第三七話 三者面談
いつになく斜陽が廊下の影を長く伸ばす夕暮れ時、私は昇降口の向こうから歩いてくる祖父を待っていた。
「お~い、おじいちゃん」
「待たせたね、ゆいな」
玄関から廊下を進む祖父は、見慣れない学園の風景にしみじみと視線を遊ばせている。彼が私の学び舎を訪れるのは、中学の卒業式以来なのだ。
「それにしても、大きい校舎だね。気を抜けば迷ってしまいそうだ」
「こっちだよ。はぐれないでね」
だだっ広くて入り組んだ校舎を、まるでダンジョンを攻略するパーティーのように私は祖父の手を引いて導いた。たどり着いた教室の前では、担任であるつばめ姉が柔らかな微笑みで私たちを出迎えてくれる。
「あら、甘野さん。どうぞ、入って」
「はい、失礼します」
放課後の教室には座席が後ろにまとめられ、ぽつりと対面するように設置された二つの机がある。その緊張感漂う席に腰を下ろそうとした時、教室の隅にさも当然かのように居座る人影が視界に入った。
「やっほ~!ゆいな」
「な、なんで犀川先輩がここにいるんですか…っ!」
西日に髪を透かせ私の教室でくつろいでいたのは、まさかの犀川先輩だった。困惑する私を彼女は細めた瞳で楽しそうに、にやりと見つめてくる。
「私も三者面談なんだけど、見ての通りママがここにいるじゃん?終わるのを待ってるんだよ」
「こら、学園では先生と呼びなさい」
「いや、犀川先生…注意するのはそこじゃない気がします…」
犀川先輩の母親がつばめ姉であることは周知の事実だが、そもそも彼女にこの面談が必要なのだろうか。娘の生活態度は家でも職場でも把握しているだろうし、詳細は職員室で担任から聞けば済む話だ。
「ごめんなさいね、この子が甘野さんの面談が見たいって聞かなくて…許してもらえないかしら?」
「…まぁ、犀川先輩なら、いいですけど」
三者面談に部外者の先輩が観客として参加する・・・これでは四者面談ではないか。意味不明な光景に頭を捻っていると、先輩の顔をじっと凝視していた祖父が唐突に声を上げた。
「あぁ!どこかで見覚えあると思ったら、君はあやみちゃんか!大きくなったね~」
「ご無沙汰してます、お祖父様」
祖父は、私の幼馴染でもある彼女のことを忘れていなかった。形式的な紹介はしたことがないが、祖父にとって彼女は孫の幼い頃の友人という認識なのだろう。
「小さい頃に会ったきりだが…べっぴんさんに育ったねぇ。昔はあんなに人見知りな子だったのに」
「いえ、恐れ入ります」
伊達メガネをかけている時の先輩にしては珍しく、殊勝な態度を見せる。すると祖父が彼女の顔を穴が開くほど見つめ、首を傾げた。
「…あやみちゃん。そのメガネ、もしや伊達かい?」
「はい。よくわかりましたね、お祖父様」
「娘が同じような物を持ってたからね。今や、どこに行ったか忘れたがね」
その言葉に、私は心臓が跳ねるのを感じた。かつて私が先輩にあの伊達メガネを譲った時、私はそれを二人だけの秘密にしたのだ。もう時効だとは思うが、当事者の前でその話題に触れられるのは落ち着かない心地がする。
「では、世間話はこれくらいにして…お祖父様、お孫さんから進路の相談などは受けられていますでしょうか?」
場を引き締めるように、つばめ姉がパンと手を叩いた。真剣な面持ちで問いかけられた祖父は、深く刻まれたシワを揺らして首を横に振る。
「いいえ。今のところ、特には」
「さようですか。実は、私も把握しておりません。二年生に上がる前に、甘野さん自身の意見を聞かせてもらえるかしら?」
矛先が私に向けられ、途端にしどろもどろになる。正直、将来のことなんて微塵も考えたことがなかった。最近まで、教室の隅で息を潜めるように影の薄い生活を送っていた私にとって、今を生きることだけで精一杯だったからだ。
「わ、私は…」
「…ごめんね、急に言われても困るよね。ゆっくり考えていこうか」
言葉に詰まる私を、つばめ姉が慈しむような笑みでフォローする。だが彼女の瞳に一瞬だけ差した寂しそうな色に、私は正体のわからない罪悪感に苛まれた。すると隣で、祖父が静かに手を挙げた。
「先生。少し、よろしいでしょうか」
つばめ姉が頷くと、祖父は一度小さく咳き込む。すると流暢に、しかし重みのある言葉で語り始めた。
「私は、この子が望む未来があるのならば、全力でそれを応援したいと思っております。貯金もありますので、進学を望むなら金銭的な問題はありません。就職を選ぶなら、私はそのサポートに徹するつもりです」
「…おじいちゃん」
「この子は母親を早くに亡くし、私も妻に先立たれて長い…そして私も、いつ介護が必要になるかわからない年齢です。だからこそ、私がゆいなの負担にならないうちに、この子の選択を尊重したいのです」
祖父は、私の現状に負い目を感じているのかもしれなかった。残された孫に世話を焼かせる前に、自由に羽ばたかせてやりたい。不器用だが切実なその主張は、何よりも祖父らしくて温かかった。
つばめ姉も、何度も頷きながら自身の胸に手を当てる。
「お祖父様…私も、同じ気持ちです。担任として、また友人の娘として、ゆいなさんのことは支えていきたいと思っております」
二人の波長が重なり、同時に私へと微笑みが向けられる。祖父の大きな手が私の頭を撫で、その指先の感触が私の思考を優しく乱した。
「ゆっくりでいいからな、ゆいな。私達は、お前がどんな道を選んでも応援するよ」
向けられる無条件の愛が、たまらなくいたたまれなかった。
ずっと影のように生きてきた私に、確かな変化が訪れている。このまま優しさに甘えて流されるのは、申し訳ない。そう感じた瞬間、私は同情に近い温かな空気を切り裂くように、声を上げた。
「わ、私は!」
教室に響き渡る声に祖父も、つばめ姉も、そして遠くで見ていた犀川先輩までもが目を丸くして私を見つめた。異様な注目を浴びて途端に心臓が早鐘を打つと、自意識が崩壊しそうになり絞り出す声が弱くなる。
「私は…まだ将来のことは考えられません。なんだか、私なんかが未来に希望を持つのは、おこがましい気がして…」
「ゆいな…」
「でも…私、今がとっても楽しいんです。最近、クラスの皆が話しかけてくれるようになったり、人と関わるのを避けていた私が、それを嬉しいって思えるようになったり」
拙い、整理のつかない感情だったけれど、沈黙だけが背中を押してくれる気がして、私は腹の底から言葉を押し出した。
「おじいちゃんや犀川先生、それに犀川先輩… 周りの皆が支えてくれたから、私は今ここにいられます。だから私は、今を精一杯楽しみたいんです。そして、いつか皆さんの役に立てるように、恩返しがしたいんです!」
言い切ってから、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。三人が呆然と私を見つめていることに気づき、私は椅子に深く沈み込んで身を縮める。
「…ダメ、ですかね?」
消え入りそうな声で呟いた、その時だった。
離れた椅子に座っていたはずの犀川先輩が、弾かれたように私へ飛びついてきた。
「ゆいな~!」
「わあっ!?せ、先輩!?」
椅子が倒れんばかりの勢いで抱きしめられ、肩に顔を埋められる。先輩の体温と、かすかな甘い香りが一気に私を包み込んだ。
驚いて顔を上げると、目の前のつばめ姉までもが目を潤ませている。
「ゆいな~、こんなに立派になっちゃって…!私は嬉しいよ!」
「ふふ、わかりました、甘野さん。私達は、あなたのこと、ずっと見守っていますからね」
隣では祖父がシワの寄った手で何度も涙を拭い、私の背中を優しく叩いた。
「うん、私も協力するからな。ゆいな」
私の三者面談は、こうして少し不思議で、ひどく温かな空気の中で幕を閉じた。そして、自分が今を心の底から楽しんでいるのだと、喉の奥が熱くなるほど再確認できた一日になった。
作者の『月雲とすず』です!
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