第二話 始業式
蜂ヶ海学園は、巨大な迷宮のような場所だ。
小・中・高・大と連なる校舎群に、駅伝すら可能な広大なグラウンド、四つの体育館…部室棟や生徒会の活動棟などもあるが、その中でも一際異彩を放つのが”蜂ヶ海学園ホール”だ。三千人を収容するその講堂は、静寂な巨獣のように学生たちを呑み込む。
三学期の始業式、私が裏門から侵入した時に式典はすでに終盤を迎えようとしていた。
待ち構えていた教員の横を、私は空気のようにすり抜ける。あくびを噛み殺す彼の瞳に、私の姿は映らない。覚悟していた説教も、鼻を突く冬の冷気とともに霧散していった。
「…であるからして、諸君には名門の生徒たる自覚を…」
教室に鞄を放り出し、ホールへ滑り込む。鼻腔にねじ込んだティッシュの感触を意識しながら、私は数少ない空席へと向かった。三千人の視線が壇上に注がれる中、私はその隙間を縫うように歩く。
誰にも気づかれない自由は、時として鋭い孤独となって胸を刺す。もし隣に犀川先輩がいたなら、この透明な境界線も一瞬で無に帰すのだろうが。
音を立てずに腰を下ろした隣では、クラスメイトらしき少女達が船をこいでいた。
「…よいしょっと」
わざと零した独り言も、深い眠りの淵にいる彼女たちには届かない。
やがて演説を終えた学園長が舞台袖へ消え、照明が暗転した。次は生徒会長の挨拶だろう。あの文武両道の怪物と称される男の話は、無駄に長く、そして中身がない。学園にて一度だけ彼と対面した時に感じた、あの得体の知れない嫌悪感を思い出し、私は深く椅子に沈み込んだ。
だが、再び照明が灯った瞬間にホールの空気が変わった。周囲から漏れる、さざ波のようなざわめき。顔を上げると、そこに立っていたのは…予想に反して、照れくさそうに手を振る"彼女”だった。
「あ、あの~…おはようございます、皆さん」
マイクの前で少し肩をすくめる犀川先輩。本来、副会長である彼女がここに立つことは稀だ。けれど、その圧倒的なビジュアルが舞台に現れただけで、退屈しきっていた三千人の意識が一点に収束していく。
「犀川ー! 今日も可愛いぞー!」
「こっち向いて、先輩!」
野太い歓声が響くと、先輩は「あはは…」と困ったように笑い、場を和ませていた。どうやら生徒会長は体調不良で欠席らしい。
「どうせ、お餅でも食べ過ぎたんでしょうね」
先輩が零した冗談に、会場が乾いた笑いに包まれる。だが、私は気づいていた。舞台上の彼女は、いつもの小悪魔ではない。瞳にメガネはなく、その素顔はどこまでも清楚で凛としている。
裸眼の時の犀川先輩は、学園が望む完璧なマドンナそのものだ。私だけが知っているあの悪戯な輝きは、レンズの奥に封印されている。
流暢に、けれどどこか事務的に代読を終えた先輩が舞台を去ると、式典は閉幕した。喧騒に紛れて席を立とうとした、その時である。
ガシッ、と背後から、逃れようのない力で肩を掴まれた。
「うやっ!? だ、誰……っ」
反射的に身を強張らせて振り返る。そこにいたのは、殺し屋でも不審者でもない。しかしその恐ろしさは、前の二つと同等である存在だった。
「甘野さん。あなた、遅刻しましたね?」
呆れたように頬を膨らませているのは、担任の犀川つばめ先生だった。
黒髪のポニーテールに、三十代とは思えない瑞々しい美貌。学園でも屈指の人気を誇る彼女は、私の数少ない認識者の一人だ。
「つ、つばめ姉…っ」
「学校では先生、と呼びなさいと言ったでしょう?」
幼少期からの付き合いがある彼女は、私の影の薄さを無視して踏み込んでくる。
「すみません、先生。登校中に色々あって……あやみ先輩とも」
「まさか、あの子も? 昨日あんなに早く寝なさいと言ったのに…」
そう。目の前のつばめ姉と、先ほどのあやみ先輩は、実の親子だ。清楚な時の先輩は、この母親の生き写しのように見える。
「さて。生徒指導室は免れたようですが、私の目は誤魔化せませんよ。罰を受けてもらいます」
罰という響きに、思春期らしい良からぬ想像が頭をかすめる。先生は私の鼻先を指さし、勝ち誇ったように告げた。
「放課後、図書館の返却本をすべて片付けてもらいます!」
私は絶望した。蜂ヶ海学園の図書館は三階建ての巨大な書庫だ。冬休み明けの返却本を一人で捌くなど、ひ弱な私にとってはエベレスト登頂に等しい重労働である。
「担任として、そして部活の顧問としての命令です。いいですね?」
「…わかりました」
肩を落とす私を残し、つばめ姉は職員室へ戻ろうとするが、ふと足を止め、私に駆け寄ってきた。周囲に誰もいないことを確認し、先生はぐっと顔を近づける。
「終わったら、連絡してね。…頑張って、ゆいなちゃん」
耳元で囁かれた、蜜のように甘い声。
上目遣いで微かに微笑むその表情は、先ほどまでの教師ではなく、あやみ先輩によく似た小悪魔のそれだった。
カツカツとヒールを鳴らして去っていく背中を見送りながら、私はその場に膝から崩れ落ちた。額を撃ち抜かれたような衝撃に、顔面が熟した林檎のように熱を帯びていく。
「つばめ姉…恐ろしい人…」
清楚な皮を被り、その実、相手を翻弄して楽しむ母娘。メガネの有無でスイッチが入る娘と、教壇を降りれば少女のような顔を見せる母である。
犀川家の血脈という底なし沼に私はまた一歩、深く足を踏み入れてしまったようだった。
作者の『月雲とすず』です!
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