第四六話 お見舞い
騒々しい夜が明けた、春休みの初日。救急センターに併設された病棟の廊下は、消毒液の匂いと、どこか不吉なほどの静寂に包まれていた。
私は重い瞼を擦りながら歩き、ようやく『犀川』の名札が掲げられた病室の前で足を止める。一度だけ深く息を吸い込んで肺を冷やしてから、その重い扉を押し開けた。
「お邪魔します、犀川先輩…」
羽虫が震えるような声で室内へ足を踏み入れると、部屋の隅のカーテンで厳重に仕切られた一角が視界に入った。覚束ない足取りでその布をめくると、朝日に透ける銀髪のポニーテールが微かに揺れる。振り返った人影に、私は思わず息を呑んだ。
「あら、甘野さん。ごきげんよう」
逆光の中で微笑んだのは、姫山先輩だった。彼女は眠り続ける犀川先輩の手を、壊れ物を扱うように両手で包み込んで膝立ちのまま私を見上げる。
「あ、姫山先輩…おはようございます」
「…甘野か」
挨拶を返そうとした瞬間、隣から猛獣の唸りにも似た地を這うような声が響いた。驚愕して視線を向けると、カーテンの影に白崎先輩が立っていた。腕を組んで私を凝視するその瞳は、いつもの気取った様子など微塵もない。凍てつくような冷徹な色が、そこには宿っていた。
「し、白崎先輩…今日は、いつもよりワイルドですね」
「…冗談を言ってる場合か?」
苛立ちを隠そうともせず、彼は舌打ちをして一歩踏み込んでくる。その一瞬の瞳に宿った殺意を、私は見逃さなかった。
「やめなよ…ごめんね、白崎も余裕がないみたいで。甘野さんも、大丈夫だった? 現場に、いたんだよね?」
姫山先輩が制するように、白崎先輩へ声をかける。彼女の心配の矛先が私に向いた瞬間、の視線がまるで私の胸を貫くように鋭くなった。逃げ場のない沈黙の中、私は犀川先輩の動かない睫毛を見つめながら正直に供述した。
「…はい、一部始終を見ていました」
事故の凄惨な光景が脳裏にフラッシュバックする。私が口を開きかけた途端、白崎先輩が猛然と詰め寄って私の両肩を掴み上げた。
「車の特徴は!?ナンバーは!? 運転手はどんな面してた!?見つけ出して、この手でぶち殺してやる!」
「あ、あの…白崎、先輩…っ」
指先が食い込むほどの力で揺さぶられ、私の記憶を無理やり抉り出そうとする彼の瞳は血走っていた。乱暴な仕草に耐えかねて視界が涙で滲み始めたその時、姫山先輩が彼の腕を強引に引き剥がした。
「落ち着いて!ヒカリ、甘野さんから離れて!」
泣き出しそうな悲鳴に近い彼女の訴えに、彼はようやく我に返った。私の肩から手を離し、幽霊のように力なく頭を下げる。
「…すまない。少し、狼狽していたようだ」
その声は、ひどく掠れて震えていた。彼もまた壊れそうなほど限界なのだと悟り、私は彼に顔を上げるよう促す。
「病室で暴れないでよ…そういえば甘野さん、犀川先生はどうしたの?」
姫山先輩が、部屋の入り口に視線をやりながら尋ねた。実の娘が轢かれたというのに、姿を見せない母親の名を聞いただけで、私の心に冷ややかな不信感が広がる。
「あの人は、加害者の運転手と弁護士を交えて話し合いをしています…示談にするつもりらしいですよ」
「え、示談!?実の娘が轢かれたのに、示談にするの!?」
脚色のない事実を伝えると、二人の表情がみるみるうちに硬直した。ひき逃げ犯を警察に突き出さず、裏で片付けようとする判断には納得できない。犀川先生にとっては、娘の痛みよりも、自分の立場や体裁の方がよほど重いらしかった。
「…まぁ、それは、犀川先生の判断に任せよう」
白崎先輩が無理やり話を締めくくると、病室に重苦しい沈黙が降りた。窓から差し込む朝の光が、犀川先輩の彫刻のように整った横顔を白く照らし出す。
「それにしても…綺麗な顔してるわね、あやみ」
乱れた前髪を優しく整えながら姫山先輩が呟くと、白崎先輩もそれに同意するように頷き、枕元のカレンダーを見つめて眉間に深いシワを寄せた。
「今日が誕生日だっていうのに…皮肉なものだ」
三月二十五日、本来なら盛大なバースデーパーティで彼女が主役になるはずの日だった。それなのに、彼女は目を覚ます素振りさえ見せない。剥製のように閉じられた瞼を前に、私は祈るような心地で慎重に手を伸ばした。
「…先輩」
触れれば溶けてしまいそうな、新雪のような肌・・・指先から伝わる微かな体温だけが、彼女がまだ現世に留まっていることを教えてくれる。二度とこの瞳が開かないかもしれないという恐怖を、必死に押し殺そうとしたその時だった。
「んん…うぅ…」
微かな、けれど確かな声が室内に響いた。私と先輩達が顔を見合わせると、ベッドに横たわる犀川先輩の唇が震えるように動いた。
「ゆ、ゆいな……?」
長い眠りから覚める遺跡の扉が開くように、彼女の瞼がゆっくりと持ち上がる。その瞳に私の姿が映った瞬間、私はこらえきれなくなった涙を拭って彼女の手を握りしめた。
「せ、先輩…!」
カーテンの隙間から差し込む光が、彼女の瞳に宿る。姫山先輩と白崎先輩が息を呑む中、犀川先輩は夢から醒めたばかりのような、呆然とした表情で意識を取り戻した。
「うぅ…ゆいなぁ〜!」
上体を起こした彼女は、私を見つけるなり、子供のように腕を伸ばして飛びつこうとした。私も彼女を全力で受け止めようと、両腕を広げた瞬間だった。
「あ…っ」
呆気ないほど短い声と共に、彼女の体がベッドから崩れ落ちた。支えを失った人形のように、膝が床に激突する痛々しい音が響き渡る。
「先輩!大丈夫ですか!?」
慌てて床に膝をついて彼女に手を伸ばすけれど、彼女がその手を握り返すことはなかった。彼女は自分の足に何度も触れ、幽霊でも見るかのような目をして次第に呼吸を荒くさせていく。
「おい、ちぐさ!ナースコールを!」
「わ、わかった!」
白崎先輩の叫びに、姫山先輩が震える指でボタンを押す。スピーカーから流れる無機質な保留音が、私達の鼓膜を執拗に叩く。犀川先輩は両手で自分の足を掴んで揺らし、溢れ出した涙で顔を濡らしながら叫んだ。
「な、なんで…私の足、動かないの…?」
希望に満ちていたはずの表情が、一瞬で絶望に塗りつぶされる。私が必死に宥めようとするのも耳に入らない様子で、彼女は動かない自分の足を拳で何度も、何度も殴り続けた。
「なんでよぉ!なんで私の…私の足、動いてよぉッ!」
「犀川先輩、やめてください…っ!」
声帯を切り裂くような絶叫を前に、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。やがて病室の扉が激しく開き、医師と看護師たちがなだれ込んでくる。
「犀川さん!落ち着いてください!」
私達はカーテンの外へ押し出され、床に座り込んだままパニックに陥る彼女の姿は白衣の群れに遮られた。やがて担架に乗せられた彼女は、激しく泣き叫びながら運ばれていく。
「足が…私の足がぁ…っ!」
遠ざかる悲鳴の残響が、いつまでも耳から離れない。
しばらくして戻ってきた医師は、血の気の引いた私達に感情を削ぎ落とした声で告げた。
「犀川あやみさんは、幸い脳への深刻なダメージは見られませんでした…ですが、脊椎を損傷しているため、下半身不随と判断しました。今後、歩行は極めて困難でしょう」
淡々と告げられる宣告に、私達は奥歯が砕けるほど噛み締めた。地面に横たわったまま動けなくなった人魚姫のような彼女の姿を想像し、私はたまらず医師に縋り付いた。
「じゃあ、犀川先輩は…もう二度と、歩けないっていうんですか!?」
必死の問いかけに医師は少しだけ表情を和らげ、窓の外に見えるリハビリスペースを指差した。
「いいえ、まだ希望はあります。過酷な道にはなりますが、リハビリを続ければ、いずれ歩行が可能になる可能性はゼロではありません」
医師たちが去った後、私は糸が切れたように肩を落とした。目に涙を溜めた姫山先輩と白崎先輩が、そっと私の肩に手を置く。
「大丈夫よ、甘野さん。あやみなら、きっと…」
「ああ、あいつなら…やり遂げるさ」
それは残酷な現実から目を背けるための、精一杯の強がりだったのかもしれない。私の頭からは、あの絶望に満ちた彼女の悲鳴がどうしても消えようとはしなかった。
作者の『月雲とすず』です!
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