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第五話 すれ違う瞬間

 始業式が終わり、蜂ヶ海学園高等部にも日常の足音が戻ってきた。着替えを詰めた手提げ袋を揺らしながら廊下を歩く私は、次の授業のために移動している最中だ。


「はぁ…三学期早々に体育なんて、神様は残酷だね」


「ほんとそれ。しかも持久走でしょ? 球技大会の練習もあるのに、どんだけ走らせる気だよ」


 前を歩くクラスメイトたちのぼやきに、私は心のなかで深くうなずいた。地球の重力が急激に増したかのように、肩が重い。


 正月休みのなまった体に持久走は、もはや拷問に近い。もし私がグラウンドで倒れたとして、学園は適切な慰謝料を払ってくれるのだろうか。


 どんよりとした気分で廊下を進むと、目的地の一年生用女子更衣室は、すでにカオスだった。開け放たれた扉の隙間から覗く室内は、脱ぎ散らかされた制服と、下着姿で騒ぐ女子たちの熱気で溢れかえっている。


 そこはまさに女体のジャングル。足の踏み場もなく、人が一人動くのも困難な空間を、私は迷うことなくスルーした。


 私の影の薄さでは、あの人混みに紛れ込んだ瞬間に誰にも気づかれずおしくらまんじゅうの犠牲となり、ぺしゃんこに潰されるのがオチだ。助けを求めても誰の耳にも届かない。だから私は、いつも避難所を利用している。


「あった…二年生用の更衣室」


 学年ごとに配置された更衣室のなかで、二年生用は一年生の体育と時間が重なることが滅多にない。ノックをし、誰もいないことを確認してドアノブをひねる。


「失礼しま…って、え!?」


 足を踏み入れた瞬間、私は硬直した。無人のはずの空間に、複数の女子生徒の賑やかな声が響いている。


 慌ててロッカーの影に身を潜める。幸い、私の影の薄さはここでも健在で、彼女たちは私に気づいていないようだ。


「え〜! マジですごくない!?」


「ほんと! 相変わらず完璧だよね、あやみちゃん!」


「ちょ、ちょっと! やめてください…!」


 声の主は二年生で、一人の生徒を数人が取り囲んでいるようだ。面倒事に関わりたくない私は、そっと隙間から状況を伺った。一刻も早く立ち去るために。


 しかし、視界に飛び込んできた光景に私は思わず息を呑んだ。


「せ、先輩…?」


 そこにいたのは、メガネを外して凛とした真面目モードの犀川あやみ先輩だった。


 下着姿の先輩が二人の女子生徒に詰め寄られている。事情はわからないが、あの先輩が困っているのだ。私の合理主義が「逃げろ」と叫ぶのに、足は勝手に一歩踏み出していた。


 だが、放たれた言葉は予想外のものだった。


「いや、本当にすごすぎるよ…あやみちゃんのスタイル!」


「このライン、どうやって維持してるの? ジムとか通ってんの!?」


「うぅ…恥ずかしいです、見ないでください…」


 …スタイル?私は立ち止まった。よく見れば先輩は自慢のプロポーションを晒し、顔を真っ赤にして身を縮めていた。周りの女子たちは、ただ先輩の美貌を拝んでいただけなのだ。


「こら、二人とも。それくらいにしなさい」


 凛とした声とともに、ドアが開いた。


 銀髪のポニーテールに、健康的な褐色肌。その存在感だけで空気を制するその生徒の名前を、私は知っていた。


「姫山ちぐさ先輩…」


 学園一の秀才と名高く、犀川先輩と人気を二分する有名人。それも、この蜂ヶ海学園で一番の成績を保有するカリスマだ。


「あんまりいじめると、あやみが可哀想でしょう。羨ましいなら自分で努力しなさい」


 姫山先輩が割って入ると、女子生徒たちは「ごめんね」と謝りながら立ち去っていった。ロッカーの影で息を殺す私の隣で、犀川先輩がホッとしたように着替えを始める。


「まったく、世話の焼ける幼馴染ね」


「…すみません、姫山さん。ありがとうございます」


「その他人行儀な口調、やっぱり慣れないわ」


 犀川先輩と姫山先輩の付き合いは、小学校来である。もとい、二人は何年も同じわだちを踏み続けた共同体なのだ。


 姫山先輩が不満げに犀川先輩の手を引き、二人は更衣室を後にすると静寂が戻る。時計を見ると、集合時間ギリギリだった。


「やばい! 急がないと!」


 私は慌てて制服を脱ぎ捨て、体操服へと着替えた。冷たい床で転びそうになりながら、水筒代わりに持ってきたペットボトルを掴んで飛び出す。


 その時、廊下の真ん中で気になる物体が光った。見覚えのある、くすんだ桃色のケース。


「これ…犀川先輩のメガネケース?」


 拾い上げて中を確認すると、いつもの伊達メガネが入っている。わざわざ体育に持っていくはずがないアイテムだ。きっと着替えの際、制服に引っかかって落ちたのだろう。


 ロッカーに返すべきか…だが、あの先輩のことだ。また何か罠を張っているのではないか。私は一瞬だけ躊躇したが、結局それをポケットにねじ込んでグラウンドへ走った。


 体育の授業は悲惨だった。影の薄い私はクラスメイトに砂をかけられながら走り続け、ようやく休憩場所に辿り着く。


 そこの日陰に置いておいたはずの私のペットボトル…なんと、ラベルを剥がした天然水が消えていたではないか。


「あー! この水、誰の? いないなら飲んじゃお」


 声の方向を見ると、クラスメイトが私の水を掲げている。


「そ、それ私…」


 喉から絞り出した声は空しくかき消され、彼女は美味しそうに私の水を飲み干して去っていった。


 運のなさに泣きたくなりながら、私は水分を求めて中庭の自販機コーナーへ向かった。そこには、ベンチで足を揺らしている先客がいる。


「あ、甘野さん。奇遇ですね、お疲れ様です」


 ベンチから無邪気に飛び降りたのは、裸眼の、よそゆきモードの犀川先輩だ。


「…先輩、サボりですか?」


「心外ですね。水分補給ですよ。甘野さんは?」


「私もです。…これ、落としてましたよ」


 ポケットからメガネケースを差し出すと。先輩はバトンのようにそれを受け取って、ふふっと微笑んだ。


「拾ってくれたんですね。ありがとうございます」


「…罠だってことは分かってますよ。更衣室を出る時、私がいるの気づいてたでしょう」


 先輩は否定をせず、ケースから取り出したメガネを装着する。その瞬間に清楚な優等生は消え、いつものあざとい先輩が降臨した。


「じゃじゃーん! 結菜の大好きな、あやみ先輩だよっ! どう、嬉しい?」


 両手を蟹のポーズにしてふざける先輩に、私は溜息をついた。


「嬉しくはないですが、しっくりはきます。…で、なんであんな罠を?」


「なんでって、ゆいなこそ! なんで二年生の更衣室にいたのさ」


「それは…」


 結局、私は隠しきれずに事情をすべて話した。煎餅のように人混みで押しつぶされるのが怖いのだと伝えると、先輩はぽん、と手を打った。


「わかった。ゆいなには特別に、私のロッカーを使う権利をあげよう!」


「え、いいんですか? 私物とか見ちゃいますよ?」


「全然だいじょうぶだよ。むしろ見られちゃって困るものなんてないしね」


 メガネケースとロッカーの件が解決すると、先輩は自販機の前に立って人差し指を立てた。


「よし! ここで賭けをしよう、ゆいな!」


「…喉がカラカラなんですけど」

 

「まあまあ。この中から飲み物を一つ選んで。私はこれにするから」


 先輩は左端のスポーツドリンクを選択した。その後、訳もわからぬままに私は右端に追いやられた缶コーヒーを選ぶ。


「うぇっ…コーヒーか」


 嫌な顔を浮かべた先輩は、濡れた犬のように首を振ってから自販機に指先を向けた。


「では、この二つを今から買うわけだけど…ゆいなは先に出た飲み物と、後に出た飲み物…どっちがほしい?」


「単純に、先に出た飲み物がいいです」

 

 うなずいた先輩は五百円玉を放り込み、両手の人差し指で二つのボタンを同時に押した。

 

「自販機って、同時に押すとどっちが優先されるか知ってる?」

 

「…左側ですよ。基盤が左にあることが多いですから」

 

「えっ、知ってたの!?」

 

 ガラン、と音がして出てきたのは、やはり左側のスポーツドリンク。続いて右側のコーヒーも落ちてきた。

 

 先輩は約束通り、優先されたスポーツドリンクを私に差し出し、自分は苦手そうな顔でコーヒーを眺めた。

 

「うぅ、コーヒー……苦いの嫌いなのに……」

 

「教えてあげようと思ったんですけど、楽しそうだったので」

 

「いじわる! ……う、んぐ。……にがぁい!」

 

 舌を出して涙目になった先輩が、飲みかけの缶を私に差し出してきた。

 

「ゆいな…交換して」

 

「はぁ…仕方ないですね。まだ口をつけてませんから、どうぞ」

 

 聖人君子かのような先輩の振る舞いは、一瞬で子供のようなワガママに上書きされた。


 手元のペットボトルを手放すと、私は差し出された缶コーヒーを受け取り、喉を潤すために一口飲んだ。

 

 持久走の後にはおよそ似合わない、重厚な苦味が広がる。

 

「…ふぅ。普通のコーヒーですね」

 

 一息ついた私に、先輩が音もなく近づき、耳元で熱い吐息を吹きかけた。

 

「これで…間接キスだね」

 

「っな!?」

 

 トクン、と心臓が跳ねた。見れば、私が今口をつけた場所には、先輩の唇の跡が残っている。

 

「じゃあね、ゆいな!全部飲むんだぞ〜!」

 

 ご機嫌で走り去る先輩の背中を、私はただ呆然と見送るしかなかった。

 

 衝撃を受けて落とした缶コーヒーは、中庭の地面に吸収され、徐々に消えていってしまった。

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