第20話 月の舞踏会へようこそ
控えの間は、闘技場の喧騒が嘘のように静かだった。
石造りの壁、赤い絨毯、重厚な香の香り。
装飾のない長椅子と、天井から垂れるアンティーク調の間接照明が、場の静けさを優しく包み込んでいた。
煉とヴィオレットが案内されて入ると、仮面の侍者は無言で一礼し、扉の向こうへと消えた。
重い扉が閉じられ、場に沈黙が満ちる。
「……なあ、さっきの……なんだ?」
煉が口を開いた。
声は落ち着いていたが、その奥に残る熱と困惑は隠しきれない。
「フェンリス……あの時、一瞬だけ動きが止まった。
あれがなければ、俺は負けてた」
ヴィオレットはそれに答えず、静かに煉の前へ歩み寄る。
ポケットから白いハンカチを取り出し、そっと彼の頬に手を伸ばす。
「……顔に血がついてるわ。動いたら取れないでしょう?」
その仕草はまるで、子供の顔を拭う母のようだった。
手が離れた後、ようやくヴィオレットは柔らかく笑った。
「――血威よ。
あなたの中にある、もうひとつの“牙”。
相手の本能を揺らがせる、威圧の血脈」
「……は?」
煉の眉が僅かに動く。
「血影に血威……。いつの間にそんなものが増えたんだ。
俺は一体、何をどうしたらそれを使えるのかも分かってない」
彼は苛立ちを押し殺しながら、ヴィオレットを見つめた。
「……お前は、それを“教える気”があるのか?」
けれど、ヴィオレットは答えなかった。
その代わり、軽く肩をすくめて、指先で彼の胸元の襟を整える。
「ふふ、それはまた今度ね。
いまは“そういう話”をする場所じゃないわ」
と、そのとき。
コツ、コツ。
控えの間の奥、別の扉がノックもなく音を立てて開かれる。
香水のように甘く濃密な気配とともに、女が一人現れた。
艶やかなワインレッドのドレスに、銀の扇子。
燃えるような赤髪が波のように揺れ、深い碧眼と豊かな曲線が妖しく光を反射する――
その一挙一動がまるで劇の幕間のように優雅だった。
「まあまあ……“紅姫”が、こんな庶民的な娯楽に現れるなんて。
しかも、あんな上等な子猫まで連れて。
まさか――勝ってくれるとは思わなかったわ。
惜しいわね、あの賭け、フェンリスが勝ってたら……その子猫、私が頂いてたのに」
煉の視線が細められる。
だが隣のヴィオレットは、まるで舞台の台詞を受け取るように軽く笑った。
「あなたが来るとは思っていたわ、アマリリス。
でも残念ね。私の子猫は、そう簡単には負けないの」
「ふふ……さすが、紅姫。
独占欲だけは、相変わらず強いのね」
アマリリスと呼ばれたその女は、妖艶に微笑むと、指先で扇子を開いて顔を半分だけ隠した。
「でもね、ここにいる間は、彼みたいな“上玉”は引く手あまたなのよ。
あなたがちょっと目を離せば、あっという間に誰かの爪にかかってしまうかも?」
「その前に、喉を裂くわ」
ヴィオレットの声は甘やかだった。だが、その中に含まれる温度は氷のように冷たい。
アマリリスはそれを聞いて笑う。
「まあまあ、怖いわね。でも――あなたがわざわざ来た理由、それだけじゃないでしょう?」
ヴィオレットはようやく笑みを消し、煉の後ろへ一歩引く。
「ええ。あなたが“呼んだ”んでしょう? 私たちを。」
空気が変わった。
地下の楽園――《ノクターン》の仮面の奥に、
今夜、本当の“目的”が、静かに姿を現し始める。
「ふふ、そう睨まないで」
アマリリスは銀の扇子を閉じながら、嬉しそうに微笑んだ。
「ディモンから聞いてるわ。あなたが今、何を追ってるのかも」
「……それで?」
ヴィオレットは冷ややかに答える。
「ここに、あなたたちが欲しがってる“情報”があるの」
そう言って、アマリリスはぱちんと指を鳴らした。
奥の扉が静かに開く。
足音は軽く――だが、気配は獣だった。
「……あれは……」
煉が目を細める。
現れたのは、一人の少女。
と言っても、年齢は定かではない。
灰色の髪に棕の瞳、身長は150センチほど。
だが、その纖細な身体を覆うのは、さっき戦場で見たのと同じスポーツタンクトップとタイツだった。
「フェンリス……?」
彼女は、先程の獣のような姿からは想像できないほど、無表情で静かだった。
「そう、彼女が今夜の“賭け”だった子よ」
アマリリスは楽しげに言いながら、フェンリスの肩に手を置いた。
「負けたからには――情報のひとつやふたつ、渡す義務があるでしょう?」
「……情報、というと」
煉が警戒を込めて尋ねた。
アマリリスはくすりと笑い、さらりと言った。
「彼女、〈血梟〉の“研究施設”から逃げてきたのよ」
「……!」
煉の目が鋭く光る。
「やっぱり……〈血梟〉か」
「ええ。知らないでしょうけど、私が彼女を手に入れるの、結構大変だったのよ?
オークション、輸送、調整、全部私持ち。見返りがないと困るじゃない?」
煉は一瞬、視線を逸らしながら小さく息を吐く。
〈地上の法律〉が届かない闇の取引。
吸血鬼や魔族、あるいは“元・人間”の個体が、情報、兵器、娯楽のために売買される。
――ただし、それが“人類”の権利を侵さない限り、調査局は介入できない。
それが現実だ。
「……それで、ここに呼んだ理由は何だ」
煉の問いに、今度はフェンリス自身が反応する。
「ねえ、アマリリス。あんた、あたしをここに呼びつけて何がしたいの?」
その声には疲労と苛立ちが混じっていた。
「まだ戦わせるつもりなら、受けてやってもいいけどさ」
「再戦はいいわよ」
ヴィオレットが軽く笑う。
「どうせ、また煉が勝つだけだし」
「っ……!」
フェンリスは歯をむき出しにして唸ったが――拳は振り上げなかった。
「で、どうせあたしに何か喋らせたいんでしょ?
研究所で何されてたか、どれだけひどい目に遭ったか……」
その声は低く、しばらくの沈黙のあと――ぽつりと、続く。
「でも、何も覚えてねぇよ。
施設で何があったかも、誰に何されたかも、全部ぼやけてんの。
……情報なんて、何もねえんだよ」
室内に、わずかな静寂が落ちる。
その中で、ヴィオレットだけが目を細めた。
「……記憶操作、あるいは“血の封印”かしらね」
その声には、かすかな戦慄が混じっていた。
アマリリスは、何も言わずに笑ったまま、扇子を扇ぐ。
「ねえ、“紅姫”――この娘の奥に、何が眠っていると思う?」
場の空気が、わずかに動いた。




