第2話 血の夜
カーライルの血が手に残る。腥い甘さが獣の飢えを呼び覚ます。
ロンドン東区の暗い路地。テムズの濤音が低く響き、俺の存在を嘲笑う。
二年。ベスナル・グリーンの炎から今夜の工場まで、呪われたこの躯で、ようやく借りを返した。
だが、心臓は動かず、空洞が俺を喰らう。
神城 煉──母の遺した名を、俺は低く呟く。
切れそうな縄を掴むように。
それは母の遺したもの、家の誇り、人であった証。
俺は堕ちてはいけない。
俺は、神城煉だ。
……人間ではない。それは分かっている。
心臓は止まり、太陽は肌を焼き、血だけが渇きを癒す。
それでも、俺は──神城煉だ。
目を閉じると、あの夜の炎が蘇る。
二年前、ベスナル・グリーン。
俺が死んだ夜。
──俺は特別情報局に所属していた。
吸血鬼、狼人、人が触れてはならない存在を追う秘密組織。
ロンドンという都市に、日英の混血は浮いていた。
母から学んだのは「誇り」。
父から教えられたのは「冷静」。
無敵だと思っていた……あの夜までは。
任務は、ベスナル・グリーンにある研究施設への潜入。
吸血鬼の血液サンプルが、兵器化されている可能性があった。
パートナーはジェームズ・カーライル。
五年間、命を預け合ってきた男。兄弟のように信じていた。
地下のラボに忍び込み、鋼の壁の奥で血液の入った試験管が怪しく光っていた。
そのとき、警報が鳴った。
振り返った瞬間──銃声。
弾が背中を貫き、痛みが波のように押し寄せる。
床に倒れ、血が流れる。
立っていたのは……カーライルだった。
銃口はまだ熱を帯びていた。
「さよなら、レン。」
そう、彼は言った。まるで階段から見送るかのような、軽い口調で。
「お前が誰に手を出したか……わかってないんだな。」
彼は導火線に火をつけ、炎がラボを飲み込んだ。
爆音。天井の崩落。火の粉が地獄の星のように降り注ぐ。
動けなかった。息ができなかった。血が口からこぼれた。
カーライルは振り返らなかった。
彼は、俺が死んだと思った。
俺も、あれが終わりだと思っていた。
……彼女が現れるまでは。
ヒールの音が瓦礫の上を歩く。
死の舞台には不釣り合いな、優雅な足取り。
黒いドレス。赤い傘。
まるで中世の絵画から抜け出したような女だった。
火の中で揺れる銀灰の髪、退屈そうな紅い瞳。
彼女はしゃがみ込み、俺の視線に合わせる。
赤い唇がゆっくりと歪む。それは獲物を見る者の笑み。
「随分と、無様な死に様ね。」
ガラスを引っ掻くような声。
冷たく、硬質で、美しい。
「でも……その目。恨み、悔しさ、そして──生きたいって足掻きが、少しだけ面白い。」
言葉は出なかった。
視界が滲み、火の粉が瞳の中で砕けていく。
彼女が顔を近づけた。
その瞳には、同情など一滴もなかった。
ただ、観察者の目だけがそこにあった。
「復讐したいか?」
彼女は言った。
まるでゲームに誘うかのような声で。
「人間の身体ではなく……別の存在として。でも、成功する保証はしないわよ?」
彼女の声が耳元に忍び込む。
「もしかしたら、死よりも辛いかもね。」
俺は答えられなかった。
だが、彼女には伝わったのだろう。
俺の目に宿ったただ一つの意志──
カーライルの喉を噛み千切りたい。
彼女は笑った。
白く鋭い牙が火光にきらめく。狩人の芸術のような、冷酷な美しさ。
そして──
彼女の牙が、俺の首筋を刺した。
冷たい痛みが全身を焼き、血が吸われていく。
心臓が遅くなり、最後の一拍で止まる。俺は空になる。
彼女の声が闇を裂く。
「まだ終わってないわ、小さな子猫。」
手首から滴る血が唇に流れ、炎のように喉を焼く。
血管が裂け、骨が砕け、神経が悲鳴を上げる。
心臓は死んだはずなのに、呪いの中で震える。
叫びたい。だが、闇に沈むだけだ。
……どれほど経っただろうか。
目を開くと、空に月。
剥がれた銀貨のように下弦の月が浮かんでいた。
俺は立ち上がった。裸足の足裏に土の感触。
数キロ先の水音、虫の羽音、人間の心臓の鼓動が聞こえる。
だが、俺の胸は凍った空洞のまま、静寂だけが響く。
血の匂いが満ちていた。冷たく、鮮やかに。
神城煉は死んだ。
あの夜、炎の中で、人間だった俺は──消えた。
今の俺は、復讐の影。
彼女の血によって生まれた影。
彼女は数週間、俺に教えてくれた。
血の飢えの抑え方。
陽の光の避け方。
新生吸血鬼としての歩き方。
彼女は言った。
──「血梟の末裔は、純粋でなければならない。復讐こそが、お前の試練よ。」
そして彼女は消えた。
ロンドンの影に、俺だけが残された。
二年間。
俺は呪いに馴染みながら、もがいてきた。
飢えが牙を伸ばさせ、血の誘惑が俺を駆り立てる。
ハンターに追われ、銀の刃に肩を裂かれた。
カーライルの痕跡を追い、埠頭、酒場、裏市場を彷徨い歩いた。
その度に、母が言っていた。
──「煉とは、烈火を経ても、砕けぬ魂。」
この名は、俺の錨だ。
俺が沈まないための、ただ一つの証。
今夜。
俺はついに、カーライルを見つけた。
その血は、俺の復讐の序章。
霧が濃くなる。
爪が掌に食い込み、飢えが喉で吠える。
カーライルの血がそれを呼び覚ました。復讐は終わった。だが、この呪いは俺を喰らう。
路地の奥、酔った男の心臓が鼓動する。血の匂いが喉を焼く。
気づけば、俺は飛びかかっていた。牙が伸びる──
「焦らないで、小さな子猫。」
霧の中、冷たく挑発的な声。
路地の奥、赤い傘が立つ。血のようなコートが揺れ、彼女がそこにいる。
俺の腕を掴む。氷の指先、信じられぬ力。
「今夜、獣になるつもり? それでは神城の名に値しないわ。」
俺は手を振り払い、呼吸を整え、飢えを押し殺す。
「……俺は、お前の玩具じゃない。」
彼女は笑い、傘の先を地面に突く。
「そう? だがこの命は私が与えた。私の試練はまだ終わらない。」
紅い瞳が冷たく光る。
「飢えを制御できねば、本当の敵にすら届かないわ。」
その言葉は、正しかった。
彼女の血がなければ、俺はここにいない。
その教えがなければ、復讐の終わりに辿り着けない。
だが、あの眼差しが気に入らない。
獲物が壊れるのを待つ飼い主の目。
朝の光が路地に差し、腕を焼く。煙が上がり、痛みが骨を刺す。
俺は影に飛び退く。歯を食いしばる。
「母の錨……俺は沈まぬ。」
ポケットのスマホが震える。匿名の一文が浮かぶ。
──「カーライルはただの駒だ。裏の真実を、港で知れ。真夜中に。」
彼女は霧の中に佇み、すべてを知るように微笑む。
「遊びは、ここからよ。
期待してるわ、私の小さなおもちゃ。」
俺は背を向け、路地を歩く。
止まらぬ歩みで、
復讐は──まだ終わらない。