第19話 牙の音、夜の鼓動
拳と拳が、静かにぶつかり合う前の空気があった。
煉の構えは低く、重心を前へ――
フェンリスの肩がわずかに揺れた瞬間、次の動きが始まる。
だが、その前に。
「……あれが“フェンリス”か。初めて見るな」
闘技場の上段、観客の一人が酒を片手に呟いた。
「北方の出だろ? 確か、魔狼族の残血らしい」
「夜宴派に買われたって噂だ。生まれも名前も全部捨てて、“闘うためだけ”に育てられたとか」
「なるほど……噛みつかれたら、ただじゃ済まないわけだ」
情報は観客の間で囁かれ、波のように広がっていく。
それらは誇張でも虚飾でもなく、この場にいる者たちにとって“現実”だった。
フェンリス――
その名は《ノクターン》の中でも異質であり、危険の象徴。
狼でありながら、吸血鬼の血をも狩る“檻の獣”。
檻の外、ヴィオレットは静かに観戦していた。
その視線は煉に注がれながらも、どこか別の“流れ”を見ているようだった。
「――煉。そろそろ見せて」
唇に指を当て、囁くように。
「“牙を使う理由”を。あなたがまだ、牙を誇りにしているなら」
場内が一瞬、静まった。
次の瞬間――
「があっ!!」
フェンリスが鋭く突っ込んでくる。
爪ではなく、拳。重心の乗った真正面からの突き。
煉は横に躱す。だがフェンリスは一歩で詰め寄り、肘打ちを叩き込もうとする。
煉は反射的に受け止め、足を掛け、体勢を崩す。
「っ……!」
重い。腕の筋肉が石のように固い。
真正面からの力勝負は避けるべき――それは理解していた。
煉は体を回転させ、懐に潜り込む。
「せいっ!」
短い気合とともに、彼は足を踏み込み、腰を捻った。
――肘撃、裏拳、膝蹴り。
それは、型のある“打撃”だった。
吸血鬼の戦いには珍しい、日本由来の古い武術。
観客たちがざわめく。
「……空手……?」
「いや、もっと近い。“実戦型”の流派か?」
フェンリスがわずかに面食らったように目を細めた。
その腹部に、煉の拳が直撃する。
「っ、う……!」
だが、倒れない。
狼の身体は強靭で、痛みをエネルギーに変える。
それでも――確かに、一撃は通っていた。
「……なるほど。獣の動きじゃないね」
フェンリスは口元を舐めるように笑う。
「ちょっと面白くなってきたよ、“子猫くん”」
「名前で呼べって言ってるだろ」
煉は微かにこめかみを震わせ、再び構えを取る。
その動きには、一片の揺らぎもなかった。
目の奥に宿る琥珀の光は、ただ一つ――
“勝つため”に、牙を研ぐ者の目だった。
フェンリスの爪が唸りを上げて振るわれた。
煉は瞬時に身を沈め、それを紙一重で躱す。
そのまま体をひねり、返すように右肘を相手の腹部へ叩き込む。
「っ……!」
確かな手応え。
フェンリスの身体がわずかに仰け反る――が、それだけだった。
次の瞬間、彼女の膝が逆襲のように飛ぶ。
煉は咄嗟に腕で受けるも、鈍い衝撃が骨に響いた。
「いい動き……でも、それだけか、吸血鬼の“牙”って」
フェンリスの瞳が光る。
彼女の背中から、灰色の体毛がさらに広がる。
体格が一回り膨れ、牙が伸び、唸り声が野性味を帯びていく。
「“半変化”……」
観客席から誰かが呟く。
「……出たな、フェンリスの本性」
「これが夜宴派の“闘獣”か……たまらんな」
フェンリスが一歩、二歩と煉に迫る。
その踏み込みは、先ほどまでとは明らかに違う――速く、重い。
「……ッ!」
煉は拳で応じる。
打ち合いが続く。
だが次第に、煉は後手に回り始めた。
フェンリスの一撃が、煉の左肩を弾き飛ばすように命中。
彼の身体が金属の柵に激しく叩きつけられる。
「……っぐ……!」
血が、口の端から滲んだ。
膝がつく。視界が歪む。
「終わりか?」
フェンリスがゆっくりと歩み寄る。
まるで獲物を仕留めにいく獣のように。
煉の首元へ、鋭く伸びた爪が掲げられた。
――その瞬間。
ズン、と空気が震えた。
フェンリスの動きが、一瞬止まる。
観客席の一部がざわつく。
「な……に、これ……?」
煉の体から、淡い紅の気が滲み出ていた。
それは霧のようで、炎のようでもあり――
「血の……圧?」
ヴィオレットが、口元に笑みを浮かべた。
「……出たわね、“血威”」
フェンリスの顔が強張る。
瞳が揺れる。刹那、明確な“硬直”――本能が怯えた。
(なに……この感じ……)
煉の目が、光を宿していた。
琥珀の中に、紅の火が差す。
彼の拳が、地面を蹴る。
「――っ!」
硬直の隙を逃さず、煉は一気に距離を詰め、
フェンリスの懐に入り込む。
腹部への掌底。肘打ち。膝蹴り――
連撃が、狼女の身体を揺らす。
最後の一撃。
彼の拳が、まっすぐに顎を捉えた。
「がっ……!」
フェンリスの身体が、浮いた。
そして――倒れた。
金属の地に、重い音を立てて。
沈黙。数秒の静寂。
「――勝者、神城煉!」
仮面の進行役の声が場内に響いた瞬間、
狂ったような歓声が地下に爆ぜた。
観客が叫ぶ。吠える。
その熱狂の中、煉は荒い息をつきながら立ち尽くしていた。
彼の周囲に、紅い霧の名残が漂っていた。
だが、その目にはもう光が戻っている。
――“理性”は、折れていなかった。
檻の外から、ヴィオレットが静かに拍手を送る。
その目は、わずかに細められていた。
「よくやったわね、子猫くん」
「牙も、爪も、ちゃんと磨いてるじゃない」
煉はそれに応えず、倒れたフェンリスを一瞥する。
彼女は、意識を保ったまま、地面に伏していた。
その目が、わずかに煉を見上げて――
「……名前、覚えたわよ、“煉”」
その声には、どこか満足げな響きがあった。
そして、幕が降りる。
歓声の熱がまだ地に残る中、
金属の柵がゆっくりと開いた。
そこへ、静かに一人の侍者が現れる。
仮面をつけ、黒衣を纏ったその姿は、観客の騒ぎとは別世界の静謐を纏っていた。
「――〈夜宴〉よりの使いです」
その侍者は、闘技場の縁に佇むヴィオレットと煉に一礼すると、低く告げた。
「主が、あなた方との謁見を望んでおります。
どうか控えの間へ、お進みくださいませ」
ヴィオレットは目を細め、うっすらと唇を吊り上げた。
「……ようやく“本番”ね」
隣で息を整えていた煉が、わずかに眉を動かす。
その目に浮かぶのは、警戒と――確かな覚悟。
そして、二人は視線を交わし、無言で頷いた。
――夜の“ノクターン”は、まだ終わらない。




