第三話 膝枕の幸福
「ん……むぁ」
情けない声とともに、まぶたを持ち上げる。点滅するモノクロの視界、意識の端々には、まどろみの余韻がべったりと張り付いていた。
あれ、私、いつの間に……確か、図書館に山積みされた返却本の整理をしていたはずなのに。
己の体力の脆弱さを呪うよりも先に、妙な違和感が背中を小突いた。普通、図書館で寝落ちするなら、机に突っ伏すのが定石だ。けれど今の私は、冷たい床ではなく、どこか柔らかく温かな何かの上に後頭部を預けている。
…図書館に、布団なんてあったっけ。
寝ぼけ眼をこすり、ようやく焦点が合ったその先で、私は絶句した。
「あっ……起きた。おはよ、ゆいな」
視界の半分を占拠していたのは、夕闇を反射して光るメガネと、慈愛に満ちた微笑。
そして、それらを支える健康的でハリのある”太もも”の感触。
「せ、先輩……!? なんで……っ」
状況が理解できず跳ね起きようとした瞬間、視界が肉の壁に塞がれた。逃がさないと言わんばかりに、先輩が自慢の巨乳を密着させるように押しつけてきたのだ。
「こら。勝手に起きようとしないの」
「んむっ!? んんーっ!」
重量級の弾力に鼻も口も埋もれ、酸素の供給がストップする。命の危険を感じて必死に抵抗し、ようやくその重りを退けてもらった。
「ぷはぁっ! ……先輩、死ぬかと思いました。天井が、天井がまったく見えませんでしたよ!」
「あはは、ごめんごめん。ゆいなの寝顔があまりに可愛かったから、つい」
綿毛のように軽い謝罪、始業式での凛とした態度はどこへやら。今の彼女は、いたずら好きな猫のような、あの”メガネの先輩”に戻っていた。
「……それにしても。そのメガネ、度が入ってないですよね?」
至近距離で顔を覗き込む先輩に、私は釘を刺した。彼女が私の前で好んでかけるこのメガネは、レンズの向こう側が歪んでいない。
私が彼女を”伊達メガネのあなた様”と呼ぶ理由が、そこにある。
「おや。なぜそれを知っているんだい、後輩よ」
「なぜって……。そのメガネ、昔、私が先輩にあげたものじゃないですか。忘れちゃったんですか?」
「あー……そういえば、そうだったね。失礼しました」
このメガネは、幼い頃の私が彼女に贈ったプレゼントだ。母であるつばめ先生と旧知の仲なら、その娘であるあやみ先輩とも、私の過去は交差している。
再会した時の驚き、家が近所であるという偶然、そして同じ文芸部に所属していること。それら全てが、この伊達メガネという接点から始まっているような気がしてならない。
「どう? 私の特等席。最高だったでしょ?」
艶やかな自らの太ももを撫で、先輩が不敵に笑う。悔しいが、その感想は最高の一言に尽きた。
学園のマドンナが提供する、レアメタルよりも希少な膝枕。男子生徒が知れば暴動が起きるレベルの特権を、私は独占してしまったのだ。
「……ええ。私の専属枕にしたいほどには。これを味わえる将来の彼氏は幸せ者ですね」
「私、彼氏いないよ? ゆいなも知ってるでしょ」
「今は、ですよ。先輩なら選り取り見取りでしょうに」
「私はそんなに安い女じゃないのだよ。それに……今は、いいかな。これで」
先輩は満足げに、けれど少しだけ寂しそうに微笑んだ。
ふと周囲を見渡すと、図書館はやけに静まり返っていた。つい先ほどまでいたはずの図書委員も、司書さんも、利用客の姿もどこにもない。
「……なんか、静かすぎませんか?」
「そりゃそうだよ。だって、いま午後七時半だもん」
「七時半っ!?」
窓の外はすでに夜の帳が下り、濃紺の世界に包まれていた。司書さんたちは「鍵を返すのを忘れずに」と言い残して先に帰ったらしい。
夜の図書館で二人きり。まるで、世界に私と先輩だけが取り残されてしまったかのような、奇妙な高揚と寂寥。言うなれば、私達は旧約聖書に登場するアダムとイブであろう。
「仕方ないですね、帰りましょうか」
「待って! 私がママに電話して、車で送ってもらうから!」
だが、その提案はすぐに打ち砕かれた。つばめ先生はテスト問題の作成で職員室に缶詰めだ。
「しょうがない。夜道だし、私がゆいなを家まで送るよ」
「いや、先輩の家の方が手前じゃないですか。私の方が送る形になりますよ」
「いいの! 可愛い後輩を一人にするなんて言語道断。もし物騒な男が出たらどうするの!」
正直、狙われるなら十中八九、先輩の方だと思う。そもそも私なんて、その男の網膜に映るかどうかさえ怪しい。
「ふふん。私を舐めないでよ、ゆいな。私は護身術を習得しているのだ!」
「護身術?」
先輩はおもむろに立ち上がると、どこぞの格闘家のような構えをとった。
「見てなさい。すー……とりゃっ!」
鋭い呼気とともに放たれた、鮮やかな回し蹴り。しなやかな美脚が円を描き、空気を切り裂く。
確かに見事な一撃だった。だが、同時に致命的な問題が発生した。
…先輩、パンツ丸見えです。
重力に逆らったミニスカートが、神聖な領域を白日の下に晒す。これが屋外なら、目撃した男子たちが次々と貧血で倒れ、日本の治安が別の意味で崩壊していただろう。
「よしっ、どうよ!」
「……先輩。もう二度とその技は人前で使わないでください。日本の秩序のために」
わけが分からないといった顔の先輩を横目に、私が帰り支度を始めた時。
――ぐぅ〜……。
閑静な館内に、ふぬけた音が響き渡った。私の胃袋が、沈黙を破って自己主張を始めたのだ。
「……はらぺこゆいなちゃん、発見」
「聞かないでくださいっ! 恥ずかしい……!」
「いいじゃん、人間だもの。よし! 怒らないで。お詫びに、私がいい所に連れていってあげる!」
悪戯っぽく笑う先輩に手を引かれ、私はしぶしぶ図書館を後にした。
嫌な予感と、それ以上の期待。冬の夜気の中、繋がれた手の熱だけが、やけに鮮明に伝わってきていた。
作者の『月雲とすず』です!
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