第三三話 勉強合宿
期末テストを目前に控えた最後の週末、私は住宅街の景色に目を配りながら、ぎこちなく歩いていた。スマホに送られてきた写真と見比べ、見覚えのある一台の車が停まった家屋の前で足を止める。
「あった…犀川先輩の家…」
表札には『犀川』の二文字が刻まれ、隣は案の定、空き家で時間が止まったような静けさがある。緊張で強張った指先でインターホンを押すと、聞き馴染みのある柔らかな声がスピーカー越しに私を招き入れた。
「お邪魔します……」
「あ、ゆいな!いらっしゃい!」
玄関の扉を開けた瞬間、犀川家の香りが鼻腔をくすぐった。靴を脱いで上がると、リビングから犀川先輩が身を乗り出すようにして手招きしている。
そわそわした気持ちでリビングへ足を踏み入れた途端、キッチンからお茶を淹れて出てきたつばめ姉とすれ違った。
「いらっしゃい、ゆいなちゃん」
学園で見かける凛としたスーツ姿とは違う、柔らかな私服にエプロンを纏ったつばめ姉。その家庭的な姿に思わず目を奪われていると、背後から氷のような声が降ってきた。
「遅いわよ、甘野さん」
机に向かっていたのは、珍しくポニーテールを解いている姫山先輩だった。遅いと言っても、集合時間の五分前である。彼女は一体、いつからここで勉強していたのだろう。
今回の勉強会は、前回の私の成績を案じた犀川先輩が発案してくれたものだ。学年トップクラスの二人に、現役教師のつばめ姉・・・これ以上の布陣はない。
「ごめんなさい、私のためにわざわざ時間を割いていただいて…」
私が深く頭を下げると、先輩たちは顔を見合わせて楽しそうに肩をすくめた。
「いいってことよ!今回の期末は範囲がえげつないって噂だし、一人でやるより効率いいでしょ?」
「自慢じゃないけれど、一年生の範囲はすべて網羅しているわ。何でも聞きなさい」
犀川先輩がシャープペンを器用に回し、姫山先輩が自信たっぷりに胸を張る。その隣でお盆を持ったつばめ姉が、国語のテキストを片手に微笑んだ。
「先生もいるからね。国語なら任せてちょうだい」
「こ、心強すぎる…」
その優しさに甘えるべく、私は気合を入れ直して机に向かった。静かなリビングに、ペン先が紙を走る音だけが響く。数時間が経過し、私の筆が止まるたびに向かい側に座る姫山先輩がそっと覗き込んできた。
「姫山先輩…ここ、どうしても式の意味が…」
「ここはね、エックスにこの値を代入して…そうすれば、ほら、答えが見えてくるでしょう?」
「あぁ…なるほど」
数学オリンピックのメダリストである彼女の解説は、驚くほど淀みがない。お嬢様らしい丁寧な口調が、不思議とスッと脳に染み込んでいく。
根っからの文系のため苦戦していた数学に光が見え始めた頃、キッチンから夕飯の支度をしていたつばめ姉が声をかけた。
「ゆいなちゃんもちぐさちゃんも、今日はこのまま泊まっていくでしょう?」
「えっ!?いえ、そこまで甘えるわけには…!」
慌てて首を振る私だったが、隣で姫山先輩が私の肩をと優しく叩いて制した。そして、つばめ姉の瞳を見つめ優雅に微笑む。
「では、お言葉に甘えて」
「ひ、姫山先輩!?」
驚く私をよそに、先輩は冷蔵庫の中身を確認し始めたつばめ姉の背中を指差して、耳元でささやいた。
「見なさいよ、あの犀川先生の張り切りよう。ここで帰る方が、かえって失礼だと思わない?」
「た、確かに…」
鼻歌を歌いながらお米を研ぐつばめ姉の姿を見れば、断る隙などどこにもなかった。すると、廊下から犀川先輩がひょっこりと顔を出す。
「ふったりとも! お風呂沸いたから、先に入っちゃおーぜ!」
給湯器の完了を知らせるメロディが遠くで鳴っている。けれど、異様に目を輝かせる先輩の表情に私は微かな身の危険を感じた。
「ま、まさか…三人で、なんて言いませんよね?」
「ん?当たり前じゃん」
抗う間もなく脱衣所に連行された私は、迷いなく服を脱ぎ始めた犀川先輩の潔さに圧倒されて棒立ちになってしまった。すると彼女は、以前私を介抱してくれた時の手慣れた手つきで、あっという間に私の服を脱がせてしまった。
「う~ん、やっぱりゆいなの肌ってすべすべだよね」
「ちょっと、変なところ触らないでください!くすぐったいですっ」
あらわになった肌に頬を寄せてくる先輩を引き剥がそうとしていると、傍らで姫山先輩が眉間にしわを寄せてその光景を眺めていた。
「…あなた達、なんだか随分と慣れてない?」
「い、いや!気のせいですよ、きっと!」
何度も一緒に入浴していることがバレれば、羞恥心と気まずさで爆発してしまう。冷や汗を流す私を置いて、犀川先輩は今度は姫山先輩に標的を定めた。
「ほら!ちぐさも脱いで脱いで!」
「こらっ、服を引っ張るんじゃないわよ!」
結局、三人並んで浴槽に浸かることになった。ラブホテルよりも小規模な家庭用の浴槽に女子三人はあまりに狭く、肌と肌が密着する面積が広すぎる。先輩たちの体温がダイレクトに伝わり、のぼせるよりも先に心臓が悲鳴を上げた。
「それにしても、ちぐさも変わったよね。昔は心配になるくらい色白で細かったのに。今は…綺麗な褐色だ」
犀川先輩が、姫山先輩の肩に指を滑らせながら呟いた。私も改めて彼女の全身を視界に入れる。かつての病弱な面影はなく、陸上で鍛え上げられたしなやかな筋肉と、張りのある健康的な肌が主張していた。
「ですね…まるで芸術作品みたいに綺麗です」
「ふふ、陸上部での積み重ねがあるからね。昔は走ることさえままならなかったのが、自分でも嘘みたいよ」
湯船からすらりと伸びた美脚を、姫山先輩は満足げに撫でた。その完璧な曲線美に見惚れていると、隣でうずうずしていた犀川先輩の我慢が限界に達した。
「それじゃ、お待ちかねの…えいっ!」
「ちょっと!どこを触っているのよ!」
先輩の手が、姫山先輩の脚をがっしりとホールドし、慈しむように指を滑らせた。まさか脚を攻められるとは思っていなかったのか、姫山先輩が顔を真っ赤にして狼狽する。
「いいじゃん!減るもんじゃないし!」
「減るわよ!私のプライドが削られて減るわよ!」
二人が狭い浴槽で暴れるたびに、大量のお湯が床へと溢れ出していく。
「あ、暴れないでください、二人とも!」
私の制止も虚しく、その攻防は二人がのぼせかけるまで続いたのだった。
風呂上がり、犀川先輩から借りた寝間着にに着替えた私と姫山先輩がリビングに戻ると、テーブルにはつばめ姉の手料理が並べられていた。
「はい、召し上がれ」
「い、いただきます…」
あまりの豪華さに緊張しながら箸を取り、私は一切れの卵焼きを口に運ぶ。その瞬間、言葉にできない衝撃が走った。
優しい甘さの後にくる、出汁の絶妙なしょっぱさ・・・幼い頃、食卓でいつも私を笑顔にしてくれた、あの記憶の中の味だった。
「お…美味しい、です…」
目頭が熱くなるのを堪えきれず箸を止めると、犀川先輩が心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫?ゆいな」
「はい…なんだか、すごく懐かしくて…つい」
鼻を啜る私に、つばめ姉が背後からそっと手を添えた。その手のひらは、母性という言葉では言い表せないほど、深く温かい。
「ゆいなちゃん、その卵焼きね…あなたのお母さんに教わったのよ」
「うぅ…ありがとうございます。またこの味を食べられるなんて…」
母の面影を感じて感極まっていると、犀川先輩が自分の皿から卵焼きを一つ、私の皿へ放り込んで笑った。
「ほら、湿っぽい顔はおしまい!まだいっぱいあるんだからね!」
「そうね。温かいうちに食べてしまいなさい、甘野さん」
「…っ、はい!」
先輩たちの優しさに包まれながら、私は夕食を完食した。
夜も更け、学習の締めくくりや夜のルーティーンを終えた私と姫山先輩は、つばめ姉に連れられて二階の寝室へと案内された。
扉を開けると、整然と並ぶ教材と大きなダブルベッドが鎮座する部屋が広がっていた。彼女が教師として歩んできた軌跡と、かつて誰かと過ごした生活の匂いが混じり合う空間である。
「じゃあ、私は下で寝るから。二人とも、おやすみなさい」
つばめ姉は毛布を抱えてリビングへ降りていった。残されたのは、私と姫山先輩・・・夜の静寂の中で、学園のカリスマと二人きりとなったのだ。
高鳴る鼓動を隠そうと、私は意味もなく本棚の背表紙を眺めた。
「さすが犀川先生の部屋ね。教材ばかり…」
「そうですね…なんだか、見ているだけで眠気が…」
「じゃあ、寝ましょうか」
促されるまま、私はダブルベッドの端に体を横たえた。しかし、その瞬間に気づく・・・これは相当な密着度ではないか。
慌てて起き上がろうとする私を無視して、姫山先輩がしなやかな動作で隣に滑り込んできた。
「ひ、姫山先輩…これって…」
「添い寝ね。大丈夫よ、私の寝相は良い方だから」
「そんなことは、心配してないんですが…」
お嬢様育ちの先輩の寝相は心配ではない、私が彼女に寝顔を晒すのが不敬ではないかが問題だ。困惑する私を見て先輩はふっと口角を上げると、隣のスペースをポンポンと叩いた。
「おやすみなさい、甘野さん。明日も頑張るんだから、しっかり休みなさい」
観念して目を閉じると、隣から石鹸の香りと彼女の確かな体温が伝わった。結局、私は緊張が解けないまま、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
数時間後、ふと胸元に感じる異様な重苦しさで目が覚めた。
「…んん、っ…」
寝ぼけ眼で横を見ると、そこには寝息を立てることもなく私を見つめる誰かの姿があった
「ひめやま…せんぱい…?」
名を呼んでも返事はないけれど、そのシルエットはどう見ても先程までの彼女より大きく、やけに距離が近い。
「おはよ、ゆいな」
「さ、さいかわせんぱい・・・ん、犀川先輩!?」
目の前にいたのは、隣の自室で寝ていたはずの犀川先輩だった。驚愕して跳ね起きると、背後からさらに低い、地を這うような声が響く。
「…あやみ。あなた、どうしてここにいるのよ」
そこには、般若のような顔で犀川先輩を睨みつける姫山先輩の姿があった。
「えへへ~、トイレで起きたら間違えちゃった!めんごめんご!」
「窮屈だったのは、そのせいだったんですね・・・」
息苦しさの正体に納得したが、自分の家なのだから部屋を間違えるようなミスはやめて欲しい。
「どきなさい、あやみ。窮屈で仕方ないわ」
「ひどい!私、まだ太ってないのに!」
「ダブルベッドに三人が窮屈だって言ってんのよ!」
早朝から始まった騒がしい幼馴染の漫才に呆れながらも、私は再び布団の中に潜り込んだ。狭くなったベッドの中で、微かに残るつばめ姉の香りと二人の体温に挟まれながら、私は心地よい二度寝の淵へと沈んでいった。
作者の『月雲とすず』です!
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