第14話 血と爪の交錯
――見えた瞬間には、もう遅かった。
気配すらなかった。
視界が捉えた時には、銀髪の男――サリエル=グレイが、すでに煉の懐に踏み込んでいた。
「っ……!」
咄嗟に腕を交差し、爪撃を受け止める。
だが――重い。まるで鉄骨が叩きつけてくるような殺意だった。
コートが裂ける音。左肩を浅く抉る衝撃。
焼けるような痛みが走り、煉は舌打ちと共に後退する。
「……血の匂いがようやく出てきたな」
サリエルは口元に笑みを浮かべる。
その目には明らかな愉悦があった。
「処女のまま“夜会”に連れて来られて、今はこうして殺されかけてる。君、実に退屈な悲劇だ」
煉の眉がピクリと動いた。
「……黙れ」
「ほら、そんな顔になる。怒ったかい? いや、ちがうな。
それは――恐れか? 自分の無力に呑まれていく焦燥?」
その嘲りを残して、サリエルは再び動く。
滑るように間合いを詰め、煉の死角を狙うように――真横から斬り裂く軌道で爪が閃いた。
煉は辛うじてしゃがみ込み、それを躱す。
すぐさま反撃に転じようとした、その瞬間――
「……甘いよ」
低い声とともに、サリエルの足が鋭く払われた。
バランスを崩した煉の隙を逃さず、爪が閃く。
「ッ……!」
右脇腹に、鋭く冷たい衝撃。
鮮血がシャツの内側を濡らし、足元へと滴り落ちていく。
煉は踏みとどまり、わずかに肩を揺らした。
だが――
「……もう立っているのもやっとか?」
サリエルは片目を細め、皮肉な笑みを浮かべる。
その言葉と同時に、カチリと金属音が鳴った。
「……動かないで」
背後から、リサの声。
彼女はサリエルに銃口を向けていた。
その表情に、迷いはなかった。
サリエルが肩越しに振り返る。
その口元に、わざとらしい笑みが浮かんだ。
「……ああ、供血者か。それとも、ただの“食物”か。
――まさか、こんな娘に銃を向けられるとはね。実に愉快だ」
彼は鼻を鳴らしながら、リサをじろりと値踏みするように見下ろす。
「なるほど、血の匂いもまだ新鮮そうだ。
君……なかなか美味しそうだね?」
その言葉に、リサの眉がぴくりと動いた。
だが、彼女の指は引き金から一寸たりとも離れない。
――そのやり取りの後、サリエルはふたたびヴィオレットへと視線を戻す。
「……見届けるつもりなのね、紅姬くれないひめ?」
その声音は、どこか芝居がかっていた。
まるで“舞台”の進行に満足げな役者のように、挑発を込めて。
「君の子猫、もうすぐ潰れる。
それを止めようともしないなんて、随分と冷たいご主人様だ」
「冷たい……?」
ヴィオレットは、ひとつ肩をすくめた。
「見守るのが冷たいのなら、愛もずいぶん安いものね」
その声は静かで、けれど鋭い。
まるで、見透かしたような色で返す。
彼女の視線は、煉に向いていた。
だが――そこに“助け”の気配はない。
煉は奥歯を噛み締め、真正面からサリエルの視線を受け止めていた。
思考の端がじわりと霞む。
痛みが、意識の深部をじわじわと侵食してくる。
右脇腹の裂傷から流れ出た自分の血が、じっとりと衣服を濡らし、床に滴っていく。
空気に滲んだその匂いが、喉奥を焼くように刺激する。
――飢えが、這い寄ってくる。
(……まだ、終われない)
その想いだけで、意識をつなぎ止めていた。
だが、意識の端に赤が滲む。
視界が、ふっと揺らいだその時――
「……なるほど。進んでるわね」
傍らから落ちてきたのは、ヴィオレットの声。
それは、少しだけ……満足そうだった。
サリエルが、まるで玩具の仕分けでもするような口調で言った。
「――まずは君の子猫の心臓を、この手で握り潰そう。
それから、ゆっくり君を愉しむとしよう。
“食物”は……そうだな、後の楽しみに取っておくか」
その嘲りの言葉が落ちた瞬間――
「……っ!」
煉の体が、微かに前へと動いた。
ぐらつく足元を押さえつけるように、傷の痛みに耐えながら――
それでも、彼はリサの前に立った。
「レン……」
リサが目を見開く。
至近距離で向かい合うその瞬間、煉の感覚に触れたのは――彼女が「人間」であるという事実だった。
呼吸の温度。肌の熱。心臓の鼓動。
それらが、痛覚と渇きで軋む煉の身体に、鋭く刺さる。
喉が焼けるように疼く。
それでも――彼は一歩、前に出た。
リサを背に庇い、サリエルへと向き直る。
「……勝手に……触れるなよ」
その声はかすれていたが、剥き出しの意志が込められていた。
サリエルが一瞬、興味深そうに目を細めた。
「へえ。もう理性なんて残ってないと思ったけど……
まだそんな顔ができるのか。滑稽だね」
ヴィオレットの瞳が細くなる。
「――その手、私の前で動かすつもり?」
氷を滑らせたような声が、空間を震わせた。
傘を手に、ヴィオレットは静かに一歩、前へ出る。
黒革のヒールが、血に濡れた床を踏むたび、光がきらめき、闇がわずかに揺れる。
「ふふ……まだ私だって、ろくに溺愛していないのに。
あなた、自分がその可愛い爪に引き裂かれる未来――
本当に、見えていないのかしら?」
――次の瞬間、風が裂けた。
ヴィオレットの傘が鋭く振るわれる。
銀に刻まれた刃の縁が、音もなく闇を裂き、サリエルの目前を掠めた。
「……っ」
サリエルが一瞬だけ身を引く。
その肩口を、傘の先端がかすめた。切り裂かれた布地から、微かに血が滲む。
「――面白い」
サリエルの口元が、わずかに吊り上がる。
「さすが、“紅姫”。
やっと本気で爪を立てる気になったか……!」
「爪? いいえ。これは、牙よ」
ヴィオレットの傘が、弧を描くように再び構えられる。
その所作は、まるで一曲の舞いを始める前の“型”のようだった。
「――さあ、狩りの続きをしましょう。
彼の目の前で、“主人”がどう戦うか。
ちゃんと、見せてあげないとね」




