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第一話 三学期初日

 一月の某日、北風が肌を刺す三学期の始まり。


 私こと"甘野(かんの)ゆいな"は、久しぶりにクローゼットの奥から引っ張り出した、蜂ヶ海(はちがみ)学園の制服に身を包み、公道を走っていた。


「さっむ…。引きこもりが外出していい日じゃないよ…」


 木枯らしが衣服の隙間を切り裂かんと吹き荒れ、冬特有の乾いた日光が、一ヶ月間自室にいた私の網膜を焼く。


 元より貧弱で華奢な体だ。年末年始、コタツという名の沼で餅と柑橘を摂取し続けたツケが、今となって鉛のような足取りとなって私をむしばんでいた。


 目的地に向かう私の横を、同じく蜂ヶ海学園の制服を着た少年少女達が走り過ぎていく。


「ほら、早く!!もうすぐで正門閉まるぞ!!」


「待って!三学期初日から遅刻とかしたくないよ〜!」


 活気に満ちた背中に追い抜かれながら、私は目にかかった前髪を振り乱した。そう、私は今、絶望的に遅刻しそうなのである。


 蜂ヶ海学園は、県内随一の名門私立だ。遊び半分で受けた入試にうっかり受かってしまったのが運の尽き。授業は難解で、何より最低限の規則にうるさい学び舎だ。遅刻一回で丸一日を生徒指導室という名の独房で過ごす生徒を、私は何人も見送ってきた。


 周りを見渡せば、地頭がいいか運動神経が抜群か、あるいはその両方を備えた超人ばかりである。


 私のように根暗で、存在感が希薄な人間は、本来ここに居てはいけないのだ。私は今、身の丈に合わない選択の代償を痛いほど思い知らされている。


「はぁっ、はぁっ…やっと見えてきた…」


 正門前には、冬休みボケを引きずった生徒達がすし詰め状態になっていた。池の鯉のように群がる彼らを、生徒指導の教員が怒号でさばいている。彼の掲げる鍵が、日光を反射して冷たく光った。


「おーい!!もうすぐ正門閉めるぞー!!みんな急げー!!」


 あそこを通過できなければ、待っているのは裏門での捕縛と、指導室での取り調べだ。まずい、喉の奥に血の味が混ざり始めたその時だった。


「おっはよー!!ゆいなー!!」


 背中に押し付けられる柔らかい衝撃。自分の物ではない体重が預けられ、視界がぐらりと揺れる。華奢な私の両肩を、しなやかな腕が包み込んだ。


 聞き覚えのある声に、嗅ぎなれた柔軟剤の香り。そして惚れ惚れするほど白く、艶やかな指先。


 この学園で、影の薄い私を認識できる人間はごくわずかだ。私は溜息を吐きながら、腕の前で組まれた手の拘束を解き、振り返る。


 北風がスカートを踊らせ、”彼女”はいたずらっぽく微笑んでいた。


「おはようございます、"犀川(さいかわ)先輩"。生徒会の仕事、あったんじゃないですか?」


「おっはよ、ゆいな!って、仕事…!?そんなことも、あったような…あははは」


 まったくこの人は…朝から手の焼ける先輩だ。


 犀川あやみ先輩、高等部の二年生である。


 神秘的な黒髪ロングに、桜の蕾のような唇。そして、知的な印象を添えるメガネ。その下には、二次元から飛び出してきたような容姿端麗な美貌が隠れている。


 何より目を引くのは、制服の上からでも主張の激しい、豊満な果実のような双丘だ。


 学園のマドンナ、と称される彼女は、私の存在に色を付けてくれる希少な特異点であった。


「先輩、頭に手を置かないでください。走りにくいです」


「い〜じゃん!冬休み中、ずっと会えなかったんだから。もっと愛でさせてよ〜」


 大型犬を撫でるように私の髪をかき回す先輩。その途端、周囲の空気の密度が変わった。


「おい、あれ犀川先輩じゃないか!?」


「うわ、メガネ姿マジで神」


「でも、あんなところで何してるんだ?独り言…?」


 そうだ。周囲の生徒達は先輩にくぎ付けだが、彼らの瞳に私は映っていない。


 先輩が私の肩を抱き、私の頭を撫でていても、彼らには先輩が虚空に向かって微笑んでいるように見えているのだ。これが、私の日常である。


「先輩、みんな見てますよ。早く行ってください」


「うへぇ〜…今日のゆいな、塩対応過ぎない?」


 不本意ながらも先輩に連れられ、正門へとラストスパートをかける。

 

 走るたびに、隣で規則的に揺れる先輩のダイナマイトボディ。同じ性別とは思えないその暴力的な生命力を間近で見せつけられ、私の心拍数は限界を超えた。


 これが全力疾走のせいなのか、それとも彼女の引力によるものなのか、今の私には判別できない。


「おーい!もう閉めるぞ!犀川、早くしろ!」


 教員の叫び声が近づく。正門の外に取り残されたのは、私達二人のみであった。私の足は限界を迎え、もはや感覚を失った木の棒と化している。


「はっ…はっ…待って、先輩…」


 速度を上げた先輩に追いつこうと一歩を踏み出した、その時だった。


「あっ、ぶへっ…」


 冬の冷たいアスファルトに、鼻先を強打した。地面の熱を奪うような冷たさが、体温を吸い取っていく無様な姿。けれど、それが私という人間に相応しい結末だと思えた。


「ゆいなっ!?だいじょうぶ!?」


 聖母のような顔で戻ってきた先輩は、私の後頭部を覗き込む。


「いいから、先に行ってください」と告げる私の身体を、先輩はオセロの駒のようにひっくり返した。


「…よかった、傷とかはついてないみたいだね。ほら、私の手をとって!」


 差し伸べられた手を、蜘蛛の糸を手繰り寄せるように掴もうとした。けれど、全身の筋肉が拒絶するようにけいれんし、視界がモノクロに点滅する。


「全身が、痺れて…動けませ、ん…」


「ったく…手の焼ける後輩だなぁ」


 先輩が不敵に笑うと、私の顔を覗き込んできた。彼女がまれに見せる、何かを企んでいるような小悪魔の瞳だ。


 恐怖で目を閉じた私の頬に、柔らかな、けれど熱い感触が触れる。


「…ちゅ」


「…へ?」


 目を開けると、先輩は頬を赤らめながら満足そうに唇をぬぐっていた。


「うん、これで治ったんじゃない?」


 数秒のラグを経て理解した瞬間、私の顔面は火山のように熱くなった。沸騰した血液が逆流し、鼻腔から粘性のある熱が溢れ出す。


「うぇえ!?は、鼻血!?もしかしてゆいな、えっちなこと考えた!?」


「おい犀川、何をしてるんだ。早く入れ」


 教員が先輩の腕を引くと、彼女は必死に私を指さした。


「でも!ここに、ゆいなが倒れてるんです!」


 教員は、私の顔の数センチ上を虚無を見つめるような目で見渡し、鼻で笑った。


「何を言ってる。誰もいないじゃないか…ほら、閉めるぞ」


 無情にも、錆びた鉄の門が音を立てて閉ざされた。午前八時三十分、敗北を告げるチャイムが冬の空に響き渡る。


「あははは…指導室でお説教コース確定だ」


 私は仰向けに寝転んだまま、空を仰いだ。瞼の裏に残るのは、先ほどまで至近距離にあったメガネの奥で笑う先輩の姿。


 私がひそかにそう呼んでいる…”伊達メガネのあなた様”の残像だけが、この孤独な視界を満たしていた。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!

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