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第三六話 墓参り

 蜂ヶ海学園の近隣に広がる霊園で、凍てつく空気のなか私は祖父の少し丸まった背中を追うように歩いていた。規則正しく立ち並ぶ無機質な墓石の列を縫うように進むと、ようやく見慣れたひとつに辿り着く。そこには、力強くも端正な筆致で『甘野』と刻まれていた。


「お母さん…」


 祖父が手際よく、萎びた供花をゴミ袋へ片付けている。その背中を横目に私はひとり、静かに目を閉じて手を合わせた。この冷たい石の下で、母は今も安らかに眠っている。今日は彼女が旅立った、大切な命日だ。


「ほれ、ゆいな。墓石に水、かけてやんなさい」


「うん、わかった」


 促されるままに柄杓を手に取り、澄んだ水をそっと注ぐ。冬の寒さのせいか墓石に目立った汚れはなかったけれど、私は母の肌を拭うような心地で、塵ひとつ残さぬよう丁寧に布巾を滑らせた。


 指先に伝わる石の冷たさが、かえって母の面影を鮮明にする。自他共に認める美人で、私の永遠の自慢だった人だった。この場所だけは彼女の記憶と同じように、いつまでも綺麗なままでいて欲しかった。


 清掃を終えると、祖父が手慣れた動作で菓子を供え水鉢を清める。


「…お供えは、これでいいかな。ゆいな、花は持ってきてくれたかい?」


「うん、これを持ってきたんだけど…」


 私は、大切に腕に抱えていた包みを差し出した。それは決して色褪せることのない、高貴な紫を湛えた花である。


「アヤメの造花か…手入れも必要ないし、いいじゃないか」


 それは以前、つばめ姉と買い出しという名目のドライブに出かけた際に彼女から託されたものだ。一ヶ月以上の時が経っても、その花びらは私の部屋で咲き誇ったまま今日という日を待っていた。


「ゆめ…お前の娘は、立派に育ってるよ」


「ちょっと、やめてよ。恥ずかしい…」


 祖父が神妙な面持ちで、花を添えながら呟く。その言葉に、私は顔を火照らせながらも、つられるように再び合掌した。


 線香の煙が細く、冬空に溶けていく。数秒の静寂の後、祖父が腰を上げたその時だった。


「あら、ゆいなちゃん。奇遇ね」


 不意に背後から響いた、聞き馴染みのあるけれど、どこか湿度を含んだ声に振り返る。


「さ、犀川先生…」


「ふふ…つばめ姉でいいわよ」


 片手に荷物を提げてそこにいたのは、紛れもなくつばめ姉だった。学園での凛としたスーツ姿でも、犀川家で見せた柔らかな私服でもない。喪服を思わせるシックな装いの漆黒が、彼女の肌の白さを恐ろしいほど際立たせていた。


「あぁ、これは犀川先生。ご無沙汰しております」


 祖父が深々と会釈をすると、つばめ姉も会釈を返した。話を聞けば、二人の付き合いは私よりもずっと長いのだという。母と親しかった彼女が祖父と通じているのは、考えてみれば当然のことだった。


「先生も、この子の母親を尋ねてきたのですか?」


「はい。娘さんには、生前とてもお世話になりましたので」


 冬風に黒い裾を揺らしながら、つばめ姉は母の墓前で深く頭を下げた。そして、すでに活けられている造花に目を留め、私の瞳を優しく覗き込む。


「あの、つばめ姉…前に預かっていた花、いまお供えしたところです」


「そう、ありがとう」


 柔らかい手のひらが、私の頭をそっと撫でる。その温もりに安堵していると、祖父がつばめ姉の持つ手提げ袋に目を向けた。


「先生も、花を持ってきてくださったのですか?」


 つばめ姉が袋から取り出したのは、新聞紙に包まれた一輪の花・・・それは私が供えた造花と瓜二つの姿をしていながら、圧倒的な生命を放っていた。


「はい。私も、アヤメの花を持って参りました」


「おお、こちらは生花ですか・・・」


 掲げられたのは、瑞々しい生花のアヤメであった。プラスチックでは再現しきれない芳醇な香りに、私は思わず小さなくしゃみをこぼした。


「でも、大丈夫なのですか?生花だと、こまめな手入れが必要になりますが…」


 祖父の心配を、つばめ姉は穏やかな微笑みで受け流した。


「ご心配には及びません。ここは学園からも近いですし、気軽に来られる距離ですから」


 その言葉に嘘はないのだろう。納得する祖父を尻目に、彼女は愛おしむような手つきで私の造花とは反対側の壺に、その生花を挿した。そして墓石の肌を慈しむように撫でると、長い睫毛を伏せて祈りを捧げる。


「ゆめさん…私を助けてくださり、ありがとうございました…」


 小さな、けれど確かな重みのある囁きが鼓膜を叩く。幼い頃の記憶が曖昧な私には、二人の間にどんな物語があったのかは分からない。けれど母と担任教師を結ぶ絆は、誰にも踏み込めないほど深く、強固なものであることだけは直感できた。


 つばめ姉の黙祷は長く、まるで自分もいつかこの墓へ入ることを願っているのではないか、と錯覚してしまうほど彼女の横顔は寂寥感に満ちていた。


「わざわざ、ありがとうございます。娘も、きっと喜んでいることでしょう」


 立ち上がった彼女に、祖父が恐縮したように頭を下げる。つばめ姉はいつもの柔らかな表情に戻ると、ふと思い出したように私を見た。


「いえいえ…そういえば、ゆいなちゃん。お祖父様に、三者面談のことは伝えました?」


「は、はい…伝えました」


 週明けから始まる、蜂ヶ海学園の三者面談は名簿順で行われる。担任である彼女と、祖父と、私・・・その場に漂うであろう奇妙な緊張感を想像して身が引き締まるが、二人の間にはどこか穏やかな空気が流れている。


「私も年金暮らしですから、時間は腐るほどあります。しっかりと、伺わせていただきますよ」


「はい、お待ちしておりますね」


 再会を約束し、私達は霊園を後にした。祖父と肩を並べて歩く帰り道。ふと気になって振り返ると、遠ざかるつばめ姉の背中が見えた。


 冬の午後の光を背負ったその影は、どこか未練がましく消えない哀愁を纏っているように見えて、私は言葉もなくその背中を見つめ続けていた。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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