第五三話 小悪魔
バースデーパーティの翌日、私は心地よい疲労感に身を任せて泥のようにベッドで横たわっていた。重たい毛布を頭まで被ってまどろみの淵を彷徨っていると、不意に足元から毛布が引き剥がされる感覚に襲われた。
「…ゆいな」
肌をなでる冷気に寝ぼけ眼を開けると、ベッドの脇に潜む人影が視界の端に映った。それが笑いを堪えるように肩を震わせる長い髪の持ち主だと気づいた瞬間、鼻腔をくすぐる彼女特有の甘い残り香に私の頬は自然と緩んだ。
「んん…あ、あやみ…先輩…?」
「おはよ、ゆいな!」
私の呼び声に弾かれるように、ベッドの影からあやみ先輩が元気よく飛び出してきた。ご機嫌な様子で艶やかな黒髪を揺らす彼女を微笑ましく見つめていたが、とある違和感が私の意識を覚醒させた。
「せ、先輩…どうやって、ここまで…」
朝日に照らされた扉は開け放たれ、無人の廊下がそこに続いている。彼女がどうやってこの部屋に辿り着いたのか、検討もつかなかった。車椅子は階段の下で、廊下は壁を伝えば歩けるかもしれないが、支えのない部屋の中を直進するのは今の彼女には不可能なはずだ。
心配になって身を乗り出すと、先輩はいたずらが成功した子供のようににこやかに微笑んだ。
「えへへ…早く起きちゃったからさ。ここまで、這ってきちゃった」
耳を疑う言葉に、私は彼女の寝間着へと視線を落とした。もふもふとした可愛らしい生地のあちこちに、床の埃が付着している。私は小さく溜息を吐きながら、愛おしさと切なさが混ざり合った手つきでその汚れを払い、ベッドを抜け出した。
「もう、無茶しないでくださいって言ってるじゃないですか…ほら、一緒に行きますよ」
あやみ先輩の華奢な肩を抱き寄せると、彼女は何故か誇らしげに胸を張って私と一緒に階段を降りた。いつものモーニングルーティンを済ませて制服に着替えた私たちは、連れ立って学園へと向かった。
蜂ヶ海学園の正門が見えてくると、そこには銀髪を春風に靡かせて凛と佇む姫山先輩の姿があった。あやみ先輩は彼女の姿を認めるなり、幼子のような無邪気さで大きく手を振る。
「おっはよ~、ちぐさ!」
その明るさに当てられるように、私も車椅子を押し進める歩調を早めた。姫山先輩がこちらに気づき、柔らかく目を細める。
「あなた、今日はずいぶんと元気そうね」
先週までの沈み込みが嘘のようなあやみ先輩の様子に、彼女は安堵の表情を浮かべた。私はその手に、車椅子のハンドルを委ねる。
「では、姫山先輩。あとはお願いしますね」
「わかってるわよ…じゃあ、また放課後に」
車椅子を静かに押し出した姫山先輩の背中を見送り、私はひとつ深く息を吐いた。すると、間髪入れずに背後から誰かが私の肩を抱き寄せる。
「…どうだい?彼女の様子は」
耳元で囁かれた密やかな声に私は驚くこともなく、その主の名を呼んだ。
「おかげさまで、すっかり元気を取り戻したみたいです。ありがとうございました、白崎先輩」
振り返ると、予想通り白崎先輩が眩い笑顔を湛えて私を見下ろしていた。朝日に透ける白髪を輝かせ、彼は軽やかに私の肩を叩く。
「僕は何もしていないさ。彼女が前を向けたのは、君が傍にいたからだろう?」
「…ふふ、そうだと嬉しいんですけどね」
春の陽光が降り注ぐ敷地内を、白崎先輩と並んで歩く。前方を行く姫山先輩とあやみ先輩の背中が、これまでよりもずっと鮮やかに光り輝いて見えた。
「そういえば、今日は生徒会の会議があるんだ。犀川さんも出席するから、下校に少し時間を貰うことになると思うけれど、大丈夫かい?」
昇降口で靴を履き替えようとした際、白崎先輩が思い出したように断りを入れてきたので、私は快く頷く。
「承知しました。わざわざ教えてくださって、ありがとうございます」
私達はそこで別れ、それぞれの教室へと向かった。そして全ての授業が終わった放課後・・・私は会議室の外で冷たい廊下の壁にもたれかかっていた。
「会議が終わるのは、あと数十分後か…」
私は、スマホのロック画面を見つめながら独り言をこぼす。あやみ先輩を迎えに行くため、ここで終わるのを待っているのだ。会議室の重厚な扉からは、退屈で長々しい議論の声が微かに漏れ聞こえてくる。
襲いかかってくる睡魔と、遠のく意識の中で格闘していた時だった。
流れる雲が夕日を遮り、廊下に重たい影が落ちる。不意に静寂を切り裂くような、どこか焦燥感を含んだ足音が響いた。視線を向けると、どこか悲痛な面持ちの姫山先輩が立っていた。
「甘野さん、ちょっといいかしら」
トレードマークのポニーテールを解き、茜色の光を吸い込んだ銀髪を肩に散らした彼女の姿に私は首を傾げる。あんなに冷酷で射抜くような瞳を向けられたのは、初めてのことだったのだ。
「どうしました、姫山先輩。そんなに改まって…」
「私から…あなたに提案があるの」
戸惑う私を遮るように、彼女は白銀の髪を乱しながら深く頭を下げた。
「あやみの介護を、私に任せてくれないかしら」
「…はい?」
あまりに唐突で、理解の範疇を超えた提案だった。アルバイトに部活動、さらには学業など多忙を極める彼女に、介護に割ける時間など一分たりとも残されていないはずだ。冗談だろうと笑い飛ばそうとしたが、彼女が顔を上げる気配はない。
「ふふ、冗談はやめてくださいよ。先輩には部活もバイトもあるじゃないですか。数学オリンピックだって控えてるんでしょう? お気持ちは嬉しいですが、先輩には他に優先すべきことが・・・」
「部活は、辞めてきたわ」
彼女が顔を上げると、その表情は鬼気迫るものがあった。
「バイトも辞めた。数学オリンピックも辞退する…私を縛るものはもう何もないから、安心して介護に専念できるわ」
心臓が嫌な音を立てて、跳ねるのを感じる。あんなに熱心に取り組んでいた全てを、彼女は本当に投げ打ったというのか。信じられない、というより信じたくなかった。
「嘘…嘘ばかりつかないでください、姫山先輩」
「嘘じゃない。疑うなら顧問や店に連絡してもいい。私は、本気なのよ」
私の肩を掴む彼女の指先に、力がこもった。瞳孔が不安定に揺れ、何かに取り憑かれたような彼女の熱量に私は生理的な嫌悪感を覚えた。
・・・この人は、私からあやみ先輩を奪おうとしているのではないか。
「…私の介護では、不満なんですか? 私では、あやみ先輩を支えられないと思っているんですか?」
抑えきれない苛立ちが声に混じると、太陽が完全に隠れて彼女の美しいはずの横顔は、深い闇に塗り潰されていた。
「違うわ!あなたには、未来があるじゃない!だから私は、あなたに自由になってほしいの。介護に人生を捧げるんじゃなくて、あなた自身の人生を…っ」
「…姫山先輩。あなたは、あやみ先輩が嫌いなんですか?」
必死に弁明を重ねる彼女の言葉を、私は氷のような視線で断ち切った。彼女が絶句して激しく首を振ると、その瞳には眉間にシワを寄せた醜い私の顔が映り込んでいた。
「そ、そんなわけないじゃない!私はただ、あなたが・・・」
「ああ、理解できました。先輩は、私からあやみ先輩を遠ざけたいんですね」
追い詰められた彼女の狼狽ぶりを見て、私の中で答えが繋がった。
この人は、あやみ先輩を独占したいのだ。介護という大義名分を盾にして、私から彼女を奪い取ろうとしている。
「ダメじゃないですか。あやみ先輩と一緒にいたいからって、私を追い出そうとするなんて」
私の言葉が廊下の静寂に沈み込むのと同時に、姫山先輩の額から一筋の汗が零れ落ちた。その瞬間、雲が切れて鋭い月光が氷の剣のように廊下を貫いた。
「そ、そういうわけじゃ…っ」
「なら、なんだって言うんですか!」
逃げるように後ずさる彼女へ、私は怒号を叩きつけた。窓ガラスがビリビリと共鳴すると、私は一呼吸置いて努めて穏やかな、しかし拒絶に満ちた笑みを浮かべた。
「…とにかく、あやみ先輩のことは私に任せてください、姫山先輩」
タイミングを合わせたかのように、会議室の中から椅子を引く音が聞こえてきた。私は張り詰めた空気から逃れるように、観音扉の隙間に指をかけて内部へと滑り込む。
冷たい月光に刺し貫かれたまま立ち尽くす姫山先輩を置き去りにして、私は背後で重たい扉を閉ざした。
「ま、待って…甘野さん…」
閉まりきる寸前、その弱々しい声は途絶えた。胸の内で小さく舌打ちをすると、私は表情を作り替えて上座に座る白崎先輩と、何より愛しいあやみ先輩の元へと歩き出した。
作者の『月雲とすず』です!
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