第五一話 ナイトルーティン
淹れたての紅茶がゆっくりと茶葉を沈殿させるように、濃密な夕暮れが学園をに染め上げる放課後・・・私は待ち合わせ場所である正門へと足早に向かった。
校門の前には帰路につく生徒達の好奇の視線を浴びながら、車椅子の上で心ここにあらずといった様子で佇む犀川先輩と、そのハンドルをしっかりと握る姫山先輩の姿があった。
「お疲れ様、甘野さん」
「お疲れ様です、姫山先輩」
横顔に斜陽を浴びて微笑む姫山先輩に、私は丁寧に会釈を返す。対照的に犀川先輩はまるで虚無を慈しむかのように、アスファルトの上で長く伸びる自分たちの影をじっと見下ろしていた。
「じゃあ、後は頼むわね。ほら、あやみ」
「は…はい」
姫山先輩がハンドルから手を離し、私にその役割を譲る。指先がハンドルに触れた瞬間、そこにはまだ他人の体温が残っていて、それを上書きするように強く握り直した。
犀川先輩はこの委ねられる瞬間にまだ慣れていないのか、不安げに瞳孔を揺らしている。私はその細い肩を安心させるように見つめ、ゆっくりと車椅子を押し出した。
未だ新鮮味の残る帰路で車輪が地面を噛む振動を感じながら、私は俯いたままの先輩に話しかける。
「先輩。今日の挨拶、とても良かったですよ」
励ましのつもりだったけれど、私の言葉を聞いた途端に先輩はびくりと肩を跳ねさせ、青ざめた表情でこちらを振り返った。まるで取り返しのつかない罪を犯したかのような、痛々しいほどの罪悪感がその瞳に宿っている。
「でも・・・皆さんを、怖がらせてしまって・・・」
始業式でのざわめきを、彼女は恐怖と受け取ってしまったのだろうか。確かに会場は揺れたが、それは未知のものへの好奇であって彼女が背負うべき責任などどこにもない。
「大丈夫ですよ。誰も怖がったりなんてしてませんから」
私は努めて穏やかに、彼女の心を包み込むように微笑みかけた。
重たい沈黙を連れたまま犀川家に辿り着き、鍵を差し込んで玄関の扉を開け放つ。車椅子ごと彼女を迎え入れた私は、これからの時間の主導権を彼女に委ねてみた。
「どうします、先輩?お風呂を先にされますか?それとも、お夕飯にしましょうか」
低く唸りを上げる浴室の給湯器と、オレンジ色の光が差し込むリビングを迷うように見比べ、先輩は消え入りそうな声で口を開いた。
「…ご飯で、お願いします」
冷蔵庫にあるもので手早く繕った夕飯を、テーブルに並べていく。朝に淹れておいた冷たい麦茶をグラスに注ぎ、彼女の指が届きやすい位置へ静かに置いた。
「…いただきます」
「はい、どうぞ」
行儀よく合掌する先輩につられ、私も箸を持ったまま手を合わせてしまう。
先輩は私の作った料理を、身体の細胞一つひとつに情報を刻み込むような緻密さで味わっていた。最後の米粒まで吟味して再び合掌した彼女の満足げな様子に、私はこみ上げる照れを隠すことができなかった。
「…美味しいです、甘野さん」
「…なら、よかったです」
胃袋が満たされ、ようやく彼女の唇に柔らかな笑みが浮かぶ。その尊さに胸を打たれながら、私は皿洗いを終えるべく咀嚼のスピードを上げた。すると彼女が何かを白状するかのように、真っ直ぐに私を見つめた。
「そういえば…お母さんの仕事が本格的に忙しくなるそうで。来週から、隣の空き家を借りて寝泊まりするそうですよ」
「…そうですか」
犀川先生がひそかに自室から荷物を運び出していた理由がようやく繋がった。
それはつまり、この屋根の下で私と先輩だけの生活が始まるという宣告だったのだ。隠しきれない胸の高鳴りを、蛇口から流れる水の音で誤魔化しながら皿を洗う。
その勢いのまま浴室へ向かい、鼻歌混じりに湯を張った。やがて準備が整ったことを告げる電子音が、静かな家の中に響き渡る。
「先輩、お風呂が沸きましたよ」
「わ、わかりました…」
リビングで本を読んでいた先輩を脱衣所へと誘う。車椅子に座ったままの彼女の制服を、一枚ずつ丁寧に解いていく。しかし下着に手が掛かろうとした瞬間、彼女は肌を隠すように腕を胸の前で交差させた。
「手をどけてください、先輩。脱がせにくいじゃないですか」
私が少し困ったように促しても、先輩はふるふると首を振って拒絶する。その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。
「だって…恥ずかしいじゃないですか」
「文句を言わないでくださいっ」
中途半端な姿で風邪を引かせるわけにはいかないため、私は半ば強引に彼女の衣類を引き剥がした。顔から火が出そうなほど真っ赤になった彼女を、抱えるようにして浴室へと運び込む。
温かなシャワーの飛沫が舞う中、私も服を脱ぎ捨てて彼女の背中に手を添える。
絹織物のように艶やかで、指が滑るほど白い肌を愛おしむように、壊れ物を扱う手つきで丁寧に撫で洗った。彼女の象徴である漆黒の髪も、貴重な鉱石を磨き上げるようにシャンプーの泡で優しく包み込む。
名残惜しさを感じながら泡を流し、彼女を湯船に沈ませる。先輩がのぼせないよう手早く自分の身体を洗い終えた私も、彼女の隣へと肩まで浸かった。
ふぅ、と吐息を漏らす先輩に、私は浴槽の底で自分の手を彼女の手に近づけながら問いかける。
「湯加減はどうですか、先輩」
「…気持ちいいです。ありがとうございます」
ぎこちなくも、確かな信頼が籠もった微笑みだった。じわじわと上昇していく私の体温は、お湯のせいなのか、それとも彼女へのときめきのせいなのか、もう判別がつかなかった。
「…すみません、甘野さん」
不意に、彼女が水面を見つめたまま謝罪を口にした。
きっと自分を介抱させることへの申し訳なさが、彼女の優しさを締め付けているのだろう。けれど、私はそんなこと微塵も思っていないのだ。
「謝らないでください。私は、これがいいんですから」
今の私にとって、彼女に尽くすことは義務ではなく無上の幸福だ。影の薄い存在として自分を殺してきた私にとって、この密室で彼女の役に立つことこそが求めていた救いなのかもしれない。
「…甘野さんに、少しわがままを言っても良いですか?」
「え、なんですか?私にできることなら、なんでも」
意外な提案に身を乗り出すと先輩は先ほどよりもさらに深く俯き、震える唇で呟いた。
「私の名前を…下で、呼んでいただけませんか?」
「…はい?」
想定外の要望に言葉を失うと彼女は慌てて口をぱくぱくと動かし、また目に涙を溜めて弁明を始めた。
「ご、ごめんなさい…名字で呼ばれるのも嬉しいのですが、その、他人行儀というか…少し、堅苦しい気がして…」
「先輩…」
そんなふうに思ってくれていたなんて。
先輩と後輩という枠組みを超えたいと願っているのは、私だけではなかったのだ。彼女の願いを叶えられるなら断る理由など万に一つもないため、私は満面の笑みで頷いた。
「いいですよ。喜んで呼ばせていただきます…あやみ先輩?」
少しだけ照れを混ぜてその名前を呼ぶと、あやみ先輩は静かに目を見開いた。そして溢れそうな涙をこらえながら、ロマンス映画のヒロインのようなひときわ美しい微笑みを私にくれた。
「…はい。甘野さん」
湯船を出て互いの肌を拭い、清潔な寝間着に着替える。ドライヤーで髪を乾かし、肌の手入れをした。すべてのルーティンを終えた私は、再び車椅子を階段の脇に寄せる。
私の肩に彼女の腕を回し、息を合わせて階段を一歩ずつ上る。彼女の寝室へ辿り着くと、ゆっくりとその身体をベッドへ横たわらせた。
枕元には私が贈ったウサギのぬいぐるみが、主人の帰りを待つように鎮座している。それだけで私の胸は甘く疼いた。毛布を整え、布団から出た彼女の手を一度だけ握りしめる。
「じゃあ、おやすみなさい。あやみ先輩」
「…はい。おやすみなさい」
後ろ髪を引かれる思いで廊下へ出た私は、隣にある自分の部屋へ駆け込んだ。
そのままベッドにダイブし、毛布を力一杯抱きしめて、喉の奥までせり上がってくる絶叫を抑え込む。しばらくの間、ベッドの上でもがくように身悶えした後、私は枕に顔を埋めて先ほどの彼女の笑顔を反芻した。
「先輩…今日も、かわいすぎたな…」
憧れの、大好きな人との共同生活は私にとって、奇跡のような幸福そのものだった。もう二度と、彼女のいない孤独な日常には戻りたくないと、心から願わずにはいられなかった。
作者の『月雲とすず』です!
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