で拭い、自分の唇へと運ぶ。
だが――次の瞬間、顔をしかめてすぐに吐き出した。
「……やっぱり、まずいわね。まるで犬の餌を舐めた気分」
ハンカチで口元を覆い、わずかに顔を背ける。
「ふざけるな……」
煉は呻くように言い、ゆっくりと体を起こした。
背中に冷たい感覚が走る中、その目はヴィオレットを真っ直ぐに捉えていた。
「これが“お前のやり方”か……!」
だが――
怒りの中でも、彼自身、理解せざるを得なかった。
あの血の中に、確かに“情報”があった。
目的の鍵に近づくための、道が。
アマリリスはくすりと笑い、扇子を肩にあてがいながら言った。
「吸った側が理性を焼かれる――って言ったでしょう? でも、そのぶん深く届くのよ。
で? 見えた? 彼女の“過去”――研究所の記憶とか」
煉は奥歯を噛みしめ、ヴィオレットをもう一度だけ睨んだ後、
再び視線を落とし、目を閉じた。
(……今は――怒りよりも、優先すべきものがある)
静かに息を整え、意識を沈める。
記憶の中、“フェンリスの夜”――その深部へと、再び沈んでいく。




