第15話 堕ちる口づけ
そして――
喉が、焼けた。
乾いた。
血の味が欲しい。
理屈でも、意志でもなく、身体がそれを叫んでいた。
視界の端、リサの輪郭が滲む。
彼女の体温、匂い、鼓動――すべてが、血という本能の象徴として脳を叩いた。
「……レン……!」
彼女の声が届く。
リサは急いで手を動かし、腰のホルスターからサバイバルナイフを抜いた。
「やめろッ!」
煉はかすれた声で叫ぶが、彼女は止まらなかった。
そのまま左手首に刃を当て、皮膚を浅く――けれど確実に――裂いた。
――滴り落ちる、赤。
煉の瞳孔が揺れた。
脳が一気に沸騰する。
濃く、熱く、生きた血の香りが、空気を一瞬で塗り替える。
「ちがう……やめろ……それは……」
彼は顔を背け、リサを突き飛ばすように肩を押す。
だが、血の香りが――もう、近すぎた。
口の奥が勝手に開く。牙が、わずかに露わになる。
「吸え、レン!」
リサの声は震えていない。
その目は、覚悟に満ちていた。
「……私は、わかってるから」
「飢えた吸血鬼がどうなるかも、何を失うかも……全部、知ってる」
「でも……あんたには、止まってほしくないんだよ!」
煉の両手が、地面を抉る。
牙を食いしばる。
吸いたい。
拒絶したい。
心が二つに引き裂かれそうになる。
――その瞬間。
「……ふふ」
遠くから、微かな笑い声が落ちた。
ヴィオレットだった。
紅の傘が敵の爪を受け止めながらも、その目だけは、煉の方へ向いていた。
「なるほど。そう来るのね」
サリエルが眉をひそめる。
「……何がおかしい?」
「何でもないわ。ただ――」
ヴィオレットの唇が、ゆるく吊り上がる。
それは冷笑でも勝ち誇りでもない。
――満足げな、微笑だった。
「私の子猫は、ちゃんと“牙を選ぼうとしてる”。それが嬉しいだけよ」
そして再び、傘が鋭く唸りを上げる。
銀の閃光が、戦場に刻まれる――。
「……レン、あなたはどうするの?」
リサの腕から、血が流れていた。
浅い切り傷――けれど十分だった。
生きた血の香りが、夜気の中に滲み、煉の中の“渇き”をあっという間に侵蝕する。
脳が、焼ける。
目の奥が疼く。
理性の声は遠く、曖昧にぼやけていた。
(ダメだ……吸ったら、もう――)
「レン」
静かな声だった。
責めるでも、命じるでもない。
ただ、彼の名前を、リサが呼んだ。
煉は震える手を、ゆっくりと伸ばした。
その指先が、彼女の手首に触れる。
温かかった。
人間の温度。かつての同僚。仲間。
――決して、踏み越えてはならない一線。
「……ごめん」
喉奥から漏れたその声は、謝罪なのか祈りなのか、自分でもわからなかった。
そして、煉は――
彼女の手首に、牙を立てた。
ほんの一瞬。
肉を裂く感触と、そこから溢れる温かな流れ。
血が、舌先に触れた瞬間、世界が変わった。
甘い。
熱く、鋭く、確かに“生きている”と叫ぶそれは、ただの液体ではなかった。
――記憶。感情。痛みと、優しさ。
リサという人間の、すべてがその一滴に詰まっていた。
「諦めるな、煉。」
――脳裏に響く彼女の声。調査官時代、深夜の任務後、疲れ果てながらも固い意志で呟いた言葉。
煉は目を閉じた。
吸うのではない。
ただ、喉を通るそれを、確かめるように受け止める。
彼女の血が、内側に届くたび、胸の奥で何かが融けていく。
渇きが、静かに引いていく。
焦燥も、痛みも、冷たい霧のように遠のいて――
代わりに残ったのは、かすかな熱だった。
彼は、そっと牙を引いた。
リサの手首から、数滴だけ血が滴り落ちた。
だが彼女の目は、まっすぐ彼を見つめていた。
「……ありがとう」
煉がそう言うと、リサはただ、小さく頷いた。
――もう、喉は焼けていなかった。
だがその瞬間、戦場の空気が、再び冷たくなる。
「……やっとまともに立てるか?」
サリエルの声が、低く落ちた。
「いいね。今の君なら――少しは楽しませてくれそうだ」
煉は立ち上がった。
その目に、もう迷いはなかった。
胸の奥で、血が静かに燃えていた。
左手に握った短剣が、熱を帯びて脈打つ。
右脇腹の痛みは未だ鋭いが――それさえ、今は力に変えられる。
(……終わらせる)
煉は一歩、足を踏み出した。
その瞬間――
彼の血が、地面に落ちたはずのそれが、
空気に溶け、霧となって揺らめいた。
視界が歪む。
そして、煉の姿が霧の中で掻き消える。
次の刹那――
サリエルの爪が宙を裂く。
だが、そこにはもう――誰もいなかった。
「……っ!」
僅かに目を見開くサリエル。
その直後、背後から声が落ちた。
「後ろだ」
瞬間、鈍い衝撃音。
煉の拳が、霧の中から現れた身で背後から叩き込まれる。
サリエルはとっさに体を捻るも、顎をかすめた一撃にぐらりとバランスを崩す。
「……血影、だと……?」
低く呻くように呟いたその言葉に、ヴィオレットが静かに目を細める。
――血梟の秘技。
血を霧に変え、視線と感覚を欺き、瞬間的に位置を移す幻術。
使えるのは、百年以上生きた者か、“選ばれし血”を継ぐ者だけ。
「まさか……“あの女”の天賦まで継いでいるとはな……」
サリエルの声に、初めて焦燥の色が混じる。
煉は構えを解かず、低く応じる。
「さあ……試してみろよ」
彼の足元には、うっすらと紅の霧が立ち込めていた。
それは、彼の体から滲み出た血――
だが、もはや“傷”ではない。
その血は彼を蝕むものではなく、守るもの。
紅き霧は、彼の武器となって身を包んでいた。
サリエルが低く笑う。
「……愉快だね。やっぱり君は“壊れてる”方がいい」
再び、爪が煌めく。
それに呼応するように、煉が身を翻す――
――その瞬間。
「その程度で満足してるなら、私の出番ね」
風が巻いた。
銀の閃き。
ヴィオレットの傘が、空間を切り裂くように横一閃。
サリエルが跳躍してかわす。
だが、その動きが明らかに鈍っていた。
煉の一撃で、内臓の一部に確実に損傷が入っている。
「紅姫とその血嗣が並び立つ……悪夢の構図だね」
「なら、しっかり記憶しておくといいわ」
ヴィオレットが、血を纏った傘を構える。
煉もまた、霧の中から一歩、前へ出る。
その足元にはもう迷いがなかった。
「こっちはまだ、“玩具”にされる気はねぇんだよ」
「ふふ、牙も立てずに黙っていた子猫が、ずいぶん吠えるようになったじゃない」
「……吠えるだけじゃねえさ」
煉が、霧を引き裂いて踏み込む。
その一瞬――
ヴィオレットの傘が、真横から疾駆。
煉の短剣が、真下から切り上げる。
――交差する、二つの軌道。
サリエルの動きが、一拍遅れた。
「……ッ!」
刹那。
傘の縁が胸を裂き、短剣が脇腹を貫いた。
「が、ぁっ……!」
サリエルの体が、壁まで吹き飛ぶ。
崩れる瓦礫の中、血の匂いが濃くなっていく。
ヴィオレットはゆっくりと息を吐く。
「……前回は好き勝手やらせたけど、今回は容赦しないわ。」
煉は短剣を構え直しながら言う。
「ここで終わらせる」
サリエルは唇を噛み、血を吐いた。
「……なるほど。“紅姫”の血嗣、か……」
彼の口元には、まだかすかな笑みが残っていた。
「だが、“私”だけが相手じゃないぞ……煉」
その言葉を最後に――
彼の姿は、闇の中に消えた。
傷は深い――それでも、奴は死んでいない。
それだけは、煉の本能が理解していた。




