第四七話 リハビリ
木漏れ日が、室内を穏やかに包むリハビリスペース。その静寂な空気の中で、犀川先輩は看護師の肩を借りて一歩、また一歩と歩行の練習に励んでいた。
油の切れた自転車のチェーンを無理に回すような、ぎこちなく覚束ない足取りが目に余る。関節を曲げるという当たり前の動作にすら、彼女は全身の力を振り絞って必死に抗っていた。
「は~い、犀川さん。その調子ですよ。ゆっくりで大丈夫ですからね」
「は、はい…っ」
微笑みかける看護師の柔らかな声とは対照的に、先輩の表情には余裕がない。奥歯を噛み締めて滲む汗を堪えながら、踵を床に着けては離す作業を繰り返している。
廊下の影からその様子を傍観していた私の隣で、犀川先生が、拳を静かに白くなるほど強く握りしめて頷いていた。
「…下半身不随、ですか」
医師から宣告された娘の状態に彼女の瞳孔は激しく揺れ、絶望に染まった表情で彼の白衣に縋り付いた。なりふり構わず命乞いをする落ち武者のような無様な姿に、私は生理的な嫌悪を覚えてそっと目を逸らす。
「娘は、娘は本当に良くなるんでしょうか!?元通りの生活に、ちゃんと戻れるんでしょうか!?」
「…みっともな」
泣き崩れる寸前の犀川先生を、私は喉の奥で嘲笑った。しかし余裕を失った彼女の耳に、私の毒を含んだ呟きは届かない。落胆して取り乱し続ける彼女を宥めるように、医師は感情の起伏を排した声色で淡々と補足した。
「ご安心ください。根気強くリハビリを続ければ、無事に歩行は可能になるはずです。完全な麻痺ではなく、不全麻痺で済んだのは、不幸中の幸いと言えるでしょう」
荒くなる呼吸を強引に抑え込み、犀川先生はひとまずの安堵を漏らす。直後に彼女の視線は再び、娘のぎくしゃくとした足取りへと注がれた。
「よかった…ちなみに、期間はどれほどかかりそうですか?」
「そうですね。ざっと一ヶ月もしないうちに、日常生活に支障ない程度まで回復されると思いますよ」
手元の資料を眺めながら呟いた医師の言葉を聞いた瞬間、彼女の顔は再び暗い影に覆われた。感情の起伏があまりに激しい彼女を煩わしく思っていると、彼女はまるで死の淵に立たされたかのように小刻みに震えだした。
「一ヶ月…一ヶ月だと、学園の一学期に間に合わない…」
「何か、不都合でもございましたか?」
医師が不審そうに尋ねると、犀川先生は胸の前で何度も手を組み直した。落ち着かない様子で、まるで罪の告白でもするかのように彼女が供述を始める。
「個人的な事情なのですが…私は来期から、学園の入試広報部に配属されることになっておりまして。仕事の都合上、娘のために割ける時間がどうしても限られてしまうのです。どうか、何とかして回復を早めることはできませんか!?」
目の前の娘よりも自分の仕事と保身を優先する無責任な身勝手さに、私は深い溜息を吐いた。医師もまた、困惑を隠せない様子で言葉を選びながら口を開く。
「それは…リハビリに、娘さん本人がどう向き合っていくかによりますね。私たちができるのは、あくまで彼女の手助けだけですから」
その回答を聞き、犀川先生はがっくりとうなだれた。リハビリスペースの奥でバランスを崩して転んでしまった娘の姿を見つめ、彼女は涙を流す。廊下の床に零れ落ちるその涙に、私は少しの価値も見出せなかった。ただ彼女の独りよがりな悲劇のヒロインぶりに、苛立ち混じりの舌打ちをぶつける。
「もし、歩行が困難な状態で通学をされるというのなら、病院から車椅子を貸し出すことも可能です」
「車椅子、ですか…」
医師が窓の向こうにある備品の車椅子を指さすと、犀川先生は疑念に満ちた目でそれを追った。しかし病院ですれ違う車椅子の患者たちには、常に付き添いの介護者が必要なはずだ。その事実に思い至ったのか、彼女の顔はさらに歪む。
「娘さんが一人で生活するためには、一定期間の介護が必要になります。その際は、ヘルパーや介護士の手配を検討してください」
「…ヘルパー、ですか…」
またしても彼女が躊躇う素振りを見せた瞬間、私の我慢は限界に達した。彼女の肩を突き飛ばすようにして医師の前に仁王立ちした私は自らの胸に手を置く。
「そうなったら、私が先輩の介護をします」
「…甘野さん?」
うろたえながら目を丸くする犀川先生など、もはや視界に入らない。私は、面白半分にこちらを試すような視線を向けてくる医師と対面した。
「いいのかい?介護というのは、君が想像しているよりもずっと過酷で、根気のいる仕事だよ」
半笑いで私の決意を軽んじる彼の無礼な態度を跳ね返すように、私は一歩だけ彼に歩み寄った。医師が思わず後退りした廊下で、私は静かに断固とした口調で宣言した。
「大丈夫です。先輩は、私が守りますから」
リハビリを終え、病室へと戻った先輩を追って私は彼女のベッドへと向かった。そこでは先輩の首筋に滲んだ汗を、看護師が丁寧に拭い取っているところだった。
「先輩!具合はどうですか?」
片手に提げた紙袋の持ち手を握りしめながら尋ねると、彼女は申し訳なさそうに朗らかに微笑んだ。その今にも消えてしまいそうな弱々しい笑顔が、私の奥底にある庇護欲を激しく突き動かす。
「あ、甘野さん…毎日、お見舞いに来てくれてありがとうございます」
彼女の笑みに見惚れていると、隣でタオルを絞っていた看護師に持っていた紙袋を促された。
「お花、預かりますね」
袋の中から一輪の花を取り出し、看護師が手際よく動き出す。中身を言い当てられたことに驚いている間に、彼女は先輩の枕元に置かれた惑星のように丸い花瓶へとその花を活けた。
「体調は、悪くないと思うのですが…やはり、足の方が痛みますね」
花瓶に挿された花びらを見つめながら、先輩がぽつりと呟く。看護師が彼女の足を慎重に撫でると、筋肉がピクリと反応を見せた。だが膝を曲げるといった器用な動作は、未だに叶わないようだった。
「…そうですか。リハビリ、頑張ってくださいね」
血は通っているはずなのに、どこか生気を感じさせない横たわった彼女の美しい脚・・・その不自由な美しさを前にして、私は密かに息を呑んだ。
今はただ、彼女が健康を取り戻すことを祈りながら、その弱りきった姿を瞳の奥に焼き付けることしかできなかった。
作者の『月雲とすず』です!
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