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第四五話 モンスターペアレント

 点滅する視界を、警告灯の赤い光が支配していた。

 

 救急車のサイレンが鳴り止まない大通りを、私はつばめ姉が運転する車の助手席で、ただ前方だけを凝視していた。フロントガラスの先では犀川先輩を乗せた救急車が、夜の闇を切り裂くように赤いランプを回転させて走っていく。行き先は、近隣の救急救命センターだった。


「…犀川、先輩…」


 脳裏に焼き付いた事故の惨状が蘇り、喉の奥からせり上がる吐き気を必死に抑え込む。彼女の無事を祈ることしかできない無力感に押し潰されそうになったその時、ハンドルを握るつばめ姉が私を安心させるように微笑えみを向けた。


「大丈夫だよ、きっと…あの子は、強い子だから」


 つばめ姉は信号が黄色に変わるたび律儀にブレーキを踏みながら、優雅な動作で救急車の轍を追った。実の娘が轢き逃げに遭ったというのに、信じられないほどの冷静さを保ち続ける彼女の横顔に、私は抑えきれない焦燥をぶつけた。


「…犀川先生は、悔しくないんですか?」


「何言ってんのよ…」


 私の苛立ちを鋭く察したのか、つばめ姉の声が一瞬で冷め切った泥沼のように重く響いた。その声の冷たさに、私の全身に鳥肌が立つ。彼女がハンドルを握る手に力を込めると、艶やかな唇の間から、奥歯を噛み締める音が漏れた。


「実の娘を轢かれて…怒らない親なんて、どこにいるっていうの」


 沈黙が居座る車内は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど張り詰めていた。


 病院に到着すると、緊急搬送口には先ほど追っていた救急車が無造作に停車していた。つばめ姉の後を追うように受付を済ませ、私達は看護師に導かれて手術室の前へと向かう。扉の上で赤く点灯するランプは、中で行われている処置の様子を無機質に物語っていた。


 壁のベンチに腰を下ろし、私は手のひらに爪が食い込んで血が滲むほど強く拳を握りしめていた。隣からは苦痛を噛み締めるような低い呻きと、絶え間ない歯ぎしりの音が鼓膜を刺す。視線を向けることはできなかったが、彼女が抱える憎悪と怨恨の深さが空気を通じて伝わってきた。


 やがてランプが消灯して勢いよく扉が開かれると、複数の看護師が担架を押して足早にこちらへと向かってきた。鼻をつくのは、錆びた鉄とアルコールが混ざり合ったような生々しく不快な異臭である。その上に横たわる犀川先輩が、私たちの前を無言で通り過ぎていった。

「娘さんは、外傷こそ目立ちませんが…意識が戻らない重体です。脳や神経系に強い衝撃を受けた恐れがあり、精密検査が必要です」


 医師の言葉に、つばめ姉はただ一点を見つめて頷いている。私はベンチに深く沈み込み、己の犯した罪の重さに震えていた。


 私があの横断歩道で待っていなければ・・・あんなふうに無計画に、プレゼントを買い行かなければ・・・先輩は事故に遭わなかったのだから。


「私のせいだ…私があんなところにいたから、先輩は…っ」


 自責の念に視界が歪んだ瞬間、つばめ姉が私を強く抱きしめた。彼女の体温と共に、破裂しそうなほど速く、激しく打ち鳴らされる心臓の鼓動が直接伝わってくる。


「違うよ…ゆいなちゃんは悪くない。悪いのは…」


「うちの息子が悪いって言うのかい?」


 廊下の向こうから、空気を切り裂くような毒々しい声が飛んできた。

 

 顔を上げると大柄な人影が、床を激しく踏み鳴らしながら接近してくるのが見えた。


「…誰?」


 私が呟くと同時に、小太りで白髪の混じった深いシワの刻まれた女が私達を射抜くような視線で睨みつけた。つばめ姉は一度深く深呼吸をしてから、毅然と立ち上がった。


「あの、どちら様でしょうか」


「私は、飛び出してきた女と接触した、運転手の母親だよ」


 女の言葉が放たれた瞬間、廊下の温度が数度下がったような錯覚に陥る。はらわたが煮えくり返り、首筋に青筋が浮かぶと私は、彼女を殺さんばかりの勢いで睨みつけた。


「…お前…っ!」


 衝動に任せて飛び出しそうになる私の肩を、つばめ姉が制止する。自我が崩壊しかけていた私は、荒い呼吸を整えるために彼女の背中へと身を隠した。


「あなたの息子さんがしたことは、立派な轢き逃げです。私は、然るべき法的措置を取らせていただきます」


「…あんた誰だよ、弁護士かい?」


 不遜な態度の女に対し、つばめ姉は胸を張って一歩も引かずに歩み寄る。


「申し遅れました。私は被害者の母親です。そして、彼女が通う蜂ヶ海学園の教員でもあります」


 事務的な挨拶に込められた、静かだが苛烈なプレッシャーが空気を張り詰める。しかし、目の前の怪物はそれに謝罪しようとはしなかった。女はふんぞり返るように腕を組み、つばめ姉を見下したのである。


「…じゃあ、あんた。私の息子に謝ってくれないかい?」


「…は?」


 つばめ姉の困惑した声が漏れる。背後にいる私にも、女の言葉は理解不能な戯言のようにしか聞こえなかった。加害者の親が、被害者側に謝罪を要求する・・・その歪んだ構図に頭がどうにかなりそうだった。


「息子はね、あんたの娘が飛び出してきたせいで鬱になっちゃったのよ!免許だって取りたてだったのに、取り消しになっちゃうじゃない!謝りなさいよ…謝れよ!」


 あまりに自己中心的で、道理の欠片もない主張だった。これこそが、世に潜むモンスターペアレントという存在なのか。


「…ふざけないで」


「…あ?」


 堪忍袋の緒が音を立てて切れると、ダムが決壊するように怒りの言葉が溢れ出す。女の舐め腐った視線が私に向けられ、それが火に油を注いだ。


「先輩は、飛び出したりしてない・・・ちゃんと、横断歩道を歩いてた!そこに突っ込んできたのは、お前の息子だろ!?悪いのは全部、全部お前の息子じゃないか!!」


「なによ、このガキ! 関係ない奴が口を挟むんじゃないわよ!」


 女は制御の効かない私の叫びを鼻で笑い、今度は無言で俯くつばめ姉に詰め寄った。


「ねえ、あんた母親なんでしょ?教師なんでしょ?責任取って、今すぐ謝りなさいよ!」


「ダメです、つばめ姉…謝っちゃダメ!」


 私は、つばめ姉の腕に縋り付いた。ここで謝れば、事故の全責任を先輩に押し付けることを認めてしまうことになる。それだけは、彼女の母親であるつばめ姉に、絶対にさせてはいけない。


「この話、学校の方にも報告させてもらうわよ。あんたが謝らないなら、こっちだって裁判でも何でも起こしてやるんだから!」


 女が勝ち誇ったように言い放った、その時だった。

 

 唐突につばめ姉が私の手を振り払い、一歩前へ出た。嫌な予感に背筋が凍ると、彼女はあろうことか、その女に向かって深々と頭を下げたのだ。


「…誠に、申し訳ございませんでした」


 絞り出されたような弱々しい謝罪の言葉に、私の脳内は真っ白になった。なぜ、よりによってこの女に負けを認めるのか。実の娘が意識不明で戦っているというのに、その加害者に頭を下げることの屈辱が彼女にはわからないのか。


「…認めるってわけね?あんたの娘が、事故の原因だってことを」


「はい…ですので、学園へのご報告だけは、ご容赦いただけないでしょうか…」


「…あはは、いい気味ね。わかったわ。あとは弁護士を交えて話し合いましょう」


 高笑いを残して去っていく女の背中を、つばめ姉はお辞儀をしたまま見送っていた。


 犀川つばめは、実の娘よりも、学園の名誉を選んだのだ。その冷酷な判断を、私はどうしても許すことができなかった。


「じゃあ、あとはよろしくね…先生?」


 目的を果たしたように言い捨てた女がいなくなった廊下で、ようやく顔を上げた彼女の姿は、ひどく醜く惨めに見えた。


「…なんで」


 濁った声が私の喉から漏れると、彼女が振り返る。その瞬間に私はその身体を廊下の壁に押し付け、胸ぐらを掴んで迫った。


「なんで謝ったんですか!?あなたは先輩の母親でしょう!?なんで、先輩が悪いなんて認めたんですか!!」


 娘を守るべき母親が、仕事場の名誉を優先した。信じていた、慕っていたはずのつばめ姉の偶像が、音を立てて崩れていく。


 肩を震わせる私の両肩を、つばめ姉の細い指先が柔らかく包んだ。彼女の瞳には溢れんばかりの涙が溜まっており、その唇は痙攣するように震えている。


「ごめんね、甘野さん…私は、あの子の母親である前に、蜂ヶ海学園の教師だから…」


 その言葉が、最後の一線を切断した。どうしようもない失望と、吐き気を催すほどの不快感に、私は彼女から乱暴に手を引き剥がして背を向けた。


「見損ないましたよ、犀川先生」


 蜘蛛の糸を断ち切るように言い捨て、私は廊下の隅にあるトイレへと駆け込んだ。


 激しい動悸と荒い呼吸に襲われながら洗面台の冷たい縁に身を預け、ふと鏡を見上げた。そこには自分でも見たことがないほど卑劣で、冷酷な光を宿した私が、無慈悲にこちらを睨んでいたのだ。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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