後編
案内された客室は、王子たちがオールヘイグ公爵家を訪れた際にいつも使っているという部屋だった。
ありとあらゆる内装が控えめな印象で揃えられている。見る目がない者が見たら、公爵家には相応しくない質素さだと笑いそうだ。しかし実際はすべて最上級品である。
いったいどこからどのようなツテで、これらの品々を揃えたのやら。ソファーがあまりにも座り心地が良くて、感動せざるを得ない。
好奇心でそわそわするのを頑張って抑えるエリザをよそに、入口横に立つ王子の護衛騎士と侍女は空気のような静けさで待機しており、王子たちとアルフィーナは穏やかな様子で歓談している。
「実を言えば、私たちも近い場所にいたから経緯のほとんどを見ていたのだ。だからベイグラント嬢に聞くことは特になくてね」
(……えっ?)
「さすがに叔母上の誕生日を祝う夜会を、これ以上騒がせるのは心苦しい。被害者であるふたりには申し訳ないが、ここで時間を潰していってくれ」
「心得ておりますわ。重ね重ね、ご配慮に感謝申し上げます」
エリザは言葉通りに事情聴取だと思ってついてきたが、さすが侯爵令嬢、最初からアルフィーナとエリザを大広間から離脱させることが王子の目的だとわかっていたらしい。
おそらくはためらいなく送り出した兄も気づいていたのだろう。ということは、察していなかったのはエリザだけということになる。どうやら冷静になれた気でいたのは気のせいだったようだ。
エリザは高貴な人たちに悟られないよう、静かにゆっくりと嘆息する。
(やっぱりお兄様に追いつくには、まだまだだわ。先は遠いわね……)
「エリザ様、お体の具合がよろしくないのですか?」
唐突にかけられた声に驚いて勢いよく隣へ首を振れば、体ごとこちらに向いているアルフィーナと目が合った。彼女の表情は、微笑みこそあるが心配の色が強い。
「紅茶をひと口もお飲みにならないなんて……。どうか無理はなさらないで」
紅茶を嗜むのは趣味のひとつだ。公爵家で提供されたものとなれば、嬉々としてティーカップに手を伸ばしていただろう。しかし今は、カップに触れてもいない。
アルフィーナの前で紅茶を楽しむ姿を何度も見せたことがあるから、普段と違うエリザの様子が気になってしまったらしい。
彼女の思いやりが嬉しい。
しかし正直な理由は言いたくない。
さぁ困ったぞ、とエリザは頭を動かして良い誤魔化し方を探す。
「スコッシュオード嬢は緊張しているだけではないのか?」
助け舟は向かい側からだった。
柔らかな表情で話すデューク王子が、ティーカップをわずかに傾け、紅茶をひと口。
「ベイグラント嬢と違い、スコッシュオード嬢と私たちはほぼ初対面だ。突然王族と同席しても平常心でいられるのは、よほどの胆力がある者だけだと思うぞ」
デューク王子の意図したところか否かはわからないが、エリザはありがたく話に乗ることにした。アルフィーナに向かって、品が悪くならない程度に肩をすくめてみせる。
「お恥ずかしながら、殿下のおっしゃる通りですわ。殿下方と同席できる栄誉をいただけるなど、今まで一度も想像したことすらありませんでしたから」
「そうなのですか……」
納得できたのか、アルフィーナの細い肩が下がった。すかさずデューク王子が言葉を重ねる。
「見た様子だと、落ち着くまでもうしばらくはかかりそうだ。ベイグラント嬢、今のうちにそこの庭を散策してきてはどうだい?」
「お庭、ですか?」
「この客室からのみ中に入れる内庭なんだが、公爵の趣味で『英雄王の帰還』をモチーフにして整えているそうだよ」
「まぁ!」
歌劇『英雄王の帰還』は、ヴィンスダム国初代国王の活躍を描いた叙事詩を元に作られた人気オペラだ。もちろんアルフィーナも大好きな作品である。
「ランプの灯りがあるとはいえ、暗くなると見えにくくなるからな。まだ太陽は沈んで間もない。今のうちに鑑賞してくるといい」
微笑んで促すデューク王子と、明らかに興味があるがエリザのことも気がかりなアルフィーナ。そして静かに成り行きを見ているようでいて視線がそわそわと落ち着かないユリアス王子。
……何となく、自分の取るべき行動がわかった気がする。
同時に、本当に何となくだが、あのときデューク王子に直接声をかけられた理由もわかった気がした。
ここは話に乗ってあげたほうが恩を売れそうである。恩の大きさは些細なものだろうが、砂粒ほどの善意を積み重ねることに意義があるのだ。しかしそれより何より、アルフィーナに婚約破棄騒動などという災難をちょっとでも忘れてほしい!
エリザは決断すると、アルフィーナににっこりと笑いかけた。
「わたしのことはお気になさらずに。どうぞ行ってらしてください。素敵なお申し出をお断りするものではありませんわ」
「あぁそういえば、ユリアス。以前、公爵に解説してもらったのだろう? ベイグラント嬢を案内して差し上げるといい」
流れるように弟王子へ話を振るのを見、エリザは確信すると共にすかさず後押しする。
「ますますこのような機会はこの先ありませんわ。アルフィーナ様、どうぞ楽しんでらして」
「そ、そうですね……。では……ユリアス殿下のご迷惑でなければ……」
「迷惑だなんて、そんなことっ」
跳ねるように立ち上がったユリアス王子が三人の注目を集めたことに気づき、遅れて頬を赤くした。そのままソファーに戻ってしまうかと思ったが、王子は一大決心でもしたかのような表情になると、向かい側に座るアルフィーナの傍らへと進んだ。
「お心に叶うほどの話ができるかわかりませんが……、僕でよろしければ、案内させてください」
王子の真っ赤な顔につられたのか、アルフィーナも頬をほんのりと染める。
「嬉しいですわ。よろしくお願いいたします、殿下」
「っ、はいっ!」
ユリアス王子が、今度はふらつかせることなくアルフィーナをエスコートしていく。
デューク王子の指示で待機していた騎士が先回りし、外へ続く大窓を開けた。護衛に就くことを伝える彼に頷きで応えるユリアス王子の横顔は、気弱な性格でもやはり王族なのだと感じさせる気品と威厳が香る。
アルフィーナがこちらに向かって会釈してきた。席を外すことを詫びるのに対し、同じく微笑と頷きで返すとエリザは、
(問題は、ここからよ)
窓の閉まる音が完全に消えたところで、腹の底に力を入れ直した。ローテーブルを挟んだ向かい側に改めて顔を向ける。
デューク・ヴィンスダム第一王子。
常に柔らかな雰囲気をまとっている、この国の王位継承権第一位の人物。苛立ちの感情を生まれてこのかた一度も見せたことがない――というのはさすがに誇張された話だろうが、噂を聞く限り、彼が感情的に詰め寄る姿を想像するのは難しい。
一方で、犯罪者には容赦がないとか、弟を溺愛するあまりに女嫌いだとか、どこまで本当なのかわからない噂も多く聞く。
そんな彼がアルフィーナとユリアス王子を外に出し、エリザだけを室内に残したのには絶対に理由があるはずだ。いったい何を言われるのやら。
警戒していると、エリザの視線を真正面から受け止めたデューク王子が、カップを持つ手を膝の上に下ろした。毒も棘もない穏やかな微笑みを浮かべる。
「ふたりでの散歩を許したということは、ユリアスは合格点を貰えたと思ってもいいのかな?」
「失礼ながら、まだ及第点ですわ」
「ほう?」
「確かに『ユリアス殿下のような方がアルフィーナ様の伴侶になってくれたら』とは申しましたが、わたしはユリアス殿下の人となりをほぼ存じ上げておりません。ここで結論を出すのは短慮かと」
「なるほど。賢明な判断だ」
にこやかに頷き、ティーカップをテーブルに戻した。
「参考までに聞きたい。スコッシュオード嬢から見て、ユリアスの足りないところは何だと思う? どんなに辛辣な言葉でも不敬には問わない。忌憚のない意見がほしい」
「…………。信頼性、でしょうか」
「具体的に頼む」
「ユリアス殿下は、お優しく柔らかな雰囲気がたいへん魅力的な殿方だと思います。ですが見方を変えれば、頼りない、という印象に変わります。失礼ながら、いざというとき……アルフィーナ様の身に害が及んだとき、殿下は彼女をお守りしてくださるのだろうかと、不安に思うのは否めません」
「ふむ。スコッシュオード嬢の目からもそう見えるか。……やはりそこなのだよなぁ。良い子なのだがなぁ」
腕組みをして大きく息を吐くデューク王子の表情は、とてつもなく優しい。
思わず頬が緩む。
「弟君のことがとても大切でいらっしゃるのですね」
王子が眉を上げて、茶化した笑みを見せた。
「もちろん。幼い頃はとても臆病で人見知りで、いつも私の後ろに逃げ込むような子でね。私も面白がって、積極的に隠れ場所を提供していたものだ」
「ふふっ、かくれんぼは楽しいですものね」
「そうだな。楽しかった。しかし、あの子なりに『このままではいけない』と思ったのだろう。私を立派に支えられるようになるのだと言って、様々なことを頑張ってくれている」
ふ、と一息。
デューク王子が、どことなく遠くのほうを見やる。
「大切で可愛い、たったひとりの弟だ。あの子には幸せになってほしい。だが、私たちの母と叔母上は仲が悪くてね」
「……え?」
唐突な話題転換に思わず声を出してしまったが、王子はかまわず続けた。
「正確には叔母上が一方的に母上を毛嫌いしているのだ。学生時代に、成績を追い抜いたとか、叔母上より注目を浴びたとか何とか、よくわからない理由でね」
「それは……」
「母上はもちろん父上も、そうなるきっかけとなった原因にまったく心当たりがないらしい。どうにか関係を改善しようと説明を求めても、説明になっていない怒声を向けられるばかりだから、すっかりあきらめてしまわれた」
「……心中お察しいたしますわ」
「ありがとう。私も母上には同情しているよ。だが、あきらめてしまわれたせいで被害が出たことも事実だ」
今度は長めのため息をひとつ。
「今から四年前。私の婚約者を探すために茶会が開かれた。伯爵令嬢ならばスコッシュオード嬢も来ていたはずだね」
「はい、記憶しております」
「あのとき、ユリアスがこっそりと会場を覗き見していたらしい。どのような人が私の婚約者になるのかが気になって仕方なかったようだと、あの子の護衛騎士が教えてくれた」
窓の外へと顔を向ける。優しく、どこか悲しそうな微笑みで。
「そこであの子は初めての恋をした。付き添っていた護衛騎士と侍女も一瞬でそうだとわかるほどはっきりと。相手は、陽に透けそうなほど淡い色の金髪と水色の瞳をした、ひときわ小柄な少女だった」
エリザは察した。いや、察するなというほうが難しい話だ。察せないとしたらそれは、人の心がないか人の話を聞く能力を持たない者だけだろう。
ユリアス王子は、アルフィーナに一目惚れをしたのだ。四年前に。あの茶会で。そして、
「もしかして、それからずっと、お心は変わらず……なのですか?」
エリザの確信を含んだ問いに、デューク王子がこちらを見て微笑む。
「一途だろう?」
「ええ」
「あの子の評価は上がったかな?」
否定する要素は皆無である。エリザは頷いた。
「四年間も、相手が他の者の婚約者となってもなお、近づくことなくただ遠くから想い続ける……。物語の中だけでなく、現実にもそのような方がいらっしゃるのですね」
「そうだな。あの子の忍耐力と愛情の深さには舌を巻く思いだよ。だからこそ、私は自分の失策を悔いている」
デューク王子は自身の両膝に肘をついた。うなだれた格好のまま、両手の指を絡ませる。
「あのとき……ユリアスの恋を知ったとき、すぐに適当な令嬢たちとともにベイグラント嬢を私の婚約者候補として確保するべきだった。そうしておけば、あとからいくらでも理由をつけて、ユリアスとベイグラント嬢を引き合わせることができたのにっ」
王子の声が低くなっていく。表情が見えない頭の向こうで両肩が小刻みに震え出す。
「私が一歩遅れてしまったせいで、叔母上がベイグラント嬢を息子の婚約者にしてしまったのだっ。ユリアスから初恋を奪って傷つけて悲しませれば母上が悔しがるだろうと……っ」
頭を抱えてソファーの背に上体を投げ出したデューク王子の態度も言い方も発言の内容も衝撃的で、エリザの思考が停止した。そして停止している間も王子の暴露は続く。
「従兄弟殿がベイグラント嬢を大切に扱っていればまだ良かったのだ! ユリアスが『彼になら恋した人を任せられる』と安心できる男ならば! なのに、結果はこれだ! 叔母上も従兄弟殿と一緒になって冷たく当たるし! 叔父上は放置するし! そのせいでユリアスは落ち込み、それを見た母上が申し訳なく思って落ち込み、それを見た叔母上は上機嫌! ふざけるなよっ、あンのクソババアッ!」
「殿下。お言葉が乱れております」
入口横で待機している侍女が、表情に見合った冷静な声を発したのはそのときだった。
「ここは殿下の私室ではございません。迂闊な発言はお控えくださいませ」
「うるさいぞ、マリスっ」
「殿下の教育係であるわたくしがうるさく言わず、誰が言うのです? それと、殿下。目の前にいらっしゃるご令嬢の存在を忘れておいてではありませんか?」
そこでようやく、エリザは我に返った。
と同時に、デューク王子も理性が戻ったらしい。はっと目を開き、跳ね起きた。そしてエリザと正面から目が合うと、わずかな間ののちに視線を逸らす。
「失礼」
「……いえ」
受けた衝撃が大きい上に多くてどれから解消したものかと悩むが、やはりいちばんはこれだろう。エリザは呼吸を一拍整えてから口を開いた。
「つまりアルフィーナ様は、嫌がらせに巻き込まれた犠牲者だった、と?」
「そうだ。申し訳ない。ベイグラント嬢の親友であるあなたには、私を責める権利がある」
それは違う。
「デューク殿下。私はそこまで馬鹿ではありません」
驚きをさらして視線を戻した王子に、エリザはにこりと微笑んでみせる。
「悪いのは、アルフィーナ様のお心を蔑ろにした公爵夫妻とご子息。わたしが怒りを向ける先はこのお三方だけです」
「だが、私が――」
「殿下は、公爵夫人相手に政略争いで負けただけでございましょう? ただの経験不足、勉強不足です。『同じ間違いを犯さないよう、励んでくださいませ』以外に言いようがありませんわ」
「ぐっ……」
「スコッシュオード伯爵令嬢様。専属侍女として、教育係のひとりとして、貴重な厳しいご意見に感謝いたします」
「――……、あっ! あ、いえ、その、……つい」
侍女に深々とお辞儀をされたことで、うっかり口が過ぎてしまったことに気づくが、時すでに遅すぎだろう。腹をくくってデューク王子へと深く頭を下げる。
「出過ぎました。どうかご容赦くださいませ」
「……いや。スコッシュオード嬢は何も間違ったことは言っていない。顔を上げてくれ」
言われ、おそるおそる見やれば、デューク王子は苦笑いだ。
「耳に痛くとも、ただの事実に腹を立てるほど狭量ではないつもりだ。気にするな。……話を戻そう」
そう言うと、軽く息を整えたのちに、何事もなかったように続けた。
「従兄弟殿のベイグラント嬢に対する態度を変えられないかといろいろ試みたが、何も変わらず四年。そうしたら先日、従兄弟殿がベイグラント嬢をおとしめて婚約を破棄しようとしていると情報が入ってな」
「それで殿下はこちらにいらっしゃってたのですか」
「ああ。私はもとより招待されていたのだが、叔母上に『そろそろユリアスにも高位貴族の夜会というものを学ばせたい』と、父上経由で話を持っていってもらってね。うまくふたりで入り込めたよ」
王子の笑みに、冷たいものが混ざる。
「叔母上は、ベイグラント嬢と従兄弟殿が連れ添う姿をユリアスに見せつけて傷つけようと思っていたようだ。さすがに従兄弟殿の阿呆な行動は予定外だったらしい。か弱い令嬢に殴り飛ばされて無様をさらすこともな。おかげで今宵の主役のはずが、今はぶっ倒れてベッドの上だ。ざまぁみろ」
「殿下。お言葉」
「マリスはしばらく黙っていてくれ。説教は帰ってからまとめて聞く」
「かしこまりました」
「と、まぁ、こちらの事情は以上だ」
デューク王子が背筋を伸ばし、眼差しに力を込めた。エリザを正面から真っ直ぐに見やる。
「改めて、スコッシュオード嬢には個人的に礼を言いたい。よくぞあの無能男を殴ってくれた! 常々ユリアスのことを見下してくれていたから大っ嫌いだったのだ!」
「ほ、……本当に個人的な理由ですね……」
「気に入らないか? ならば王宮に呼んで褒賞を、という話をしてもいいが」
「おやめくださいませ。さすがに無理です。畏れ多いです。申し訳ないです。周囲から反感を買います」
「うむ。ではここで受け取ってくれ。……それにしても、あいつ、まさかこんな細腕に負けるとは……。それに、最後のあの怯えた顔っ。ふっくっくっ……いやはや、長年の苛立ちがスッキリした!」
(――あっ)
デューク王子の満面の笑みは、完全にいたずらっ子の顔である。だからだろうか。事実と印象がすとんと腑に落ちた。
(あのときの笑い声、この方だったのね)
姿が見つからなかった含み笑いの主は、弟が可愛くて仕方ない兄王子。そして彼の嘘偽りない賞賛だったようだ。
人は見かけによらないと言うべきか、噂に惑わされるのは愚かだと言うべきか。
どちらにしても、デューク王子の印象は良いものへと変わってしまう。変わることが心地よい。腹の底にあった警戒心と緊張が弱まったのを自覚して、肩から力が抜けていく。
エリザのそんな心境変化に気づいたのだろうか。デューク王子のまとう雰囲気がどことなく砕けた。
「親友想いのスコッシュオード嬢を見込んで、ひとつ頼みがある」
「何でしょうか」
「従兄弟殿との婚約をどうにかして解消させる。そうしたら、ユリアスとベイグラント嬢の仲が進むようにさりげなく手助けしようと思うのだ。スコッシュオード嬢、私に協力してもらえないか?」
ユリアス王子はクズ男と比べたら、比べようと思う時間すら無駄だと判断するくらいには好感度が高い。だが、だからといってすぐアルフィーナの婚約者として勧められるかと言われると、答えは否だ。
悪くはないが、良いとも言えない。まだ決定打がない。微妙。
そもそもだ。アルフィーナがユリアス王子に友愛以上の感情を抱くかどうかもわからない。好きでもない相手との婚約を勝手に進められても迷惑だろう。侯爵家の方針もあるだろうし。
と、エリザの思考が働いたのはおそらく数秒。そしてエリザが口を開くより前に、デューク王子が先手を打ってきた。
「これは私の一存でふたりを婚約させる、という話ではないことだけは理解してほしい。私がしたいのは、ふたりが堂々と健全な交流ができるよう、お膳立てを整えることなのだ」
なるほど。王族、それも婚約者が定まっていない王子が特定の令嬢と接触すれば、いらない憶測を呼ぶのは必定。だから雑音を最小限に済ませたいというのがデューク王子の狙いか。
「では、殿下はわたしにどのような役をお望みなのでしょうか?」
「ベイグラント嬢の様子を見ていてもらいたい。そしてユリアスのことをどう感じているか、私に教えてほしい。迷惑をかけているようならユリアスに注意できるし、致命的なら傷が浅いうちに恋心をあきらめさせられる」
「後押しをする必要はないということですか?」
「もちろん。ふたりの関係がどうなるかは成り行きに任せよう。あぁしかし、もしもベイグラント嬢の気持ちがユリアスに傾いたなら、直接ユリアスの相談に応じてもらえると嬉しいかな。贈り物の品であったり誘う場所であったり、女性目線からの助言はありがたいだろうからね」
弟が大好きすぎるこの兄王子ならば強引にふたりをくっつける算段を考えかねないとも思ったが、意外とまともだった。貴族社会の常識を思えば、むしろかなり良心的だ。
そしてエリザに求めるものも多くはない。普段からしていることに、デューク王子へ伝える手間が増えるだけである。
(これくらいなら許容範囲かしらね)
結論を出すとエリザは、デューク王子に向かって頷いた。
「アルフィーナ様を悲しませる殿方は大嫌いです。ゴミクズです。ですから、ユリアス殿下がそんな不快な人間にならない限りは、協力させていただきます」
デューク王子の笑みがぱっと華やぐ。
「感謝する! まずは従兄弟殿との婚約を解消させ、そうしたら何か理由をつけてベイグラント嬢を茶会に招待しようか。個人的な交流をひとつ挟んでおけば、今後動きやすくなる」
「でしたら、先に贈り物をなさることをお薦めいたします。そうですわね……紅茶の茶葉や焼き菓子などが良いですわ」
「ほう。その狙いは?」
「花やアクセサリーと違い、消え物でしたら贈り物として重くないため、周囲の邪推を呼びにくいです。それをお従兄弟様がなさった失礼に対する『お見舞い』として贈れば、先ほどの殿下方の発言もありますから不自然に捉えられることは少ないかと」
「なるほど」
「さらにその後、お礼としてアルフィーナ様が殿下をお招きする流れが自然に作れます。わたしがさりげなくアルフィーナ様に提案いたしますわ」
「なかなか策士だな、スコッシュオード嬢」
「お褒めに預かり光栄です」
「気に入った。そのようにしよう。ちなみにスコッシュオード嬢、お薦めの菓子店はあるか?」
「でしたらぜひ、我が商会が営む菓子店『ルシアン』でお買い求めくださいませ。もちろんアルフィーナ様も好んでくださっておりますわ」
「ははっ、こんなに心地よい口車は初めてだ! 乗ろうじゃないか!」
「ふふっ、恐れ入ります」
思った以上にノリのいい王子である。頭の回転が速い。決断も早い。これは楽しさのあまりついうっかり庶民の従業員たち相手のときと同じ対応になってしまわないように気をつけないと。
心中で己を戒め、エリザは姿勢を正す。
「ユリアス殿下とアルフィーナ様の最初のご縁は、殿下からの『お見舞いの品』で良しといたしましょう。では次に、殿下のご意見をいただきたいことがございます」
デューク王子が眉を軽く上げたのち、面白がる色を目に乗せたまま口を開いた。
「何についてかな?」
「デューク殿下に報告をする際のことです。伯爵家の娘と王子殿下が個人的なお話をする理由に、大義名分が欲しいですわ」
デューク王子は妃探しの最中である。当然、高位貴族の令嬢たちは彼の目に留まろうと必死だ。そこへエリザが王子と親密に接しているのを知ったらどうなるか。
間違いなく目をつけられる! 絡まれる! 面倒くさい!
だがそれでも、エリザ自身に直接害意をぶつけてくるのならばまだ良いのだ。万が一にでもエリザの友人や、取引相手や、従業員たちや店舗に嫌がらせをされてはたまらない。周囲に被害が及ぶことだけは断固として阻止しなければ。
そんなエリザの強い意志を汲み取ってくれたのか、デューク王子が表情を改めた。
「なるほど。私には利点しかないが、スコッシュオード嬢はそういうわけにはいかないか……」
真剣に受け止めて考えてくれる王子に安堵する一方で、彼から出た言葉が引っかかったエリザは、我慢しきれず口を開く。
「アルフィーナ様に関する情報を得ること以外に、利点があるのですか?」
すると王子は、思考のため逸れた視線をエリザに戻し、柔らかく微笑んだ。
「もちろん」
優しい笑みだが、ここまでで王子が見せた豊かな表情を思えば、どこかよそよそしく無機質だ。おそらくはこれが彼の『王族の仮面』なのだろう。
「私の意図を無視して暴走するような女性を、未来の王妃にする気はないからね。スコッシュオード嬢に悪意を向けた時点で、妃候補から即削除だ」
「……つまりわたしの存在は、良いふるいになる、と」
「そういうことだ。嫌がらせ等を受けた際は、ぜひとも報告してくれ。被害の対処も含めて、私が動く」
「かしこまりました。……婚約者選び、難航してらっしゃるのですね」
「国の未来がかかっているからな。さすがに気軽には選べん」
表情を軽くしてひょいっと肩をすくめるとデューク王子は、己の両膝に腕を置いた。身を乗り出すようにしてくる。
「参考までに聞きたいのだが、スコッシュオード嬢は王妃となる女性にどのような資質、能力を求める?」
「一個人の意見で構わないでしょうか?」
「むしろそれが欲しい」
「でしたら……やはり、平民を侮らず、見下さず、尊重して見守ってくださる方がいいですわ」
ふっ、と王子の瞳がわずかに大きくなった。
予想外の返答だったのだろう。しかしこれがエリザの嘘偽りない本音だ。
「国は貴族だけで成り立っているわけではありません。むしろ様々な場所で働く平民がいなければ、あっという間に破綻するでしょう。彼らを虐げることは、損失こそあれど利益は産みません。それを理解しない方に、淑女たちの頂点に立ってほしくはありませんわ。恥ずかしくて外国との取引に差し障ります」
「……そうか」
デューク王子の口元が、じわじわと大きな笑みへと変わっていく。
「自分と同じ意見を持っている者と出会うのは、何とも嬉しいものだね。あぁ、まさに私が妃に求めるものはそれだ。宝石に埋もれてふんぞり返っているような女性は好みではない」
楽しげに含み笑いをして、そうして大きく頷いた。
「実に良いね。君とはぜひ様々な意見交換をしたい。とてつもなく有意義で勉強になりそうだ。まずは商業戦略についてかな。各国の産業についても話し合いたいね」
とんでもない話が出てきた!
「えっ、そんなっ、わたしなんてまだまだ未熟でっ、殿下のお力になれるような話ができるとは……っ。あっ、そうだわっ。わたしの兄は殿下と歳が近く、父から事業の半分をすでに任されておりますからきっとお心に叶う議論ができると思いますっ。ぜひ兄とお話しくださいませっ」
大慌てで畳み掛けるも、デューク王子の笑顔は変わらない。
「カイルス・スコッシュオード卿の噂はいろいろ聞いているよ。とても有能だとね。彼とも話をしてみたいから、まずは君と懇意になってから紹介してもらおうと思っている」
「なぜわたしからなんですかっ?」
「ひとつは弟のための『大義名分』にちょうどいいから。もうひとつは女性目線の理論的意見は貴重だから逃したくない。最後のひとつは君の人柄が面白いから。以上だ」
「最後のひとつは余分だと思いますっ!」
「いやいや、重要だぞ。私は友人が少ないのだ。王子という身分のせいでな。哀れに思うなら話し相手をしてくれたまえ」
「哀れな人間の表情に見えないんですけどーっ!」
「あっはっはっはっはっ!」
麗しの王子様が腹を抱えて大笑いだ。これは完全にエリザをからかっていると見た!
しかし一介の伯爵令嬢である身。あまり強く文句を言うのは気が引ける。ゆえに悔しさはこらえるしかない。……すでに手遅れ感はあるけど。
エリザがドレススカートの上で握った拳をぷるぷると震わせていると、ひとしきり笑って満足したのだろうデューク王子が、大きく深呼吸をした。そうして笑いの発作を落ち着かせ、穏やかな微笑へと戻る。
「さて、と……。そろそろ回復してきたかな?」
エリザを見つめて、自身の右手を胸元まで上げた。そのままの体勢で、何度か開いたり閉じたり。
「…………」
瞬き五回分遅れて、エリザは王子の言いたいことに気づく。
「ぁ」
バカルディスを殴り飛ばしてからずっと扇子を握りしめたままの右手に、顔ごと目を落とした。
殴った衝撃か、拳のまま固まってしまっている。無理に動かさないほうがいいかもしれないと、黙ってそのままにしていた手だ。
「スコッシュオード嬢」
不意の呼びかけに顔を上げたら、微笑むデューク王子と目が合った。その笑みは――『王族の仮面』ではない、純粋な優しさを宿した笑顔。
王子は衣擦れの音だけを響かせて立ち上がると、テーブルを回ってエリザの傍らに近づいてきた。ドレススカートに触れる距離で床に片膝をつく。
「失礼する」
そう告げるなりエリザの右手を取った。手の甲を左手ですっぽりと包むと、握り込まれた指の上から右手を乗せる。そうして、驚きのあまり声も出ないエリザを見上げ、双眸を柔らかく細めた。
「マリスに傷薬を持たせている。もし手袋が血で汚れていたら、紅茶をこぼしてしまったことにして外せばいい。ベイグラント嬢ならば不自然には思わないだろう」
(気づいてらっしゃったのっ?)
程度は薄いが、手のひらには今もじんじんとしびれるような痛みが続いているのだ。もしかしたら皮膚が傷ついて血が出ているかもしれない。
だとしたらレースの手袋は間違いなく汚れている。それをアルフィーナに見られたら、絶対に心配させてしまう。気に病んでしまう。そんなことは望んでいない。
――というエリザの気持ちを、いったいいつから、どこまで見抜いていたのか。恐ろしさすら覚える洞察力である。
デューク王子は再びエリザの手に目を落とすと、ふっと楽しげな笑い声を漏らした。
「十歳のときだったかな……。剣術の訓練で、初めて騎士と対戦したときのことを思い出すよ」
大きな手だ。エリザの右拳は、王子の左手ひとつの中にすっぽりと収まってしまっている。手袋越しに伝わってくる彼の体温が、心地よいほどに温かい。
「訓練が終わったとき、私も君と同じように手が固まってしまってね。剣を離せなくて動揺していたら先生がこうしてくれた。……あぁ、強ばりは解けてきているようだな。良かった」
デューク王子はなだめるようにエリザの指を撫でては、ゆっくりと一本ずつ、手のひらから優しく剥がしていく。
少しずつ筋肉を揉みほぐしながら、ゆっくりと。ゆっくりと。ゆっくりと。
やがて握り込んでいた扇子が解放され、ソファーの上に転がり落ちた。
「……うん、血は出ていないようだ。もしかしたら薄い傷はついているかもしれないが、手当ては帰ってからで大丈夫だろう。マリス、傷薬は必要ない。代わりにスコッシュオード嬢の紅茶を入れ直してあげてくれ」
「かしこまりました」
主従の会話をよそに、エリザはひとり、湧きあがるどうにもならない感情を持て余して固まっていた。
(こういうときってどう反応したらいいのっ?何て返せば正解っ?「わたしは子供じゃないです」は違うのはわかるけどっ!「温かい紅茶をいただけるのは嬉しい」でもないわよねっ!)
そわそわして落ち着かない。どこに視線を置いたらいいかもわからない。何を言ったらいいかもわからない。
だって、どんなに思い返してみても、父と兄と祖父以外の男性にこんなにも大事に触れられた記憶がないのだ。しかし婚約者がいない貴族の令嬢はそれが普通だ。普通のはずなのだ。
なのに! 今日初めてまともにお喋りをした程度の親密度しかない男性が! ひざまずいて! 手を握って! あまつさえマッサージしているのはおかしい! はずだ! たぶん!
「……ふっ」
「ッ?!」
遠慮なく吹き出す音で我に返り、見下ろせば、王子の肩が思いきり震えていた。顔を伏せているせいで表情は見えないが、絶対に笑っている!
「もっ、もうけっこうですっ!」
耐えきれず、勢いよく右手を引っこ抜くと、
「こら、おとなしくしなさい」
すぐにまた捕まった。
そもそも王子の位置が至近距離なのが悪い。これはあれか? まさかエリザが逃げることを想定してのことなのか? くそぅ!
内心で口汚く悔しがるエリザの右手をしっかりと掴んでマッサージを再開したデューク王子が、笑いまじりの声を出す。
「そのように緊張することはないだろう? 好意で助けてやっているというのに」
「お、お気遣いには感謝いたしますが、常識的に考えて、やりすぎだと思うのですっ」
「誰が見ているかわからない場所でならばな。しかし今のここは王家のプライベートルームだ。多少の融通は効くから心配いらない」
「だとしてもっ、その、……私の気持ちも少しは考慮してくださいっ! 家族以外の男性にこんなにも長く触れられたことがないんですっ!」
「……ふぅん?」
王子が手を止め、しかしエリザを解放しないまま、見上げてきた。その優しい微笑み――と言えなくはないがどうにも胡散臭さが光るビミョーな笑顔に、エリザは頬の端を引きつらせる。
「な、何でしょう?」
「君は私のことをそのような目で見ていたのか。初対面と言っても過言ではない関係の淑女を、いきなり取って食うような品のない男だと。なかなかに心外だな」
「えっ」
「私は、うまく回り込んで囲い込んで追い込んで逃げられないようにして、自分から『食べてください』と言わせるほうが好みなのに」
「…………。それはそれで、だいぶ意地がお悪いと思うのですが」
「残念ながら、清廉潔白で馬鹿正直な性格では王族などやっていられないからね」
気づけばすっかりまっすぐに伸びるようになった右手の指を、王子は一度優しく手のひらで撫でる。
「さて。そろそろどうかな、スコッシュオード嬢。手を閉じたり開いたりしてごらん。違和感はあるかい?」
デューク王子にそう言われ、そろそろ本当に離してくれないかなと思いながらエリザは、黙って指の曲げ伸ばしをしてみた。
「……大丈夫です」
「それは良かった」
「何が良かったのです? デューク王子殿下」
耳に心地よい声が、ころころと鳴った。
遅れてそれが親友のものだと気づき、エリザはぱっと顔を跳ね上げる。そしてアルフィーナの姿を見つけて――ちょっと引いた。
(お、怒ってらっしゃる、の、かしら?)
微笑みは微笑みなのだが、可愛らしい見た目からは想像できないほど迫力がすごい。圧がすごい。
一方でアルフィーナをエスコートしているユリアス王子は、兄王子を見つめる表情に笑みはなく、戸惑いひとつだ。
そんなふたりの視線を、デューク王子はさらりと受け止めてさらりと返す。
「スコッシュオード嬢に少しばかり説教をしていたのだが、彼女はなかなかに強情だね。やっと聞く耳を持ってくれたところなのだ」
(ん?)
初耳な発言に首を傾げる間も与えず、デューク王子がエリザに向き直った。捕まえたままの右手を、優しくぽんぽんと撫で叩く。
「いいかい? 君は特殊訓練を受けた女性ではないのだ。成人男性にはどうしたって力負けする。今回は運良く拳一発で倒せたが、そうでないことのほうが多い。何より一対一の状況になるほうが稀だ。最初の敵を倒せても、第二、第三の敵が飛びかかってくるだろう。そうなったら君は無力だ。そのことを肝に銘じなさい」
この状況――エリザにひざまずいて手を握るに至った理由をとっさに作ったのだと気づくのと、アルフィーナがユリアス王子から離れてエリザの隣に座ったのはほとんど同時だった。
「殿下のおっしゃる通りですわ。活動的でいらっしゃるエリザ様はとても素敵で憧れておりますけれど、どうか危険なことはなさらないでくださいませ」
「あー、えぇと……、それはもちろん。護身術を教わったときも、逃げるのが最優先だと耳が痛くなるほど言われましたし。殴るのは、奥の手というか、禁じ手というか……護身用の短剣と同じ扱いをしろと言われましたし」
しどろもどろにアルフィーナへ言い訳をすれば、
「エリザ様は、心に決めたら脇目も振らず一直線なところがおありだから……」
「禁じ手を使うにしては、まったく躊躇がなかったような……」
アルフィーナのみならずユリアス王子にまで残念そうな顔をされてしまった。解せぬ。
「実際、攻撃が見事な鋭さだったから驚いたが……。あの一撃だけなら、騎士たちにも引けをとらないかもしれないな」
デューク王子にいただけた呆れ混じりの褒め言葉は、喜んだらいいのか不満に思ったらいいのか悩むところだ。それよりも本当に手を離してほしい。
身じろぎでそれとなく伝えてみたら、さらにしっかりと握られてしまった。なぜに。
エリザの不満に、しかしデューク王子は気にもとめず、やんわりと微笑みかけてくる。
「護身術と言ったが、誰に教えてもらったのかな? あぁ、スコッシュオード家は多くの護衛を雇っていると聞いたことがある。その中の誰かかな」
「いいえ。偶然出逢った傭兵ですわ。あまりにも素敵な人だったので、つい強引にお願いしてしまいましたの」
――王子の握力が一瞬だけ強くなったような……?
いや、たぶん気のせいだろう。彼の表情は何も変わっていないし。
と、不意の違和感を片づけている間に、アルフィーナがエリザの話を受けてころころと笑い出した。
「ふふっ、あの方のことですわねっ。わたくしなど、馴れ初めのお話を聞いただけで胸が高鳴ってしまったのですもの。当事者であるエリザ様が心を奪われたのは当然ですわっ」
話をしたときのことはよく覚えている。ロマンティックな物語が大好きなアルフィーナの興奮具合といったら、それはもうすごかったのだから。
今も、ふんす、と可愛らしく鼻を鳴らし、両手で花のつぼみのような拳を握ってみせている。語る気らしい。
「不届き者にさらわれそうなエリザ様っ。乱暴に手を引かれ、これまでかと思ったそのときですっ。現れたのは見知らぬ傭兵っ。深紅の長い髪を翻しながら、筋肉隆々とした男たちを次から次へと投げ飛ばし、たったひとりで追い払ってしまったのです!」
うっとり。
幸せそうな微笑みで、中空を見やる。
「足にお怪我をしてしまったエリザ様を難なく抱き上げると、優しくも爽やかに微笑んで『もう大丈夫ですよ』とっ。そして複雑怪奇な街の細い路地を迷いなく歩き、馬車まで送り届けてくださったのですわっ」
親友の脳内ではきっとかなりの脚色がされているのだろう。たぶんラブロマンス的なやつ。
しかし他人の妄想を止めるのも野暮というものだ。そのまま放置し、エリザはほんのり温かい頬に手を当てて冷ましながら話を継いだ。
「後日、助けてくださったお礼をするために我が家へお招きして、その際にわたしの専属護衛として雇いたいと依頼しましたの」
「思わず護衛にしたくなるほど、その傭兵は強かったのですか?」
目を輝かせるユリアス王子に、エリザは大きく頷いた。
「細身の体ですのに、体格のいい男性たちをばったばったと投げ飛ばしていったのですっ。まるでダンスを鑑賞している気分でしたわっ」
「それはすごいですねっ」
「はい! わたしを抱き上げたときも、不安など微塵も感じさせない力強さで……。あまりにも格好良すぎますわっ。憧れですっ。ですからあんなふうになりたくて、ついつい無理を言って護身術の指導をお願いしてしまった次第です」
「実際問題、あの方がエリザ様を守ってくださるようになってからは一回も、誘拐未遂すら起きておりませんものね」
アルフィーナがデューク王子の手から、エリザの右手をすっと抜いた。そのまま祈るように両手で挟み、優しく握りしめる。
「わたくし、あの方には心から感謝していますの。日々エリザ様の傍にいて、守ってくれてありがとう、と。どうかお伝えしてくださいませね?」
「はい。必ず」
「うふふっ、またお茶会で冒険譚を聞かせてもらいたいわっ。あの方のお話、わたくしは大好きよっ」
「アルフィーナ様がいつも楽しそうに聞いてくださるから、話し甲斐があると言ってましたわっ。次は何の話にしようかとよく考えてるんですよっ」
「まぁ、楽しみ!」
片膝をついた体勢のまま身じろぎひとつしないデューク王子と、「僕も剣術練習頑張ろう」とこっそり拳を固めているユリアス王子と、次のお茶会はいつにするか計画を立て始めたアルフィーナ。
三者それぞれの反応を眺めながらエリザは、とりあえず、手が怪我をしておらず、痛かったことを親友に見抜かれなくて良かったなぁと、心底安堵したのだった。
そして、このときもうちょっといろいろ深く考えて少しでも予防線を張っておくべきだったと後悔することになるのは、後日談である。