第四八話 車椅子
もはや嗅ぎ慣れてしまった消毒液の匂いに包まれながら、私は今日も犀川先輩の病室を訪れた。紙袋の重みを感じながら扉を開くと、窓から差し込む日光が私の視界を真っ白に染め上げる。
「失礼します、犀川先輩」
遠慮なく病室へ足を踏み入れると、部屋の隅のベッドに数人の白衣が群がっていた。その傍らでは犀川先生が、感極まった様子で両手で口を覆っている。
「驚きました…数日のリハビリで、まさかここまで回復するなんて」
医師たちの背中越しにベッドを覗き込むとそこには、上半身を起こした犀川先輩がいた。彼女は看護師の指示に従い、ゆっくりと膝を曲げ伸ばししている。昨日までのぎこちない仕草が嘘のようで、あまりの劇的な回復に私も思わず目を丸くした。
「明日には退院できますね。この状態なら、車椅子や松葉杖も必要ないでしょう」
担当医がカルテにペンを走らせながら告げると、犀川先生が崩れ落ちるような勢いで深々と頭を下げた。感謝の言葉を繰り返すその背中に、私は言いようのない嫌悪感を覚える。娘の回復を喜ぶ母親の姿は本来、美しいはずのものなのに。
「ありがとうございました…春休みのうちに治って、本当に良かった」
溢れる涙を拭いもせず、先生は医療従事者たちに縋るようにして何度も頭を下げる。そのプライドを投げ打った姿から目を逸らすと、医師達は苦笑いを浮かべながら彼女を促した。
「では、退院の手続きをしましょう。お母様、こちらへ」
嵐が去るように、先生と医師達は祝祭の余韻を残して病室を後にした。残されたのは、私と、ベッドで膝を抱える先輩と一人の看護師だけだ。
胸の奥に、正体不明の喪失感が濁りのように溜まっていく。それでも私は、それを悟られぬよう微笑んで見せた。
「凄いじゃないですか、先輩。もう歩けるようになるなんて」
私の言葉に、先輩は唇を微かに動かした。何かを言い淀むような迷いを含んだ表情だが、彼女はすぐにいつもの朗らかな笑顔を作って私を見上げた。
「…はい。リハビリを、頑張ったおかげです」
「お花、預かりますね」
看護師が私の手から、ずっと提げていた紙袋をそっと受け取った。袋の中の一輪の花が、慣れた手つきで花瓶に活けられる。彼女が満足げに部屋を出ていくと、ようやく二人きりの空間が戻ってきた。
私は背後に隠し持っていた、もう一方の袋を彼女の前に掲げる。
「今日は、先輩にプレゼントがあるんです」
「私に…プレゼント?」
想定外の提案に先輩が瞳を揺らすと、私はその紙袋を彼女が横たわるベッドの上に置いた。事故が起きた当日に購入し、私の部屋でずっと眠っていた代物だ。
「中、見てください」
期待の表情で促すと、先輩は恐る恐る袋の中に手を差し入れた。柔らかい感触を確かめるようにして、それをゆっくりと抱え上げる。
「…これは、ぬいぐるみ?」
「はい。私から、先輩への誕生日プレゼントです」
真っ白なウサギのぬいぐるみが、彼女の腕から顔を覗かせた。ようやく渡せたという達成感が、私の胸を温かく満たしていく。先輩はぬいぐるみの顔をじっと見つめた後、愛おしそうにその柔らかな毛並みに顔を埋めた。
「…ありがとう、甘野さん」
堪能するように抱きしめるその姿に、私は心から安堵した。孤独な入院生活から脱却することに、彼女は歓喜しているのだ。その時の私は、そう信じて疑わなかった。
翌日、退院する先輩を見送るために私は再び病室の扉を開けた。
「失礼します、犀川先輩」
しかし、視界に飛び込んできたのは昨日と同じ光景だった。ベッドを囲む白衣の群れが見えたが、部屋に満ちているのはお祝いの空気ではなく重い沈黙だった。
「…先輩?」
嫌な予感に心臓を鳴らしながら覗き込むと、そこには残酷な光景が広がっていた。立ち尽くす私に気づき、先輩がふわりと微笑みかける。
「おはようございます、甘野さん」
大人たちが切羽詰まった表情で右往左往する中で、彼女だけが凪いだ海のような笑顔を浮かべていた。何度もカルテをめくる医師、絶句する看護師、そしてベッドに縋り付いてうろたえる犀川先生・・・それらに混じって、私は震える声で叫んでいた。
「せ、先輩!?なんで、その足…っ!」
昨日、あんなに軽やかに動いていた彼女の足が、何重もの包帯で無機質に巻かれていた。
心配で張り裂けそうな私とは対照的に彼女は自分の足を指さし、まるで他愛ない失敗談でも話すかのように笑い飛ばした。
「あはは…階段で転んじゃいまして。恥ずかしいです」
靴紐を踏んだ子供のような口ぶりで、彼女はけろりと言ってのけた。それを見下ろす大人たちの表情はまるでお通夜のようで、看護師が私の手から滑り落ちた紙袋を拾い上げる。
「お花…預かりますね」
袋の中で無惨に折れてしまった花を、看護師は今にも泣き出しそうな顔でそれを運び出した。
ふと枕元を見ると、昨日までそこにあったはずの花瓶が消えている。代わりに、私が贈ったあのウサギのぬいぐるみが、感情の読めない瞳でそこに鎮座していた。
「下半身不随の再発…これでは、日常生活にも介護が必要になりますね」
医師の沈痛な言葉が静かな部屋に響くと、犀川先生がついに耐えきれずに声を荒らげた。
「今日退院だったのに…明日から、どうやって生活していけばいいの…!」
母親としての限界を吐露するその姿に、私は彼女に先輩は救えないと確信する。複数の視線が入り乱れる密室の中で、私は一歩だけ前へ踏み出した。
「…私が、やります」
「…え?」
私の呟きが、周囲の視線を磁石のように引き寄せる。刺さるような冷たい視線を跳ね返し、私は再び強く宣言した。
「私が、犀川先輩の介護をします!」
「甘野さん…」
ベッドの上で、先輩が潤んだ瞳で私を見つめた。先生がわなわなと肩を震わせ、腫らした目で私を睨みつける。
「何を言ってるの…学生のあなたに、この子の世話なんてできるわけ…」
「犀川先生は、黙っていてください」
冷徹に言葉を遮ると、先生の手をベッドから払い除けた私は先輩だけに向けた微笑みを浮かべる。
「いいですか…犀川先輩?」
差し出した私の手を、彼女は無言で握り返した。その瞬間、私たちの間に透明な血が通ったような錯覚に陥る。
「…はい。ありがとうございます、甘野さん」
その日の夜、帰宅した私は迷うことなく祖父の部屋の扉を叩いた。返事を聞くと同時に、中へと滑り込む。
「ねぇ、おじいちゃん」
「うん?どうした…あやみちゃんは、元気だったかい?」
畳に腰を下ろした祖父の穏やかな問いかけに、一瞬だけ喉が詰まった。だが決意が揺らぐことなく、私は自分の意志を真っ直ぐにぶつけた。
「私…犀川先輩の介護がしたいの」
「ゆいな…」
愕然と振り返った祖父の目は、今まで見たことがないほど見開かれていた。数秒間の沈黙が永遠のように続くと、彼は諭すような重みのある声で語り出した。
「…ゆいな。介護がどれほど過酷で、己を削るものか、分かっているのか?」
「…うん、分かってる」
それは医師にも言われた責任という名の警告だったけれど、私は怖気づくことなく頷いた。祖父は険しい顔のまま、釘を刺すように言葉を継ぐ。
「途中で嫌になって、投げ出したりはしないな?」
「うん。絶対に…絶対に、しない」
地鳴りのような迫力に、私は真っ向から向き合った。奥歯を噛み締める私の瞳に涙が滲むと、それを見つめていた祖父はふっと目元を緩め、静かに頷いた。
「…わかった。ゆいながそこまで誰かの役に立ちたいと言うなら、私は文句を言わんよ」
私の覚悟を、彼は受け入れてくれたのだ。歓喜を押し殺しながら、私は深々と頭を下げる。
「…ありがとう、おじいちゃん」
翌朝、私は最低限の荷物をまとめて玄関で靴を履いた。背後では、なぜか正装に近い整った服装をした祖父が、私の背中をじっと見守っている。
「じゃあ、行ってきます」
立ち上がった私に、彼は何度も、自分に言い聞かせるように頷いた。そして、吹っ切れたような笑みを浮かべる。
「ああ。人様に、迷惑だけはかけるなよ」
「うん。今まで、ありがとう…おじいちゃん」
祖父のしゃがれた声を背中に受けて、私は玄関の扉を押し開ける。曇天の隙間から細い朝日が差し込むと、一歩ずつ踵に確かな重みを感じながら、私は犀川家へと歩みを進めた。
作者の『月雲とすず』です!
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