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異世界恋愛短編

心が読める王弟殿下は人の心が分からない。


 国立フェリス学園。そこは十二歳になる年から十七歳までの貴族の子息息女が通う名門校だ。


 男子は家名に相応しい紳士になるため、女子は将来、夫を支えるため良妻賢母になるべく教育を受ける。


 しかし、その実情は社会に出た時の予行練習に過ぎない。男子は他の貴族との繋がりを作り、女子は良い嫁ぎ先を探す。授業も社交界デビューに向けてのマナーやダンスも組み込まれている。


 各々の生徒がそうした事情を抱えている中で、ただ一人だけ変わった事情を持つ者がいた。


「ライオス殿下、まだ見ていらっしゃるのですか?」

「いいじゃないか、マシュー。もう少しぐらい休ませてくれ」


 別棟にある王族や公爵家専用サロンに二人の少年がいた。一人は窓際のソファに座る白金髪の少年。紫色と青色のオッドアイはずっと窓の外に向けられている。


「婚約者様の様子を眺めるのがそんなに楽しいですか?」


 自分の従者であるマシューに呆れた口調で尋ねられ、ライオスはにっこりと微笑んだ。


「もちろん。ほら、お前も見てごらんよ。今日も可愛いよ」


 そう言って無邪気に外を指さすライオスは、この国の現国王陛下の末弟だ。


 陛下とは二回り近く歳が離れており、すでに世継ぎもいる。権力争いからすでにはずれており、重圧が少ないため自由奔放に育った。温厚かつ気さくな性格は王族としていかがなものかとマシューは常に頭を悩ませていた。この覗き見みたいな行為も悩みの一つだった。


「いいえ、遠慮しておきま……」

「まったく、何をなさっていますの!」


 少女の怒号が二階にあるサロンまで届いた。

 この学園は未来の紳士淑女を育てるためにある。本来であれば、感情的に声を荒らげることはあってはならない。さすがのマシューも外に目を向けると、中庭に女子生徒達が集まっている。


「貴女、この学園に通う意味を分かっていましてっ⁉」


 声を荒らげるのは、癖の強い金髪を豪奢なリボンでまとめている少女。ライオスの婚約者、公爵令嬢ルルイエ・ローウェンである。


 彼女は学友達を引きつれて、一人の少女に言い募っているようだった。


「は……はい」

「いいえ、分かっていません。この学園の女子生徒は良妻賢母の淑女を育てるためにあるのです。貴女の言動はそれに反しています!」

「そ、そんな……っ! わ、私は私なりに……頑張っているつもりで……」


 責め立てられている少女はオリーブ色の瞳に涙を浮かべ、小さく俯いていた。


「努力をなさっているならなおのこと、身の程を弁えなさい! 貴女は平民育ちなのですから!」

「は、はい……」


 怯えて小さく礼をとるのは、ルルイエの異母妹だった。名前はヴィオという。なんでも公爵家の落胤だったことが発覚し、去年引き取られたらしい。それからというものライオスがルルイエをお茶に誘うと、彼女は必ず自分の異母妹の話ばかりする。


 ライオスは婚約者が妹を叱る様子を楽し気に見つめていた。


「見てご覧、マシュー。彼女、目がキツいことを気にしているのに、あんなに目を吊り上げちゃって……本当にかわいいね」

「お止めにならないのですか?」

「必要ないよ。なぜなら──……」


 ライオスは言葉を切ると、たった一言「まずいな」と呟いて立ち上がる。


「殿下、どちらへ」

「彼女の所へ。困った子の姿が見えたからね……」


 サロンから出て階段を降りれば、現場はすぐだ。マシューが「では……」とライオスの為にサロンのドアを開けた時、ライオスは目の前の窓を開けた。そして、躊躇なく窓から飛び降りた。背後でマシューが悲鳴を上げていたが、そんなことは知ったことではない。


 衝撃を和らげるように着地すると、簡単に汚れを払い落として彼女達の下へ向かった。


「そうですわ! ルルイエ様の言う通りです!」


 聞こえてきた声はルルイエの後ろに控えていた令嬢のものだった。ルルイエがはっきりと不満を言ったことで、ここぞとばかりに追撃する。


「無邪気に振舞っているおつもりでしょうけど、無邪気と奔放は違いますわ!」

「その通りです! この前だってルルイエ様に注意されたというのに婚約者のいる殿方とお茶をしていたのですよ!」

「まあ! なんてこと、きっと婚約者のご令嬢は深く心を痛められたでしょうに……」

「皆さま、静粛に!」


 背後で白熱しかけているところをルルイエが一喝する。


「わたくしは今、姉として妹を叱責しているのです! 彼女に不満があるなら、この場にいない者の気持ちを考えた言葉ではなく、ご自身の言葉でお伝えなさい!」


 その言葉を聞いてライオスの口元が緩んだ。


(本当に優しいな……)


 異母妹への文句も友人達が「他の人が迷惑をしている」と主張するのに対して、他者の感情を代弁するような真似を彼女はしない。いつも真っすぐに自分が思ったことを自分の言葉で口にする。


 何より彼女は、貴族の慣習に疎く、異性に気安くしてしまう異母妹をただ心配しているのだ。突然できた妹に困惑しつつも懸命に良き姉になろうと努めている。ライオスの目にはそれがはっきりと見えていた。


(もっと素直になっていいのに)


 ルルイエは説教に夢中になっているが、彼女の友人達はこちらに気付き、ぎょっと目を剥く。ルルイエの肩越しにいる異母妹も気づいたようだ。ライオスはそっと口の前に指を立てた。


「良いですか、ヴィオ。貴女は平民育ちではありますが、公爵家の血を引いています。爵位を手に入れたばかりの家とはわけが違います。道理を分かっていなければ、必ず貴女を利用し、陥れる者が現れます。だからこそ、自分の立場を理解し、言動に気をつけ……ヴィオ、聞いているのですか?」

「やあ、ルルイエ」

「――っ⁉」


 ばっと振り返った彼女が声にならない悲鳴を上げた。

 その驚いた表情は淑女とは到底思えないもので、ライオスの笑みが深くなる。


「今日も元気がいいね、私の可愛い婚約者さん」

「ら、ライオス殿下! な、なぜここに⁉」

「最近、君が異母妹を構ってばかりで寂しくてね。甘えたくなったのさ」

「な、なな、ななななっ⁉」


 彼女の頬がみるみると赤くなっていく。ライオスの言葉には偽りはない。彼女は異母妹のことを気にかけていているため、ライオスのことが若干おざなりになっている。彼女を異母妹から引き離すのにちょうどいい理由だ。


 そっと彼女の髪をすくって指に絡めると、ルルイエは少しだけ身を引く。しかし、そこで負けるライオスではない。


「サロンにお茶を用意しているのだけど、どうかな? 久しぶりに二人きりで……ね?」

「わ、わわわわっ、わたくし……!」


 耳まで真っ赤し、目にはうっすら涙が浮かんでいる。


「わ、わたくし、急用を思い出しましたわ! ご、ごきげんよう!」


 逃げるように駆け出したルルイエを友人達が追いかけていく。彼女達と入れ替わるようにマシューが追い付いた。すれ違った際に彼女の顔を見たのだろう。


『一体何を言ったのですか?』


 口には出していないが、呆れた顔を向けられた。


(おかしい……私の予想では恥ずかしがりながらも『しょうがないですね!』と了承してくれると思ったのだけど……攻めすぎたかな?)


 彼女の異母妹に目をやると、ぽかんとした顔で姉の背中を見つめていた。そして、はっと我に返ったあと、ライオスに一度頭を下げた。


「あ、あの……すみません。もしかして……私を……」


 彼女の異母妹はこちらを上目遣いで見る。媚びているつもりはないのは分かるが、どこか期待に満ちた眼差しにライオスの良心は冷めてしまう。


 どうやら、彼女は姉の親切心を分かっていないようだ。


(一応、はっきり言っておくか……)


 言われているうちが花だ。ルルイエが彼女を見捨てれば、本当に孤立してしまう。


「ああ悪いが、君を庇ったつもりはない」

「え、あの……」

「私は君を庇う理由はないし、そう思われる筋合いもない。少しでも君が庇ってもらったと感じるなら、ルルイエの言葉の意味を理解していないということだ。考えを改めなさい」

「は、はい……」


 彼女は小さくなってしまい、オリーブ色の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


(これはやりすぎたかな? ま、私が怒られるくらいなら……)

「ヴィオ!」

(ほら、きた)


 本校舎側から取り巻き、いや同級生達を連れて現れたのは、白に近い金髪で青い瞳のした少年だった。制服のネクタイは赤色。それはライオスの一つ下の学年の色だ。そして、白金の髪に深い青色の瞳は王族の血筋を引く者の特徴だった。


 彼はライオスがいることに気付くと、キッとこちらを睨む。


「なぜ、ここに貴方がいるのですか、叔父上」


 敵意のこもった熱烈な視線に、ライオスは笑顔で返す。


「やあ、我が甥……いや、リチャード殿下。奇遇だね。こんなところで出会うなんて」


 彼は現国王陛下の第一子、リチャード。ライオスの甥にあたる。しかし、彼との年の差はたった一つだけだ。


 ライオスの父親である先王は年甲斐もなく若い妃を娶り、しばらくしてライオスが生まれた。しかし、ライオスが生まれる前からすでに現国王が王太子として定まっており、ライオスの母親の身分が低いことで勢力争いから外れている。


(相変わらず、ピリピリしているな……)


 一つ違いだとしてもライオスとリチャードではのしかかる責任の重圧は違う。かたや生まれた時には勢力争いから外され、かたや生まれた時から王位を継ぐことを決められているのだ。


「愛しの婚約者様がこちらにいたのが見えたものでね。お茶に誘ったのだが、逃げられてしまったんだ。この可哀そうな叔父を慰めておくれ」


 笑顔でライオスがそう言うと、同じく笑顔でリチャードに返される。


「いいえ、男を慰める趣味はありませんので」

「相変わらず冷たい。ところで、我が甥はどうしてここへ?」


 一瞬だけ、彼の表情がこわばる。そして、視線はライオスの隣にいるヴィオに向けられた。


(はーん……青春しているな)


 彼がここに来た理由は一つだ。ルルイエに叱られていたヴィオを連れ出すためだろう。

 ルルイエは決して心無い言葉をかけているわけではない。人前で異母妹を叱るのも見せしめではなく、体裁を整えているにすぎないのだ。しかし、それは他者の目にそう映らないことが大半だ。異母妹に憐れみを向ける者もいれば、ルルイエの言動を利用しようとする者も現れてくる。リチャードは後者だ。


(あわよくば、叔父の婚約者を失礼のない程度に窘めて、助けて好感を得る算段か)


 ルルイエもやりすぎな面があるとはいえ、彼女の言葉が理にかなっていることをリチャードも頭では分かっているはずだ。そして、この異母妹がリチャードの伴侶になり得ないことも。


(まったく……困った甥だ……)


 おどおどしながらライオスとリチャードを交互に見る異母妹に気付き、ライオスは再び軽口を叩く。


「やはり私を慰めにきたのでは?」

「ヴィ……ヴィオに会いに来たのです! 叔父上は婚約者様を追いかけたらどうですか!」

「ああ、そうさせてもらうよ。私がいうのもアレだが、もう少し人に気を配りなさい」


 今の彼には心の余裕がない。王族としての責務や周囲からの期待に精神面で負担がかかっているせいだ。


(だから、貴族の慣習に疎く、自分を飾らないで接する異母妹を気に入ったんだろうな)


 大いに同情する。歳の近い兄弟や同じ経験者がいれば違っていただろうが、身近にいるのが生まれながら他者からの重圧を知らないライオスなのだから。


 それに彼も思春期真っ只中だ。多少なりと恋を甘受する権利はある。


(応援したいのも山々だが、ルルイエを利用するのはいただけない……)


 彼女の婚約者として、彼の叔父として、しっかり釘を刺しておこう。

 言われているうちが花であるのだ。


「それと人の使い方を間違えるなよ、甥」


 わざとらしく彼の後ろに控えている友人達にも視線を送ると、彼らから後ろめたい感情が滲み出ている。相変わらず、甥は見る目がない。


「いくよ、マシュー」


 ライオスが踵を返すと、マシューは彼らに恭しく礼をし、後をついてくる。

 そのすぐだった。


『何が人の使い方を間違えるなだ、偉そうにしやがって!』


 リチャードの声が聞こえ、マシューに視線を送る。

 しかし、彼の様子に変わりはなく、むしろ怪訝な顔を向けられてしまう。


「何か?」

「…………いや、なんでもないさ」


 彼の耳に届いていないということは、そういうことなのだろう。

 リチャードの暴言はさらに続いていた。


『甥、甥って、オレと一つしか違わないくせに!』

(おうおう、今日はよく吠える……)


 それはリチャードの激しい感情だった。

 王弟、ライオスは他人の心が読める。読めると言っても全てが分かるわけではなく、心の奥に潜んだ感情が伝わってしまうのだ。


 リチャードのような激しい感情はこうして声となって耳に届いてしまう。


『何が王弟だ! あの色ボケジジイ、歳も考えず曰く付きの女に生ませやがって!』


 ぴたりとライオスは足を止めた。

 静かに振り返ると、離れているにも関わらずリチャードと目が合う。まさか彼も目が合うとは思わなかっただろう。焦った表情を浮かべている甥を鼻で笑い、再び歩き出す。


(曰く付きの女ねぇ……まあ、母上は確かに魔女族の出だったからな)


 ライオスの母は魔女と呼ばれる一族の娘だった。

 この時代の魔女は魔法を使える女性を指すわけではない。


 天候を占い、薬を煎じ、星を読むのを生業としている女性のことをいう。もちろん、世には薬師や星読みという職業は存在するが、その精度は魔女には及ばない。魔女は代々特殊な技術を受け継ぎ、それなりの地位を築いている。


(今では魔女が魔法を使えるなんて、お伽話に等しいが……)


 ライオスは彼女たちが魔法を扱えることを知っている。かつては無から火や水を生み出していたと聞くが、代を重ねるごとにその力は衰え、母も小さな幸運を与える程度のおまじないしかできない。


(きっと私は、魔女の先祖返りなんだろうな)


 稀に魔女の力を大いに発揮できるものが生まれることがある。その多くは女児に受け継がれるが、三毛猫のオス並みの確率で男児にも現れるのだとか。この相手の心が読めるのも魔女の力の一つなのだろう。良くも悪くも引きが良くて笑ってしまう。


「さて、マシュー。サロンに戻ってお茶にしよう。ルルイエには逃げられた上に甥っ子の相手に疲れてしまったからね」

「リチャード殿下を挑発してよく言いますよ。これだから『人の心が分からない』と言われるのですよ」


 ため息混じりにそう言われ、ライオスは納得いかない顔で首を傾げた。


(おかしい。誰よりも分かっているのだが……)


 ◇


 翌日の昼休み。サロンでくつろいでいたライオスはマシューにこう告げた。


「実はマシュー。私は人の心が分かるんだ」

「はいはい。またその話ですか」

「相槌が雑過ぎるだろう」

「殿下が魔女族の技術を受け継いでいないのは存じておりますので」


 マシューの言葉にライオスが肩をすくめた。


「ああ、母上曰く、一族でそういう掟らしいからね」


 マシューが淹れてくれた紅茶からレモングラスの匂いがする。爽やかな香りが室内に広がり、ライオスは紅茶を口に運んだ。相変わらず、マシューが淹れる紅茶は美味しい。


「魔女から生まれる男は繊細さに欠け、物事に鈍感らしく、技術を習得したところでロクなことにならないらしいからな。まったく失礼な話だ」

「そうでなくても、本当に心が読めるなら、今頃『殿下は人の心が分からない』なんて言われないでしょう」

「何……?」


 それは聞き捨てならない。ライオスは仮にも王族だ。民の為にこの力を遺憾なく発揮したいと考えている。それなのに、人の心が分からないと言われているとは、なんと悲しきかな。

 ライオスはカップを置くと、優雅に足を組んだ。


「…………じゃあ、分かった。今、お前が私をどう思っているか当ててやろう」

「ご随意に」


 マシューをじっと見つめると、心の声は聞こえないものの彼の感情が伝わってくる。


(好意、尊敬の念、若干滲み出ている不安の感情はきっと私が心を読めると言ったのが原因だろうな……)


 従者のマシューは腹違いの兄より、ずっと近しい存在だった。

 そんな彼がライオスに対して好意や尊敬、そして心配する気持ちがあるということは、きっとこういうことだ。


「私のこと『大好き』って思っている」


 マシューの顔が一気に険しくなる。従者としてその顔はいかがなものだろうか。


「おい、顔」

「ホント……殿下のそういうところですよ……」

「ええぇ……?」


 彼が自分を嫌っていないことは十分過ぎるほど分かる。しかし、今にでも舌打ちをされそうな雰囲気は伝わってくる感情と矛盾していた。


(おかしいな。どうしてこうなるんだ?)


 彼の言動を理解できないライオスに、マシューはため息をこぼした。


「何度も申し上げますが、そういう発言はお控えください。殿下のこれからに響くのですよ?」

「これ以上、何に響くっていうんだ……」


 ライオスの立場は実に弱い。

 母の実家は魔女の一族のまとめ役であり、一応伯爵家である。爵位の中でも決して高い地位ではない。ましてやライオスの兄は現国王で、自分の一つ下には甥がいるのだ。たとえ、王家の血を継いでいても魔女の血を引いているライオスを持ち上げれば、あらぬ疑いがかけられる。


 そういう事情もあって、魔女が国家転覆を狙っているだの、リチャードが立太子式をする前にライオスが暗殺を企てているだのと根も葉もない噂がよく流れていた。こんなライオスの後見人となってくれたルルイエの父、ローウェン公爵には感謝しかない。現国王の親友だったとはいえ、懐の深い男である。


 現状、ライオスは卒業後にルルイエと結婚し、公爵家を興して与えられた領地に引きこもる予定である。ルルイエには弟がいるので、跡継ぎに心配はない。そう、実に平穏な未来である。


「もしかしたら、婚約者様を異母妹様に挿げ替えられるかもしれませんよ?」

「それは困るなぁ。私とルルイエは相思相愛の仲なのに」

「また軽口を……」

「本当のことだろ? その証拠にほら」


 ライオスの言葉の後すぐに、談話室の扉をノックされる。マシューがドアを開け、一瞬固まったのが遠目から分かった。


「あ、あのっ……殿下はいらっしゃるかしら……?」


 緊張交じりにそう告げたのは、愛しの婚約者ルルイエだ。

 ルルイエの登場にマシューは平静を装っているが、内心では驚いていることをライオスは分かっている。


「ローウェン公爵令嬢。主に何か御用でしょうか?」

「こ、これを……殿下にお渡ししたくて……」


 彼女がマシューに何を見せたのか、もちろんライオスには分かる。


(調理実習で作ったマフィンだ。知っている)


 この学校では、特別授業として使用人達の働きを体験する場が設けられている。調理に関してはさすがに刃物を使わず、クッキーやマフィンなど混ぜたり、デコレーションするものが多い。ちなみに焼くのは使用人達に任せる。


(彼女は朝から私に渡すために張り切っていたからな)


 彼女は『殿下に絶対にお渡しするの!』と心の中で意気込んでいたのだ。そんな健気な思いがライオスにとって嬉しいものだった。


「では中へ」


 マシューがそう促すと彼女の心に焦りと緊張の感情が見えた。これはまずいとライオスは静かに腰を上げる。


「いえ、わたくしはお渡しいただければそれだけで……」

「マシュー、何を突っ立ってる?」


 引き下がろうとするルルイエを逃さないために、ライオスはマシューの肩越しからにっこりと微笑みかけた。


「やあ、ルルイエ。君が私を訪ねてくれるなんて嬉しいな。もしかして、お昼のお誘い?」


 そういうと、彼女の頬が朱に染まる。しかし、ルルイエはすぐに淑女らしい笑みを浮かべた。彼女から威嚇に近い気迫が伝わってくる。


「いえ、そこまでお時間をいただくわけにはいきませんわ。ただ、こちらを殿下にお渡ししたく……」


 マシューは彼女から受け取っていたマフィンをこちらに渡す。チョコレート入りのマフィンはとても甘い匂いがし、ライオスは笑みを零した。


「これは?」

「調理実習で作りました。殿下の口に合うか……いえ、そもそも手作りを渡すことが失礼かもしれませんが……」

「そんなことないよ。とても美味しそう。そうだ、ルルイエ。よければ、一緒に食べないかい?」


 ライオスの誘いに、彼女が小さく驚いた。


「せっかく私のために作ってくれたんだ。私はすぐ君に感想を伝えたいし、食事でもなんでも君と共有できることがあると嬉しい」


 昨日は寂しさを伝えるためにストレートに感情を伝えすぎたかもしれない。少し回りくどい言い回しかもしれないが、昨日の反省を活かしてそう伝える。しかし、彼女から不思議な感情が伝わってきた。


『殿下は王族』→『手作り系のお菓子は食べてもらえない』→『でも、建前上、受け取ってはくれる(予想)』→『たとえ、食べてもらえなくても嬉しい』→『が、一緒に食べようと誘われている』→『素人の自分が作ったお菓子を一緒に食べる』→『(言葉にならない悲鳴と悶絶)』

「…………ルルイエ?」


 ライオスが心配になって声を掛けると、彼女はひったくるようにライオスからマフィンを取り上げた。


「も、もっと腕を磨いてから出直して参りますわーーーーーーーーーーーーっ!」

「え、ちょ、ルルイエっ⁉」


 彼女は駆け足とまではいかない、競歩で逃げ去っていく。あっという間に姿が見えなくなったのを見て、ライオスは内心で頭を抱えた。


(なぜこうなる……っ!)


 ◇


「マシュー、今度こそ私は学習した」

「一体何を学習なさったのですか?」


 ルルイエのマフィンを受け取り損なったその日の放課後、ライオスはいつも通りにサロンでマシューのお茶を淹れてもらっていた。しかし、彼は出されたお茶に口をつけず、真剣な顔でこういった。


「ルルイエは私の婚約者なのだから、校内では常に一緒にいるようにすれば彼女を独り占めできるのでは?」

「はあ?」


 気の抜けた返事をするマシューにライオスは続ける。


「ほら、我々は来年の春には卒業になる。そうなれば、すぐに私とルルイエは夫婦だ。これから常に一緒にいてもおかしくは……」

「殿下……入学当初にローウェン公爵令嬢に伝えた言葉をお忘れですが?」

「うっ……」


 ルルイエとは同学年で授業や行事でパートナーが必要になる場合は必ず同行する。しかし、短い学生時代を自分のために費やす必要ないと思い、入学当初にルルイエには『自分の時間を大切にしてくれ』と伝えていた。そう告げた時、彼女からあからさまに落ち込む感情が伝わってきたが、ライオスは原因が分からなかった。


「それに、王族の婚約者という重圧を一身に受けている彼女に、学校で殿下の傍に常に控えろというのは息が詰まると思いませんか? 曰く付きの、殿下と」

「いや、ルルイエは私と相思相愛で……」

「じゃあ、お聞きしますが、ライオス様は昨年、留学してきた隣国の王女殿下と校内で一緒にいろと言われたらどうします?」

「うっ!」


 昨年、見聞を広めるために隣国の王女が短期留学していた。それは王太子であるリチャードと引き合わせるという意図があったのだが、なんと彼女はライオスに惹かれてしまったのだ。俗にいう一目惚れというやつで、彼女の熱烈な思いは遠くにいても感じるほどであった。


「相手に好意を示されて、嬉しいかもしれません。しかし、相手は高貴な身分。そんな相手と共に過ごす緊張感を殿下は知らないはずがありませんよね?」

「ぐぐっ!」


 容赦のない言葉の凶器がライオスを襲う。マシューが本気で言っていると分かっているからこそ、鋭さは増していた。


「それに、殿下が仰せになっていることは、ただの束縛ですよ? 彼女を自分の腕にずっと閉じ込めておくことが、貴方の愛情ですか?」

「ぐはっ!」


 正論もド正論で返され、ライオスは心の中で白旗を上げた。


(マシューの言っていることは正しい……)


 ライオスはルルイエを束縛したいわけではない。自分の一方的な想いをすべて受け止めて欲しいわけでもない。ただ、社交辞令ではなく、彼女の口から好きだと、愛してると言ってもらいたいだけだ。ルルイエは恋情を向けてくれても、表に出してくれない。


 それが貴族の女性、慎み深い淑女だと分かっている。でも──。


「彼女には、誠実な男でいたいよ」

「はい」

「でも、さびしい…………っ!」


 つまるところ、これである。


「彼女が私のことを好いてくれるのは分かっている。恥ずかしがるところも愛おしい。でも、最近は妹、妹、妹。一時でいいから私だけを見て欲しい!」


 ルルイエは生真面目だ。実母を亡くした異母妹がローウェン公爵家に引き取られた時、ルルイエは父親を軽蔑したが、決して異母妹を憎んだり蔑んだりしなかった。むしろ、いきなり誰も知らない屋敷に連れてこられることになった彼女に同情すらしていた。彼女は頼れる相手がいないのだ。せめて自分だけでも味方になってやらねばと使命感を覚えるほどだった。


 侍女や使用人と上手くやれているかとか、口さがない大人達の悪口に傷ついていないかとか。ギクシャクしているルルイエの母との関係を取り持ってやらないと等々。彼女は悩みに尽きない一年を過ごしていた。もちろん、ライオスもそんな彼女に寄り添ってきた。心配事や助言もしている。しかし、二人きりでお茶をしていても、頭の中は異母妹のことばかり。口ではライオスを気にかけた言葉をかけてくれても、心が伴っていなくては意味がない。


「つまり、昨日ローウェン公爵令嬢の異母妹君に冷たくしたのは……?」


 マーシャルの問いかけに、ライオスは頷く。


「彼女がルルイエの気持ちを理解していなかったのもあるけど、男の醜い嫉妬もあったよ」

『うわぁ……』


 はっきりとマシューの心の声が聞こえた。わりと傷ついた。


「だって、腹立つだろ? 目の前にいる私を差し置いて、常に大切に思われているくせに……」


 ライオスがルルイエをお茶に誘って失敗した時、異母妹はルルイエから庇ってくれたと勘違いしていたのだ。これを怒らないでどうする。

 項垂れるライオスの頭上から深いため息が聞こえてきた。


「ローウェン公爵令嬢に負けず劣らず、不器用な人ですね……」

「主にそれを言うか……」

「私は、主を崇め奉るためにいる存在ではありません」

「知っているさ」


 まだ手を付けていない紅茶をマーシャルが下げようとして、ライオスはそれを制した。

 冷めた紅茶を口に含み、ライオスは笑う。


「私にはお前くらいの冷たさがちょうどいい……でも」


 どんなに諫められても、やはり彼女の異母妹への嫉妬心はぬぐい切れない。


(本当に醜い感情だ)


 ルルイエと初めて出会ったのは、婚約者の顔合わせの時だった。

 当時、七歳のライオスは自身の心を読む能力のせいで荒んでいた。


 本心とは違うことを平気で口にする汚い大人。

 自分の欲望や感情に忠実な同年代の子ども達の羨望や嫉妬、そして蔑み。

 幼いライオスはそれら全てを一身に受けてきた。


 ──大人は汚い。

 ──子どもはうるさい。


 そのうち人の心の声どころか、人の言葉すらも届かなくなった。心を閉ざしたライオスは虚無の時間を過ごしていた。


 そして、運命の日は訪れた。

 現国王である兄、ミカエルに手を引かれて向かったのは、国王と謁見する為にある大広間だ。

 ミカエルの方へ顔を上げると、彼が何か言っている。


 言葉を発していることは分かるが、それがまるで別の言語のように聞こえるのだ。

 顔をしかめるライオスに、ミカエルは小さく首を横に振って、近くの者に紙とペンを持ってこさせる。そして、ミカエルから手渡された紙には、こう書かれていた。


『お前の婚約者候補と顔を合わせる。相手が礼をした後、合図をするから相手に名乗り、エスコートしろ』

(婚約者候補って何?)


 しかし、ライオスの疑問が解決することなく、その相手は現れた。


 ミカエルと同じくらいの年の男性とライオスと年の近そうな少女だ。

 ややつり気味の勝気そうな瞳。豪奢なドレスを纏い、髪も綺麗に整えている。いかにも、貴族らしい貴族の娘。


 彼女の姿を見た時、ライオスの心は氷点下にまで冷める。

 今まで会ってきた貴族の子どもは、犬のようにぎゃんぎゃんと叫び、それでいて我儘で浅ましい心を曝け出していた。できれば、関わりたくない。


 ジトッと睨むライオスに貴族の親の方が、にっこりと微笑んだ。

 そして、何か言って礼をし、娘の方もそれにならって、淑女の礼をした。


 ミカエルがライオスの背を叩いた。


 これが、彼の伝えてきた合図なのだろう。ライオスは打ち合わせ通りに挨拶を済ませ、彼女に手を差し伸べる。


 彼女は目を大きく見開き、隣にいる父親やミカエルの様子を覗った後、ライオスの手を取った。

 そして、困ったような、嬉しいような、なんとも言えない笑みをライオスに向けたのだった。


 ミカエルがエスコートをしろと言うからには、どこかに案内するのだろうとライオスは考えていたが、予想は的中した。


 ミカエルは、ライオス達を中庭へ案内した。どうやら、お茶会をするらしい。

 しかし、お茶会をするのはライオスと彼女の二人だけのようだ。


 彼女は身振り手振りを交えながら何かを話している。その淑女らしからぬ仕草とはいえ、ライオスは咎めることなく、愛想笑いで返していた。そのうち、侍従がやってきてライオスに紙を手渡す。


『笑っているだけでなく、庭の案内もしておいで』


 どうやら、ミカエルはどこかでライオスの様子を覗っているようだ。


(面倒だな……)


 内心でため息をつきつつも、従っておいて損はないだろう。

 彼女がひとしきり喋り切り、紅茶を飲んでひと心地ついた後、ライオスは行動に移した。


「一緒に庭を散歩しませんか?」


 ライオスがそう声をかけると、彼女は大袈裟に頷いた。


(落ち着きのない子なのかな。大広間での挨拶はちゃんとした気がするけど……まあ、いいや。どうせ彼女とはもう顔を合わせないだろうし)


 ライオスは後ろからついてくる護衛に「庭の探索だからついてこなくていい」とだけ告げて、歩き出した。


 中庭には、生垣でできた迷路がある。その中心部である噴水の広場は、ライオスのお気に入りだ。なぜなら、噴き出る水の音ですべての雑音を遠ざけてくれるから。


 通り慣れているおかげで、あっという間にたどり着く。

 彼女が噴水を見て何かを話し出す前に、ライオスは自分から口を開いた。


「私は生まれつきの化け物なんだ」

「?」


 彼女は首を傾げる。


(少し唐突過ぎたかな……)


 ライオスは相手の言葉が分からない分、伝わるように言葉を選んだ。


「私の母親は魔女族、それも族長の娘だ。おまけに私は、一族で滅多に生まれない男。魔女族の男は化け物になるから一族にとっても災いなんだって。化け物である証拠に、私はここ最近、人の言葉が分からない」


 そう言うと、彼女はつり気味の目を大きく見開いて、ライオスを見つめて口を開いた。


「──、……」

「私は今も君が何を喋っているのかも全然分からない。あの広間で挨拶ができたのは兄上と事前に筆談で打ち合わせしていたからだ。だから、私ともう会わない方がいいよ。君と一緒にいた人は御父上かな? 彼にはこう伝えて、『殿下は誰も見えない所では終始無表情で話しかけても無視をする不愛想な人だった』って。君と引き合わせるくらいだし、兄上は私の事情を御父上に話していると思うよ」

「……! ……!」

(でも……と言いだけな感じだな)


 ライオスはため息をついた。


「言葉が通じないなんて不気味なだけでしょ? 少なくとも私は、どこの誰なのかも分からない君と仲良くなれないよ」


 淡々とライオスが告げると、彼女は泣きそうな顔をして、来た道を走って戻っていく。

 彼女の姿が見えなくなったところで、ライオスはふと思い出す。


(しまったな。あの子、引き返していったけど、入り口までの道順を覚えているかな……でも、まあいっか)


 護衛にはついてこなくていいと伝えてはいたものの、まさか本当にそうするわけがない。きっと近くで待機しているはずだ。


(もし、彼女が戻ってきたら、非常口を教えてあげよう)


 ライオスは噴水の縁に腰掛け、目を閉じた。


 噴水の音と真っ暗な世界が、ひどく落ち着く。噴水の音は人の声を遠ざけてくれる。真っ暗な世界が、人の姿を消してくれる。


 そんな中、遠くからパタパタと慌ただしい足音が聞こえてきた。


 目を開けると、必死な顔をした彼女がライオスに向かって走ってくる。腕を大きく振り、ドレスの裾を蹴飛ばしながら駆ける姿はやはり淑女らしくない。


「迷子になって戻ってきたの? 非常口なら……」


 しかし、彼女はライオスに目もくれず、噴水の縁に手を付けたかと思うと──頭から入水した。


 それは最早、飛び込みと言っていいほどの勢いだった。


「は……? はぁ⁉ 何やってるの⁉」


 ライオスは慌てて彼女を噴水から引き上げる。


「この一瞬の間で何を思って飛び込んだの⁉ いや、やっぱり言わなくていい! 聞いても分からないから!」


 彼女はライオスの言葉に大袈裟に首を横に振った後、乾いている石畳へ移動した。

 そして、濡れた手で何かを書いていく。


『数々の無礼をお許しくださいませ、王弟殿下』

「へ…………」


 彼女は白く綺麗な指をざらざらな地面で傷つけることも厭わず、文字を書いていく。


『わたくし、ルルイエ・ローウェンと申します。お父様は公爵で、国王陛下のお友達ですわ! 大変恐縮ながら、わたくしのお名前を殿下の口からお聞かせください。』

「…………ルルイエ?」


 戸惑いながらもライオスは彼女の名を口にする。

 すると、彼女はさらに文字を書く。


『わたくしと殿下はちゃんと言葉が通じています。わたくしは殿下を不気味だとは思いません。もし、殿下がよろしければ、私とお友達になっていただけませんか?』


 ライオスが顔を上げると、彼女ははにかんだ笑顔を向ける。なんだか急に恥ずかしくなったライオスは、俯きながら答えた。


「……いいよ、お友達。なってあげる」

「──!」


 ルルイエは両手を上げて大喜びした後、ライオスの手をぶんぶんと振り回した。

 やはり彼女は淑女らしくない。


 彼女が手を振り回すのを止めた後、ライオスはルルイエの指先を見た。

 赤く傷ついてしまった指先が、なぜか嬉しく思ってしまう。


 ずぶ濡れで迷路から戻って来たライオスとルルイエを見て、ミカエルと彼女の父、ローウェン公爵は苦笑していた。


 その後、ルルイエと筆談での交流が続き、ライオスは彼女のことを知るたびに愛おしくなっていった。淑女らしくない大袈裟な仕草も、表情も。何もかも。


 彼女と出会って一年が経とうとする頃、ルルイエが王宮に遊びに来た日に、リチャードにばったり出くわした。甥っ子なのに一つ下の彼は、いつも顔を合わせると何か言って去っていく。


 何を言っているのか分からなかったが、傍にいた侍従やメイドたちが顔を強張らせていたのでひどいことを言っていたのは、ライオスにも理解できた。


(何言ってるか分からないけど、最近リチャードのやつ、当たりが強いんだよなぁ)


 ルルイエと友達になってから、やたらとライオスに絡んでくる。一方的に話しかけてくるので、ペンと紙を差し出すと、叩き落とされたこともある。


(何かした記憶はないんだけど……まあ、いいか。どうせ、何言ってるか分からないし。でも、大人があの反応をするってことは……ルルイエはどんな顔をっ⁉)


 隣にいたルルイエは、今までに見たことがない笑顔をしていた。


(こ、この笑い方……知ってるぞ!)


 その笑みは母が人前に──戦場に立った時と同じものだった。


 ルルイエは持っていた扇子で口元を隠し、何か言った。


 その瞬間にリチャードがばっとこちらを振り返るが、ルルイエはいつもの淑女らしくない笑顔に戻り、ライオスの背を押すようにして歩き出した。


 彼女の知らない一面に驚いたが、きっとライオスが知る彼女はほんの一部なのだろう。昔の自分がさっきの顔を見たら、おそらく嫌悪していたが、今は不思議と嫌ではない。もっと知ってみたいと思うようになっていた。


 そして、こう思った。彼女の言葉が分かったら、もっと彼女を知ることができるのに。

 お気に入りの噴水の場所で、二人で話している時、ライオスはぼそりと口にした。


「君と、ちゃんと会話ができたらな……」


 何気なく口にした言葉だった。



「わたくしもです。殿下」

「え?」



 聞こえた言葉に思わず、自分の耳を疑ったライオスは顔を上げる。

 ルルイエは、不思議そうな顔で目をぱちくりさせていた。


「ルルイエ……もう一度言ってくれる?」

「え……わたくしもです。殿下……殿下⁉」


 気づけばライオスは目から涙を流していた。


「どうかされましたか、殿下⁉ お腹が痛いのですか⁉」

(違う……違うんだ、ルルイエ)


 自分は嬉しくて泣いているんだ。そう伝えたかった。しかし、思うように声が出てこない。


「そう、筆談! こういう時こそ! 人類が生み出した文明の利器! 紙とペン!」

(ああ、君はそうやっていつも私に話しかけていたんだね)


 元気に。大袈裟に。


「ああっ! 紙! 紙が、殿下の涙で!」


 紙に落ちた涙を払い、ペンを握ったルルイエの手をライオスは掴んだ。


「殿下……?」


 不思議そうに顔を上げるルルイエ。ライオスは声を絞り出して言った。


「もう必要ないよ」

「え……?」

「ルルイエ、君とようやく会話ができる」


 その言葉で彼女は察したのだろう。

 それなのに、なぜかルルイエはぽろぽろと泣き出してしまった。


(おかしいな、彼女が泣く理由なんてないのに)


 ライオスは彼女の涙を指で拭う。


「ルルイエ、なんで君も泣いてるの?」

「だって、だってわたくしっ! やったんですもの!」

「………………ん?」


 ライオスは思った。


(何をやったって?)


 ルルイエはライオスの腕を掴まえると、急にその場から駆け出した。


「わたくし! やりましたわ! お父様! 陛下! わたくし! や~~り~~ま~~し~~た~~わ~~~~~~~~~~っ!」


 そう意味不明な言葉を叫びながら。


「ルルイエぇえええええええええええ~~~~~~~~⁉」


 ライオスの叫び声も添えて。


 その後、久々に会話をした兄、ミカエルからルルイエと正式に婚約することを告げられた。婚約とは将来結婚することを約束することらしい。


 ライオスの特殊な生まれの事情により、信頼できる貴族との婚姻が必要だった。そこでミカエルは親友であり、高位貴族であるローウェン公爵を頼った。


 しかし、ローウェン公爵家は超上流階級の貴族。言葉も通じないライオスを受け入れるには公爵家にとってもルルイエにとっても重荷にしかならない。そこで一年間ライオスの様子を見てから決めようと話をつけたようだった。


 おまけに、今までの彼女の淑女らしくない大袈裟な感情表現は、言葉が伝わらないライオスへの配慮だったらしい。


「殿下! わたくし、お話ができて光栄です! 改めて初めまして! ルルイエ・ローウェルです!」


 泣きながら自己紹介する彼女に、ライオスは笑った。


「こちらこそ初めまして、ルルイエ。そして、よろしく。私の婚約者さん」


 そう告げると、彼女はぼんっと音が立ちそうな勢いで顔を赤くする。


『こここここここここここここ』

(ん?)


 ルルイエは口を動かしていないのに、なぜか彼女の声が聞こえてきた。


『ここここここん、婚約者! わたくしが、殿下の!』

(あ~……これは、また聞こえてきちゃったか)


 再び他人の心の声まで聞こえるようになってしまった。かつての苦い記憶を思い出し、ため息をつきそうになった。


『わたくし……婚約者。殿下の……』


 心の中でそう呟くルルイエの顔を見て、ライオスはハッとする。



『嬉しい……』



 恥ずかしそうに笑うルルイエに、見惚れてしまう。


(まあ、悪くないかも……)


 しかし、ライオスは前よりも心の声が聞こえにくくなった。ある意味これは幸いと言っていいだろう。


 こうして、ライオスは彼女をとことん愛すことを決めた。


 聞こえづらくなった心の声も、彼女の心だけ聞こえれば十分だ。

 彼女とともに過ごせるだけで、幸せだったライオスだが、会話が成立すると分かってから遅れていた勉学や礼儀作法を学ぶことになった。


 ライオスは確かに、王族として他者から重圧を受けず育った。だからこそ、身内である兄王ミカエルが圧をかけてきた。ライオスがルルイエを溺愛していると分かると「このままでは公爵位はやれんな。ルルイエ嬢との婚約も……」と発破をかけてくる始末。


 しかし、案外どうにかなった。

 なぜか。それはルルイエの存在のおかげである。


 式典も、社交界も、彼女と一緒にいられると思えば、苦とも思わなかった。それどころか、ルルイエも一緒に教育を受けることになり、ライオスはそれはそれはもうのびのびと過ごした。


 そして、ライオスの幸福な時間に水を差す人物が現れた。



 ルルイエの異母妹である。



 彼女は急にできた妹に戸惑いつつ、ライオスの時のように一生懸命接していた。


 彼女の心の声も異母妹のことばかり。


 嫉妬せずにはいられない。しかし、彼女に嫉妬する度に、言いようのない罪悪感に苛まれるのだ。

 かつて、自分が受けて胸を痛めていた負の感情を、他者へ向けるなんてと。


「殿下……」


 マシューに呼ばれて、ライオスは現実に引き戻される。


「そろそろ、馬車が到着する時間かと……」

「ああ、そうだったね」


 ライオスは冷めきった紅茶を見つめる。


(情けない顔……)


 カップの中に映る自分の顔に向かって嘲笑うと、一気に飲み干した。


「さ~て、明日こそ、ルルイエをお茶に誘うぞ! 絶対に!」

「頑張ってくださいね」


 心のこもっていない応援を背に、ライオスはサロンを出るのだった。


 ◇


(誘うぞ! 彼女が恥ずかしがらないよう、スマートに。自然に)


 放課後、ライオスは事前にマシューに頼んでルルイエの侍女にお茶を誘うことを話していた。ルルイエも先に話を聞いていれば、答えやすいだろう。


 ライオスは廊下でルルイエを待っていると、彼女の姿を見つける。


「やぁ、ルルイエ……ん?」


 彼女の隣に、ライオスの天敵はいた。


「ごきげんよう、ライオス殿下」


 優雅に挨拶をするルルイエの隣に、頭を下げて小さくなっている異母妹がいた。


「今日は珍しく彼女と一緒なんだね。他の友人達は?」

「はい。他の皆さまはご用事があると」


 ルルイエが一瞬目を逸らした。


 ライオスが彼女の侍女に「放課後、お茶に誘うつもりだ。もし友人達もいるならご一緒に」と伝えていた。


 おそらく、彼女達はライオス達に気を遣って辞退したのだろう。それなら、その流れで彼女の異母妹も断れたはずだ。


 異母妹から申し訳なさそうな、それでいて気まずい、そして懺悔の感情が伝わってくる。


(なんでそんな感情を垂れ流してるくせに、ここにいるの、この子……)

『殿下とのお茶会……』

(ん?)


 ルルイエから気迫に満ちた感情に乗って心の声が聞こえてくる。


『これは彼女に礼儀作法を復習させるいい機会! 殿下はお友達もいいと言ってたもの! 妹のヴィオが一緒でもいいはず!』

(なるほど)


 どうやら、彼女は妹の礼儀作法の練習に付き合って欲しいらしい。こう見えてライオスも王族の身分だ。礼儀作法は叩き込まれている。彼女の異母妹のいい手本になるだろう。


(彼女と二人っきりの時間が……まあ、私は心の広い婚約者だからね! 我慢するさ! ルルイエの為なら!)


 ライオスはにっこりと笑う。


「そう、それは残念だね。実はお茶を誘いに来たんだ。時間はあるかな? もちろん、君の妹も一緒に」


 彼女の異母妹にも優しく微笑みかけた。が、


『ひぃいいいいいいいいいいいい!』


 彼女の異母妹の心から悲鳴が聞こえた。


(おかしい。委縮しないように笑いかけたつもりなのに)


 ライオスは内心で首を傾げるのだった。


 ◇


 ライオスが案内したのは校内にあるカフェだ。このカフェには個室があり、ライオス達はそこを利用していた。


「ヴィオ、いくら殿下の前とはいえ、緊張しすぎですよ」

「は、はい……」


 背中を丸めて小さくなっている彼女の異母妹は、涙目になりながらルルイエの隣に座っていた。


(まあ、一度叱られた相手で、身分も違うし、委縮するのも当然か……)


 ライオスは口をつけていた紅茶を置き、彼女の異母妹に微笑みかけた。


「ルルイエ。彼女が委縮してしまうのも無理はない。この間、私が彼女に対して苦言を呈してしまったからね」


 びくりと彼女の異母妹が震えた。ルルイエも緊張で声を強張らせた。


「妹が殿下に粗相を?」

「私にというよりも、ルルイエへかな。君の優しさが彼女に伝わっていなかったみたいだから」


 そう口にすると、異母妹からじんわりと負の感情が伝わってきた。劣等感や屈辱、言われていることに納得できない念だ。


 別にライオスは異母妹にそんな感情を抱かせるつもりであの時に注意したわけでも、こうしてルルイエへ伝えたわけでもない。


 これは、ルルイエへの忠告でもある。


「ルルイエ。君が彼女を心配しているのも分かる。でも、少し厳しいんじゃないかな? 他家の者達に対して体裁を整えるにも、もう少しやり方があるはずだ。君が彼女に言った通り、不相応な相手に付け入る隙を与えないために、礼儀作法や威厳が必要だ。しかし、それは君にも言えること。彼女を人前で叱ることで、君にあらぬ噂が流れたら、私は悲しい。ただでさえ、君の婚約者は曰くつきの私だからね」

「は、はい……」


 しゅんとなって返事をするルルイエにライオスは(かわいい)と内心で思いながらも、神妙な面持ちで彼女の異母妹に向く。


「ルルイエの異母妹殿」

「は、はい!」

「君は、ローウェン公爵家に入ってまだ一年だ。伸びしろを期待するには、少々時間が足りないが、よき淑女になれるよう精進してくれ」


 ライオスの優しい言葉が意外に思ったらしく、彼女から発せられていた負の感情が薄くなっていく。


「え……その……はい」

「ところで……」


 ライオスは異母妹のまるまった姿勢に目を向ける。


「君に礼儀作法を教えたのは、主にルルイエと聞いたが……私の婚約者殿は丸まった姿勢で震えながら席に座るように教育したのかな?」


 ライオスの嫌味でその場に緊張が走る。

 彼女の異母妹はピシッと背筋を伸ばした。


「いえ、違います!」

「じゃあ、私の婚約者殿はそんな早口で強い口調で返事をするように教えたのかな?」

「え、えーっと…………」


 徐々に声が小さくなり、泣きそうな感情が伝わってくる。

 自分が惨めで、悲しくなる感情はライオスにも覚えがあった。


「君の態度は、ルルイエだけでなく、ローウェン公爵家も陥れる隙になる。別にこれは貴族に限った話じゃない。平民でもあるはずだよ。『あの家はどんな教育してんだい!』ってさ」


 それを聞いて、彼女の異母妹はハッとした顔をする。


 昔、ライオスはお忍びで城下へ遊びに行った時、色んな民の声を聞いた。その中でどこかの母親が心の中でそう言っていたのを覚えている。それを聞いたライオスは「意外に市井の教育観念は社交界とそんなに変わらないんだな」と思ったものだ。


「別にローウェン公爵も君を苦しめたくて家に招き入れたわけじゃないはずだ。もし、今の生活に慣れないようなら、学生の間に身の振り方を考えるといい。ローウェン公爵もきっと君の意志を尊重してくれるさ」


 彼女の背筋が自然と伸びた気がする。そして、彼女からもルルイエからもなぜか尊敬の念が飛んできた。


(大して良いことを言ったつもりはないんだが……ん?)


 少し離れたところから、怒りと焦りが混じった感情を抱えて、ライオス達に向かってくるのが感じた。


 ライオスは内心でため息を漏らすと同時に個室のドアが開く。


「叔父上」

「ああ、我が甥よ。一体、何の御用かな? ご友人達も引き連れて」


 リチャードが友人達を連れて押しかけるようにやって来た。おそらく、ライオス達がお茶をすると聞いて、慌ててきたのだろう。


(まったくご苦労なこと……)


 ライオスが給仕に目配せをすると、リチャード達の分の椅子を用意させた。

 それをリチャードは怪訝な顔で見つめる。


「なんのつもりですか?」

「私はホストだからね。来客分の椅子を用意するのは当然だろう?」

「いえ、結構です。私はヴィオに用事があってきたので」


 そう言ったリチャードの言葉に、ヴィオはきょとんする。

 そして、伝わってきたのは、『なぜ?』という疑問の感情だった。


「ヴィオ、叔父上とルルイエ嬢とのお茶会はさぞ居心地が悪かっただろう? きっと君のことだ。断り切れなかったのだろう」

(まぁ、間違っていないが……)

「君がカフェで異端査問会のようなお茶会に参加していると聞いて慌てて来たんだ。」

『は?』

『あ?』


 背後に控えていたマシューとルルイエの侍女の心から舌打ちと共に聞こえてきた。

 確かにこれは聞き捨てならない。


 ルルイエも物申したい雰囲気を醸し出しているが、ここは叔父であるライオスが彼を窘める必要があるだろう。


「異端査問会……それは穏やかではないね。一体どこの誰が開いているんだろうか?」


 いけしゃあしゃあとライオスがそう口にすると、ピリッと敵意がリチャードから伝わってくる。


「さあ、私も噂に聞いただけですので……」

「そう……まあ、仮にここが異端査問会だったとして……誰が異端なんだろうね?」


 室内の温度が急激に下がった気がした。おそらくそれは後ろに控えているマシュー達の殺気のせいに違いない。


 少しは空気を和らげてやるかと、ライオスは異母妹に笑みを向ける。


「まあ、そんな冗談はさておき。異母妹殿。我が甥が遠回しにデートに誘っているようだが、いかがされる?」

「ひえ、デート⁉」

「叔父上! 私はそんなつもりで言ったわけでは……!」

(……ん?)


 ライオスは二人の様子に内心で首を傾げた。


 リチャードは期待や恥ずかしい感情がビシビシと感じるが、異母妹はひどく焦った感情が伝わってくる。少なくとも彼女からは嬉しいという感情はなかった。


(なんだ? いくら甥っ子の片思いとはいえ、浮足立たない女性はいないだろうに)


 リチャードは一人の男としては頼りない男だが、その身分と受けた教養は最高峰。容姿も悪くない。そんな相手にデートに誘われたと知って、こんなに喜ばないのも珍しい。


「お、おおおおお王弟殿下。わ、わわわわわわわ、私……!」

「大丈夫、落ち着いて言ってごらん」

「お、お姉さまから習いました。こ、婚約している殿方とみだりにお話をしてはいけないことや、お茶をすることは……貞淑な淑女に反するとだと」

「…………うん、そうだね」


 とはいえ、リチャードは誰かと婚約をしていないので、そう言った相手に含まれないはず。

 異母妹は深呼吸をした後、リチャードに向かって勢いよく頭を下げた。



「わ、私! 実は、将来を誓い合った殿方がいます! 今まで勘違いをさせる態度を取ってしまったことをお詫び申し上げます! そしてお誘い、申し訳ありません!」



 しんっと室内が静まり返る。


 ルルイエからは驚きの感情。

 後ろに控えているマシュー達からはリチャードへの嘲笑。

 そして、リチャードは……。



(真っ白になってる)



 心の声を聞かずとも、見て分かるほどリチャードは真っ白になっていた。


(口が利けなくなってるリチャードの代わりにちょっと聞いてあげようかな?)


 ライオスは紅茶を一口飲んだ後、異母妹に微笑む。


「そう……その相手とはいつから懇意なのかな? ローウェン公爵はご存じで?」

「お、お父様はもちろん、ルルイエお姉さまのお母様も、相手の方を知っています。そ、その……というのも相手は子爵家で……私の従弟なんです」

(へ~~~~~~~)


 ルルイエから異母妹の母は元侍女だと聞いている。公爵家に務める侍女だ。行儀見習いの貴族の娘である可能性は十分にある。


「私がローウェン公爵家に入る前から……その、好きだったのですが。私は平民の身分だったので反対されると身を引こうとしたのですが……相手が子爵家の旦那様に話をつけてくれて……それでなんやかんやあった後、私がローウェン公爵の子だって分かりました」

(あー、ローウェン公爵……脅されたな)


 子爵家の息子がごねて、その父親はローウェン公爵に責任を取って身分を用意しろと言ったのだろう。なんだかんだ言って、人のいい公爵だ。自分の娘でもあるヴィオの為にその要求を呑んだのだろう。


 ルルイエには話が通っていなかったようで「ヴィオ、おめでとうございます?」と呆けた口調で言っていた。


「なるほど、なるほど。これじゃあ、異母妹殿を誘うわけにはいかないな。ちなみにその相手は学園に通っているのかな?」

「いえ、昨年卒業されています」

「そう。よかったな、我が甥よ。異母妹殿の婚約者に背中から刺されずに済みそうだぞ?」

「そ、そんな! 冗談でもない! 彼はそんなことをいたしません!」


 リチャードから羞恥と苛立ちがひしひしと伝わってくる。そして、鋭い敵意がライオスに向けられていた。


(なぜ私に敵意を向ける?)


 背後に控えていたマシューの心の声が聞こえた。


『本当に殿下は人の心がない』

(おかしいな。善意で話を聞いただけなんだが)


 ライオスはそう思いながら軽く手を叩いた。


「相手がいる女性を私達が囲っているわけにはいかないな。今日のお茶会はここでお開きとしよう」


 ライオスは立ち上がり、それにルルイエと彼女の異母妹が続く。レディファーストで先にドアを開けてルルイエ達を部屋に出すと、落ち込んでいるリチャードが目に入った。


(うん、ここは叔父として可愛い甥っ子を慰めてあげないとな)


 ライオスはリチャードの下へ行き、ぽんと肩を叩いた。


「傷が深くなる前に失恋できてよかったな、甥殿」

「~~~~~~~~~~~~~~っ!」


 言葉になっていないリチャードの激情がライオスに突き刺さる。それを無視して踵を返したライオスは内心で首を傾げた。


(慰めたつもりだったのだが……)

『これだから殿下は……』


 ため息交じりにマシューの心の声が聞こえ、ますますライオスは首をひねるのだった。


 ◇


 あれから数日後、ライオスは兄王の執務室へ呼び出された。


「ライオス。あまり息子をからかわないでくれ」

「兄上、一体なんのことを仰せになっているのですか?」


 兄王、ミカエルはため息交じりに言った。


「愚息がルルイエ嬢の異母妹、ヴィオ嬢に入れあげていた件についてだ。ここ数日、お前が絡んできてうんざりすると苦情が来ている」

「あ~、私なりの激励のつもりだったのですが、甥殿はお気に召しませんでしたか?」


 ここ数日、失恋で落ち込んでいるリチャードを慰めるべく、顔を見かけたら声をかけていたが、結果的に怒らせる事態になっていた。


(善意だったんだけどな?)

「ライオス、お前は人の気持ちを推し量るべきだぞ? ルルイエ嬢と婚姻ののち、小さくても領主になるのだからな」

「承知しております」


 しかし、ミカエルはライオスの言葉を信用していないようで、疑念の感情が伝わってくる。そして、諦めたようにため息を零した。


「まあ、お前のそういう部分はルルイエ嬢やマシューが補ってくれるだろう。今後も頼むぞ?」


 ミカエルが背後に控えているマシューへ告げると、彼は深々と頭を下げていた。


(おかしい……誰よりも人の感情がわかっているんだが?)


 人とは難しい生き物だとライオスは内心で肩をすくめ、執務室を出ようとした。


「ライオス」


 呼び止められ、不遜ながらも顔だけミカエルに向けると、彼は優しい笑みを浮かべていた。


「ルルイエ嬢とは仲良くやっていけるか?」

「ええ、彼女以上の女性はいませんよ」


 ライオスはそう答え、執務室を後にするのだった。


 ◇


「今日こそは! ルルイエと二人っきりのお茶会だ!」


 本日、王宮でルルイエとお茶の約束を取り付けた。彼女の異母妹は婚約者の屋敷へ出かけており、リチャードもライオスを避けている。つまり、邪魔者はいない。


(ルルイエも異母妹への淑女教育が上手くいっているみたいだし……今度こそ! 身も心も私が独占できる!)


 ──はずだった。


「最近ヴィオが勉強にのめり込んでいまして。わたくし心配しているのです」

「そう……」


 愛しいルルイエと二人きりのお茶会。しかし、やはりと言うべきか話題は異母妹の話だった。


「ヴィオったら『お姉さまにもあの方にも迷惑はかけられない!』と必死になっていまして……おかげで淑女らしい振る舞いが身についているのですが。今日は息抜きに婚約者の方に会ってきなさいと送り出してあげました」

「そう。優しいね、ルルイエは」


 本当に彼女は優しい。


(もうちょっと私の方を見てくれないかな~~?)


 彼女の心はやはり異母妹を心配している感情で占めているようだ。これはあの異母妹が嫁ぐまで続くのだろうか。ライオスは少し不安になる。


「そういえば、ヴィオは殿下に感謝していましたの!」

「感謝? なんで?」

「殿下が仰っていた『別にローウェン公爵も君を苦しめたくて家に招き入れたわけじゃないはずだ。もし、今の生活に慣れないようなら、学生の間に身の振り方を考えるといい』って」

「言ったね」

「あの時までヴィオはとても悩んでいたようです。貴族の振る舞いや慣習。婚約者の下へ嫁ぐ不安もあったのですって。それで殿下に言われてハッとしたようです。『今の生活に慣れず、他の身の振り方を考えても、彼の隣以外考えられない』と」

「ずいぶん、前向きに言葉を受け取ってくれたね?」


 棘のある言葉になってしまったことに、ライオスは遅れて気付いたが、ルルイエは嬉しそうに笑った。


「だって、厳しくとも、殿下の言葉にはちゃんと優しさがありましたもの。きっとヴィオも殿下の優しさに気付いたのでしょう」

(その優しさは、異母妹の為ではなく君の為にある優しさなんだけどな……)


 ライオスはそう内心で苦笑しながらも「そうだと嬉しいね」と心にもないことを口にする。


 すると、どうだろうか。後ろに控えていたマシューとルルイエの侍女が微笑ましいものを見るような感情が飛んできた。


(なんだろうか。今の彼女とのやり取りに、何か感慨深いものでもあったか? それに、どこかルルイエに落ち着きがないな)


 ルルイエから何かを心配する感情が伝わってくる。しかし、その感情は異母妹に対しての感情だと思っていたが、少しおかしいことにライオスは気付き始めた。


(そわそわとしていて、気恥ずかしい感情、それでいて不安や期待の念……もしかして、プレゼント?)


 そう、それは誕生日プレゼントを渡す時の彼女の感情に似ていた。


 彼女はいつもライオスがプレゼントを喜んでもらえるか不安や期待で胸をいっぱいにしながら、手渡してくれる。もちろん、ライオスは彼女が一生懸命悩んで選んでくれたものだと分かっているので、喜ばないことはないのだが。


(今日は何か記念日だったっけ? 誕生日はもっと先だし……祝い事の日でもないし……)


 ライオスはルルイエとの記念日を忘れたことがない。婚約した日、互いの誕生日、祝い事には欠かさずルルイエとの時間を取っている。


 サプライズにしたって、何かを祝われるようなことが思い当たらない。


『あっ! 来ましたわ!』


 彼女の浮足立った心の声が聞こえたかと思うと、二人のテーブルにマフィンが置かれた。


 いつものとは違い飾り気のないマフィンを見たルルイエは少しだけ表情を緩めた後、いつになく真剣な顔をライオスに向けた。


「殿下……」

「なんだい、ルルイエ?」


 ライオスはそんな彼女を愛らしく思いながら微笑みかけると、ルルイエから気迫に満ちた感情が伝わってくる。


(おや、これは前にも覚えがあるぞ……?)


 そう、それはつい最近のことだった気がするが、なぜかライオスは思い出せない。


 ルルイエはライオスに何かを伝えようと、必死に何かを考えている様子だ。彼女の心の声はあまりにも忙しなくしゃべり続けているため聞き取りづらく、ライオスは大人しく彼女の言葉を待った。

 そして、ようやく決心がついたのかルルイエはゆっくりとした口調で言う。


「こちらのマフィンですが……わたくしが作りましたの」

「え……ルルイエが?」

「はい……その、以前調理実習の時に作ったのは、あまりにも拙いものでしたので、そのリベンジをと……」

「ああ、あの時の!」


 調理実習でルルイエが作ったマフィンを二人で食べようと誘って、そのまま逃げられてしまった時のことをライオスはようやく思い出した。


「も、もちろん! わたくしだけでなく我が家のシェフにも協力いただきましたわ! 味見もしましたし……その……もし、よろしければ……ご賞味いただけたらと……それと……」


 ルルイエは恥ずかしそうに俯きながら、たどたどしく言った。



「あ、あの時は言えませんでしたが……食事でも思い出でもなんでも、殿下と思いを共有できればわたくしも嬉しいです……」

「ルルイエ……っ!」



 最後には顔を真っ赤にして告げたルルイエの言葉に、ライオスは心の奥底から喜びが沸き上がってくる。


 好きな女性からそんな風に言われて喜ばないわけがない。


『よく言えました、お嬢様!』

『うわ、甘……』


 後ろから彼女の侍女とマシューの心の声が聞こえてきたが、ライオスは無視してルルイエに思いを告げた。


「ありがとう。君が婚約者で……私はとても幸せだ」


 あの時、婚約者候補として出会った相手がルルイエで良かった。そう思った時だった。


「……ひゅっ」

(ひゅ?)


 彼女から息を呑むような音が聞こえ、ライオスがきょとんとしていると、ルルイエは椅子に座ったままその場にひっくり返った。


「ル、ルルイエっ⁉」


 慌ててルルイエに駆け寄ったライオスは彼女を抱き起す。


「どうしたの⁉ 大丈夫⁉ 怪我は⁉」

「…………はっ⁉」


 目を開けたまま固まっていた彼女は我に返った様子で、自分の顔を手で隠した。


「み、見ないでくださいませ! わたくし、とても見せられる顔をしていません!」

「え⁉ ど、どういうこと⁉ 大丈夫だ、ルルイエはいつどんな時も可愛いし、私はいつでも君の顔を見ていたいと思うよ⁉」


 どさくさ紛れに本心を口にすると、ライオスの腕の中にいるルルイエは、首から耳の先まで真っ赤にさせた。


 そして彼女からひしひしと感情が伝わってくる。


『可愛い』『殿下がわたくしを可愛いと』『いつも見ていたいとは?』『殿下の笑顔、素敵』『見ていられない』『近い』『胸が痛い』『音がうるさい』『死んでしまいそう』


(死にそうなくらい胸が痛い⁉ 音がうるさい⁉ 何、奇病⁉)


 医者を呼ぼうとライオスは振り返ると、マシューとルルイエの侍女が何やら悟りきった顔をライオス達に向けていた。


(なんで君達はそんな平然としてるの⁉)

「でっ、ででっでん、でで、でっでで殿下っ!」


 舌が回らないくらい苦しいのか、ルルイエが息絶え絶えにライオスを呼ぶ。


「大丈夫、ルルイエ⁉ 今、医者を……」

「わ、わわわわわ、わたくしっ……」


 彼女は顔を覆った手を外し、ライオスから腕から颯爽と抜け出した。



「淑女として、もう一度学び直してきますわ~~~~~~~~~~っ!」

「ルルイエ~~~~~~~~~~~~~~~~っ⁉」



 逃げていくルルイエを追う為、彼女の侍女はライオスに一礼して離れていく。


 その場に残されたライオスはただ呆然とルルイエが消えていった方角を見つめていた。


(どうしてこうなる⁉)


 恋人のようにとはいかなくても、さっきまでいい雰囲気だったはずだ。それなのに彼女はひっくり返った挙句、逃げてしまった。


 一体何がいけなかったのか、ライオスには分からない。


「マシュー……教えてくれ……一体、私の何がいけなかったんだ?」


 後ろに控えていたマシューに訊ねると、彼は肩を竦める。



「殿下は人の心が分からないってことですよ」

(誰よりも、分かってるんだが⁉)



 なかなか距離が詰められないライオスは、少なくとも卒業までには、彼女に逃げられないようにしたいと願うのだった。



連載版公開開始しました!

第二部はすでに執筆済みです!

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― 新着の感想 ―
[一言] ルルイエ可愛いけど、ライオス殿下が不憫。 面白かったですw
[一言] 殿下、がんばれ~(^^)/~~~
[一言] 甥っ子くんはまともな王様になれるかな?
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