第13話 地の底の眠り
トンネルの奥は、想像以上に深かった。
崩れかけた壁面と、放棄された鉄骨が空間を狭めている。
ところどころに古い照明設備があるが、通電はしていない。
「……ここ、ただの避難所じゃない」
リサが足元の床を指差した。
「見て。装置の跡。電源ケーブルが、最近まで接続されてた」
「“実験設備”か?」
煉の声が低くなる。
「可能性はある。持ち出されたか、隠されたか。けど……使われていたのは間違いない」
リサのスマホが示す熱反応も微かに残っていた。
そのとき――
ヴィオレットが立ち止まった。
「……来るわ」
その言葉と同時に、空気がわずかに揺れた。
床下の排水溝から、気配が跳ね上がる。
「上だッ!」
煉が咄嗟に叫ぶ。
鉄骨の影から、三体の影が跳躍した。
牙を剥き、無言で爪を振るう“従属個体”――
だが、さきほどの“目”よりも速く、狡猾だ。
「っ――!」
煉は一歩退いて距離を取るが、敵の一体がすぐに側面へ回り込む。
「囲むつもりか……!」
煉は背中を守るようにリサの前へ立った。
「よく見て! この動き、ただの“獣”じゃない!」
リサが叫ぶ。
「制御されてる――“命令”を受けてる個体よ!」
「つまり、ここに“指揮官”がいるってことか」
煉は敵の一体に突っ込み、肘で顎を弾いた。
骨が砕ける音が響く。
だが――後ろから、別の個体が急接近。
「……邪魔」
ヴィオレットが傘を横に薙ぎ払う。
銀の縁が風を裂き、男の胴体を斜めに断ち切った。
「もう一度言うわ。こんな雑魚に傷を負ったら、私、泣くから」
彼女の声は平坦で、だが本気だった。
「余裕だな……」
煉は舌打ちしながら、残る二体へ向き直る。
「こっちも火力を上げる」
コートの内側――
血族の印が刻まれた短剣を抜き放つ。
ヴィオレットの血を媒介に作られたその刃は、淡く紅く光った。
「吸血鬼の刃、ね。似合ってるわよ」
ヴィオレットが後方から囁いた。
「黙って見てろ」
煉は跳んだ。
敵の爪が眼前をかすめる。
だが、その一瞬を読み切っていた。
「――はっ!」
短剣が一直線に振り下ろされ、敵の心臓を貫く。
刃が骨を裂き、血が噴き出す。
残った最後の個体が怯んだ瞬間、煉は間合いを詰めた。
拳を叩き込み、倒れたところを膝で押さえ込む。
「今度こそ、聞かせてもらう」
煉は低く唸った。
だが――その吸血鬼は、何かを噛み砕いた。
バキン、と不快な音。次の瞬間、黒い煙のような液体が口から溢れる。
「……自壊?」
リサが声を上げる。
「薬物か、呪符……」
敵の体が崩れ落ち、完全に意識を絶った。
ヴィオレットが静かに言った。
「“指揮官”がいる。これらを動かしてる存在が――地下の奥に」
煉は短剣を見下ろし、血を振り払った。
「なら、その奥に踏み込むしかないな」
彼の瞳が、暗闇の先を射抜く。
「本当の“牙”を見せてもらおうか、灰血派」
闇の底で何かが、彼らの存在に気づいた。
◆ ◆ ◆
通路の奥に続いていたのは、かつての避難用バンカーを改装した、地下実験施設だった。
無数のケーブルが千切れたまま垂れ下がり、壁は焼け焦げ、破裂したタンクから漏れ出した赤黒い液体が、乾いた鉄の臭いを放っている。
「……人間の血だけじゃない」
リサが手首に装着したスキャナーを確認する。
「これは……狼人のDNAも混ざってるわ」
「融合実験か」
ヴィオレットが顔をしかめる。
「遺伝子操作による適応強化、あるいは血統特化の兵器開発……旧世紀にもあった禁忌の延長ね」
煉は部屋の中央に近づいた。
倒れた実験台には、拘束具が残されていた。
その中央に、ひとつだけまだ新しい「爪痕」が刻まれている。
「……最近まで、誰かがここにいた」
そのときだった。
「――ッ」
喉の奥が疼いた。
煉の足が止まる。
鼻を突く、血の臭い。
生々しく、鉄の熱を帯びた、それは――“生きていた者”の、まだ乾ききっていない血。
床に残る染み、壁に飛び散った痕。
そして、微かに揺らぐ“残留熱”。
「……レン?」
ヴィオレットの声が届くより早く、煉は片膝をついた。
視界が揺らぐ。
喉が焼けつくように熱い。
「っ……ちがう……これは……」
指先が震えた。
血の香りが、獣を呼び起こす。
牙の根が疼き、心臓の鼓動が音として耳に響く。
「落ち着いて。レン」
ヴィオレットが彼に近づき、その肩に手を置いた。
「……こんな程度で我を失うほど、あなたは弱くないはずよ」
その声音は厳しくも、静かだった。
煉は唇を噛み、ゆっくりと目を閉じる。
血を求める衝動を、喉の奥で押し殺す。
……一口だけ、喉に何かが落ちれば、すべて楽になる。
けれど、それを許せば、きっと戻れなくなる。
「……ッ、もう大丈夫だ」
煉は立ち上がる。
拳を強く握り、震えを制圧した。
「レン……」
リサが心配そうに一歩踏み出そうとする――その瞬間。
――ゴォン。
鉄の扉が軋む音を立てて開いた。
血と煙の匂いがわずかに揺れ、その向こうから、一人の男が現れる。
銀の髪に、赤い双眸。
灰色のコートを揺らしながら、彼はまっすぐにヴィオレットを見た。
「……まさか、こんなに早くまた会えるとはね」
その口調は静かで、どこか愉悦すら含んでいた。
「サリエル=グレイ……」
ヴィオレットは、その名を口にしつつ、どこか楽しげに笑った。
傘をくるりと回しながら、肩をすくめる。
「やっぱり、あなたがいたのね。
灰血派の動きにしてはずいぶん器用だと思ったら――なるほど、納得だわ」
「それは光栄だ。“紅姫”に見抜かれるとは」
サリエルの唇に、薄く笑みが浮かぶ。
その視線が、すっとヴィオレットの背後――煉へと向いた。
「で、あの臭い犬は……どうやら瀕死のようだが。
構ってやらなくていいのかい? 紅姫?」
その言葉に、ヴィオレットの目が一瞬だけ細まる。
だが足は、一歩も動かない。
「……彼は、私が選んだのよ」
「だから今、見ているの。彼がどこまで“自分の足”で立てるのかを」
その声音は甘やかでありながら、ひどく冷たい。
まるで、絶対の自信に裏打ちされた狩人の声。
「ふん……」
サリエルは笑うでもなく息を吐いた。
だがその足が、確かに一歩だけ後ろへと引かれたのを――
ヴィオレットは見逃さなかった。




