第10話 紅姫の叛血
(ヴィオレット視点)
彼がシャツを脱ぐと同時に、視線が自然とそこに吸い寄せられた。
――痕。
いくつもある。刃物、銃弾、火傷。人間の頃に受けた、命を賭してきた証。
「……あなた、痕が多いのね。」
わたしの声は、思ったよりも静かだった。
鋭さも皮肉もない。――ただ、目に映ったものを受け止める声音。
彼は視線を逸らし、何も答えなかった。
左肩にかすかに残る切創。
脇腹にある、古い銃痕。
そして背中を這う火傷跡――
「特務調査官……だったんでしょ? そりゃあ、無茶もしたでしょうね。」
わたしは一歩、彼の背中に近づく。
何かが痛んだようなその傷の奥に、彼がどんな過去を生きてきたのか――
少しだけ、気になった。
「でも不思議ね。あの夜の炎も、銃弾の痕も、今はもう残っていない。」
彼が少し、肩を震わせた。
その背に、そっと指を伸ばす。
心臓――吸血鬼にとっての急所に、わたしの指先が軽く触れた。
「それが、吸血鬼という存在よ。
“死の縁”から蘇ったときに負った傷だけがリセットされる。
それ以前のものは、“人間としての過去”として、ずっと残る。」
少し距離を取り、彼の手を取り上げる。
焼け跡の残る手の甲。あれは太陽に晒された痕だ。
「……でも、これも綺麗に治ってる。
エミリーの血――よほど相性がよかったのね。」
彼は手を引こうとしたけれど、わたしはそのまま手の甲を撫でながら笑った。
「銀の刃の傷は癒えるのに時間がかかるし……
でも、もっと厄介なのは――」
そう言って、冗談めかした手刀で、彼の腕をすっとなぞる。
「四肢を失えば、基本的にはもう戻らない。
“神経の死”には、回復の理が届かないのよ。」
「……脆いな、吸血鬼って。」
彼の言葉に、わたしは小さく笑った。
「意外だった?
でも、だからこそ私たちは美しくて、壊れやすくて、狂ってるの。」
言いながら、彼の胸元にもう一度目をやる。
いい身体だった。人間の頃から、きっとずっと鍛えてきたのだろう。
「でも、あなたは人間の中では上等な体よ。
ただ――力は、まだまだね。」
彼は何も言わなかった。
シャツを手に取ったけれど、すぐには袖を通さなかった。
「……なあ、ヴィオレット。」
その声に、わたしはただ静かに振り向く。
「どうして、俺を助けた?」
ああ、来たわね――その問い。
いつかは聞かれると分かっていた。
「……あの夜、お前がいなければ、俺は人間として死ねていた。」
問い詰めるようでも、責めるようでもなかった。
ただ、まっすぐな彼の目が、わたしの胸を少しだけ締めつけた。
わたしは視線を逸らさず、静かに答える。
「……あなたの目よ。」
「……目?」
「焼け焦げた身体の中で、あなたの瞳だけが、まだ生きようとしていた。
その目を見たとき、少しだけ懐かしさを感じたの。」
わたしは微笑んだ。ほんの少し、遠い記憶に触れるように。
「何か、あったのか? お前の過去に。」
彼の問いに、わたしは首を横に振る。
「いずれ話すわ。でも今は――
あの時のあなたが、ただ、“惜しい魂”に見えただけ。」
「惜しい、か。」
「ええ。もし転化に耐えられたら、きっと面白くなるって思ったのよ。」
言い終えたあと、わたしは傘を取り、部屋を出る。
背後で彼が何か言う気配はなかった。
――惜しい魂。
そう、わたしはずっと、“惜しいもの”に手を伸ばして生きてきた。
あの夜、久しぶりに――“生きたい”と願う目を見たのだ。
だから、壊してみたくなった。
そして、どうなるか、見届けたくなった。
――レン、
あなたは、壊れるのか、それとも……。
傘の石突が、古びた廊下を静かに打つ音。
屋敷の窓から差し込む夜霧が、まるで彼方からの亡霊のように漂っていた。
わたしは一人で歩きながら、さっきの彼の言葉を思い返していた。
『どうして助けた?』
ああ、レン。
あなたのような人間に、あんな顔で訊かれるなんて――
少し、胸が疼くのよ。
――五百年前。
わたしは〈血梟〉の“正統”だった。
選ばれ、育てられ、鍛えられ、純粋なる血を保つ者として仕立て上げられた。
その一族は「秩序」と「血統」の名の下に、外の者を拒み、異端を狩り、血の上に王座を築いた。
吸血鬼の中でも最も高貴で、最も排他的で、最も冷たい一族。
――そして、わたしの創造者は、その頂にいた。
彼の言葉が、わたしを縛った。
「血は継ぐべきもの。
外の血は穢れであり、混ざれば滅びを招く。」
でも、ある夜、わたしは一人の“異端”を目にした。
血梟の実験で生み出された者。何か知れぬ異物の血を混ぜられた子。
見棄てられた子。
それでも、生きていた。渇きにも、夜にも、絶望にも屈せずに。
――その時、わたしは理解してしまった。
わたしたちは、純粋ではなく、閉じられていただけだ。
変化を拒み、過去の幻影にしがみつく、ただの亡霊だったのだと。
だから、わたしは“血”を絶った。
創造者の心臓を、短剣で突き立て、〈血梟〉を裏切った。
それ以来、わたしは「紅姫」と呼ばれる反逆者になった。
真祖の血を引きながらも、氏族に属さぬ者。
静かなる墓場を歩く、死者たちの王。
――では、なぜ、今さら〈血梟〉と狼人の企みを追っているのか。
あの一族が、また“同じ過ち”を繰り返そうとしているからだ。
混血の力を恐れ、排除してきた彼らが、今になって
「混血を武器にする」という道を選んだ。
それは、かつてわたしが“否定された”すべてを、自ら利用するという矛盾。
そんなものを、私は絶対に許せない。
――誇りのためではない。
――復讐のためでもない。
これは、わたし自身が選んだ「破壊」のため。
そして、レン。
あなたの存在が、その破壊の起点になると……あの夜、わたしは確信した。
わたしは屋敷の隅にある図書室に入り、鍵を閉める。
火も灯さず、暗闇の中でソファに腰を下ろす。
思い出はもう、冷たくなった血のように、何も温めてはくれない。
だけど――
「……あの目は、まだ温かかった。」
喉の奥で、ひとつ、乾いた笑みがこぼれる。
レン。
あなたは、わたしを壊してくれるかしら。
それとも――
わたしが、あなたを壊すのか。
その答えを知るには、まだ少し、夜が足りない。




