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第四九話 モーニングルーティン

 桜の花弁が狂い咲く公道を、私は母と手を繋ぎながら歩いていた。今日は小学校の卒業式で、住み慣れた学び舎を去ったばかりの、晴れやかな午後のことである。


 すでに蜂ヶ海学園への入学手続きは済ませていたので、母とは新しい制服の採寸にでも行こうと未来の話で花を咲かせていた。中央街の隅にある学生服店で出会える新しい晴れ着を想像し、私は密かに胸を躍らせる。


 あの犀川さん達が通う学園に私も通える事実だけで、世界が輝いて見えた。喜びのあまりスキップ混じりで横断歩道を渡ろうとした、その時だった。


「ゆいなッ!危ないッ!」


 母の悲鳴が鼓膜を突き刺した瞬間、視界が激しく歪んだ。気づいた時には、私は母に力任せに突き飛ばされていた。アスファルトに這いつくばりながら、何が起きたのかと顔を上げたその刹那である。


 先ほどまで私がいた場所に、母が倒れていた。そこへ、唸りを上げるエンジン音とともに、アクセルを踏み込んだダンプカーが猛然と突っ込んでいく。


 息をする間も、叫ぶ暇もなかった。彼女の体は、巨大な鉄の塊と回転する車輪に無慈悲に巻き込まれた。死の直前でなぜか安堵の色を浮かべた母の表情が、見る間に苦痛と絶望に塗り潰されてゆく。


「お母さん…お母さん…!」


 すべてを理解した私は、なりふり構わず彼女へ駆け寄ろうとした。けれど、通りすがりの誰かに羽交い締めにされ、その手は届かない。轍に挟まった彼女の身体が、噴水のように鮮血を撒き散らしながら崩壊していく。もう二度と、母と笑い合える日は来ない・・・それを本能で悟った瞬間だった。


 溢れ出す涙で視界が真っ暗に染まり、私は底知れない深淵へと意識を沈ませていった。耳の奥で反響し続けるのは、優しかった母の微笑みと凄惨な最期の悲鳴だけだった。


「んん…ここは…」


 鉄錆の匂いが立ち込める交差点の光景から一転、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。慌てて跳ね起きると、そこは高く積み上げられた教材が壁を埋め尽くす厳かな一室である。


 小さくあくびを零し、私はここが犀川家の一室であることを思い出す。数年前の古い記憶の断片を脳から振り払うように首を振ると、私はベッドから這い出した。


 ここは犀川先生が譲ってくれた寝室だけれど、そこかしこに先生の生活の残滓が漂っていて、どこか落ち着かない。床にまで溢れた教本を器用に避けながら、私は冷たいフローリングを一歩ずつ踏みしめる。


 廊下へ出ると、すぐ隣の寝室の気配を伺いながら音を立てないように階段を降りた。軋む階段を降りきった先で、壁に立てかけてあった車椅子を引っ張り出す。そのままリビングへ向かうと、そこにはつい数分前まで誰かがいたような温かな生活の香りが残っていた。


 ソファに無造作に放られた毛布を丁寧に整え、テレビのリモコンを手に取る。流れてきたのは、代わり映えのしない朝のニュースだった。もう一度あくびを噛み殺し、私は洗面台へと向かう。


 曇り一つない鏡に映ったのは、寝ぼけ眼を擦りながら歯ブラシを手にする私の姿だった。先輩と共有している歯磨き粉をたっぷりと毛先に載せ、それを口に含む。無我夢中で手を動かし、朝の倦怠を吐き出していくのだ。


 口をゆすぎ冷たい水で顔を洗った後、これまた先輩と共有しているドライヤーで髪を整えた。用を足して身支度を整えるために自室へ戻ると、犀川先生の私服が今も残るクローゼットから自分の制服を引っ張り出す。部屋の隅にある姿見の前で、私はそれを丁寧に身に纏った。


 着替えを終えると、私は期待に胸を弾ませて廊下へ出た。隣の寝室のドアを軽くノックし、返事を待たずに静かに、迷いなく侵入する。


 先生の部屋とは対照的にガーリーな装飾が施された、可愛らしい少女の部屋だった。柔らかな寝息が部屋の隅々にこだましている。裸足で毛足の長い絨毯を渡り、大きな山を作っているベッドへと近づく。


 呼吸を整えて意を決して毛布を剥ぎ取ると、そこには芸術品のような美麗な寝顔を浮かべた犀川先輩が無防備に仰向けで眠っていた。できることなら、この尊い顔を永遠に眺めていたい・・・そんな欲求に駆られるが、迫り来る登校時間を思い出して私は心を鬼にして彼女を起こすことにした。


 華奢な肩を優しく揺らすが、先輩は不機嫌そうに唸るだけで一向に目覚めない…いっそ、目覚めのキスでもお見舞いしてやろうか。そんな不埒な考えが頭をよぎり、唾を飲んで彼女の唇に顔を寄せた時だ。


「ん…うぅ…」


 犀川先輩が唸り声を上げ、舞台の幕が上がるようにゆっくりと瞼を開いた。その瞳に私の姿が映り込むと、私は照れくさそうに首の後ろを撫でてふにゃりと力なく微笑んだ。


「犀川先輩…おはようございます。朝ですよ」


「うぅ…甘野、さん…」


 消え入りそうな声で私の名を呼んだ先輩は、ぎこちなく上半身をベッドから離した。起き上がった彼女の身体を私は手慣れた仕草で滑り込ませるように支え、自分の肩に彼女の重みを預けて立ち上がらせる。


「よいしょ…っと」


 私の肩に先輩の腕が回され、その体温がじわりと伝わってくる。私たちはそのまま寄り添うように廊下へ出た。未だ自由の効かない彼女の足の代わりとなり、一段ずつ慎重に階段を降りていく。すると隣で、憂いを帯びた表情の先輩が小さく呟いた。


「ごめんなさい…私、重たいですよね」


「いえ。先輩は軽いんですから、心配しないでください」


 こうした瞬間にセンチメンタルになってしまう彼女の心を、優しく繋ぎ止めるのも私の大切な役割だ。一階に着くと、あらかじめ用意していた車椅子に先輩を座らせる。私はそのまま、彼女を乗せて洗面台へと向かった。


 歯磨き粉をつけたブラシを先輩に手渡し、私は彼女の背後に回ってドライヤーを手に取る。艶やかな髪が風に靡くたび、私の心まで優しく撫で回されるような錯覚に陥った。あまりに官能的なその美しさに目を奪われていると、不意に先輩の肩が小さく跳ねる。


「うぐっ、けほっ…けほっ…」


「…大丈夫ですか?」


 ブラシが喉に触れたのか吐血するように歯磨き粉を零した彼女の口元を、私は清潔なタオルで拭って背中を愛おしむように撫でた。


 咳き込む先輩が落ち着くまで寄り添っているうちに、いつの間にかドライヤーのプラグがコンセントから抜け落ちていた。顔を洗った彼女が、申し訳なさに何かを言いかけてそのまま俯いてしまう。


 その沈黙に込められた意志を読み取り、私はトイレの電気を点けて車椅子を寄せた。扉を開け放ったまま座った彼女を抱え上げ、便座へと座らせる。そして、慣れた手つきで部屋着のズボンと下着を静かに脱がせた。


 抱き合ったような姿勢のまま待機していると、先輩の身体が小刻みに震えて静かな水音が密室に反響する。私は、彼女の震える背中を撫でる手を、一度たりとも止めなかった。


「…すみません、こんな見苦しい姿を…」


 高熱を出したように頬を赤らめる先輩の羞恥さえも愛おしく、私は微笑みながら彼女に体温を分け与えた。


「全然いいんですよ。先輩は、いつだって綺麗です」


 用を済ませて手を清めた私たちは、ニュースの音が響くリビングへと移動した。椅子をあけておいたテーブルに車椅子を寄せると、私は冷蔵庫から作り置きの朝食を取り出し、レンジへと放り込む。


 コンロの味噌汁に火を入れ、炊飯器の温かな米を茶碗によそう。電子レンジの電子音が完了を告げると、湯気の立つ朝食を二つ並べた。


 温かな香りが、先輩の胃袋を物欲しげに鳴らした。彼女の正面に腰を下ろし、煮出しておいた緑茶をグラスに注いで手を合わせる。


「いただきます」


「い、いただきます…」


 ニュースの報道を横目に、私は手早く朝食を終えた。それから二人分の弁当を詰めながら、先輩の食事風景を愛おしそうに眺める。


 私の手料理を美味しそうに頬張る彼女の姿は、何度見ても見飽きることがない。事情のために二人きりで昼食を嗜む機会はなくなるだろう。だからこそ、この一分一秒を、記憶の奥深くに刻み込みたかった。


「ごめんなさい、料理まで作らせてしまって…本当に、不甲斐ないです」


「そんなことないですよ、先輩」


 後片付けを済ませると、テレビを消して二階へ戻る。先輩の部屋から制服を持って降り、リビングで彼女に寝間着を脱ぐよう促した。


 羞恥に身を竦ませながら下着姿へと変わっていく先輩の、眼福極まる光景を心に留めつつ私は着替えを手伝う。靴下やスカートなど、下半身を自由に動かせない彼女にとって困難な作業は、すべて私の特権だ。


 曲線美を湛えた美脚にゆっくりと靴下を履かせ、奮闘する彼女を助けながらブレザーの袖を通す。


「頭、通りますか?」


「んっ…はい、大丈夫です」


 襟元から容姿端麗な顔がひょこりと現れた瞬間、私の心臓は高く跳ねた。今すぐにでも彼女を私のものにしてしまいたい。そんな荒ぶる欲求を理性で押さえつけ、私は時計に目をやった。


「では、行きましょうか」


「…わかりました」


 準備を整え、玄関の荷物を手に扉を開く。清々しいはずの朝の空気が私たちを包み、私は先輩の乗った車椅子をきぃきぃ、と鳴らしながら押し始めた。


 太陽は厚い雲に遮られ、四月というのに春の気配は遠く感じられた。蕾のまま硬く閉ざされた雑草や庭木の枝を見つめながら、私は彼女に微笑みかける。


「いやぁ、それにしても寒いですね。春の足音がぜんぜん聞こえてきませんよ」


 冗談めかして場を和ませようとしたが、先輩は押し黙ったままだ。返答を待つ私の耳に、やがて怯えたような、震える声が届いた。


「…ごめんなさい、甘野さん」


「…何がですか?」


 真意を問いかけると彼女は鼻をすすり、一言ずつ喉を詰まらせながら必死に言葉を紡いだ。


「…私のせいで、あなたにこんな不自由な生活を強いて…本当に、ごめんなさい」


「何言ってるんですか、先輩」


 悲観の波に呑まれそうな犀川先輩を宥めるように、私はその頭を優しく撫でて耳元で囁く。


「困ったときはお互い様、ですよ」


 まるで物語の一幕のような言葉を交わしているうちに、蜂ヶ海学園の校舎が見えてきた。はやる気持ちを抑えながら正門へ近づくと、そこには見知った影が腕を組んで待っている。


「来たわね、二人とも」


 待っていたのは、姫山ちぐさ先輩だった。約束通りの時間に安堵しつつ、私は犀川先輩が乗る車椅子のハンドルを彼女へと引き渡す。


「はい、姫山先輩…あとは、お願いしますね」


 今日から二年生になる私と、三年生に進級する彼女達では行動の範囲が異なる。学園内での犀川先輩のケアは、姫山先輩に託すことに決めていたのだ。俯く先輩に小さく挨拶をした姫山先輩が、私に微笑みかける。


「わかったわ。放課後、またここで落ち合いましょう」


 再会の約束を交わし、彼女達は人が集まる前に足早に昇降口へと向かっていく。遠ざかっていくその背中を、私は名残惜しさを隠して見送った後、自分の歩調でゆっくりと歩き出した。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!


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