第四四話 事故
夜空に映える摩天楼の下で、私はちぎれんばかりに大きく腕を振っていた。横断歩道が隔てる向こう側に、犀川先輩の姿が見えたからである。
「やっほ~!ゆいな~!」
彼女は私と同じように無邪気に手を振り返しながら、モノクロの縞模様を軽やかに駆けてくる。都会の喧騒さえも従えるような、煌めくオーラを放つ先輩に周囲の視線が雨のように彼女へ降り注いだ。対向から来る歩行者たちを鮮やかに避けながら、彼女は一点の曇りもない笑顔をこちらへ向けてくる。
「せ、先輩~!」
その優雅な振る舞いに、私の頬も自然と緩んでしまう。巨大な横断歩道の中央で、先輩のローファーが弾むような小気味よい音を響かせた、その一瞬だった。
「危ないッ!」
私の背後で、肺を絞り出すような男性の叫び声が轟いた。反射的に私の足が凍りついた、その瞬間である。
キキィィィィッ…ダゴンッ!!
金属と肉の塊の衝撃が混じり合った濁音が、私の鼓膜をつんざく。私は信じられない思いで目の前に広がる光景に目を剥き、呼吸を忘れて立ちすくんだ。
「…え?」
犀川先輩の身体が、突風に煽られた綿毛のように宙を舞った。夜空へ投げ出された彼女は、はたまた枯れた牡丹の花が散るように、重力に引かれて落下する。
ゴシャッ、という鈍い音がアスファルトを這うと、彼女の顔から弾け飛んだ伊達メガネが無機質な中央線の上に転がった。
交差点には一瞬の真空のような沈黙と、焼けたゴムの刺すような匂いが立ち込める。横断歩道を蹂躙したのは一台の軽トラだった。沈黙を破るように卑屈なエンジン音を吹かせると、覚束ない運転でその場を去っていく。その車輪が、道に落ちた伊達メガネを逃さず木っ端微塵に踏み潰していった。
「きゃあああああ!?」
ワンテンポ遅れて、甲高い悲鳴が交差点のあちこちから噴出すると、人々はパニックに陥った。道路の真ん中で力なく横たわる犀川先輩の元へ、周囲の野次馬たちがまるで獲物を見つけた飢えた魚のように群がっていく。
「人が、人が轢かれたぞ!」
「救急車だ!誰か早く呼べ!」
雑多な群衆が騒ぎ立て、どこか非日常の刺激に興奮しているようにも見える。犀川先輩の姿がどす黒い人混みの影に飲み込まれていくのを見て、私の指先から力が抜けて提げていた紙袋が力なく地面に落ちた。
「…犀川、先輩?」
震える唇でその名を紡いでも、返ってくるのは風の音だけだ。遠ざかっていく周囲の怒号に溺れそうになりながら、自分の血液がすべて脳に逆流していくような、悍ましい感覚に襲われた。
「さいかわせんぱいぃぃぃ!」
私は、なりふり構わず走り出した。群がる野次馬たちの肩を掴み、その隙間に身体をねじ込もうとする。しかし好奇心に固まった肉の壁は想像以上に厚く、私を冷酷に押し戻した。全身の筋肉を強張らせ、骨が軋むのも構わずに私は必死でその人混みの奥へと潜り込む。
「おい、君!危ない、寄るな!」
背後から私を制止する怒鳴り声が聞こえたが、今の私には雑音でしかなかった。私はついに、倒れ伏した犀川先輩の傍らへと辿り着く。
彼女はまるで陸に打ち上げられて息絶えた白魚のように、白目を剥いてアスファルトにその身を預けていた。
「先輩…先輩っ!」
どれだけ強く肩を揺すっても、彼女の唇から言葉が漏れることはない。私は焦った男達に乱暴に突き飛ばされ、再び肉の壁の向こう側へと追いやられた。
「この子、意識がないぞ!」
「救急車はまだ来ないのか!?」
赤の他人たちが、まるで血の滲む祭りのように大騒ぎしている。その光景を、切り離された意識で俯瞰した瞬間、私は己のあまりの無力さに胃の底からこみ上げるものを抑えきれなかった。
「うぅ…おえぇぇぇ…」
吐瀉物がアスファルトに広がり、私の中で封じ込めていたはずのトラウマが、決壊したダムのように溢れ出した。
小学校の卒業式の直後、目の前でダンプカーの巨大な車輪に呑み込まれていった母親・・・彼女の全身が轍に砕かれ、吹き出した血潮の匂いが噎せ返るように蘇る。
続いて蘇るのは、私の過ちで階段から転げ落ちた、あかねの姿であった。初恋の相手が動かなくなった恐怖が、私の胃袋を強く握り潰す。
「お母さん…あかね…」
喪失の記憶が目の前の凄惨な光景と重なり、混濁していく。遠のいていく視界の隅で、大勢の大人に囲まれ、弄ばれるように横たわる先輩の姿が映った。
「犀川…先輩…」
削り取られた精神を辛うじて繋ぎ止めようと、私は這いつくばったまま彼女へと必死に手を伸ばした。しかし、無慈悲なことに私の指先を、彼女が掴むことはなかったのだ。
作者の『月雲とすず』です!
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