鳥籠の中の黄色い鳥
僕は鳥かごの中の黄色い彼女の話をしなければならない。
彼女はセキセイインコである。顔から背中を通って尻尾まで黄色く、お腹から尾の付け根までが緑色をしている。それは夏の透き通った川が常緑広葉樹の葉を反射したような淡い緑で、僕はこの色が好きなのだが、彼女は何色かと問われると、彼女の身体の色で割合が一番多い黄色と答えざるをえない。顔が黄色なのも原因だろう。その黄色い顔は特徴的だ。やわらかく膨らんだお腹や、小筆のように鋭い尻尾などは、意識的に見ようと思わないとまず見ることはない。今、眼をつぶってありありと思い出せるのは黄色い彼女の顔のおとぼけた丸い眼と、頬から顎の線にかかる黒い斑点だけである。他の印象は何とか言葉にしてみたところで、霧に隠れているように不鮮明で、おぼろげだ。だから僕は彼女を黄色い彼女と呼んでいる。
彼女がいつもいた鳥かごは長方形のステンレスでできた金網タイプのもので、身長が僕の掌と同じくらいだった彼女にとって鳥かごの広さは快適なものだったにちがいないと思っている。
彼女はかごから出ていこうとはしなかった。面白いことに僕がここから出たいかと尋ねると彼女はふるふると首を横に振る。人間の言葉を理解できるはずはないが、必ず尋ねると首を振る。彼女はこういうことがよくある。かごの角に餌入れがあって、その上に小さな扉があり、そこから彼女の食事を入れれば近づいてきてついばむ。それでことがすむため、食事をしにかごから出たこともない。そもそも僕も彼女をかごから出したくなかった。
彼女にかごから出たいかと尋ねたのは彼女に対する遠慮からであって、そのたびに彼女が首を横に振ると何とも言えない喜びを腹の底に感じていた。僕はかごの中にいる彼女を愛していればよかった。たまに網の間から指を入れると、それに気が付いた彼女は丸いくちばしで僕の指先を優しくつついてくれる。僕が彼女に触れるのはそんなときだけでよかった。たまに指を噛む。太い針で刺されたような痛さで、血も出るが、僕はかえってそれがうれしい。彼女の愛情の琴線に触れた気がするのだ。僕があげた餌が彼女の空腹を満たし、彼女の血潮になることが僕の唯一と言っていいほどの喜びだった。
僕が彼女にかごから出てほしくないと考えるために、そんな僕の考えを慮って彼女は首を横に振るのかもしれないと考えたが、多少影響を受けているにしても彼女は彼女の考えを推し進めればいいし、それに彼女はセキセイインコだ。人間である僕の考えが分かるはずもない。僕の方が彼女に比べて明らかに賢いのだから、彼女の考えを推量して、彼女が喜ぶようなことをしてあげればいいのだ。愛する彼女が喜ぶならそれが僕の幸せだろう。だから、出たくないと彼女が願ったのなら、僕は彼女を出さない。でも、首を振るとき、彼女の眼は泳いでいるようだった。その不安がっているような表情を思い出すと、やはり、出てほしくないという僕の考えが彼女に伝わって首を横に振ったのかと不安になる。僕の想いが先か、彼女の想いが先か分からないが、彼女がかごから出たところを見たことがないのは事実だ。だから僕は彼女を鳥かごの彼女と呼んでいる。
しかし、彼女を鳥かごの中にずっと閉じ込めておきたいと願えば願うほど、彼女が鳥かごから出た姿を想像して、背徳の快感にさいなまれることが次第に増えていった。
ある日、唯一の親友であるA君が僕の家に遊びに来て、二人でいつものように酒を飲んでいると(僕らは貧乏だったから、スーパーマーケットで安酒を買って家で飲むしかなかった。居酒屋なんて僕ら二人だけで行ったことは今のいままでで一度もない)酔っぱらったA君が鳥かごの中で何を考えているのやら、山のように動かずにいた彼女を見つめながら、「そういえば、俺はこいつがこの鳥かごの中から出た姿を見たことがねえぞ」と挑発的に言い、僕もその時酔っていたから、そういえばそうだと彼に迎合した。普段ならやらないようなことなのだが、僕は鳥かごの中の黄色い彼女に意気揚々と、「さあ、どこまででも飛んでいけ。俺にお前が羽ばたく姿を見せてくれ」と言って、かごの扉を開け、家の窓も全開にした。
いや、僕はその時酔っていたのかどうかすら怪しい。ただ、彼女がかごから出て自由に飛び回るさまを見たいという僕の肉慾とA君の言うことが一致して、A君に従うことで僕の好奇心を解消しようとしたのだ。彼に従うための道具として酔いを使ったまでだ。そうした経緯もあって、僕はそれまで開けたことがなかった鳥かごの扉を開けた。
僕は彼に追従する瞬間も、扉の把手に手をかける時も、冬の夜中あまりの寒さに、それから日が昇るまで寝れないくらい目が覚めたような意識の回復を感じ、心臓が音をあげ、全身が火を噴くほどに熱くなった。A君も僕の横で、酒を煽りながら、「おー、開けろ、開けろ」と陽気だった。しかし、僕が鳥かごの扉を開け、家の窓を開けると、鳥かごの中の黄色い彼女はおとぼけた丸い眼を鋭く吊り上げ、怒り狂ったように羽根をばたつかせた。彼女はまったくかごから出ようとしなかった。僕ら二人はその激しさに驚いて、床に置いていた日本酒の瓶を倒し、酒がこぼれ、カーペットが濡れ、二人して叫び、彼女もさらに激しく羽根をばたつかせ、さんざんだった。かごの扉と家の窓を閉め、カーペットにこぼれた日本酒をティッシュで拭くと日をまたぐほどの時間になり、酔いが醒めたA君はすまん、と言って帰っていった。
A君が家を出てひとりになると僕はごめん、と何度も彼女に謝って、鳥かごを抱きしめた。彼女はこのときにはすでに落ち着いていた。ごめん。ごめん。あの時ほど僕は自分の過ちを悔いたことはなかった。そして彼女がそれだけ僕のことを想っていてくれているのかと、彼女の愛情と、その愛情を実行にうつせるだけの我慢強さを知った。僕は彼女を愛すると同時に尊敬するようにもなっていた。
彼女の名前はユキである。僕が名付けたわけではない。自分でそう言うのだ。どこで。夢の中でである。
二年前、一人暮らしの淋しさに耐え切れなくなった僕は歩いて十分ほどのペットショップに行った。鳥専門店である。近所にあったペットショップはそこだけだった。他の店に行くためには電車に乗って片道三十分は最低でも必要だったからやめた。当時の僕は飼いやすい動物であればなんでもよかった。調べると鳥は比較的一人暮らしに向いているペットのようなので、鳥に決めた。どの種類にするかは店に行ってから考えようと思っていた。
店の自動扉を開けるとまず感じたのは獣臭い匂いである。ほとんど動物に触れてこなかった僕はこの匂いに慣れていない。鼻の穴にドロドロした液体が注がれ、それが肺を通って全身に運ばれるような重い臭さだった。僕は顔をしかめ、帰ろうかとも思ったが、扉を開けてしまったし、奥にあるレジに立っていた店員と眼が合い、茶化しに来たと思われるのが嫌でそのまま店に入った。
僕は人の顔をよく見る。僕の意志より、見たその顔のご機嫌を優先する。この病気は治そうと思っただけで治せるようなものではない。幼少期から僕の性格に染みついた汚れなのである。右利きの人がなろうと思ってもすぐ左利きになれないのと同じである。しかし、この場合、僕のこの性格がなければ彼女に会うことはなかった。僕の治したい性格が原因となって生涯愛すべき彼女と出会えたのだから、この忌むべき性格にも一応感謝をしないといけない。しかし、感謝はすれども好きにはなれない。世の中このようなことが往々にしてあるのかもしれない。
鳥の鳴き声でうるさいだろうと思っていたのだが、案外静かだった。鳥が硬い足でかごの中を動き、羽根がこすれ、店内には陽気なJPOPが流れていた。店に入ると先ほど眼が合った店員がいらっしゃいませと明るい声で挨拶をした。僕は会釈をして扉を抜け、腕を組みながら店内を回った。たまに匂いがきつくなると、左手の人差し指を鼻の下に押し当て、掌で口を覆い、右手は左の脇の下に挟んだ。もしかすると周りからは真面目な格好に思われたかもしれない。僕の外に客はおらず、店の中には店員と僕だけだったのだが。
店の手前側は餌やかごなど、飼育する際に用いる道具が置いてあって、左右の壁に沿うように二列、店の中心に一列、様々な種類の鳥が並んでいた。ステンレス製やプラスチック製の四五段ある棚に色様々な鳥かごがあり、そのそれぞれに多様な鳥が入っていた。整理されて並んでいるはずなのだが、一見すると適当に置いていると思えるような雑さがあった。
歩く列は二列あって、僕は右の列から順に見ていった。文鳥、十姉妹、カナリヤ。かごの前に顔を近づけても鳥は見られていることに気づかないように跳ねたり、ジッと目の前の空間を見つめていたり、毛づくろいをしたりしていた。何も考えていない顔をして怠けているようなものは鳥であっても嫌だった。
僕は一目見ただけでこれだと思えるような運命の出会いを望んでいた。ある文鳥なんかは丸くて大きな目玉や、顔の半分以上を占める薄赤いくちばし、フランネルの滑らかなカーペットのような毛並みが僕の興味を引いたが、文鳥が僕を嫌ったのか、それまで眠たそうに首をすぼめていたのに、僕がかごの前にきて眼を合わせると、急に高い鳴き声を発して羽根を動かし壁の方へ向きを変えてしまった。顔を合わせただけでこうなるようでは飼っても喧嘩をするばかりだろう。
彼女は一列目を歩き終わったあたりにいた。レジのすぐ横である。店員を近くに感じるのが僕は嫌だったから、一列目を歩き終わるとすぐ左に曲がって二列目へ行こうと思ったのだが、人がいればその顔を見ずにはいられない僕は曲がろうとした瞬間店員の顔を覗き見た。それと同時に鮮やかな黄色と緑が目に入ったのだ。店員はレジの上で雑務をしていたため僕の視線に気が付かなかったが、スプレーで色を付けたようなその黄色と緑のセキセイインコは僕の視線に気が付いたのか、僕の少し赤みがかった瞳を食い入るように見つめた。僕はできるだけ大げさになって店員を驚かせないように、あくまでも落ち着いた素振りをして方向転換し、そのセキセイインコがいるかごの前に立った。かごは真っ白いプラスチックのものだったからより一層色が鮮明に浮かび上がった。彼女は僕が移動する間も印鑑を押したようなまん丸い眼で僕を見つめていた。
彼女が他の鳥と違うのは見つめるという行為にある。もちろん羽根の色の美しさ、首を傾げたときの愛嬌も僕が彼女を愛するポイントではあるのだが、同じくらいに美しくて愛嬌がある鳥は探せばいくらでも見つかるだろう。僕が左右に動けば彼女の首は僕に合わせて左右に動き、僕が近づいたり遠ざかったりすれば、彼女の瞳のピント調節もそれに合わせて変化する。彼女の瞳に見つめられると何かしなければならないような気になり、店員がまだ事務作業に没頭していることを確認すると顔をねじって変顔を彼女に披露した。彼女は何をされているのか分からないのだろう、首を傾げ、それでもなお僕の瞳孔をじっと見つめていた。僕はこれがこの店で求めた運命であると感じた。二列目の鳥を見てからこのセキセイインコを選んでも遅くはないかもしれないが、運命は見つけた瞬間に手に取らなければならないと思い、作業中の店員に「この鳥をもらいます」と言った。店員は優しそうな顔をした男で、僕の興奮した顔を見ると、かしこまりましたと、彼女のかごを手に取り、鳥を飼うのははじめてですか、と聞いてきた。僕がはい、とうなずくと、マニュアルなのか彼の優しさなのか分からないが、丁寧な態度でセキセイインコの特徴や、餌、好ましいかご、飼育する際の注意点、病気になった時どうすればいいかなどを説明してくれた。僕は早く彼女が欲しいとイライラしたが、店員の説明があまりにも丁寧で熱心なので、僕もつられて真剣に話を聞くようになり、僕は鳥どころか動物を飼うことすらはじめてだったので、彼がすすめてくれたかごや餌などの品物はすべて買い、ようやく店から出られた。
日が暮れるころに彼女を家へ連れて帰った。僕の部屋は西向きで、窓から母の優しい子守りのような暖かい夕焼けの光がカーテン越しに見えた。
「母の優しい子守り」。僕は母に謝らなければならない。僕が彼女に別れを告げられた時、まっさきにそのことを連絡したのは母だった。慰めてもらいたかったのだ。僕の願い通り、母は優しい言葉をかけてきた。泣いた。永遠と思われた彼女の愛に裏切られても、遠くへ行って、思い出すことがほとんどない母の愛は健在だった。それでも、僕はその愛を神の愛と呼べなかった。母に謝りたい。母に許してもらいたい。しかし、その許しは神の許しとは違う。母の愛は、母の許しは、子がはじめに乗り越えなければならない愛であり、許しであるのだ。
話が脱線した。思考がめちゃくちゃだ。僕は僕の話をする前に彼女の話をしなければならない。僕は急いでこの小説を書かなければならない理由がある。
そうして暖かい夕焼けに包まれると、僕は眠くなった。その日はペットショップに行ったこと以外、たいしたことはやっていないのだが、初めて生き物を買ったり、運命の出会いに遭遇したり、感情の動きが激しかったので疲れたのだろうか。僕は鳥かごを机の上に置いて、餌入れに食事をいれ、水を差し、布団を敷き、闇が町を支配する前に寝た。僕は、「おやすみ」と声をかけたから、黄色い彼女はまだ鳥かごの中で起きていたと思う。寝ているものに対しておやすみと声をかけるのは感傷的な気分に浸っているときだけであろう。
そうしてこの日、僕は夢を見た。
夢には一人称視点のものと、三人称視点のものがある。二人称視点はまれだろう。その夢は三人称視点のものだった。三人称視点にも、僕は自由自在に動き回れる幽霊で、登場人物それぞれにフォーカスを当てることが可能なものがあれば、幽霊は幽霊でも守護霊のようにある一人の人物の行動だけを追うようなものもある。その夢は後者だった。
僕が見た夢の視点について語ったが、実際の夢に視点はないに等しく、一人称もあれば三人称もあり、自由自在な幽霊だと思っていたら、いつの間にか守護霊になっていたりもする。このようなことはどの夢にも起こりうるものだろう。視点が安定した夢の方がかえって珍しい。しかし、この夢から覚めて印象を整理すると、残っているもののほとんどは先ほど説明したような守護霊視点であり、似たような夢を見るにつれて夢の中でもその視点に安定してきたので、僕は説明しやすいよう、暫定的に守護霊視点だと言っておく。
笑った過去の恋人のような桜だった。その桜の下に一人の若い女性がいた。黒いまっすぐな髪は腰のあたりまで伸び、鼻は鋭すぎないくらいに高く、薄桃色の口は優しい曲線を描いていた。髪に隠れてほとんど見えなかったが、彼女が動くと髪が一緒に揺れて、太陽の光が風に吹かれる葉の隙間から漏れるように、ちらちらとベージュの小ぶりな耳が見えた。眼は――僕は次の日の朝起きた瞬間思い出したのは彼女の眼だった。僕は夢の中で、ある違和感を感じていた。この女性の顔をどこかで見たことのあるような気がする。そして、次の日の朝起きて彼女の眼を思い出すと、ああ、それは黄色い彼女だった。ペットショップであの黄色い彼女に一目惚れをしたとき、僕はこのセキセイインコが人間の女性だったらどれだけ綺麗だったろうと夢想していたのだ。その女性がまさしく夢の中で見た女性だった。なぜ、彼女の眼を思い出すことで、違和感の正体に気が付いたのか。夢に現れた女性のおとぼけた眼はインコと人間の違いがあるにしても、まったくあの黄色い彼女がしていた眼と同じだったからだ。しかし、夢の中での僕は歴史を持たない一個の視点なので、こんなことを思い出す余地がなかった。思い出したのは目が覚めてしばらくしてからである。
彼女は樹の枝に咲いている桜を見ていた。おとぼけた眼でじっと見ていた。彼女は表情を変えずに長い時間桜を見続けていたが、僕には彼女の無表情の裏に底知れない感傷があることを知っていた。彼女は決して感情を表に出さない。一度自分の外に出してしまうと、胸の中からとめどない感情があふれ出て、自分自身でもその感情を制御できなくなってしまうからだ。あまりにセンチメンタルな人はそのために無表情にならざるをえない。彼女はじっと桜を見続けていた。
どこからともなく、しばらくして、八歳くらいの男の子がやってきた。男の子は動物の柄がついたTシャツに短いズボンをはいていた。男の子は彼女の横に立った。
「おねぇちゃん、なにしてるの?」
彼女は男の子の方を向くとしゃがんだ。
「おねぇちゃんは桜を見ているの」
「桜って綺麗?」
「うん、とってもあたしは好きよ」
「俺には分んねぇや。お腹がいっぱいになるわけでもないし、ゲームみたいに楽しくもないし」
彼女は笑った。青葉が風になびくようだった。
「僕にもいつか分かるかもしれないよ」
「分かる気がしねぇ」男の子は照れていた。
「そんなにこの桜が好きならさ、枝を折って持って帰ったらいいんじゃないの?そうすればここにずっといなくても花が見れるしさ」そう言うと男の子は飛び跳ねて一番低い枝を折ろうとしはじめた。
彼女はそれを制止した。
「あたし、そういうの嫌いなの」
「どうしてさ。だって好きならずっと持ってたほうがいいじゃん」
「そうだけど……」
「他にも花はたくさんあるんだしさ。一つ枝を折っても樹は痛くないよ」
彼女は返事に窮した。たしかに男の子の考えは正しいのだ。好きだから枝を折ってずっと自分のものにしておく。なんら間違ったことは言っていない。しかし、彼女は好きだからこそ枝を折るようなことをしたくない。好きだから折る。好きだから折らない。二人の思考は、原因は同じなのに結果の行動がまったく違うのだ。しかも二人ともそれぞれ間違ったことは言っていない。
僕はここでどちらが正しいのかを言おうとしているのではない。正しさを僕は語れない。僕は僕の話しかできないのだ。そして僕をどれだけ深めてもそれは僕でしかなく、決して君ではない。どれだけ君が僕に共感しようとも君は僕を分かりっこない。そして、僕も君を分かるはずがないんだ。
彼女はきっと桜の枝が折られると、自分のことのように悲しくなるのだ。ああ、彼女の精神がどれだけ偉大か!もっと詳しく言おう、彼女の精神を僕がどれだけ偉大だと思っているか!僕は――いや、恋ではない。たしかに僕は彼女に恋をしていた。生まれて初めて感じたような甘さだった。しかし、この恋と彼女の精神を偉大だと思う僕の感情を一緒にしてはいけない。恋をしていたから彼女の精神を偉大だと感じたわけではない。彼女の精神を偉大だと感じたから恋をしたわけでもない。僕は彼女に恋をしたから恋をして、彼女の精神を素晴らしいと思ったからそう思っただけにすぎない。その二つの独立した感情を同じ人間に感じていたから、それら二つが因果関係を持っていると錯覚してしまうのだ。決して混ぜてはならない。混ぜてしまうと恋に利害というカビが付着し、彼女の偉大な精神が恋というべたべたしたクリームに飲み込まれてしまう。僕は彼女に恋をした。彼女の精神を偉大だと敬った。それだけだ。
男の子はいつの間にか消えていて、再び彼女一人だけになった。すると、彼女は、空中に浮いているひとつの視点でしかない僕を見た。たしかに眼が合った。おとぼけた眼だ。僕は耳まで赤くなっていた。彼女はじっとこっちを見ていた。そして僕に向かって口を開いた。
「あたしユキって言うの。よろしくね」
名前の通りだと、僕はそのときはじめて彼女の肌の白さに気が付いた。
黄色い彼女の人間になった姿がユキであることに、目が覚めてから思い出したことは先ほど述べた。僕は黄色い彼女の夢を見ていたのだと信じてやまなかった。おかしいだろうか。ユキは僕が黄色い彼女を見たときに思い浮かべた女性だったが、思い浮かべたのは彼女の雰囲気と似た女性で、夢の中で見たユキほどはっきりとイメージができているわけではなかった。
僕はアパートのベランダで煙草を吸いながら考えていた。僕が黄色い彼女に出会ったときに不思議と女性の姿を想像したのは、彼女は事実夢の中ではその女性であり、その神秘的な二面性が僕のイメージを刺激する契機となったのではないかと。一度こう考えると、彼女は現実ではセキセイインコで、夢の中ではユキという女性なのだと、そうとしか考えられなくなった。滑稽な考えかもしれないが、この日起きたペットショップでの運命的な出会いやユキの夢はそれだけ不思議で、そう僕が考えてしまってもおかしくないような出来事であった。
黄色い彼女に名前を付けようと思ったが、彼女は夢の中でユキという名前があり、しかしその名前は夢の中の彼女に対するもので、黄色い彼女にその名前をつけるのはおかしいと思って、僕は結局彼女に名前を付けず、ただ鳥かごの中の黄色い彼女、もしくは黄色い彼女と呼んでいる。
僕は夢をたくさん見る人間ではないが、彼女を飼いはじめてからだいたい週に一回、見る夢は必ずユキの夢だった。桜があり、その下にユキがいて、枝を折ろうとする男の子が来てユキがそれをやめさせる。毎回ユキと男の子の態度が若干変わっているような感じがするだけで内容は変わらなかった。ユキが僕を見て話しかけてくることはなかった。しかし、僕は退屈することなく、心躍る気持ちで、映画を何度でも見返すようにその夢を見ていた。何もしていなくても、好きな異性を眺めるだけで幸福になれるように、夢の内容は同じだったが、ユキを見ているだけで暖かい気持ちになれた。
幻想的で甘い夢を見たときによくあるような眠りから覚めたあの暗い気持ちは僕を襲わなかった。現実には鳥かごの中の黄色い彼女がいたからだ。
僕はもうすでに黄色い彼女とユキとを近似どころかイコールと考えていた。
「ねぇ、どうして君は桜を折らないの。いや、俺には分かるんだ。桜が折られるのがかわいそうなんだろう。もしくは折った枝を持っていることに罪悪感を感じてしまうんだろう。どうして君はインコなのにそんなに優しい心を持っていられるんだ」
鳥かごの中の黄色い彼女は僕が話しかけると必ず僕の眼を見た。彼女は最高の聞き役だった。キザったらしい甘い言葉も、人に言えないような秘密も彼女になら惜しげもなく言えた。
「なぁ、君は人間なんだろう。ずっと現実ではインコで、夢では人間なのかと思っていたが、君の中ではもしかしたらそうじゃないんだ。君の現実は俺が思っている夢の方で、君の夢は今かもしれない。でも、もしそうだとしても俺は君の現実も、夢もすべて知っているんだ。人間は現実だけでは生きていない。夢の中でも生きているんだ。それに気が付かないから相手を理解できなかったり、例えば恋人だと別れたり、友人だとどこか齟齬が生じたりする。俺と君はお互いにお互いの現実も夢も共有しているじゃないか。僕らなら永遠に愛していられる。僕は君を愛している。君は、君はどうなんだい。俺を、愛してくれるかい」
僕は真剣だった。僕は黄色い彼女の顔をうかがった。黄色い彼女は僕の眼を直視すると、首を縦に振った。
身体が張り裂けそうなほどの喜びを僕は感じた。僕はその今にでも爆発しそうな感情の塊を胸の中に留めて彼女の眼を再び見た。
「本当か」
彼女はまた頷いた。
「本当か」
頷いた。
僕はかごを抱きしめて、泣いた。それほど彼女を愛していた。
A君が彼女を初めて見たのは、鳥かごの中の黄色い彼女が家に来てから半年経ったあたりである。もちろん彼女を飼い始めるとすぐA君にそのことを伝えた。しかし、僕はできるなら彼女とA君を会わせたくなかった。
飼い始めた初日にあの夢を見たときから、僕の部屋は彼女と僕だけの空間となった。部屋の空気は彼女の獣臭さと僕の匂いが混ざり、融け合い、僕のでもない彼女のでもない、一つの新たな香りとなり、鳥かごの位置は部屋の中央に据えられた白い長方形の机の端に固定され、鳥かごの位置だけではなく、テレビの傾きや本棚に並べられた小説の置き方、玄関にある靴の乱雑さまで、部屋の中にあるすべての物質が僕と彼女の均衡を保つために固定されていた。それはもしかすると小指の爪が触れただけではじけてしまうような危うい均衡だったかもしれない。しかし、僕ら二人はその中で十分どころか幸せすぎる生活を送ることができた。だからこそ、他人が僕らの部屋に入り、僕らの部屋の均衡を崩してしまうようなことがあれば、僕らの幸せは枯葉のように飛んでいってしまうように思えたので、できることならA君を家に呼びたくなかった。セキセイインコを飼い始めたことだけを彼に伝えると、彼は案の定彼女を見に家に行きたいと言ったが、僕は良い反応を示さず、僕の気持ちを察したのか彼はそれ以来自分から僕の家に行こうとは言わなかった。その代わりに、A 君とは基本大学が近い僕の家に集まっていたのだが、その半年間は彼の家にばかり行くようになっていた。
ところが、半年経つと、同居した恋人にままあるように僕と彼女の生活に倦怠が訪れた。家を出る前に彼女に餌をやり、大学で授業を受け、バイトへ行き、帰ると彼女に話しかけ、テレビを見たり煙草を吸ったりして、寝る。僕は平坦になった生活に変化を与えようと、彼女に与える餌を若干高級にしたり、クイズ番組を見る代わりにドラマを見るようにしたり、煙草の銘柄を変えたりした。些細な変化ではあるが、僕(もしかすると彼女――彼女はいつもと変わらず眼をくりくりさせて僕を見つめるだけなので生活にどの程度不満を覚えているのか僕には分からなかった。しかし、僕が倦怠を感じているなら彼女も感じているだろうと僕は考えていた)にとっては生活リズムに新鮮さを与えるような変化だった。が、鳥かごの位置やテレビの傾きや、小説の置き方、靴の乱雑さが象徴するような僕と彼女とのピンと張った糸のようなつながりは変わらなかった。ゆえに、生活の根本的な平坦さに変わりは起きず、日がたつにつれ、土砂だらけだった道がコンクリートに固められるように生活がなめらかなものへとなっていった。
僕はこの日常の平凡化を倦怠と呼んだが、僕が倦怠だと感じていたのは生活に対してであり、彼女への愛は生活が倦怠するにつれてかえって深まっていった。はじめ僕が彼女に感じていたものは次々と花が咲いてゆくような断続的な感情の発現であった。しかし、日常が倦怠化することによって、愛が日常的なものとなった。僕は歩くように彼女を愛したのである。それは家族愛にも似ているが、甘さにおいて異なる。この彼女に対する愛にもっとも近いのは、物心ついたばかりの少年が母に寄せる愛であろう。母は彼にとって最初の異性であり、そこに永遠性という条件がある。彼は本気で母と結婚できると思っているのだ。僕もそんな少年と同じく、彼女に永遠性を感じるようになった(のちに僕はこの永遠性は無根拠であることを知ったのだが……)。そして僕は彼女を信じるようになった。
生活の倦怠化。愛の日常化、永遠化。それによる彼女への信頼。僕はA君を再び家に誘おうと思った。
僕はできるだけさりげなく、また僕の家で飲まないかと誘った。A君は(きっと彼も僕と同じくさりげないふりを装ったと思う)承諾してくれた。
僕と彼は駅前で落ち合った後、スーパーマーケットでビールと日本酒と弁当と肴を買って家へ向かった。歩いていると彼が、
「インコを飼っているってのは嘘で、お前は同棲をはじめたから家に呼んでくれなかったと思ったが」と笑った。
「そんな女いねぇよ。本当にインコを飼っているんだ。飼育が大変だし、動物はデリケートだから、酒飲んだお前が大声だしたら驚いて病気になっちゃうかもしれないだろ。だからいっとき誘わなかったんだ。まぁ半年もすれば人間生活に慣れたと思ってね、お前を誘ったんだ」僕も笑った。
僕らは嘘を言って、笑い合わないと会話ができない。そんなことは僕も彼も分かっている。この嘘は相手を傷つけないための嘘であり、自分を傷つけないための嘘だ。もし僕らが本心で語り合うと、僕らは互いに相手を殴り、それぞれ自分自身の脳天にピストルを撃つだろう。彼はきっと僕の本心(ここでは僕が黄色い彼女を愛するゆえに彼を家に誘わず、そのことで後ろめたさを感じていること)の外縁を直感で把握しているし、僕は彼が知っていることを知っている。そして彼は、僕が彼を知っていることを知っている。僕らは探偵ではない。相手が感じていることをわざわざ言語化してほしいなどと無粋なことは思わない。だから僕らは本心を隠し、嘘を言って笑う。しかし、僕らは嘘ばかりつくわけではない。ガス抜きのように僕らは本心を使って気を休める。僕らは相手が本心を言っていることも察知する。察知するが反応は相手が嘘を言ったときと変わらない。結局嘘でも本当でもどちらでもいいのだ。僕らは言葉を大切にして嘘と本音を場に応じて使い分け、相手の嘘にも本音にも一喜一憂する。しかし、僕らは感情を笑いでごまかす。相手がごまかしていることも分かる。が、笑う。本音ばかりを言うやつはつまらない。嘘ばかりを言うやつは信じられない。僕らは嘘と真実とを愛する。
彼は、獣臭いなぁと言いながら家に入った。部屋を見回すと、変わったなとつぶやいた。僕は鳥肌が立ったようにぞくぞくした。やはり変わったのだ。僕と彼女が混ざっているのだ。
鳥かごの中で僕らを待っていた黄色い彼女に餌をあげると、僕らは弁当を食べはじめた。彼は飯を食べながら、ビールを飲みながら、ちらちらと彼女を見ていた。
「これがお前の言っていたインコか」
「可愛いだろう」
「ああ、そうだな」彼女は餌をほおばっていた。僕らの会話に興味がないようだ。
「お前、この鳥好きだろう」
「どうしてだ」
「お前の女のタイプと似ている」
「インコだぜ」
「でも目と鼻と口がある」
僕らは弁当を食べ終えると、酒を飲みながらテレビを見た。テレビは会話に流れを作るためのBGMだ。誰も見ちゃいない。何か雑音が流れていることが大切なのだ。僕らはそのBGM を聞きながらいろいろなことを話した。大した話ではない。ありふれた会話だ。しかし、僕はここで僕の現在に関係する彼の言葉を書かなければならない。このひとことが僕の運命を左右したと言っても過言ではない。僕は彼のこの言葉がなかった場合の人生を想像する。いや、しかし結局変わらなかったのかも知れない。僕と彼は似ていた。彼が言わなくても僕は気づいただろう。
会話をしていると、途中でどちらもしゃべらなくなり、場に空虚がおとずれることがある。僕らにもそれがおとずれた。僕の部屋にテレビの音だけが残った。僕は日本酒をちびちび飲んでいた。彼は黄色い彼女を見つめていた。彼女も彼を見ていた。僕は少し嫉妬していた。すると、彼が唐突に口を開いた。
「お前、最近変わったよな」
「変わった?」
「変わったよ」
「どこが」
「お前は優しくなった。優しくなったというか柔らかくなった。例えば、レジュメを教授から配られるとちゃんとありがとうって頭を下げるだろ。前のお前はそんなことなかったよ。」
「そうかい」照れた。こんな直接に褒められることはめったにないからだ。
「例を出せと言われると具体的なものがたくさん出てくるわけじゃないけど、そうだな、お前の出す空気だな。空気が柔らかくなった。んで、この鳥を見て思ったんだ。この鳥がお前を変えたのかなって」
「どういうこと」
「この鳥の雰囲気とお前の雰囲気が似ているのさ。で、お前のもともとの性格はもっと硬くて、なよなよしていたから、お前を変えたのはこいつなんだなって思ったんだよ。もし、こいつが人間なら思想までお前、影響しちまうかもな」
こいつが人間なら!僕はA君にあの夢の話をしたくなった。僕が彼女を愛していて、彼女も僕を愛していることを伝えたかった。しかし、僕は正直なことを言う。僕はこのとき、黄色い彼女が僕を変えたと彼が言ったとき、僕は心の底で彼を卑下したのだ。知ったようなことを自慢げに言いやがってと彼を馬鹿にしたのだ。しかも、「人間なら」という言葉。はじめ僕は彼が僕と彼女のことをすべて知っているのではないかと驚いた。しかし、よくよく考えてみれば、この「人間なら」という発言は彼が彼自身の空想に酔いしれるための言葉にすぎない。あの人が白馬に乗ってやってきたなら、と空想する少女となんら変わりがないのだ。彼は、「人間なら」と言うことで自分で勝手に物語を作り、それに陶酔したのだ。どれだけ素晴らしい考えだろうって。それに「思想」という言葉を彼は使っている。思想もないような男が軽々しく「思想」を使うのだ。彼は無意味にこのような言葉を用いることで自分に酔いしれる。しかも、その言葉のなんと幼稚なことか。
ところが、彼のこの言葉は結果、事実であって予言でもあった。それに僕が気づくのはもうすこしあとだ。そして、彼のこの言葉を思い出し、それが真実であったと知った時……
僕には時間がない。A君を殺してから二日が経った。いつ警察が来てもおかしくない。僕は急がねばならない。彼の言葉を書くためにどれだけ時間を費やしてしまったか。後悔しても遅い。しかし、僕はまたこの物語の筋に関係のない話をする。A君が家に来た日から僕はユキの新しい夢を見た。それまで見る夢はすべて、ユキと男の子との桜の枝を折るか折らないかの話だったが、それからはユキのいろいろな夢を見た。場所はあの桜の樹の下と変わらなかったのだが。そのたくさんの夢の中からA君が言うところによる「思想まで影響した」話を二つしようと思う。急がねば、急がねばならない。
ファーストキスの非現実感が漂う桜だった。ユキは黒目の大きいおとぼけた眼でいつものように桜を見ていた。桜の梢が揺れていた。風が吹いていたのだろうか。僕はなにも感じなかった。彼女のまっすぐな髪も鈍感な感性のように静かだった。
中学生くらいの女の子が来た。丸い眼鏡をかけていて、引っ込み思案な感じがした。彼女はユキの腕にしがみついた。何かにおびえているようだった。
「どうしたの?」とユキは尋ねた。向き合うと、膝を折って少女の目線に合わせた。
少女は何も語らなかった。今にも泣きだしそうな眼をしていた。
いつのまにか、少女は両手で小さな丸い毛玉を包んでいた。それは死んだハムスターだった。ユキはハムスターに気が付くと、ゆっくりした口調でとある少女の話をしだした。神話のようだったが、僕はこの話をこのときはじめてきいた。
「あたしたちにね、寿命がなかったころよ。生き物は死を知らずに生きていたんですって。信じられる?今のあたしたちからすれば、死ぬことがなかったら生きることがつまらなくなってしまうって考えちゃうけど、それは分からないよね。そのころの生き物にも幸せがあったと思うの。それでね、そんな大昔に小さい女の子がいたの。彼女は他の生き物と違って、あたしたちは過去から未来に進んでいるけど、彼女は未来から過去に時間が進んでいたの。よくわかんないよね。あたしもよくわかんない。例えば、手を叩いたら音が出るよね。あたしたちは、手を叩く、音が出る、の順番で時間が進行してるって思ってるけど、その少女はそうじゃなくて、音が出るから手を叩くって感じるらしいの。不思議よね。あたしにはその女の子の感覚が分からないわ。でもね、その女の子はそれ以外は普通だったからみんなと変わらず生活できていたの。みんなは過去から未来に時間が移動するって思っていたけど、彼女だけ未来から過去に移動しているって思っていたの。ところが、何百年も生きていると、その少女は気が付いたの。あたし産まれて(・・・・)いない(・・・)って。もし未来から過去に時間が進んでいるなら、産まれる瞬間は死ぬ瞬間で、死ぬ瞬間は産まれる瞬間よ。そして、少女だけじゃなくて他の生き物みんなまだ産まれてすらいないことに気が付いたの。そして彼女は神様に頼んだ。『どうか神様、あたしたち生き物に生命の最も尊い瞬間である誕生の瞬間を与えてください』って。それで、彼女の言葉を聞き入れた神様はすべての生き物に死を与えたの」
ユキはおとぼけた眼で少女を優しく見ていた。少女は掌の上のハムスターを見ながらユキの話を聞いていた。
「だからね、あたし、この話を聞いたときから、死ぬ瞬間って産まれる瞬間なんだって思うようにしているの。だから、怖くもないし、悲しくもないわ」
ユキはお墓を作ろうかと言った。少女はうなづいた。二人は桜の樹の下に小さな穴を掘ると、ハムスターをその中に入れて、土をかぶせた。そして、ユキは、背伸びをすると、ためらいもなく桜の枝を折ってかぶせた土の上に置いた。
彼女の唇のような色をした桜の花はハムスターが眠る土の上で凛と咲いていた。
二人は合掌した。
桜が、お酒に酔っぱらったようにふらふら散っていた。僕ははじめてこの桜が散っているところを見た。ユキはおとぼけた眼で桜を見ていた。僕はくしゃみをした。なぜくしゃみをしたのか。僕はひとつの視点のはずだった。またくしゃみをした。ゆきは僕に気が付いてこちらを見た。僕は恥ずかしさのあまり彼女の顔が見れなかった。
僕はまたくしゃみをした。恐ろしい直感が僕の頭を打った。その直感はまぎれもない事実だとなぜか確信できた。そして、僕はその事実を直感した瞬間、ひどい不安と残酷な安心感を覚えた。ユキは複雑に感情が入り乱れた僕をじっと見ていた。僕はユキに話しかけた。
「ユキ、信じられないと思うが、俺がくしゃみをしたら十の生命が絶えたんだ。なぜか分かったんだ」またくしゃみをした。
「俺がくしゃみをしたら口からふんまつが前に飛ぶのと同じくらい必然的に人が死ぬんだ」またくしゃみをした。
「どの生命が亡くなるかは分からない。だけど、確実に死ぬんだ。俺には分かるんだ。そして、俺は怖くなった。くしゃみをしたら死ぬんだ。なぁ、どうすればいい、どうすればいいんだ」またくしゃみをした。
ユキは僕の話を聞いていた。口を開く気配がなかった。
「ユキ、失望しないでくれ。きっとお前は俺の気持ちが分かるんだろう。そうさ。正直に言おう。俺は俺のくしゃみで死ぬことがない。俺は他人の死に携わっていて、そのことが恐ろしいふりをしているが、心のどこかで死は自然で、しょうがないものだと割り切っている。くしゃみも生理的なものだろ。止められない。死なんてしょうがないじゃないか」
ユキは表情を変えず、話を聞き終わると桜の樹を指さした。
「桜、散ってるでしょう。花弁がひとつ散ると百の生命が死ぬの」
僕はこの話を聞いた瞬間身が凍った。自分の言葉をなかったことにしたいと思った。死はしょうがない?花弁が散っただけで僕は死ぬかもしれないのだ。恐怖のために身体が固まり、先ほど侮辱した他人の死をまるで自分のことのように思った。すべての生物に謝らなければならない。
「ごめんね、嘘よ。桜が散って何かが死ぬことはないわ。きっとあなたがくしゃみをしたら何かが死ぬっていうのも勘違いよ」
僕は眼が覚めると黄色い彼女の鳥かごを抱きしめて、泣きながら謝った。ごめん、ごめん。と謝り続けた。
大きいのはこの二つだったが、他にも様々な夢が僕の糧となった。次第に、僕の倫理観、死生観、哲学、処世術はすなわちユキ(鳥かごの黄色い彼女)の倫理観、死生観、哲学、処世術と重なっていった。彼女は僕の恋人であり、僕にとっての行動の指針だった。僕は彼女ならどう行動するか、どう行動すると彼女は喜ぶのかを無意識に考えていた。この言葉を僕はできるなら、使いたくなかった。僕は彼女への愛はこれとは別の愛だと信じたかった。いや、矛盾せず両立する道もあったのかもしれない。しかし、僕らにそれは叶わなかった。僕にとって、彼女は神だったのだ!彼女は僕の恋人であり、同時に神だったのだ!僕はこのことを伝えるために山のような言葉を要した。しかし、永遠の恋人は永遠の神になることはなく、永遠の神は永遠の恋人になることはない。
僕は彼女の思考に支配されていることに気が付くようになるとA君の言葉を思い出した。俺は鳥かごの黄色い彼女に変えられたのだ。そのことに気が付いた日、僕は夢を見た。この夢で、鳥かごの黄色い彼女にとって、僕は鳥かごの青い彼であったことを知った。現実で彼女の餌をやり、彼女をかごから出さず、生活を支配し、それらのことに言い知れぬ快感を覚えていた僕は、彼女にとってもまた鳥かごに入れられた存在だったのだ。僕らはお互いにお互いを鳥かごの中に入れ合っていた。僕は彼女の身体を、彼女は僕の思考を、鳥かごの中に入れていたのだ。そして、僕の身体すら彼女に支配され、彼女の思考もいつのまにか僕に支配されていた。
このことを知ったとき、僕は、僕はどれだけの快感を全身に感じただろう。僕は身体も思考も彼女を支配し、支配されているのだ。そして、僕にとって彼女は恋人であると同時に神であり、もしかすると彼女にとってもそうかもしれない。
しかし、そのことに気が付いたその日の晩、彼女は鳥かごから逃げ出した。どうやって鳥かごの扉を開けたのか、部屋の窓を開けたのか、僕には分からない。ただ、僕が家に帰ると鳥かごの扉が開いていて中は空っぽで、部屋の窓から空に飛び立つ彼女の後姿が見えたのだ。彼女はもう帰ってこなかった。なぜ逃げたのか。それを考える勇気を僕は失っていた。
彼女が自由な黄色い彼女になったと同時に、僕も自由な青い僕になった。
恋人と神を失った僕には何も残っていなかった。
彼女のための鳥かごや、餌や、玩具、彼女に関連するものすべてを捨てた。かえって空虚が僕を襲うだけだった。
泣いている自分の顔を写真で撮った。悲しみが嘘になったが、より深い悲しみに包まれた。
中指の爪だけをきった。脆い自信がついた。
僕は彼女を乗り越えるために罪を犯さなければならない。彼女への罪だ。
僕はユキの夢ひとつひとつを思い出し、それに反抗するような行動を行った。法律で許されている行為もあれば、ばれれば捕まるような行為もあった。僕は彼女の善に反していればそれでよかった。法律は、僕にとって何の意味もなさなかった。
悪は極端になりえない。
僕は唯一できないことがあった。殺人である。何度試みたことか。僕は殺人を決心すると、ユキと黄色い彼女のあのおとぼけた眼がフラッシュバックのように僕の脳裏をかすめる。僕は何ものかに拘束されたように身体が動かなくなって、その場に倒れこみ、泣き崩れて、何度も何度も謝った。
僕は学校に行かなくなり、家で何をやるのでもなく、ただ、日にちだけが過ぎていった。
A君とは連絡を取らなかったが、僕が学校に行っていないのを心配に思ったのか、今週末遊びに行くと連絡があった。僕は、なぜかそれを承諾した。人の温もりを必要としていたのだ。僕はほとんど食事をとらなかったので顔が痩せ細って、衰弱していた。こんな顔でA君に会えないと思った僕は食事をとるようにした。なんとか普段通りの体型になった。眼の下のインクの染みのような隈だけは消えなかった。
約束の日になった。昨日である。僕はA君を迎えに駅まで行った。日が暮れて暗かった。隈を見られて、過剰な心配をされるのが嫌だったが、駅で落ち合うと、彼は普段以上に普段通り、僕に接してくれた。
夜の街は煙っていた。僕たちはいつものスーパーマーケットに寄った。母の悲しい子守り歌のように車のライトは煙を照らす。ビールと日本酒と弁当と肴を買った。彼はなにも聞いてこない。
ああ、友はなんてやさしかったのだ!
本当は聞きたいのだ。どうして学校に行かないのか。その太い隈はどうしたのか。飯は食っているのか。何があったのか。
ライトが僕らを見つめている。
僕の哀しみを知らず、僕の哀しみを踏みにじる友の優しさよ!
僕はこのとき、黄色い彼女のことをすっかり忘れることができた。身体に染みついていたはずの彼女の規律や彼女に対する罪の意識が少しの塵も残らないくらいに洗い流された。
家に着いた。
「やっぱり、インコがいなくなっていたか。まず匂いがお前のものだ。前来た時に嗅いだ匂いとは違う。部屋もさっぱりしたな。何もないみたいだ」
彼は僕を慰めるように、こう言った。
僕らは席に着くと弁当を食べて、テレビを見ながら話した。僕の胃は食べ物を拒否したが、A君に心配されないように無理やりつめこんだ。どんなテレビ番組があったのかも、どんなことを話したのかも覚えていない。僕はただ、いつやろうかとばかり考えていた。僕には倫理がなかった。僕の中から彼女は消え去っていたのだ。僕はただ彼を殺すことばかりを考えていた。そしてビールを飲み、日本酒を飲んだ。僕はまったく酔えなかった。いくら飲んでもいくら飲んでも意識が妙にはっきりしていた。しかし、A君は僕と対照的にどんどん酔いを深めていった。
僕はできるだけ自然にトイレへ行き、出もしない尿を振り絞って出し、A君に僕がちゃんと自然にトイレをしていることをさりげなく知らせ、A君がうつろな眼でテレビを見ているすきに台所から包丁を取り出した。僕は包丁を手にすると気が気でいられなくなった。もっときれいに、彼が痛くないように殺す予定だった。しかし、気が狂った僕は何も考えられなくなり、包丁を手に取った瞬間、足を怪我している人のようにいつこけてもおかしくないような格好で台所から彼のいる机へ走り、(僕の顔はこの世のものとは思えないほど歪んでいたに違いない。彼は僕の走る顔を見ると無声の叫びをあげ、飛び出んばかりに眼をかっぴらいていた)彼の腹を刺した。
僕はA君の腹を刺してからどうしたのか覚えていない。意識が覚めたのは翌日、つまり今日の朝だった。部屋のカーペットは彼の血で真っ赤で、部屋の壁や本棚にも血がべっとりついていた。彼の首と胴は離れていた。
僕は今彼の横でこの小説を書いている。僕の服は彼の返り血がべったりとついている。
僕は彼女を忘れきることができたのだろうか。僕は彼女を乗り越えられたのだろうか。
僕は彼を殺す直前何を思ったか。僕はユキが少女に話した神話を思い出していた。僕はユキの支配を抜けきったはずだった。僕にはまだ罪の意識がある。神は……僕の神は、どこにいるのだろうか。そのことを探るために、
僕は鳥かごの中の黄色い彼女の話をしなければならない。
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