第18話 ノクターン
金属の軋む音が、閉ざされた空間に重く響いた。
煉は、鉄格子の内側に立っていた。
円形の闘技場。四方を囲む檻の外には、狂気と熱に染まった観衆の目。
異形の者たちが、夜を震わせるように息を呑んでいる。
吸血鬼、狼人、魔族、霊体――あらゆる“人ならざる存在”が、ここに集っていた。
視線の先、対峙するのは――一人の女。
狼人種。
筋肉質な肢体に、灰色の体毛が肩から腹部にかけて生えている。
上半身はスポーツタンクトップに覆われ、下半身は伸縮性のある闘技用タイツ。
爪は鋭く、脚は完全に獣のそれだった。
身長は二メートルを超える。体格でも、野性の威圧感でも、煉を上回っていた。
「――負けないでよ。子猫くん」
檻の外、ヴィオレットが頬杖をついたまま微笑んでいる。
「その小狼、牙の使い方も知らないくせに威張ってるの。ちょっとお仕置きしてあげなさい?」
煉は小さくため息を吐いた。
(……なんで俺が、こんな場所にいるんだ)
思考が、数時間前へと遡る――
◇ ◇ ◇
金属の名刺。それは、ディモンが煉に渡したものだった。
《必要なとき、そこにアクセスしろ。我々は“道を示す”者ではないが、“選択肢”は渡せる。》
まさか、“選択肢”がこんな形で開かれるとは思わなかった。
地下賭場――その名は《Nocturne》。
享楽主義の吸血鬼派閥〈夜宴派〉が運営する、夜の闇に隠された競技と賭博の聖域。
地上のどこにも存在しない。
人の目に映らず、法の届かない場所。
人ならぬ者たちが集い、血と爪と欲望を賭けて、己の“夜”を試す場所。
「ここに、私たちの追っている“鍵”がある気がするの」
ヴィオレットは、金属のカードを指先で弄びながら言った。
「どうせなら、賭けてみる価値はあるでしょう?」
地下鉄の奥の奥。
封鎖された旧路線を越え、さらに古い石造りのトンネルを抜ける。
二人が辿り着いたのは、鉄と魔法で封じられた巨大な扉。
その表面には、吸血鬼の古い紋章と、咆哮する狼の文様が絡み合うように刻まれていた。
近づけば、空気が変わる。
人間なら本能的に怯え、立ち去るであろう、“結界の匂い”が漂っている。
ヴィオレットが振り向き、微笑んだ。
「さて、準備はいいかしら? 子猫くん」
煉は答えず、黙って金属カードを取り出す。
扉の前に立つ仮面の侍者は、それを一瞥しただけで、静かに頭を下げた。
「……ようこそ、《ノクターン》へ」
低く、空洞のような声が、扉の奥へと招いた。
◇ ◇ ◇
――そして、今。
金属製の檻の中、煉の前に立つのは、名を持たぬ“獣”。
けれど、その背後には、まだ見ぬ情報、まだ見ぬ“敵”の気配があった。
(いいだろう……)
彼は拳を握り、ゆっくりと構えを取る。
この夜の果てに、またひとつ、闇が明かされる。
――“夜の名のもとに”。
檻の外、熱狂がさらに増していた。
上段の特等席から、金と黒の仮面をつけた進行役――夜宴派の吸血鬼が立ち上がる。
彼は華美なマントを翻し、魔術式のマイクを片手に掲げ、舞台のように声を響かせた。
「さあ、諸君! 今宵、《ノクターン》に集いし闇の住人たちよ――今夜の目玉、始まりの一戦だ!」
熱狂が広がる。
「右よりの檻より登場するは、牙と爪の風暴――
〈灰嵐〉の戦乙女、フェンリス=ルゥ!」
「ウォォォオオオ!!」
観客の一角、狼系の群れが遠吠えのように叫び、拳を突き上げる。
檻の奥から姿を現す、巨大な女。
獣の足でしなやかに歩き、全身に走る灰色の体毛が月光を思わせる光を反射する。
それは“狂気”と“理性”が絶妙に均衡した、戦うために鍛えられた肉体。
「そして――」
声の調子が一変する。
「左よりの檻。まさかの出場だ、諸君。
〈紅姫〉が“自らの血”をこの舞台に賭けるとは!」
「血嗣……?」「あれが……?」
観客たちがざわめき、視線が煉に集中する。
「〈血梟〉の禁忌にして、彼女が選んだ唯一の血。
今宵、真に“牙”を持つのか――
神城煉ッ!!」
周囲の空気が、一気に熱を帯びる。
檻の外、ヴィオレットは長椅子に腰掛け、退屈そうに傘を膝に立てていた。
だが、その目は煉から一瞬たりとも逸らさない。
「さあ、子猫くん。あんな野犬に負けないでよ?」
「もし負けたら、躾のやり直しね?」
煉は肩をすくめた。
(やれやれ……冗談にならない)
檻の中央。
フェンリスがゆっくりと構えを取る。
その爪は鋼のように鈍く光り、彼女の口角がゆるやかに吊り上がった。
「牙のない子猫かと思ったけど……顔は悪くないわね」
「どうせ、すぐ引き裂かれるだろうけど」
「……こっちの台詞だ」
煉は短く言い、姿勢を落とした。
――ゴングはない。
この闘技場に必要なのは、殺意と衝動、それだけ。
次の瞬間、風が唸った。
「っ――!」
フェンリスが一閃。
加速に無駄がない。二足獣とは思えぬ踏み込みと瞬発力で、煉の懐に滑り込む。
一拍遅れた煉の防御は間に合わず――
身体が吹き飛び、鉄柵に叩きつけられた。
観客席が湧く。
「ッ……!」
煉が回避するより早く、フェンリスの爪が目の前に迫る。
次の瞬間――視界が裏返る。
身体が地面に叩きつけられた。
「く……!」
一撃で組み伏せられ、煉は背中を地に押し付けられる。
フェンリスはとどめを刺すような動きには出なかった。
その代わりに、彼の首元に顔を近づけ――鼻を鳴らす。
「……なんだ、お前」
その声は驚き混じりだった。
「もっと重い屍臭がするかと思ったのに……悪くない匂い。むしろ、すごく……いい」
「……は?」
煉は目を見開く。
その隙に、フェンリスの鼻先がさらに近づく。
まるで、獲物の本質を探るように。
「興味出てきたよ。お前の“中身”、どんな味がするんだろう……?」
「……遊びか?」
煉は低く呻きながら、左腕で彼女の顔を押しのけ、右膝で体を押し返す。
体勢を入れ替え、フェンリスから距離を取った。
「てっきり理性のない狂犬かと思ったが……自分の意思でやってるんだな」
フェンリスは立ち上がりながら、笑うように言った。
「自分の意志で闘うのが、そんなに珍しいかい? 子猫くん」
「……名前で呼べ」
「ふふ、強がるんだね。でもその顔……そそる」
ヴィオレットは観客席から、頬杖をついてその様子を眺めていた。
「ふふ……なかなか楽しませてくれるじゃない、あの小狼」
観客の間にもざわめきが広がる。
「面白くなってきたぞ……」
「どっちが勝っても血が流れる。いい夜だ」
煉は息を整えることもなく、低く腰を落とす。
(……いいか。なら、こっちも“牙”を使わせてもらう)
彼は静かに拳を握り締め、構えた。
今度は逃げない――真正面から、正確に叩き込む。




