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前編

流行りに乗って、令嬢ものを書いてみました。

まとめて全部どさっと上げておきますので、気晴らし、暇つぶしにぜひどうぞ。

恋愛の甘々成分は軽め。さくっと笑っていただけたら嬉しいです。




 エリザ・スコッシュオード伯爵令嬢には、小さな悩みと大きな悩みがひとつずつある。

 まず小さな悩みは、十七歳となってデビュタントしたにもかかわらず、婚約者がいまだ決まらないことだった。


 決してエリザ自身に問題があるせいではない。

 美女とは言えないまでも、誰かに不快感を与えるような容姿はしておらず、むしろ白い肌と栗色の髪は極上の手入れによっていつも絹のような美しさだ。貴婦人たちから羨望の眼差しを向けられることも多い。

 そして外見だけでなく知性もあることは、エリザに関わる多くの人々が認めるところである。

 しいて欠点を挙げるとすれば直情型で、熟考する前に動いてしまうところだろうか。六つ年上の兄に「お前は淑女の仮面をかぶった猪だ」と、しょっちゅう頭を抱えさせているのは余談である。


 では何が原因かというと、『先祖代々商才に恵まれた血筋が続いた結果、スコッシュオード伯爵家はその辺の侯爵家など足元にも及ばない大富豪である』ということに尽きる。

 要するに、近づいてくる紳士どもがどいつもこいつもエリザではなくエリザの実家の財力に求婚してくるのだ。ムカついて片っ端から拒絶するのも道理というものだろう。


 幸いにも、兄が優しくて有能な妻を迎えており、三週間前に長男が生まれたばかり。後継者問題は片付いたと言っていい。

 エリザ自身も特に結婚願望が強いわけではなく、ついでに楽天家なため、このまま行き遅れてもどうにかなるだろうと思っている。

 だというのに、家族が放っておいてくれないことが悩みの種だ。


 貴族では珍しく大恋愛の末に結婚した両親が、「恋愛しろとまでは言わないが、一度くらい結婚を経験してみるのもいいと思うぞ?」「そうよ。駄目だったらさっさと離婚して戻ってくればいいのよ」と言って、なかなかあきらめてくれない。あきらめないくせに、婚約者ができる前からエリザには結婚生活を長続きさせられないと思っているのを言葉の端々からポロポロこぼしていることに気づいていないのだろうか。つらい。

 一方で妹の猪っぷりの最たる被害者であろう兄は「あいつを嫁にできるのはよほどの聖人か、かなりの策士くらいだ」と笑って、一生結婚できないほうに友人と賭けをしているらしい。失礼な。

 そんな三人を生温かい微笑みで眺め、「あの方たちのことは気にせずに、エリザさんの好きにしていいのよ」と優しく髪を撫でてくれる義姉の存在が救いである。女神か。


 そんなわけで、財産目当ての男どもを蹴散らすわずらわしさと、家族からの干渉に対する面倒くささが悩ましい日々である。

 が、これらは時間が解決してくれると思っている。耐えられないことではない。

 やはりエリザの頭と心を常に、最大限に苦しめ、苛立たせてくれるのは、『大きな悩み』のほうなのだ。






 ここは、オールヘイグ公爵家。

 今日は公爵夫人の誕生日を祝う夜会である。


 好事家としても有名なオールヘイグ公爵家の邸内は、どこを見てもすばらしい調度品で彩られている。国内のみならず諸外国からも集めたのであろうそれらは、どれもこれも公爵家の名に恥じない豪華さがありつつ、気品もある。ひとつひとつが美術品だと言っても過言ではないだろう。

 そして降嫁した王妹が公爵夫人を務めるだけあり、会場に集まっているのはそうそうたる面々だ。高貴な彼ら彼女らがまとうタキシードやドレス、宝石の一粒に至るまで、視界すべてが華やかである。


 そんな中、エリザは産後間もない義姉の代理という役目をまっとうすべく、兄のパートナーとして付き添い、伯爵家が懇意にしている貴族方へ一緒に挨拶していたときのことだった。


「アルフィーナ・ベイグラント! お前との婚約を破棄させてもらう!」


 紳士淑女の交流の場にはふさわしくない大声が響いた。

 あまりに突然の、しかも不穏すぎる発言に、理解が追いつかないのだろう周囲の人々がざわめき出す。しかしエリザの混乱は一瞬だけだった。

 怒りのあまり思わず手に力が入ったせいで、エリザをエスコート中だった兄が痛みで小さくうめいたがどうでもいい。


(あ、あ、あンのクソバカボンクラ男! ついにやりやがったわねぇぇぇッ!)


 騒ぎの中心は人混みで見えないが、この場にいる全員が誰の声であったのかは理解しているだろう。

 オールヘイグ公爵家嫡男、バカルディス・オールヘイグ。

 それこそがエリザの大きな悩みの元凶、諸悪の根源の名であった。


(いつかバカをやらかすとは思ってたけど、想像以上の大バカ行動だったわ! ふざけるんじゃないわよ!)


 エリザは大股で歩き出した。

 腕を組んだままの兄がよろけて、引きずられる格好でわめく。


「エリザ! 気持ちはわかるがちょっと待て! ちょっとだけでいいから!」

「お兄様は無関係でしょ! 黙ってて!」

「無関係なら俺を連れていく理由はないはずだよな!」

「可愛い妹のためなら、ちょっぴり問題が起きても力ずくでもみ消してくれると信じてるわ!」

「発言が心底可愛くない!」

「今さらよね!」


 常にアクティブな妹とデスクワーク主体の兄。日頃の運動の差が顕著に出て、エリザは難なく騒ぎの中心にたどり着く。すると、半ば強引に割って入ったエリザたちに気づいた中心人物たちが顔を向けてきた。

 ひとりは鮮やかな金髪碧眼の、見た目だけは貴公子。バカルディス公爵令息。

 そしてもうひとりは、淡く柔らかな色あいの金髪と澄んだ湖を思わせる水色の双眸を持つ、エリザと同い年の小柄な少女。先ほどバカルディスが放った暴言の中に名があった、アルフィーナ・ベイグラント侯爵令嬢である。


「……エリザ様……っ」


 桃色の可憐な唇からこぼれた声は、隠そうとして隠しきれず震えていた。


 アルフィーナは、エリザが今までに出会ってきた同年代の少女たちの中で、最も完璧な淑女。いつも穏やかで、落ち着き、微笑みを絶やさず、身分にかかわらず誰に対しても公平に接する人。

 婚約者であるバカルディスにぞんざいな扱いを受け続けても、侯爵家の娘としての責務を果たすべく、公爵夫人となるための厳しい教育を毎日頑張っていた人。

 大好きな画廊や劇場にもっと通いたかったはずなのに。もっと小説を読みたかったはずなのに。時折エリザにうっかり弱音を漏らしてしまっては、「ほかの方には内緒にしてくださいね」とお茶目を装って微笑んでいた人。

 いっそバカルディスなんぞよりも、この国にふたりいる王子たち、そのどちらかの妃になってもおかしくない女性なのに! とアルフィーナに向かって力説したことさえある、大好きで自慢で尊敬する友が、冷静さを取り繕えず震えている。淑女の仮面をかぶりきれずにいる。


(本当に……ほんっとぉぉぉにっ、どれだけアルフィーナ様を傷つけたら気がすむのよクソバカ男っ!)


 ギリリッとバカルディスを睨みやる。

 と、そのバカルディスの表情が変わった。エリザに向かって自信に満ちた笑みを見せる。


「ちょうどいいところに来た、エリザ・スコッシュオード」


 次の瞬間やってきたのは、『嫌な予感』などという可愛いものではなかった。


「皆、聞いてくれ! アルフィーナのような顔が良いだけの口うるさい無能女ではなく、莫大な財力で夫を支えられるエリザこそが俺の婚約者にふさわしいのは誰の目にも明らかだ! よって、アルフィーナ・ベイグラントとの婚約を破棄し、新たにエリザ・スコッシュオードと婚約することをここに宣言する!」

「――…………」


 騒ぎが起こっても場の空気を戻すべく奮闘していた公爵家の楽団たちが、ついに手を止めた。様子をうかがっていた周囲の人々も呆けている。

 完全なる無音。その中で、バカルディスのバカ笑いだけが響き続けた。


「エリザ、伯爵令嬢程度が公爵夫人になれるなんて夢のようだろう? さぁ、俺のところへ来るがいい! アルフィーナと比べれば目鼻立ちはそこそこだが、その肌と髪は触り心地が良さそうだからな。存分に可愛がってやろう!」


 ――するり。


 エリザは兄の腕から手を離した。脱力した両腕を体の横にたらし、呼吸を深ーく一回。


『いいですか、お嬢さん。あなたの細くて小さい手でも、使い方次第では立派な凶器になるんです』


 脳裏によみがえるのは、かつて縁あって知り合った傭兵の力強い笑顔と言葉だ。


『凶器を振るうときは覚悟を決めてください。殴るのって、殴られるほうだけじゃなくて殴るほうも痛いから』


 大丈夫。覚悟はできている。

 正確には、受ける痛みへの恐怖よりクソ男への激怒が圧勝だ!

 エリザはバカルディスへ向かってまっすぐに歩き出した。足を進めながら教えをなぞる。


『まずは小指から順番に折りたたんで、固く握り込んで。でも、りきんじゃ駄目ですよ。拳は固めるだけ。力を込めるのは、腕でも肩でもなく腰です』


 レースの手袋をつけた右手を腰の高さまで上げ、たたんだ扇子の柄を包み込むようにしっかりと拳の形にする。

 近づくエリザの様子が思っていたものと違うことを感じ取ったのか、バカルディスが気持ち悪い笑みをわずかに引っ込めた。

 その無駄に整った顔面をしっかと見据え、息を強く腹の底に押し固める。


『踏み込みは軽く』


 バカルディスの斜め前に左足で一歩。


『的に当てるのは中指の関節。そこから肩まで鋼の棒が通ってるのをイメージして』


 力の乗った上半身の旋回によって前方へ飛び出す右肩。腕。拳。


『レイピアの突きのように――』


(的を、まっすぐに、ぶち抜くッ!)


 ――ゴガッ! ずバダァァァンッ!


「きゃあぁぁぁっ!?」


 避けもしなければ顔をかばうこともせずまともにエリザの拳を顔面に受けたバカルディスが、背中から無様に転倒した。体に続いて両手両足が床に激突した派手な音と女性たちの悲鳴が重なり、それを呼び水にしてホールが騒がしくなる。

 バカルディスの言動に呆れていた人々も、エリザの暴挙は見過ごせなかったようだ。「伯爵令嬢が公爵子息に手を出すなど許されることではない」などなどと、口々に非難する言葉を囁きあう。


 それがどうした。


 このあと事後処理に追われることになる兄には悪いことをしたなと思う――しかしエリザが一生結婚できないほうに賭けているのだから『ほんのちょっぴり』だ。むしろこれで勝つ確率が上がったと喜んでもらいたいところである――が、それ以外の人間たちにとってはどうせ他人事である。ゴシップに野次を飛ばす程度の軽い気持ちで漏らす陰口など、痛くも痒くもない。

 よろよろと体を起こし始めたバカルディスを睨み、エリザは怒りを吐く。


「夢のよう、ですって? ええそうですわねっ、悪夢だわ! 最悪のね!」


 バカルディスが腫れていく左頬を押さえながらエリザを見上げ、表情を歪ませた。怒りと驚きと痛みで声も出ないらしい。口を震わせるばかりで、へたり込んだまま立ち上がろうともしない。

 居丈高に大口を叩くばかりで、痛みをこらえる根性もないのか。情けない姿をさらすまいと踏ん張る自尊心すらないのか。ますますもって腹立たしい。

 エリザは手脚を戻して背筋を伸ばし、顎を上げてクズを見下ろす。


「あなた様がアルフィーナ様と婚約して、今年で四年ですわね。その間、アルフィーナ様は立派な公爵夫人となるべく勉強に励んでこられたわ。ご趣味でいらっしゃる読書や観劇などをたくさん我慢なさりながら。では、あなた様は? いったい何をなさった?」


 右手の中で扇子がギシリと軋み音を上げた。


「アルフィーナ様のお誕生日にすらお声がけひとつなく! 花の一輪も贈らず! ドレスはおろかアクセサリーのひとつも贈らず! お茶会に招待があってもエスコートせずに放置! 公爵家のための努力をねぎらい労わるどころか、口うるさいですってっ? そんな態度で、よく四年間も堂々とアルフィーナ様の婚約者面ができたものですわね!」


 怒りのあまり、泣きそうだ。

 アルフィーナが一生懸命隠し続けた涙を思って、泣きそうだ。

 エリザはぐっと力を入れて耐え、叫ぶ。この夜会に集まる高位貴族たち全員の耳に届くように。アルフィーナを嗤う者たちを言葉で殴るように。


「アルフィーナ・ベイグラント侯爵令嬢は、身も心もお美しく、ご立派な方です! 憧れや尊敬や称賛を受けることこそあっても、事実無根の悪評でおとしめて良い方ではありません!」


 一気にまくしたてたせいで尽きた息を大きく吸い直してエリザは、わかりやすく鼻で笑ってバカルディスを見くだしてやる。


「アルフィーナ様が『顔が良いだけの無能女』? そっくりそのままお返ししますわっ、クソバカボンクラクズ男!」

「なっ!?」

「アルフィーナ様の素晴らしさを理解できないなんて、知性も感性も無能である証拠! 誇りあるスコッシュオード家の娘として、そんなカスを伴侶にするわけにはまいりません! さらに何よりも――」


 熱い怒りはようやく落ち着いてきた。代わりに、生涯燃え続けるだろう冷たい苛立ちが腹の底に溜まる。


「わたしのことを、大切な親友を傷つけた男に喜んで嫁ぐような非情極まりない最低最悪な人間であると侮辱なさったあなた様の言葉、決して赦しませんわ」


 顔から笑みを削ぎ落とし、


「わたしの顔が金貨か銀貨にしか見えない男は、救いようのない醜男だと思ってますの。不快ですから二度と近づかないでくださいませ。もしもわたしに指一本でも触れようものなら、覚悟なさることね」


 ――ズダンッ!


 渾身の力で床を踏み鳴らし、クズ男の股間を扇子でビシッと指す。


「あなた様のその大事な大事なゴミを、蹴り潰してさしあげるわッ!」

「ヒッ!」


 バカルディスが己の股間を押さえて脚を閉じ、縮こまった。

 同時にエリザの視界の端に引っかかった、同じように股間を手でかばう仕草をしている紳士ども数名は、エリザのことを金づるとしか思っていない人間に違いない。覚えておこう。

 エリザの冷たーい視線としっかりばっちり目があってしまった彼らがそそくさと人垣の向こうに逃げていくのを、嘆息まじりに見送っていると、


「ふっくっくっくっ……」


 どこからか、楽しげな含み笑いが。


(?)


 軽く見渡してみたが、声の主は野次馬たちの向こう側にいるらしく、それらしい姿は見えない。視線をさまよわせているうちに声は消えてしまった。

 あまり出会ったことのない、嫌味も悪意もない笑い声であった。

 さすがのエリザにもそれなりにあった『場の空気を乱した罪悪感』を洗い流してしまうような。イタズラを笑って許してもらえたような。

 不思議な心地だ。


(誰だったのかしら……)


 すっかり力が抜けた己の肩に気づいたエリザは遅れて、いつの間にやらバカルディスもどこかへ行ってしまったことを知った。逃げ足の速いことである。

 そうなるともう、怒りを維持するのも馬鹿馬鹿しい。エリザはふぅと腹から力を抜く。


 ――カタタ……ンッ。


 背後で、何かが落ちた。

 軽い音だ。誰かが扇子でも落としたのだろうか。そんなことを思いながら振り返ったエリザは、


「っ、アルフィーナ様!」


 ドレススカートを花びらのように広げ、胸を押さえてへたり込むアルフィーナを見つけた。慌てて駆け寄り、彼女の前に両膝をつく。


「アルフィーナ様、大丈夫ですかっ? あぁ、大丈夫なわけがないわっ。どうか、どうかお気を確かに……っ」


 少しでも支えになればと細い肩に手を添えるなり、アルフィーナが顔を上げた。真っ青な、泣き出しそうな表情で、エリザをまっすぐに見つめてくる。


「……わたくしは、エリザ様に、お優しい言葉をかけていただく、資格が、ありません……。親友と呼んでいただく資格など……」

「え?」


 震える瞳も唇も声も隠さずに、アルフィーナが懺悔の言葉を口にする。


「わたくしは、疑ってしまいました。バカルディス様の元へ歩いていくエリザ様を見て……、エリザ様が、わたくしから婚約者を奪うのだと、疑ってしまいました。今まで、共に過ごした時間のことも忘れて……エリザ様からいただいたたくさんの優しさも忘れて、疑ってしまいましたのっ」


 涙が一粒、クリスタルのように輝きながら、彼女の頬を転がり落ちた。しかしこぼしてしまったのは一滴だけだ。すぐに引き締めて言葉をつなげる。


「こんなわたくしでは、エリザ様のお傍にふさわしくありませんわっ。友人どころか、親友だなん――あぅっ」


 ――左手だったため、少しばかり力加減を失敗してしまった。


 エリザに人差し指で額を小突かれて、おもいっきり首を後ろに倒したアルフィーナが、よろりと上体を戻したところで、エリザはたまらず吹き出す。


「アルフィーナ様ったら……。そういうところですよ」


 笑いが止まらない。

 くすくすと漏らしっぱなしのまま、エリザは背筋を伸ばして向き合った。


「誤解したことなどわざわざ話さなければ誰にもわからないのに、アルフィーナ様はわたしに直接伝えてくださった。わたしより身分が上でいらっしゃるのに、真摯に向き合ってくださった。……充分ですわ」


 心からの笑顔を。淑女の微笑みではなく、友情を伝える笑顔を。


「決して保身に走らず、身分を振りかざさず、常に清廉でいらっしゃるアルフィーナ様だから大好きになったんです。そんなあなた様だからこそ、胸を張って親友とお呼びしたいんです」

「エリザ様……っ」

「どうかこれからも変わらず、わたしのいちばんのお友達でいてくださいませ。ね?」


 するとアルフィーナは大急ぎで両目の涙を指で拭うと、淑女の美しい微笑みではなく、友愛をめいっぱい込めた愛らしい笑顔を見せてくれた。


「はい、エリザ様」


 可愛らしすぎて困る。

 エリザは我慢できず彼女に抱きついた。


「アルフィーナ様、大好きです! アルフィーナ様を泣かせるクソボケ男は、わたしがみーんな蹴散らしてみせますから安心なさって!」

「お気持ちは嬉しいですけれど、絶対に怪我だけはなさらないでね」

「努力はします!」

「エリザ様ったら……」


 楽団員たちの気力が復活したのだろう。音楽が再び流れ始めた。明るいワルツの音色が華やかな広間の雰囲気を取り戻していく。

 それとともに、周囲の野次馬の中でも良心的な者、中立の立場を維持する者は場を離れ、それぞれの建設的な会話へと戻っていった。いまだ悪意を持ってエリザたちの失態を探している者たちの目は感じるが、もう大丈夫だろう。

 エリザはそっとアルフィーナから体を離した。彼女の表情に悲しみや苦しみが見えないのを確認したところで、近づいてきた男性の靴、その持ち主を見上げる。


「あら、お兄様」

「『あら、お兄様』じゃない。お前はどうしてこう面倒ごとばかり――」


 眉間に大きな皺を寄せている兄に、ひょい、と左手を差し出してみせれば、エリザの要求を素早く察した彼は口を硬直させた。頬をひくつかせ、しかし何も言わずに手を取って引っ張り、立たせてくれる。そうしてエリザが問題なく体勢を整えるまで支えたところで、


「公爵家に喧嘩を売る奴があるかっ。つい最近やっとあちら側に新しい販路を――」


 続けだした説教が、エリザを越えた向こう側に視線が逸れた瞬間、また止まった。

 兄があからさまな動揺を見せるとは珍しい。不思議に思い、振り返ったエリザは、その理由を瞬時に理解した。これは驚くし慌てるし焦るのも当然だ。


「お話中に失礼します。ベイグラント嬢、冷たい床の上ではお体に触ります。どうぞ、お手を」


 周囲のざわめきをものともせず、アルフィーナの傍らに片膝をついて手を差し伸べているのは、この国の貴族ならば知らない人は存在しない人物。落ち着いた色合いの金髪と深い青色の瞳をした彼は、ユリアス・ヴィンスダム第二王子だった。

 昼間におこなわれる茶会ならともかく、デビュタント前の十四歳である第二王子がなぜここにいるのか。まったくわからないが、彼が緊張した面持ちでアルフィーナに手を差し出している現実は変わらない。


 まだ少年の細さを残している青年の手を驚きでもって見つめていたのは、たぶんわずかだったのだろう。この中で誰よりも早く驚愕から立ち直ったらしいアルフィーナが、淑やかに目礼する。


「お心遣いに感謝を申し上げます。ですが、王子殿下のお手をわずらわせるわけにはまいりませんわ」

「ここには王子としてではなく、公爵夫人の甥として来ています。ですから……、バカルディス殿の従兄弟として、彼がした非礼を、せめてわずかばかりでもお詫びさせていただけないでしょうか」


 ユリアス王子に接する機会はなかったため、直接の印象はこれが初のものとなる。

 アルフィーナに近づきすぎず遠すぎもしない、どちらかといえばほんのわずかだけ遠い距離に、彼の控えめな性格が見てとれた。

 細部をつつくならば、もっと良い対応や言葉もあるのだろう。しかしアルフィーナを慮る気持ちが伝わってくる点においては完璧だ。ひじょうに好感度が高い。


(クズ男の従兄弟とは思えないし、あれより六歳も年下とは思えない紳士……、いえ、一瞬だけでもバカなんかと比べるなんて、無礼なことを考えたわ。申し訳ありません、殿下)


 エリザが胸中で反省しているうちに、アルフィーナは決断を終えたらしい。彼女は淑女の微笑みを浮かべると、ユリアス王子に向かって手を差し出す。

 白絹の長手袋に包まれたそれを、わずかに目を見張って見つめた王子は、すぐさま表情を引き締めた。高価なガラス細工でも持つようにアルフィーナの手を取り、立ち上がる。


「足元にお気をつけて」

「はい」


 と、ユリアス王子の引っ張る力が少し強かったらしい。アルフィーナがドレススカートを揺らしてふらついた。

 ユリアス王子が目に見えて慌て、横に傾いだ彼女の体を抱きしめ支える。

 倒れずに済んだところで、ふたり揃って一息ついて、


「っ! すっ、すみませんっ!」


 大慌てでユリアス王子が、アルフィーナの肩を掴んで体を離す。そうして真っ赤になった顔を勢いよく伏せた。


「女性のエスコートはまだまだ不慣れで……。兄上ならきっと、もっとスマートにお助けできたのでしょうけど……」


 視線の先に彼女が落としてしまった扇子を見つけると、体をかがめて拾った。汚れてなどいないだろうに自身の袖口で軽く拭い、両手でアルフィーナに差し出す。


「不躾なまねをしてしまったこと、お許しください。お怪我はありませんでしたか?」


 するとアルフィーナが、ふぅわりと微笑みを強くした。扇子を受け取る。


「はい、どこも痛みませんわ。支えてくださり、ありがとうございます。とても頼もしゅうございました」

「そ、そうですか。……良かった」


 はにかむユリアス王子を見つめるアルフィーナも、どことなく照れくさそうだ。

 受け取った扇子を優しく両手で胸に抱いた親友の表情を眺めながら、エリザは隣の兄に体を寄せる。


「ねぇ、お兄様」


 小声で隣に呼びかけると、面倒くさそうなため息のあとで同じく声を潜めて返してきた。


「なんだよ」

「アルフィーナ様とユリアス殿下、けっこうお似合いだと思わない? 思うわよね? やっぱりアルフィーナ様にはああいう穏やかで優しい殿方じゃなきゃ駄目よっ。こうなったら本当にあのゴミクズと婚約解消できるように、何かお手伝いできることはないかしらっ」

「それは嬉しい言葉だね」


 耳に届いた囁き声は、兄のそれとは似ても似つかず。

 しかも兄のいる反対側の耳。

 嫌な予感しかしないが、気づかなかったことにできる性格もしていない。

 勢いよく振り返ったエリザが見つけたのは、ユリアス王子とそっくりの深い青色の双眸。赤みを帯びた艶やかな金髪に縁取られた美しい顔立ちは、ユリアス王子以上に知らない者がいてはならない人物。デューク・ヴィンスダム第一王子であった。


(なんでこんなところにいらっしゃるのよーっ!)


 そりゃあ第二王子がいたら第一王子もいるだろう。こちらは十九歳でしっかり成人済みなのだから。

 とはいっても、いいや、だからこそ、登場する際にはもっと気をつかってほしいと心底思ったエリザである。


 精神状態がよろしくないそこへデューク王子にさりげなく微笑みかけてられて、うっかり顔が引きつりかけたのをどうにかこらえると、急いで最上敬意を表す深いカーテシーをした。遅れて第一王子の存在に気づいた周囲の人々がお辞儀をするのを、衣擦れの音で察する。

 やがて身じろぎする音がおさまったところで、デューク王子が声を発した。


「今宵は公爵家の親族として来ている。礼は必要ない。顔を上げてくれ」


 先ほどの微笑みを向けられた衝撃が残っているせいで、おそるおそる体を起こす。するとデューク王子はすでにエリザを見ておらず、ユリアス王子に近寄っていくところだった。


「まだここにいたのか。場を混乱させてはいけないから早めに移動しろと言っただろう?」

「すみません、兄上。その……不慣れなのが出てしまい、ベイグラント嬢にご迷惑を……」

「そんなところだろうとは思ったよ」


 笑み混じりに言って、弟王子の頭を撫で叩く。そして、弟へ向けた慰めを含んだ優しい眼差しのまま、三歩後退して控えていたアルフィーナへと顔を振った。


「ベイグラント嬢。従兄弟殿と私の弟がかけた迷惑、いま一度私からも謝罪しよう。……どうにも言葉に困るのだが……、災難だったな」


 デューク王子の苦笑に、アルフィーナも苦味を小指の爪先ほど混ぜた微笑を返す。


「恐れ入ります。ですが、ユリアス殿下にかけられた迷惑というものには、まったく心当たりがございませんわ。終始お優しく、紳士的に、手助けしてくださったのみですから」

「そうか。ならば良かった」


 アルフィーナは微笑みから苦味をすべて消すと、デューク王子とユリアス王子、ふたりに向かって深いカーテシーをすることで礼と変えた。

 それを受け、デューク王子が鷹揚に微笑む。


「ではベイグラント嬢。先ほどの騒動に至った経緯を聞きたい。ことによっては父上にご報告しなければならないからね。申し訳ないが、別室に来てもらえないだろうか」

「かしこまりました」

「それと、スコッシュオード嬢」


 デューク王子に再び微笑みを向けられ、エリザは思わず息を詰まらせた。しかし王子は何事も気づかなかったように続ける。


「親友が傍にいるほうがベイグラント嬢も心強いだろう。もし都合が悪くなければ同行してもらえないか?」


 優しく見えて、ひじょうに拒否しづらい要求を向けられてしまった。

 返事に困り、隣を見やれば、すでに冷静さを取り戻していた兄がエリザを見下ろしてひょいと肩をすくめてみせた。


「挨拶をしなければならないところは済んだ。あとは俺ひとりでも大丈夫だから、行ってきていいぞ」


 いつもの口調のおかげで、エリザにも平常心が戻ってきた。ほっ、と息と笑みがこぼれる。


「わかったわ、お兄様」

「だけどな、頼むからこれ以上は問題を起こすなよっ。いくら俺でも手に負える限界ってものがあるんだからなっ」

「あら。自己評価が低すぎるのは傲慢と同じだと聞くわよ、お兄様」

「やかましいわ、猪娘っ」


 エリザの背中を叩くように押し出すと兄は、王子たちにお辞儀をし、あとは振り向きもせずに行ってしまったのだった。

 自分たちの会話が衝撃だったのか驚いた表情をしている兄弟王子たちと、もう慣れたらしく小さく笑っているアルフィーナ。彼らに改めて向き直るとエリザは、腹の底を引き締めて背筋を凛と伸ばす。


「お待たせして申し訳ございませんでした。アルフィーナ様のお力になれるのでしたら喜んで、同席いたしたく思います」


 デューク王子が、驚きを引っ込めて微笑を顔に戻し、頷いた。


「そうか。では行こう」


 先導する王子たちに続き、アルフィーナの後ろについて楚々と歩き出しながらエリザは、ふと思う。


(そういえば、どんなことをしたらお兄様の言う『問題』になるのかしら。この殿下たちを殴るなんてことは、さすがにないと思うんだけど……?)


 内心ひっそりと首を傾げるのだった。



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