第1話 錬の名のもとに
ロンドン東部、ベスナル・グリーン。廃工場は血と錆の歴史に沈む。
鉄骨と錆が絡み合い、まるで時間に喰われた巨獣の骸のように横たわっていた。
砕けた天井から月光が差し込み、まだらな地面を照らすが、闇の冷たさは拭えぬ。
黒い影が高窓を破って飛び込んだ。
ガラスが飛び散り、破片は氷の刃となって夜の静寂を裂いた。
すぐさま金属の衝突音が鳴り響く。
拳と刃が交錯し、弾丸が錆びた鋼の枠をかすめ、火花が一瞬、鋭く弾けた。
廃墟の中で始まったのは、非対称な狩り。
狩人と獲物、もはや退路はない。
神城 煉は暗がりに立っていた。
黒いコートに身を包み、深くかぶったフードの下、その瞳だけが冷たい刃のように光り、地に伏せた男を見据えていた。
──ジェームズ・カーライル。
彼のかつての相棒であり、二年前、煉の背に弾を撃ち込んだ男。
煉の肌は蒼白で、ほとんど透き通っている。
月光の下、琥珀に近い金の瞳が非人間的な鋭さを放っていた。
日英の血が交じり合うその顔立ちは本来、穏やかで美しいはずだった。
だが、変異の果てに宿った冷厳さが、彼を致命的な魅力へと変えていた。
風に揺れる黒いロングコートは、腰の銀の刃と拳銃を隠している。
その名字「神城 煉」は、亡き母が遺した最後の記憶。
それは、煉が人としての自分を繋ぎ止める唯一の絆でもあった。
カーライルは血を吐き、よろめきながら後退する。
錆びついた鉄骨にもたれかかり、目には恐怖と驚きが滲んでいた。
「カミシロ……レン? お前は死んだはずだ……!」
その視線は煉の蒼白な肌と金の瞳に釘付けになり、声が震える。
「吸血鬼だと……? どうやって……誰が変えたんだ……!」
煉はゆっくりと歩み寄る。
ブーツがガラスの破片を踏み砕き、その音が廃墟に反響する。
見下ろすその視線は、逃れ得ぬ獲物を射抜く狩人の目だった。
「ベスナル・グリーンの夜を、覚えているか?」
声は低く掠れ、まるで墓から漏れる水のような冷たさを帯びていた。
英語に混じる日本語の抑揚が、不気味さを一層際立たせる。
「お前の一発が、研究所を炎に包み、俺に『夜明けまでは保たない』と笑って言っただろう……」
カーライルは震え、腰の拳銃に手を伸ばそうとする。
「あり得ない……死体は……確認した……!」
その言葉が終わる前に、一発の弾丸が耳を掠め、鉄骨にめり込んだ。
わずか数センチの差で、命は風前に。
カーライルは地面を這い、汗と血を流しながら震える。
煉が動いた。
影のような速さで間合いを詰め、蹴りで拳銃を吹き飛ばす。
銃は宙を回り、闇の奥に転がっていった。
煉はその場にしゃがみ込み、冷たい指先でカーライルの顎を持ち上げた。
その瞳には、燃える復讐の炎が宿っている。
「俺は……神城煉だ。」
彼は囁く。
月光の下、牙が鋭く光る。繊細にして、致命的。
「この名前に、貴様が触れる資格はない。」
カーライルは崩れ落ちるように呻いた。
「化け物め……勝てるわけが……!」
煉はふっと笑った。
その笑みは、どこか皮肉に満ちていた。
「俺はもう、人間じゃない。」
そう言うと、銃口をカーライルの額に押し当てた。
「だが、お前の借りは……俺が返す。」
──銃声が響く。
脳漿が鉄壁に飛び散り、錆がさらに赤く染まった。
カーライルの体は崩れ落ち、目は恐怖のまま開かれ、二度と閉じることはなかった。
煉は立ち上がり、銃を収め、コートの裾を整える。
死体には目もくれず、ただ小さく呟いた。
「神城煉……烈火を経ても、俺はここにいる。」
その声は風にかき消されそうなほど、かすかだった。
まるで、自分自身への誓いのように。
彼は工場の扉へと歩く。
朝霧が立ち込め、ロンドンの空に夜明けが訪れる。
最初の光が霧を割り、彼のコートの裾に差し込む。
皮膚が焼け、手の甲から煙が上がる。
焦げる臭いが鼻を突き、煉は眉をひそめてフードを引き寄せ、日陰に身を隠した。
鼓動はもう鳴らず、血も流れない。
彼は呪われた影、復讐の残滓。
──それでも、彼はあの名前を捨てなかった。
工場の角、傘が一つ、傾けられていた。
女がそこに立っていた。
朝の光と影の境界、彼女の深紅のロングコートは凍った血のよう。
銀灰の髪が霧の中で揺れ、血のような赤い瞳が興味深げに煉を見つめていた。
肌は磁器のように白く、唇は枯れた薔薇。
その姿はまるで中世の絵画から抜け出たような冷ややかな美しさだった。
「やっと合格ね、小さな子猫。」
その声はベルベットのように柔らかく、だが棘を秘めていた。
「二年……遅くはないわ。」
彼女は煉を見つめ、唇をわずかに吊り上げた。
まるで、お気に入りの玩具を見つけたかのように。
「まだそこにいるの? 灰になりたいの?」
煉は彼女の横を通り過ぎた。
足を止めず、ただ一瞥をくれて、低く呟いた。
「一度は、もう死んだ。」
女は声を立てて笑う。
その音はまるで闇夜に鳴くナイチンゲールのさえずり。
傘を閉じ、先端を地面に突く。
それはまるで、王が掲げる杖のように威厳を放っていた。
「いい返事ね。」
彼女の瞳が煉の背中を追い、微笑む。
「でも、これは始まりに過ぎない。君の復讐は、一発の弾では終わらない。」
煉は立ち止まり、風にコートが揺れる。
振り返らず、ただ低く言った。
「借りが残る限り、神城煉は止まらない。」
彼女は鼻を鳴らし、傘の先でアスファルトに弧を描く。
「いいわ、私の小さなおもちゃ。」
その言葉は霧の中に溶け、かすかに残るだけだった。
──そして朝の光が二人の間に伸びる。
影はなく、ただ果てなき呪いがそこにあった。
煉は拳を握る。
陽光に焼かれる痛みが、自らの非人間性を突きつけていた。
「……神城煉……自分を忘れるな。」
彼は霧へと歩き出す。
背を陽に向け、次なる狩りへと向かった。