beautiful sound ~美しき音の世界~
【ストーリー】
オーストリアの都、ウィーン。
美しい音楽の都で生まれ育った、耳の聴こえない八才の少女。ミラン
アメリカ。
絶対音感を持ち合わせ、耳障りなスラムの荒んだ街に生まれ育った、十七才の青年。ゼグン
変声期をむかえ、少年合唱団に絶望、し家出したオーストリア人の十六歳の青年。バリオラ
彼等は音を嫌い、音を呪い、それでも本当は心は最上の音楽を求めていた。
彼等は輸送船の上で、運命的に出会った。
美しい音を求める彼等の成長物語。
青い地球という名の舞台で、子供たちが光りと心の合唱を歌う。
第一章 音楽の都ウィーンのミラン&アメリカの狂音の街のゼグン
■【静寂の中の少女×音楽の街 ミラン】■
オーストリア。
ウィーン。
音の占領する世界。
光りの余すことなく降り注ぐ世界。
美しき世界。
音楽の世界……。
水色の水源のような空が、美しくて、わたしは流れる空をみつめた。
緑色の草は、とてもいい香りだ。
青くて、わたしの金髪が風に揺れた。
わたしは目をつむって、光を遮った。
立ち上がって、草を払うと走って部屋に入る。柔らかいベッドに転がって、窓の外を見た。
まだ、草の香りがする。
窓の外の世界は、自然の音が氾濫するだろう世界。
目を開いて、窓の外を流れる光と雲を見つめた。
真っ白の千切れゆく雲。
吹く風がそうしてるって知ってる。
小鳥たちが澄み渡った青の空を飛んでいく。
雲は……きっと、とっても低い音を響かせて流れていってるんだって、思う。
太陽は、澄んだ音を立て昇って、そして巨大な心落ち着く音を立てて沈んでくんだって思う。
沈む紅の音はどんな音だろう。
木々が揺れる音は、涼やかな音なんだろう。
水色は、キラキラとした音なんだろう。
光は、あたたかな音かな……。
目を閉じて、ベッドに横たわるわたしは目を開いて手首を見た。
目をつむると、ママの悲しそうに泣く姿が浮かぶ。
ママの涙の音は、とても、とても綺麗な音、なんじゃないかって、思う。
ママの泣く音は、どんな声?
ママは、どんな声の人だろうって、思い描く。
ママの、ミランの頭を撫でてくれる音は、とっても優しい音なんだろう。
ママの涙を拭いてあげるハンカチは、どんな声で泣いているんだろう……。
わたしは、ママに何がしてあげられるだろうか……。
音楽なんか嫌い。
演奏なんか嫌い。
コンサート、オペラ、クラシック、楽器、人々が賞賛する全ての音楽の芸術なんて。
大自然の音を、聴いてみたいな……。
一番大好きなママの声を聴いてみたいな……。
草原を流れる風。
わたしの頬を撫でる風。
鳥が大空を流れててく。
雲が柔らかく流れる。
透き通った清流が流れてく。
わたしは草原に寝転がって、まだ聴いたことの無い音のなかを、見つめる。
嫌いなものなんか、無くなるかな。
音が聴こえるようになったなら、全てが好きになるかな。
この美しき音の国。
音楽の美しき世界。
何も醜いものなんてない世界よ……。
わたしの悲しい心以外は……。
心はどんな声でいつもわたしの体から奏でられ、鳴っているんだろう。
いつも泣いているママ。
きっと、とっても悲しい音をわたしの体が心から発しているからなんだ。
ここから見える教会から、鳩が飛び立っていった。一斉に。
それは、鐘がならされるからなんだよって、昔、教えられた。
あんなに鳥たちが驚いて飛んでいく音だから、凄く驚く音なのかも。
でも、崇高な神の場所から発される音は、崇高なはず。
神に捧げられる合唱は、賛美歌って、どんな音楽なの?
優雅に流れる世界。歴史の深い建築物は、どういう音でそこで全てを見て来て、人々に歴史を教えてあげているんだろう。
とても、落ち着く声を建物たちは発しているんだって、思う。
わたしの声は、そんな音楽の中で、どんな声なんだろう。
歌を歌えたら、どんな声なんだろう。
今は無い夜空の星は、どんな声で囁いて来ているの?
わからない。
何もわからないけれど、とっても、全てのものが、綺麗な音、なんだろう……。
逃亡 わたしの髪が揺れる
飛んでいこう 何処までだって
現実と夢の間で揺れる
空と地上の間で走るの
逃亡 空の向こうへ飛んでこう
まだまだ彷徨えるから
緑が輝く季節へ飛び立ち
心が熟れれば夕陽さえ怖くない
あとに続く静かな夜のおかげね
逃亡 朝陽に溶け込める
君の横顔が美しすぎて
何処までだって馬の背に乗り
走ってゆける
自由の野原 駆けてゆこう
陽の帳 雲の合間に駆け込んで
手を握り合って行こうよ
■【絶対音感の青年×狂音の街 ゼグン】■
アメリカ。
大陸は空に星を描いていた。大河の星が流れていた。
瞬く全てが音も無く煌きを投げかけ、そうして下の電飾の渦巻く街にも届く。
雲は無く風のなか、銀色に、大小を揃え瞬く星。
月は巨大ではなく、身を潜めるでもなくくっきりと星と交じり、あがっている。
無音なら良いと、願望が渦巻いた。
青年は目を綴じ、雑居ビルの屋上を住まいに横たわっていた。
リクライニングチェアの上、そこから目を開き、星の渦巻きを見つめた。
太古の宇宙を瞑想し、そして銀河がスパークする。美しい音を轟かし、そして瞑想のなかで宇宙は気泡を上げ、誕生する。
誕生しつづけ、静寂を誘う。
風の音は段を着け、小夜曲はまるで女の寂しげな泣き声の様だ。
下の街は光りを闇に与え、人工的なだけでは済まされない人の賑わいは、ここからは離れていた。
この場所を愛する事などできずに、青年は目を綴じ、現実を哀れんだ。
自己を哀れむ前に、酒の瓶を煽った。
コンクリート床の上のバスタブにガラクタを集め、音をそれは発していた。美しいリン、リン、と涼やかな音を立てた。
単調だが、水滴が狭い空間に響くかのようなものを伴う。
規則正しい口笛を吹いては、透明な空に吸い込まれて行く。
闇は静寂だった。
街から漏れ出す微かな音は、小さかった。
車の行過ぎていく音。遠吠えのようなクラクション。そして……
聴こえる。
聴こえてきた。
徐々に、高揚して行く大型バイクのエンジン音……青年の心を満たしていき、そして徐々に浸蝕して行く低音と、それに成り代わる高くなり行く高音……。
目を綴じる先で広がって行く天高く吸い込まれて行くエンジン音……。
宇宙の神秘とも、崇高とも取れる人間の作り出した最高の音。
それはいきなり掻き消された。
下手糞なトランペットががなる。
青年は邪魔された事に苛立ち、この低層の雑居ビルの下を通ったその騒音の元に目を切るように睨んだ。
狭い路地にはごみなど一つも無く、そこを聴覚を失った音楽家崩れが通り過ぎては狂ったようなトランペットをがなり立てているのだ。
「黙れ!!」
ガシャンッと音を立て、ジンの瓶が投げつけられ、トランペットを取り落とした汚れたコート男は、短く叫んで走って行った。
あの男は働いていた場末のバーで地元ギャングの幹部を怒らせたらしく、聴覚を失う填めになったらしかった。同情すべき心も、苛立った青年には無かった。
心が寂れる。
いやな音の世界だ。
街の端に近いこの場所から、中心部である方向を見た。
重なる様に立ち並ぶ低層の建物の先、夜になればなるほど、夜の深部を突き上げるかの様に騒々しさと目の煩わしさを増していく場所がある。
スラムの人間達が犇き合う地帯だ。
夜の静寂も蹴散らすような騒ぎは、爆音や炎の柱をそこだけ曇った低い天に浸蝕させていた。
緑、赤、緋色の爆炎は奴等の狂笑と共に挙がっている。
悪魔の様な叫び声だ。
中心部では、入り組んだ鉄製のパイプや鉄線、廃墟の鉄の塊のうねるなか、凶悪なバイクの群が悪辣なレースを繰り返していた。
その横で炎を巻き上げ男達は狂い叫び照らされるなか鎖を振り回し、グラマラスな女達は身体をくねらせ踊り、そしてバイクは壁に衝突し爆破炎上し、黒煙が舞い上がってはレールの上を走り抜けていく。生命、情操、嬌声、死体、燃え上がる体、きらめくナイフ、打ち鳴らされるマシンガン……。
それらの雑音全てを青年は忌み嫌い、この離れた場所まで来ていた。
地下クラブでは毎夜踊り狂っては狂った曲を掛け、溶けかかった様に昼には眠りを貪る獣共。
一瞬の静寂が、まるで凌駕したかの様に夜が占領する空間の街上空に広がった。
見渡す街全てに。
だが、あの、青年が唯一愛する音、きっと改造が顔も知らないオーナーの手により重ねられたのだろう大型バイクの悪魔的エンジン音だけが、切り裂くように唸り猛ってはエンジン音楽を奏でていた……。
耳が痛くなるほどの静寂のなかの、唯一響き渡るその低音と高音の狂想曲を心にまで、思うが侭に行き渡らせた。
細胞の隅にまで、そして、全ての雑音に繋がる記憶のシナプスまでもその最高峰のエンジン音で満たす……。
安堵の時間。
だが、それは突如として巻き起こった。
青年は刹那、身の毛もよだつ風が吹き荒れたような気がし、ブルーの瞳を開けホワイトブロンドが隠し現した。
ミサイルがまるで百連発で落とされたかの様な爆音が巻き起こったのだ。
闇を圧巻し、オレンジと白の光が辺り全てを照らし尽くし、そうして耳をつんざくような爆音が轟き、響き渡った……。
耳を痛くし、青年は突風がその場所からゆるゆると、そして音を奏で行きすぎて行った方向を目で追った。
場末への暖色と闇の方向から、恐る恐る顔を戻す。
青年は顔を険しくしあの中心部を見つめた。
「………」
巨大に渦を巻く太く暗黒色の柱。黒煙だ。
一体、何だ?
さっきのは……この、あの目の前にも思える巨大な黒煙の柱は……。
青年は気付いた。
あの特定のバイクの音が、しない。いつもの様に、きっとバイクのレースの為に中心部へと向って行っていたのだろうものの。
その狂ったような謎の巨大爆破から、その大型バイクの音を聴くことは無かった。
青年、ゼグンは元々その中心部で生まれ育った。親父の顔は知らない。娼婦のおふくろはいた。
スラブ建てのなかで昼は過ごし、夜には連れに誘われるままに地下クラブへ足を運んだ。
物心ついた頃からおふくろはゼグンに音を教えた。
ゼグンは絶対音感を持ち合わせて成長した。そんなもの、不要で煩わしいもの以外の何者でもなかった。
彼にとっては、絶対音感というものは、悪魔自体に思えた。
目に見え無い。悪魔。この荒んだ場所で持たされた事に、怒りを持った。
虫唾の走る音の世界。全てを嫌い、聴覚の全てをあの謎の大型バイクにのみ向けてきた。
「こんな場所にわざわざ呼び出すんじゃねえよ」
薄汚れた闇のクラブホールは赤のスポットライトが占領し、耳障りな音が響き渡っていた。
完全でない音のオンパレード。
嬌声。
旋律の狂ったリズム。
神経を乱してくる男共の濁音。
「まあ、そう言うなって。今日はお前に良いもの用意したんだからよぉ」
いぶかしんでゼグンは男を横目で見上げ、さっさとホールから離れ、汚れ、白い蛍光灯で照らされる通路に出た。
突き当たりのクラブオーナーへつくと、そのドアを開けた男はゼグンをなかへ入れた。
「……これは」
彼は口端が上がり、それに駆け寄った。
「バイクじゃねえか。すげえクールな車体だな」
「ああ。前のオーナーがいらねえってんで、古売屋に預けたんだが、その古売屋が処分しようとした所を俺が話し聞きつけてもらって来たってわけよ」
「あの例の音の正体か?」
黒の巨大な車体は、まるで細部にまで渡り組み込まれ構成されたハードロックを具現化させたかの様な完璧な、無駄なところなど皆無な組み立てのボディーだった。
「まさか、俺にゆずってくれるのか?」
「おう。持って行けよ。いつもお前のおふくろさんには世話になってるからな」
「マジかよ。すっげえ嬉しい。感謝するぜ」
「いいってことよ」
「また何かいい情報掴んだら渡すぜ」
■【教会の鐘の動きと聴こえない賛美歌 ミラン】■
わたしはママと一緒に教会へ歩いていった。
今日はちょっと遠くまで歩いて、シュテファン寺院まで来ていた。ママは特別な時にこの寺院に来て、お祈りをしているから。
ママに手を握られて、エレベータに乗った。今日はお祈りを始めにしなかったから、首を傾げた。
わたしはずっとドアを見つめていた。ママはそこのエレベータ・ボーイとなにか話しているみたいだった。
扉がひらいて、エレベータのお兄さんはわたしに笑顔を寄こしてくれた。わたしはママの後ろに隠れて、降りて行った。
地面を見つめて歩いていった。
フェンスの向こうの青空と、そしてウィーンの街並みを見渡した。
ママはわたしを抱き上げてくれて、ちょっと重そうに抱き直した。
大空を風が吹いている。
綺麗な青だわ。
小さな小鳥たちがたくさん、群になっている。
遥か遠くまで、きっと、街の地平線までを風は走っていってるんだ。
街中の皆の頬を撫でて。
教会の屋根のダイヤ型のもようを、今日も数える作業を始めたわたしは、ふと、ママの顔を見上げた。
ママは、泣いていた。
なぜ?
なんで泣いているの?
わたしはママに降ろされて、ママを見上げた。その手を握って、振ってみた。
ママは答えなくて、ハンカチで拭いて、教会から見える全てを見つめていた。
悲しそうな顔をするママ。
わたしは青空を見上げた。
二ひき、小鳥が舞っていた。
雲は無くて、どこまでも高い空に見えた。
ママが、吸いこまれて行ってしまいそうに思って、怖くなってママの体に抱きついた。
目を閉じて、泣きそうになるのを抑えた。
荘厳な教会の建築物が、みんなを一つにしていた。
一つの心にしていた。
みんなここに集まってきて、悲しいことも、嬉しいことも、悦びも、心のなかで賞賛して、分かち合うんだわ。神と共に。
だから、ママの悲しみも、ミランに分けて。
ミランは神様じゃないし、たくさん減らせることなんか出来ないわ。でも、分かち合おうよ……。
神様は、ママの気持ちを見ていてくれているのだろうか。
本当に。
心の隅から後押ししてくれて、そして頑張るんだよと、ここのみんなも心のなかに神や力の源を置き、頑張っているから、生きて行っているから、貴女も頑張るのだよと、応援してくれているかな……。
心のなかに、偉大な人がいるという励みは、大きな事なんだよね……ママ。
わたしの心のなかにはママがいてくれていることと同じ。
同じ。
この寺院の大きな鐘は、鳴ることは無いって分かっていた。お祝いの時には鳴るみたいだけれど、聴いてみたいって、思う。
とっても大きな鐘で、きっと凄い音が鳴るんだって、思う。
トルコ軍達の大砲が昔々に溶かされて、平和の象徴の鐘になるって、凄いことだって思った。
多くの戦争が地球の上を、人間達のなかで起きているわ。
カトリックだって、このみんなの場所と志を守るために、幾多の戦争を重ねて来たけど、みんなが本当に望んだものだったのかなって、ミランは思う。
大いなる神は、戦争を望んでいるかしらと。
人が、望みが絶たれて死の横たわる戦争。
なにを誇りに持ち、なにを護りたいがために戦争を?
価値在るものは、人々の心のなかにのみあるのに。
心のなかで、護って行くことこそが、争い無い神への精神なんじゃないのかしら……。
人々の望みは、どんなに神の名が異なっても一つ。
心を求めているから、神は本当は一人だけなんだっていうこと、みんなは知らない。
きっと、そんなに簡単なことじゃ無いんだね。
神の名を借りて、人々は国の範囲を広げようとする大人たちも多いんだろう。
わたしは、ただ、美しい街を美しいまま、人々の生きる喜びをそのままに、いつづけるれることを人々が本当は望んでいること、わかってるんだ。
音の無い世界は、どこまでも続く……。
わたしは、ずっと神様なんて信じてなくて、信じる人たちは心が弱いんだって、思い続けていた。
泣く人たちなんて、弱いだけだって。奇麗事をならべて、酔って現実逃避なんて最悪。そして偽善者が多い世界。
でも、人は大人になるにつれて色々なことを背負わされる。
とっても重いものごとを。
軽薄な世界が、人々を、人々のなかで独りにする。
本当に精神が整った人じゃなきゃ、独りで生きるなんて大変な世のなかに、それでも、必死に生きなければならないという気持ちを強く人は持つために、確認するために清める場が必要なんだ。
強くなるために、必要なんだ。
強く生きるために、自分の心だけでは深い闇や恐怖に囚われるだけだから。
わたしはきっと神を、そうではなく、人々の心を信じなかったことと同じ。
人々の今まで生きて来た者たちの心を信じなかったことと同じ。
学ぶことをしないことと同じ。
偉大な人々の心を見ようとしなかったことと同じ。
愚かにも、独りで生きようなんて勝手なこと、人々の苦しみを受け入れる勇気と度胸がない臆病者というだけ。
今でもわたしはそう。
臆病者のなかの一人。
でも、一番身近な大切な人のことを、どうやったら安心させられるのかって、迷い続けてる……。
ママは、どんな気持ちなんだろう……。
わたしたちはまたカタコンベに入って行くんだって思ってたけど、ママは行きたがらなかったのか、わたしの手を引っぱって歩いていった。
わたしはカタコンベが好き。
なんだか見上げていると、壮麗な【声】が聴こえてきそうだから。天への、路に思える。昇天して行くって、こういうことなんだって、思える場所。
扉の前でだけ、ママは足を止めて、壮麗さを見た。ママはわたしを見ない。
手を強く握り返してみた。
でも、ママは涙を流すだけで、そのまま歩いていった。
大聖堂からは、美しい賛美歌が流れているんだと、知っている。美しい音って、どういう音かわからないけど、白い頬を濡らし流れるママの涙の音、だって、思った……。
煌びやかな美しさに、圧倒するほどの賛美歌は、今はわたしの静寂のなかを、たくさんの参列者達のなかに、こだまし響いているのかな……。心のなか……。
■【合唱団崩れの青年との出会い ゼグン】■
「これ、壊れてるじゃねえか」
ゼグンは腕から血を噴出させ、故障していたバイクを蹴散らし、汚れた地面に尻を着け怒鳴り悪態をついた。
あの野郎、と罵り、共に自分を呪った。うまい話になど乗るべきじゃなかったのだ。
彼は腕に布を巻き、立ち上がって灰色の天を睨んだ。
彼の頬を、一瞬の轟いたイカズチの後、雨が打ちつけた。
冷たい雨だ。
目を綴じ、音を呪う自己を嫌になった。
ゼグンは首を傾げ、聞き耳を立てた。
何だ……?
いきなりの事に驚き、咄嗟に避けたが、それは人間だった。
「驚かせやがって……」
自分と同年くらいか、青年がガタガタと奮えていた。
「おい。何やってる?」
青年はザッと顔を上げ、怯えた様に首を横に振った。
「何もしねえよ」
ゼグンは両手を出し、何も持っていない事を示した。
青年は口を開くと、思いの他だみ声だった為に、ゼグンは声を掛けた事を後悔し、立ち去ろうとした。
「ここは……悪魔の街だな……狂った音の街だ」
ゼグンは青年を振りかえり、壁に背を付けた。
「酷い訛だな。お前」
「俺の母国は美しい。魅惑の音の街だった」
「魅惑の音の街……?」
青年は小さく頷き、ゆっくり立ち上がると、緑色の目をしている事が分った。
「その街で俺は少年時代から合唱団をしてきてた。そういう学校があったんだ。知ってるかな。ウィーン少年合唱団。その音楽学校には綺麗な声した少年が集められて、綺麗なホールで歌う」
「初耳だ」
「あんたも、綺麗な声してるんだな。なんだか、整った声っていうか」
実際、そう自分でも意識しているだけだ。自分の声の運びが耳障りにならないよう。
「お前の声は酷いな」
「変声期。絶望的だった。来る事なんか分ってたが、辛かった……」
「そうか。俺も辛いぜ。全ての音が煩わしい」
青年はゼグンの横顔を見てから、考えを巡らせて言った。
「一度は逃げた国だが……、たまにまた戻りたくなる」
「魅惑の音の街にか?」
前方の壁を見ながら言い、ゼグンは失った最高の音の源、壊れたバイクを見下ろした。
「ああ」
「挫折した場所だってのに戻りたいのか」
ゼグンの生まれ育った地帯は、彼が逃げた場所だった。こいつも同じだろう。最高の音の占領する街で、それだからこそ挫折し、逃げた。
自分とは種類は違うが、多少の親近感は持てた。
「お前の声、酷いが聴きなれるとそうでも無いな。今度、歌でも俺に聴かせろよ。自分の声に合った歌は歌えるんだろう。学校だかに行ってたくらいだ」
「飼い慣らされた鳥は、その歌い方しか分からずに逃れられないのさ。俺は自分の声の歌を探訪したいって我を張って出てきた。だが、行き着いたこの街でも逃げ出したい気分だ」
ゼグンは再び街の中心部へ向かい、男の根城へ向う。この昼の時間帯ならば、奴等は眠りこけている為に煩わしい音は極めて少ない。
不可解な爆破の起きた一帯には、普段は入る事さえ許されない警官の人間が巡らせて行ったテープが目立つ。
赤のテープに黒で立ち入り危険と記されている。そこを越えれば、まだ多い負傷者が包帯まみれで放置されていた。
警官隊の姿は既に見当たらなかった。
あの役立たずになったバイクのオーナーはどうなったのだろうかと、頭に描いたものの、無駄な事はやめた。
あの日から心の安らぎの音を失い、苛立ちがつもっていた。
ゼグンは男のやさに着き、ドアを蹴り開けると叩き起こした。
女と共に眠りこけていた男は煩わしそうに手で払ったが、ゼグンだと分かるとだるそうに半身を起こした。
「おい。俺を騙しやがったな? 故障してたじゃねえか」
「さあな。知らねえよ」
横の煙草を加え、ゼグンの顔を見上げると笑って布の巻かれた腕を指で指した。
「なんだそのざまは」
「知った事か」
男は立ち上がり、首を鳴らすと横のテーブルに置かれたパスポートの山を掻き分けた。
「代わりと言っちゃなんだが、良いものお前にくれてやる」
「何だよ今度は。信じねえからな」
「まあ聞けよ」
パスポートのなかから適当な物を探し当てると、それをゼグンの胸に放った。地面に落ちたそれを拾った彼は、眉を潜めて偽造のそれから男の顔を見る。
「最高の音の街に行くつもりはねえか? お前、その耳持ち合わせてちゃあ、神経も今にブチ切れちまうぜ」
「どういう事だ?」
女が背後で眠る姿を一度振り返った男は、声を潜めて彼に言う。
今、国外逃亡させる予定の人間が二十名控えているらしい。それと共に物資も運ぶついでに、ゼグンもこの音の煩わしい街から離れる事が出来るというのだ。
「今は丁度警官共は例の爆破で駆け回ってる。港まで手は回してはいられないって事だ。一体なんの爆破かはしらねえが、丁度いい時期に沸いてきたチャンスだって事だ。お前にこのパスポートをくれてやる代わりに、物資をしっかり運び出せ。それが条件だ」
「どこに」
「ヨーロッパだ。お前には最高の音に巡り合えるチャンスなんじゃねえのか?」
ゼグンはその最高の音への切符を見下ろし、暗い屋内から、光が白く差し込む窓を見た。
この狂音の街から出る事が出来るチャンス……。
ゼグンは自分のやさに戻り、あの青年に幾らでもチャンスが転がっている事を言った。
「俺も行けるのか? もう金も底をついていて、何処にも行けなかったんだ。謝礼金を払わないとならないんだろう?」
「大丈夫だ。俺に任せな。話を付けてやる」
第二章 ゼグンの出航への希望 & ミランの突如の恐怖
■【突如の誘拐の恐怖 ミラン】■
離して!!
その言葉が出せなかった。わたしは暴れて引っ掻いた。
暗くて、一体なんなのか分からなかった。
男の人はわたしの口を塞いでくる。
暗いなかに、大きな影が輸送船をかたどった。
港はあったかい光が点々と灯っている。
後ろを必死に振り返る。
ママ!
ママたすけて!
わたしは男の人の前に現れたおじいさんに手渡されて、無理やり船に連れ去られて行く。
なんで?
一体なんで?
わたしは、誘拐されて、ここに連れて来られた。
船に入って、汚い壁。錆びた船内。
男の人たちが何人か通りかかる。ネズミも。
鉄のドアのなかに、わたしは放りこまれた。
そこには、たくさんの子たちがいた。
何? なんで?
泣いてる。みんな泣いてる。
暴れてる。わたしみたいに。
わたしは、そうだわ。売られてしまった……。
ママのかお。
草原。
水色の空。
真っ白な雲。
聴いたこと無かった綺麗な音が流れるはずの世界……。
輝く、世界だった……。
わたしの頭に広がって、この暗闇のなかに消えて行った。
わたしはまた開いたドアに駆けつけた。他の子が放りこまれた。その子も泣いていた。口を大きく開いて涙を流してる。
わたしは走って、さっきの男の人の背中に突っ込んでいった。
振り返ったその人は、わたしの服を掴んで恐い顔をして口を大きく開いた。口が動いた。ドアの方を指してきた。
嫌よ。戻りたくない。でも……
美しい音楽なんかにこれ以上、苛立たなくていいんだわ。
耳が聴こえないこと、綺麗な音楽が占領する国のなかで、苛立たなくてよくなるんだわ……。
わたしは男の人が落とした紙の束を見下ろした。
男の人はそれを拾い集めていた。
?
あれ?
わたしはそのなかの一枚を手に取った。ネズミが紙がちらばる上を走って行った。
え?
……うそ
その紙には、売約書と書いてあった。
黒のインクで、わたしの名前が書いてあった。
契約者のところに、ママの名前……。
なに?
なんで?
ドウイウコトだろうこれハ……どういう……コト?
わたしの手から紙を奪った男の人は、わたしをまたドアのなかに押し込んだ。
わたしはその場所に座って、泣く子たちを見渡した。
うそでしょ?
うそよ。
みんな、売られたの? ママに? パパに? 家族に? うられたの……?
何も食べたくなかった。
わたしは変なムシがテーブルを歩くお皿を憂鬱に見下ろして、横で泣いている女の子を見た。
わたしはその子の頭を撫でてみた。その子は顔を上げて、またうつむいて泣いた。
涙をぽろぽろ流していた。
わたしたち、どうなってしまうんだろう……。
何も音がしないけど、みんな黙ってなかった。泣いてるから。きっと、今すごく悲しい音がしてるんだろう。
悲しい音は男の人たちを苛立たせているみたいだった。何かを言っている。
みんな恐がって俯いていた。
酷い音なんて聴いたことないけど、きっと酷い音も氾濫してるんだろう。
赤く錆びた船内。灰黒く汚れた船内。薄暗くて、こんなにも嫌なかんじの所だもの……。
そんな場所にいる人達の顔も、恐かった。きっとだから、音も酷いんだろう。
場所が音を想像させる。人が発するだろう音を想像させる。
空間は音を種類を、伴ってるんだわ。
そう、思った……。
素敵な音の世界ばかりじゃないんだっていうこと……。
■【魅惑の音の国への出航 ゼグン】■
巨大な船体は港に停泊している。
カモメが寂しげに空を滑空し、高く鳴いている。
風が吹いているが、海の先へと進んで行くままに、海の奏でる止む事無い音楽に混じって行った。
寂れた青空を、青い海が染めようとしているのか、綺麗な青を称えていた。
輸送船は夜闇の内に誘導された物資を乗せ、すでに出航の汽笛が鳴るばかりになっていた。
オレンジのブイは波と共にゆれ、微かにぶつかり合う音を耳に届けていた。
カプン、カプンと……。
しばらくは風の音を奏でられるままに聴いていた。
船に乗り込み、出航だ。
彼は甲板から振り返った。港の建築物の先に広がるのは見た目上は美しい街だ。
この港からは、あの中心部の荒んだ場は見えずに、覗えもしなかった。
それでいい……。
船は汽笛を上げ、滑るように進んで行く。
それと共に風を大きくはらみ、滑って行く。
もうさようならだ。
耳障りな音にも、全て……。
■【水色の瞳の青年との出会い ミラン】■
眠っているうちに、いつの間にか小さな飛行機のなかなんだってわかった。
窓から外を見たら、空を飛んでいた。
小型飛行機で、みんな暗い顔をしてうつむいていた。
男の人たちはライフルを持ってみんなを見ていた。
青い空に、大きな鳥が飛んでた。
雲が氾濫してた。
音が分からないけど、この酷い所から見る綺麗な空は、やっぱり綺麗だった。
きっと、大きく音楽を発してるんだわ。
天空は。
行ってみたかった大自然の音の氾濫する空に今、溶けこんでるんだもの。
盛大な音楽を、天空は奏でている……。
積乱雲。
大空。
大きな太陽。
きっと吹き荒れてる風。
この暗い場所からは、それが想像できる。
わたしは窓の近くから戻されて、また小さくなって座った。
みんな、もう暴れる力は無かった。
だから、男の人たちは見張りも楽そうに、隅でトランプをしている人もいた。
わたしたちはいきなり飛行機が傾いたからびっくりした。
視界に、海が広がっていた。
それに、大きな大きな船……。
わたしたちの乗っている小型飛行機は、その大きな、コンテナが積まれた船の甲板に滑り込んで、ネットのところで止まった。
機体が揺れて、恐くて、わたしは目をつぶった。横の子としがみ着き合って、震えていた。
いきなり大きく揺れて、わたしは顔を上げて振り返った。
男の人たちが飛行機に入って来て、みんなを無理やり外に引っ張り出した。
わたしは恐くて固まっていた。
みんな泣いていた。
わたしの頬も涙で濡れていた。
外に出されて、海と空が広がるなかで、わたしはある人を見上げた。男の人だ。
その人はおじさんたちよりも若くて、音楽学校の学生くらいだった。
その人は綺麗な顔をしていて、水色の目をしていた。
でも、目が吊りあがってて恐かった。
何か言ってきてる。でも、わからなかった。
みんなは泣いていて、男の人たちに引っぱられて行った。
わたしも引っ張られてく。振り返りながらその人を見た。そのまま頭を押さえられて、船内に入らされた。
■【人身売買の船 ゼグン】■
人身売買の話は途中から加わった事だった。
ゼグンは哀れにも親に売られ意気消沈したガキ達の背を見てから、顔を反らし歩いて行った。
どこから来たかは分からないが、ガキ共の言語や肌の色全てが異なっていたから、あちら側の物資を運び入れる毎の国で拾い集めて来ている事が分った。
ゼグンには関係無かった。アメリカを離れられるなら。
早く離れたい。
ゼグンは物音に振りかえり、眉を上げた。男が怒鳴り散らし、逃げ出した一人の少女はゼグンの横を走って行った。
さっき、自分にガン垂れて来た愛想無い顔のガキだった。誰もが泣き叫ぶなかを、その少女だけが鋭い目をして涙を流しながらも睨んで来ていた。
ゼグンは言語不明の言葉を喋る男のライフルの先を避けつつも、背後を振り返った。
少女は転び、立ち上がって走って行く。
男はゼグンに怒鳴り散らし始め、耳障りな声で怒鳴って来る。言語が違っても煩いものは煩い。
アメリカから共に乗ってきた元合唱団の青年が、騒ぎに船体から顔を覗かせた。
そいつは名をバリオラと言った。
「何騒いでるんだ?」
「ガキが逃げ出した」
興味もなさそうにバリオラは相槌を打ったが、ゼグンが首をしゃくった方向を見た。少女の消えて行った方向だ。バリオラはそちらに歩いて行く。
「放っておけ。どうせ捕まる。海の上なんか、イルカじゃなけりゃあ船から落ちようって思うかよ」
「ここの奴等に見つかるよりはましだろ」
バリオラはそう言うと、歩いて行った。ゼグンは首を振り、男もどうせ腹が空けば出て来るだろうと踏んで去って行った。
第三章 合唱を歌う子供 & 夜を轟く怒声
■【青の海と空に囲まれ受ける風 ミラン】■
わたしは柵に寄りかかって青の海を見つめた。
肩を叩かれて、振り返ると若い男の人が立っていて、何か言った。
わたしは首を振って、口を指さしてから肩をすくめた。
声が出ないことは伝わらないみたいで、男の人は喋り続けた。
どんな声かは分からないけど、整った顔しているから、きっと綺麗な声。
さっきの男の人もきっと綺麗な声だと思う。
わたしはまた膝を抱えて海を見た。白い柵の向こうには、自由が広がってる。海と同じ、自由なんだって、今思う。
今、わたしは自由なんだわ。
自分が思い描けるだけの音を想像出来るから。
風が大きくわたしの髪をひるがえす。
風は気持ちが良かった。
男の人は横にきて座って、一緒に海を見渡した。
話してみたくなったけど、話せなかった。
いつも、国でみんなと話したいって思っても、出来なかった。
自分でそうしなかった。
何も、知りたくなかったかもしれない。
自分の思い描くだけの場所にいたかったのかもしれない。
ママが悲しむ意味も、本当は知るのが恐かったのかも……わたしを捨てたママ。
信じたくない。
男の人は立ち上がって、わたしの肩を叩いた。腕を引っ張られて、また戻されるんだって思って恐くなった。
でも笑顔で首を横に振った。おいでおいでして来るから、わたしはちょっと風が寒くなって来たし、着いて行くことにした。
下の甲板に下りて、さっきの水色の目の男の人がいて、2人で話し合っている。
水色の瞳の男の人が、わたしを見てから頷いて、船内に入って行った。
わたしは首を傾げて、その背を見ていた。
■【耳の聴こえない少女との出会い ゼグン】■
船内に入って行き、ゼグンはあるものを探していた。
確か、寝起きするための部屋にあった筈だ。
ノートパソコン。
それを脇に抱え、甲板に戻って来ると、少女を招き寄せた。
バリオラもそれを見下ろし、少女は首を傾げた。
起動させ、言葉を打ち込んだ。
それを少女に見せ、少女は首をかしげて首を振った。
次にバリオラがキーボードを打ち込む。
少女は目を見開いてバリオラを見て、頷いた。
「なんて入れた?」
「名前はなんだ? って」
「俺と同じだな」
「この子、俺と同じオーストリア人らしい。じいさんばあさん以外ならオーストリア人でも英語は話せる人間が多いんだが、きっとこの子は耳が聞こえなくて英語は習って無かったんだろう。基本的にあの国はドイツ語を話すから」
「お前の英語は訛がきついからな」
少女はパソコンを受け取り、人差し指で一つ一つキーを押して行った。
それを覗き見て、バリオラが言った。
「ミラン。ミランって名前らしい」
彼はゼグンと自分の名前を打ち込み、少女に見せた。
少女は頷き、彼等を見上げてから、そして、初めて微笑んだ。
それは実に可愛らしいものだった。
■【合唱する子供達 ミラン】■
海をすべる船の上は、風が冷たかった。
頬に風が当たって、わたしは独りなんだよと、言って来てるみたい。
甲板に出て来たみんなは、見張りの男の人たちを気にしながら何かをしていた。
わたしは加わる気になれなくて、ゼグンと屋上からみんなを見ていた。
音の世界って、どういうものなの?
無音の世界って、目に飛びこんで来るものがまるで訴えかけてきているみたい。
全てのものが。
信号とか、存在を送ってきてるみたい。わたしの体と、それと心に。
みんなにも、送られているんだって、思う。
ここに在るんだよっていうことや、ここに居るということ。
音って、大切なのかな。
音って、楽しいものなのかな。
音は、わたしをどう受け入れているんだろう。
わたしは簡単な英語をバリオラに入れてもらって、それを見ていた。
---グリュス・ゴット=ハロー
---グーテン・モルゲン=グッドモーニング
---グーテン・アーベント=グッドナイン
---アウフ・ヴィーダーゼーエン=バイバイ
---ヤー=イエス
---ナイン=ノー
---ダンケ・シェーン=テンキュー
---ビッテ=シュア
---ヴァス コステット ダス?=ハウマッチ?
---エントシュルディゲン・ズィー=アイムソーリー
ゼグンはハローとか、グッドナインとか、一つ一つ口で教えてくれている。
わたしも口だけ、そうやって形を作って勉強をしていた。
ママの口を読むことをよくしていた。それがどういう時にその形になるのか、ちょっとだけ分かる。
わたしの世界は、文章の世界だった。それでなりたっていた。
でも、それに音を付けることが出来るというのは、憂鬱だった。
こうやって、住んでいる国が違うだけで、違った言葉がたくさんある。
それによって、音楽も違うんだって、バリオラがパソコンで言っていた。
わたしはみんなが甲板で並び始めたたから、それを見下ろして、ゼグンの顔を見た。
なにやっているんだろう。
バリオラが指揮者みたいに両手を動かしていて、それでみんな同じ口を動かしていた。
海の美しき青が臨む
天と溶け合うのなら 光りの天使が降りてくる
この尊い時を
太陽が醒めるとき
南国の少女は待ちつづける
愛情を分かつ青年
流星の瞬きと 白い鳥を見上げては
茶色の瞳を流れさせて想いの歌声滑らせる
ジャングルの温かいスコールの先に
恋人の青年
共に瞳を交わし見上げる流星
ララララ……ララララ……
天は暗く 宇宙は闇のなか
星の煌き 月の傾く時には
闇に閉ざされて優しい夜を
---シングアソングエブリバン
キーボードにゼグンが打ち込んでいて、わたしは首を傾げた。
でも、分かっていた。
歌を歌ってるんだ。みんなで……。
わたしは寂しくなって、みんなのいる方に背を向けた。それで、ゼグンの背中に寄りかかった。
歌は、言葉を話すこととどれくらい違うんだろう。大変なのかな。ママは歌ったことは無いって思う。
言葉はよく話していた。メモをいつもわたしに見せるか、それかゆっくりと喋ってくれた。
聴こえないけど、口の柔らかいママの動きが好きだった。
ママのことを考えると、わたしは悲しかった……。
ママにとって、ミランは大変な子だったんだって、思う。
手首を見つめて、わたしは空を見上げた。
物には全て名前があって、言葉は人と人が考えを分かち合うために作られてきた。
何を考えていて、何を思って、どう感じたのか。
それらが交ざりあって、一つの感情のもと、音楽が作られる。
美しいものを聴くために、音楽が作られて来た国。
どこの国でも、同じなのだ。
音楽は、美しいもののなかのひとつ。
大自然や、街並みや、人の心や、そして言葉と、音楽。
名前があり、ミランみたいに名称があって、それには文字という形みたいに、音という目に見えないものがある。
動くものには音があって、そして静寂のなかにも、物が存在する。
今のわたしがそう。
静寂のなかの、音のない確固とした存在。
お腹が空いた……。
---アーユーハングリー?
ゼグンは画面を見せて、わたしはまた首を傾げた。
面倒そうにゼグンは頭を掻いて、バリオラに声を掛けたみたいだった。彼は顔をあげて、頷いていた。
甲板の上のみんながバリオラの言葉で動き出していた。
武器を持った男の人たちは、面倒そうに首を頷かせて、みんなが船内に入って行った。
わたしたちも屋上から降りて、船内に行く。
■【船上のまどろみ ゼグン】■
「今は悠長なものだな。歌なんか歌って、ガキ共のご機嫌取りか。今にどこかの地獄に落とされる奴等なんだぜ」
「それでも今の時期くらいは好きにさせてやっても良いはずだ。音楽っていうのは、心を癒す。プロじゃなければな」
バリオラはお椀にドロドロのわけの分からないスープを盛り、お盆にのせると子供達の座るテーブルに置いて行った。
「慣れたもんだな」
「これでも長く寄宿舎に入っていたからな。全て当番制だったんだ」
「今に甲板掃除まで教えるつもりか?」
「奴等にせまられてそれが必要ならな。気の紛らわしにはなるだろ」
ミランの前にもスープをおき、みんなはバケットのなかからかびたパンをひとつずつ取った。
みんなそのまま食べる子供もいるが、かびを取ってたべる子もいる。
男達は彼等を見張ったまま武器を肩にかけ、なかには仮眠をとる者もいた。
「おい。本当にこの子達を奴等に任せておくのか? どんな目を見ることになるか、分ってるんだろう?」
「バリオラ。お前、妙な気起こすなよ。ここで会った奴等はそういう運命だ。歌なんか教え込んで、それでなんだって言うんだ? あの喋れないガキもいずれは売られて行く」
「どこに」
「そんな事知らねえよ」
ゼグンはスツールに座り、煙草を吐き捨て首を鳴らした。
「妙な気起こすな。十八人も面倒見るのはそれぞれそいつらのこれから会う新しいオーナーにでも任せておけば良い。俺たちは同伴しているだけなんだぜ」
窓から見える夕映えは、悪魔の魂の様だった。赤く燃え、雲はうねり、波を黄金色にし、そして船底をずっと波の音で占領させ続けた。
これからしばらくは、これを子守唄に子供達は寝るほか無かった。
「おいお前ら」
アメリカから共に乗り継いだあの街の人間が、彼等の横に来た。鋭い目で見て来る。ギャングの人間だ。あの街からの物資と、犯罪者二十名を高飛びさせる任を受けていた。
「あまり妙な気起こすんじゃねえぞ。大人しくお手伝いしてりゃあいい。下手考えるようだと命も無いと思え。そういう立場だ」
「ああ分ってるさ。充分な」
ゼグンはミランが彼を見ている事に気付いた。余計な感情移入をする前に、彼はその視線を無視し、バリオラと共に出て行った。
バリオラは、出て行く前に子供達に、明日また歌を皆に教えるから歌おうと言い、出て行った。男は飽きれた様に首を振り、今の所は放っておいた。
「お前、ヨーロッパに渡ったらどうするつもりだ? 音楽でも始めるのか? 絶対音感持っている人間っていうのはそういうのを生かすべきだ」
「ヨーロッパの音楽が俺に合うか合わないかだ。ただ、煩わしい音の無い場所に行ければ俺はいいのさ」
■【夜闇の無音と正体不明の恐怖 ミラン】■
みんなが寄り添い合って眠っていた。バリオラが現れてから、みんなあまり泣かなくなった。なんでかは分からなかった。
歌を歌っていて、それで、なんだか楽しそうだった。
でも、これからわたしたち、どこに行かされるんだろう。悪魔の船の上から、どこに行かされるんだろう。
どこに売るんだろう……。
わたしはずっと、丸い窓の外を見ていた。夜の星が、瞬いている。
今は、どんな声をしているんだろう。分からなかった。
いきなりのことで、わたしはドアの方を振り返った。
その方向が明るくなって、みんなが動きだしたからだった。
なに?
何があったの?
黒い影の男の人が、暴れる小さな影を2人連れていった。わたしは恐くて、どうしたらいいのか分からなくて、ずっと他の子にしがみついて震えていた。
ドアが閉じて、闇が広がった。みんなの触れ合う体が震えていた。わたしが震えているだけかもしれない。分からない。
どうなったの?
なんだったの? 分からない……。
なんにも分からなかった。他の子にも聞けなかった。
でも、聞きたくなかったのかもしれない……。こわくって……。
■【切り裂く叫びと現実 ゼグン】■
彼は物が倒れる音に甲板から背後の闇を振り返った。
今は背後となった闇の海は、一定の音を奏でていたが、怒声が轟いた。
ゼグンはドアが開いた先を見て、バリオラが駆けつけてきた。
「どうした」
答える事も無く、彼は柵に手を掛け夕食で食べた物を全て吐き出した。
ゼグンは顔を歪め、今更船酔いな訳も無い。
落ち着いたバリオラは汗をぬぐい、言い迷ったが、それを言った。
「臓器売買と人肉売買か」
「子供に手を掛けようとしたから俺が間に入ったんだ。子供は逃げていって、それに怒ったが追いかけたらドアから入って来た人間の腕にぶつかってナイフが……血が苦手で」
「子供相手に酷い事するしやがる。逃げた後は部屋に戻ったのか」
「ああ……、うっ」
バリオラはまた吐き、整った顔を両手でさすった彼は泣いていた。無理もない。
「もしかしたら、今までも奴等は子供にこうしてきたのかもしれない。それに、これからももしかしたら俺たちの知らないところで……。そうなんだとしたら、歌なんか教えるんじゃなかった。俺は酷い事したんだ。出来るだけみんなを見てあげてないと」
ゼグンは何も言う事は無く、一瞬を置いてバリオラの腕を掴んだ。
「ミランは」
「怖い思いをしたのは他の子だった。二人もだ。部屋に戻ってもがたがた震えて泣いていた。俺はもう耐えられない」
「ここからどうやって出て行くって言うんだ?」
そこは紛れも無い海の上だった。
「ボートがあった」
「死ぬつもりか?」
「このままじゃあ俺たちもどうなる」
「そんな事わからねえよ。乗ったが最後。地に着くまでは船は悪魔の巣窟だ。覚悟していた筈だぜ」
彼は力無く頷き、ゼグンは言った。
「もし俺たちが乗り込む前にそんなことがあったとしたら、近海に闇市が近い筈だ。保存する場所があるとしても、そうは期間を開けられない」
「どうも思わないのか? あった事を!」
ゼグンは風の音が耳の奥にうねるままにさせ、眼を海に向けた。
「日常茶飯事なことだ……。世界っていうのは、貧困と富豪層で別れてるんだよ。金として人まで売れる。自分達の食を繋げるために肉も売らざるを得無い世界もある。お前みたいに、ボンボンが塀に囲われた煉瓦だとかの学校に守られて給食与えられて自分の好きな事に無我夢中になれる奴等ばかりじゃねえんだよ。お前等が金持ち相手に聴かせてる音楽の下にある世界のアンダーグランドでは、一日を生きるか死ぬかの世界が絶えず続いている。スラムに目を向けた事なんか無い奴等だ。そこの奴等やガキ共がどうやって一日を生き抜くのかを知らない奴等だ。全てを失ったような面をした奴は、生きる意味の置き場所を違えている。生きているだけで幸せな奴等もいれば、生きることが辛いなんて言っている奴等。生きられただけで希望を持てる奴等。富豪連中は甘い菓子だけ食ってれば人生を無事に終えられるもんな」
「……。軽蔑するなよ。俺のこと」
「お前のこと言ってるわけじゃねえよ。世のなかの成り立ちなんて、裏を返せば酷いもんだ」
ゼグンは海を眺め、走る雲の月を仰いだ。
「……。助けるか」
バリオラは顔を向け、ゼグンが夜空を見上げるのをみた。いつもこいつは夜空を見上げている。まるで、夢想しているように。
静寂を瞑想しているかの様に。
「全ての貧困のガキが同じ末路辿るなんて事、強要する事も無いんだぜ。あのガキ共の事は直接俺たちの物資輸送や犯罪者の高飛びとは違う路線だ。系列も違う」
「でも、奴等同士の関係が悪くなるんじゃないのか? お前、恩を買ったんだろ? 俺だってそうだ」
「ミランに罪はあるか? 無いのに売られるんだぜ。何も知らないガキ共は恐怖だけしかこれから詰め込まれない人生だ」
「意外と優しいんだな」
ゼグンはその言葉が終らない内に、甲板を歩いて行った。
風と飛沫の音が、その言葉を遮った。
第四章 音の世界とミランの決意
■【世界を氾濫する音の世界 ミラン】■
二人、朝食にいてもう泣いていなかった。
昨日一度連れて行かれて戻ったから安心したけれど、何があったのかは分からなかった。みんなが耳元で話し合っていた。
なんて言っているのか分からなかった。
パンを食べて、カビのモサッモサに生えたわたしのチーズをネズミが取って行ってしまった。
だから、朝はパンだけだった。
わたしはみんなが甲板に出たから、また屋上によじのぼった。
でも、バリオラは出て来なかった。わたしはちょっと気になって、船内に戻った。
奥に入ったらいけないんだって分かる。突き当たりのドアには男の人が武器を持って立っていて、わたしたちが入れないように見てる。
奥はなんなのか分からないけど、ゼグンたちの部屋も奥だった。
わたしはおじさんに近づいて、その人は恐い目でわたしを見下ろして、何かを言いながら首をしゃくった。
無理みたい。
また甲板に戻ったけど、みんな昨日と同じ格好でそろっていた。
自分たちで口をそろえて、歌っているみたい。
わたしはそこに行くことをやめて、船の先まで来た。
風が気持ち良くて、自分がどこに行くのか分からなくても、なんだか、どうでもいいって感覚だった。
本を読みたい。
詩を読みたい。
文字を書きたい。
草原とか、教会とか、空の絵を描きたい。
川で泳ぎたい。
草原で転がりたい……。
ママの料理、食べたい……
ママに会いたい。ママの涙じゃない顔みたい。ママに頭、いい子してもらいたい。教会から飛び立つ鳩を、見たかった……。
鳩は、しあわせの象徴なんだよって、本で読んだ。
読んだ……。
聴きたい。
聴きたかった。
波の音、海の音、雲の音、風の音、船の音、みんなが歌う音、ゼグンたちの音、わたし自身の音……
今流れる、この涙の音……。
わたしは悲しくて、どうしようもなくて、柵におでこを付けて泣いた。
目を閉じて泣いた。
風がわたしの体をつつんだ。
喋りたいよ……。
話してみたいよ……。
今のみんなと。
寂しい思いしている今のみんなと。
いっぱいいっぱい話してみたい。
なんで?
なんで……
「………」
……ザン…
……?
ザザン……
わたしは辺りを見回した。
なんだろう?
この体を包む感覚は、なんだろう……。
深く包まれる、例えようの無い……
ヒュウウウ、ザン……
これはなんだろう……。
「天が割れるように
光が我に差し込みし
恵の……」
ザザン…ザザザザザ………
「……?」
なに? この光のような物……。
わたしは後ろを振り返り、甲板のみんなを、男の人たちを、それで、歩いて来たゼグンを見つめた。
渦巻くように、包み込むように、優しく、力強くわたしのなかに何かが訴えかけて来ている。
わたしは小さな手で、耳を塞いでみた。
「……」
また、手を離してみた。
「ファッツアーユードゥーイン。アーハン?」
「……、」
綺麗な【旋律】が、どこから耳に入って来るのか分からなくて、わたしは目をいつもみたいに閉じて、そしてひらいた。
ザザン……
ザザザザザ、ヒュウウ、ゴゴゴゴゴ、神の御前に……ヒュウウウ……
これが、地球の音、生命の……音楽
わたしは船の先から思い切り風を受けて、振り返った。
ゼグンが、かすんで見えて、見えなくなった。
涙で、見えなくなった。
音を発さない涙。
うれしくて、熱い涙は、地球の音に紛れて、そうじゃないわ。
涙に【音】は必要ないんだ。
「ミラン?」
わたしはうつむいていた顔を上げて、ゼグンを見上げた。
ミラン
神の御前に
恵の……
わたし、聴こえる……。
青の海を背後にゼグンが、美しくて、わたしは彼に抱きついていた。
「ミラン? アーユーオーケイ?」
さっきからなんて言ってるのかが分からないけど、わたしは言葉が返せなくて、顔を上げて頷くことしか出来なかった。
あまりにもうれしくて。
■【悦びと憂い ゼグン】■
ミランは声も無く、嬉しさの余りに両手を広げ甲板上で回っては青空の青に溶け込んでしまうんじゃないかという程、顔に微笑みを広げていた。
それは、光り輝いたものだった。
ゼグンは、初めての音の感覚に、全身全霊で悦ぶミランを見ては、何らかの希望が見え始めたことを思った。
自分は音が大嫌いだった。
あの街で生まれ育ち、自分の耳を呪い、音を呪い、そしてひがみを持っていた。
だが、美しい音を恐れるようになったバリオラと出会い、耳が聴こえない事で心を閉ざしたミランと出会い、自分を見つめなおし、今、希望を打ち消され、合唱のまだ下手糞なメロディーに打ち込む子供達を見て。
音楽はやはり、人が求める物なのだと言うことだ。それは切にだ。
自分自身も、音を、本当は求めていたのだ。
美しい音。
そして、それに取り囲まれてみたいという気持ちは、人間にうまれたと言う事を、万人を一つにする。
子供達の合唱が天高くうねり、遅れて登場したバリオラは、彼等が自分達の国の歌をその国の言葉で教えあって歌っている事を見た。
彼は一度俯き、それでも子供達に手を振られると小さく笑いその場所まで歩いて行った。
ミランはゼグンにくすくすと笑い、悪戯っぽい目でウインクしてから、バリオラに気付かれないように彼の背後に回った。
子供達は顔を揃えてミランを見て、彼女は万人に通じるらしい、口に人差し指を持って行き子供達が変に反応しないようにさせ、子供達もくすくすと笑っていた。
ミランはバリオラの背の高い頭を見上げ、いきなり思い切り背に抱きついた。
「うわあ!! んな、何だっ!」
ミランは耳をつんざいた、例の【酷い変声期】を聴かされ、驚き目をぱちくりさせ、それを発したのがあの顔の整ったバリオラに間違い無いと分かると、一瞬を置き、何かに取り付かれたかの様に、声も無く笑い転げた。
バリオラは首をかしげて瞬きし背後に転がるミランを見て、驚いて抱き上げた。
「おい! 大丈夫か? ミラン!」
慌てふためく風に子供達は一斉に笑い出し、彼はわけもわからずに初めて子供達が笑う高い声が波の音に劣ることも無く、天に響き渡った様を、しばらくは聴き入っていた。
ゼグンはそこに来て、バリオラに言った。
「どうやら、耳が聴こえるようになったらしい」
バリオラはミランを見下ろし、彼女が苦しんでいるのではなく、紛れも無く体に入ってくる音や声に反応し、そしてその事で笑っているのだと言う事が分かった。
「本当か? ミラン?」
ミランは涙を拭いながら笑顔で顔を上げ、実際話されているのがオーストリア語である事は分からない。だが皆の声が渦を巻くように大自然のなかを渡っているのを仰ぐように見ては、にっこりと微笑んだ。
バリオラは正直、心が翳った。
聴こえないことの方が多い、この船上の世界だ。
これは喜ぶべき事であるというものを、素直に安心出来ないことだった。
それを感じているのはゼグンも同じようだった。だが彼はミランの前に来て、膝を着いた。
彼はミランを指で示し、彼女は自分を指さして首を傾げてゼグンを見た。
「ミラン」
ミラン……。
ミランは首を傾げ、そしてその綺麗な【言葉】の運びが、紛れも無い自分の【名前】なのだと言う事が分かった瞬間だった。
「お前はミランだ。美しい名をつけられたんだな」
ミランは言葉は理解出来ない顔は変わらなかったが、それでも嬉しさのあまりにゼグンに飛びつき、自分の脳裏にその【美音】を響かせるように目を閉じた。
ゼグンは彼女の背の中心で綺麗に切りそろえられた金髪を撫で、彼女を売っただろう家族をこの時、切に知りたいと思った。
彼女の着る服は、しっかりとした生地、柔らかい素材のワンピースだった。薄ピンク色で、シルクの糸で小さな刺繍がされている。それはこの期間の事で汚れてきてはいたが、切りそろえられた髪も、しっかりとした家のある所の子供である事を示していた。
バリオラと同じ、しっかりした壁を持ったオーストリアの建築物として風景に加えられる美しい街並みのなかの一つから、連れてこられたのだ。
捨てられるなんて思ってはいなかったんじゃないだろうか。
だが、家族は耳の聴こえない娘を手放したのだ。
ここの子供達を救い出すなんて、土台大変な事だが、それでもゼグンにはスラムで生き抜いてきた術を持っていた。幼いガキ共同士での生きていく方法など、体に染み付いていた。
自分は今、十七に成長した。生きるには大変なのが世のなかだ。そういうのが、70%にも世界に満ちている。
それでも、最も最悪の状況は避けられるはずだ。ここの奴等に売られれば、行き先は酷いものしか待っていない。
【音楽】や、今バリオラがやっている【合唱】。
生きることに繋がるのだ。音楽は。いろいろな意味で。
生甲斐。そして、その場凌ぎだろうが、生きていくための手に出来る。資金にも出来る。
どこかの教会に子供を入れる事も出来る。
こいつらと共に自分達は魅惑の音の国へと行く事が、出来るかもしれないのだ。
そこで、ドアが開き男達が出てきた。
子供達は一斉に驚き小さくなった。
ゼグンは四人の男達、その後続の人間達を見て、眉を潜めた。
二十人。
男が十七人。女が三人。共に質の悪い荒んだ目をしていた。
ギャングファミリーの元で違う街で犯罪を働き、港の闇市地下で警察の目を逃れていた一団だ。
まるで航海の気を紛らわすかのような目で、奴等は子供達を眺め見下ろしていた。
一気に子供達の表情は凍りついた。
「おいお前ら。随分と奴隷にしてはお楽しみのようじゃねえか。え? お兄さん達に触発されて余興でも見つけたらしいな」
触発。
その言葉にゼグンは手を強く握った。
自分自身もこの航海で様々をこの子供達から触発されて来ていたのだ。心などというものだ。
四人のなかの男が首をしゃくり、犯罪グループの2人の男が前に進み出た。
今から何も、お遊戯会の司会とはいかないのは分かっていた。
ゼグンはバリオラを見て、彼は顔を青くしていた。
「あいつ等だ。子供を傷つけようとした」
そう囁く様に言い、ゼグンはその二人を見据えた。
次の活用できる獲物を探すかのような、獣の様な目を光らせていた。
子供達は一斉にバリオラに集まりしがみついた。彼は両腕に彼等の頭を抱え、地面を睨んでいた。
「おいそこの宣教師みてえな野郎」
「………」
バリオラは顔を上げ、大きな無垢な目で地面を見つめている子供達の顔を見回した。
「何だ」
今から教え込んだ歌をこの二十人に聴かせろだなんて事、言われる事が無い事は分かっていた。
ゼグンはミランが一人、進み出て歩いて行ったために焦った。あいつ、何やっているんだ。
彼女は鋭い目で男達の前に来ると、手を差し出した。
男達は首を傾げ、ミランが男が下げる手からナイフを奪い取ったからゼグンは身構えた。
ミランが妙な気を起こす前にゼグンは彼女の手からナイフを奪い、自身の腕を切った。
一瞬ミランは血が吹いたのを見上げ、男達は一瞬を置き、この余興に顔を笑ませた。
ミランを自分の背後にやらせ、彼女自身が仲間たちが犠牲になる前にせめてもその場凌ぎで自己の手首を切ろうとしたその細い腕を握り持った。
ゼグンは汚い面を揃える奴等のひげた醜い音、笑いを睨み見た。
嫌な音だ。
ぶり返すかの様な。
怒りが渦巻くような。
傷口を抑える手に狂気の様な怒りを抑え、もう俺は暴れ狂う荒れ暮れ者じゃ無い。
自分の腕にどくどく流れてくるゼグンの血に、ミランは彼を今にも泣きそうな目で見上げ、男達を睨み見た。
「お前、面白え事するじゃねえか。そこのガキも揃って、随分なことだなあ」
男はミランの手首を見てそう言い、ミランはずっと醜い音を発する口を睨んでいた。
「はん。面垂れやがって可愛くねえガキだ。今日は引き下がるぞ。次回、また何かパフォーマンスするこった」
そう嘲るように笑い、奴等は引き下がって行った。
だからといえ、夜が子供達や無茶をやろうとしたミランが無事ですむなんて言えなかった。
ゼグンは派手に子供達にも飛び散った血を止めるため、元は左上腕に巻かれていた布を取り、それをバリオラがきつく縛りつけた。
「傷だらけだなお前。初めて会った時も血噴出してた」
「……」
ミランはゼグンにガタガタ震えながらしがみつき、腹に頬をうずめた。
「お前に行動に移させて悪かったな。だが、無茶したら奴等に目をつけられる。こいつ等を守る為だったんだろうが、無茶はよせ」
■【護りたいものへの決意 ミラン】■
今までは、自分の世界が嫌で、音が嫌で、傷つけてきていた。
その癖は抜けなかった。
でも、初めて人を護りたくて、仕方がなくて、でもどうすれば良いのか方法が分からなくて、行動に出てた。
ママに今まで、守ってもらっていたから、もう守られなくなるだろうミランが、何を大切なものに決めて、守るべきなのかを考えて、目の前の耳が痛くなるような男の人たちから守るべきは、みんなの命と、ここで頑張ってるみんなの心と、自分自身の誇りなんだって、思った。
耳の聴こえるようになった喜びを、空と微笑み合って、海と分かち合って、そして、綺麗な音が氾濫していることを教えてくれた地球を、これ以上、みんなが、そのなかの一人でも聞けなくなるなんて、見れなくなるなんて、そんなことあったらいけないんだって思った。
ゼグンも、きっと、同じだったんだ……。
奇麗事なんか言うみたいに思えないけど、でも、何かを護りたいって、そういう気持ちで自分を傷つけるって、確かに頭良く無いことだけど、どうしようも無かった。
こうやって、自分の身を切ってでも、そういう感覚って、ママも同じだったのかもしれない……。
どうやってゼグンに謝ればいいのかわからなくて、わたしが無謀な行動にでたから……。ずっと血が流れるゼグンの腕を抑えていた。
夜になって、今夜は夕食をみんな抜きにされた。
わたしは、メモの紙に、好きな詩を書いていた。
まだ終わらない明日への希望
太陽に重ねるその手の先に
海の輝きがどこまでも広がり
あなたの笑顔は霞んでゆく
宇宙に咲く花のように
人の命活かす希望の星になれたなら
あなたの照らす光りの先へ
一歩一歩進めたなら
どこまでもみんなで行こう
空のなかで望みがまだ空を飛んで
大地の底に核がある
地球の上を走ってゆく
どこまでも歩いてゆけるから
海まで着いたら舟のオールを漕ごうよ
みんなで
全てが始まる世界なのだと知っているから
どこまでも行けるという勇気があるから
星が大地を照らす青の光は
悠久の美に染まりつくす希望のなかに
笑顔が見えるから飛んでゆける
空の向こうの鳥が笑ってる
雲上えの虹が囁やいてる
新世界へと歩いてゆくあなたの背中を
風がおしてる
どこまでも踏みこんで
砂を蹴散らしていい
ひざまずかなければいいのよ
歩こうよ 歩こう 歩こうよ
どこまでも共に行こうよ
夢の先へ
導かれてもいい
太陽にも
闇の空に浮かぶ星の瞬きにも
愛情をうつす
---詩を書く事が好きなんだな。ミランは。
わたしはバリオラのキーボードの文字を見て、それをバリオラが口で言って、頷いた。
みんなはお腹を抑えてずっと寝転がっていた。
でも、あの鉄のドアの向こうからは、うるいほど音が鳴っていた。笑い声だって教えてもらった。
笑い声は、楽しい時、幸せな時にあげる。
---酒を飲んで騒いでるんだ。
そうキーボードでバリオラが打って、それを口でも言った。
---綺麗な言葉や良い言葉や美しい音の正体だけを打ち込めたら良いんだけどな。
わたしは首を横に振り、バリオラの頭を抱いた。
バリオラは驚いたみたいに目をひらいて、そしてやっとで微笑んでくれた。
わたしも微笑んで、これからはバリオラが夜みんなと寝てくれるんだって教えてくれた。
物って、色々な音を発するんだな。
悲しみの音や、驚いた音。
わたしは、血が滴り落ちた音を聴いて、繊細な音なんだって分かった。
人を生かしている血液。
人のなかに、心臓を通って、感情のつかさどる体を通ってきた血。
それを、血潮っていうんだって。
生命が息づく音なんだ。
こうやってバリオラのなかにも。ミランのなか、ゼグンのなか。みんなのなか。
あの男の人たちの血は、汚れているのかな。
わたしは夜の寒い甲板に出て、ゼグンを探した。
呼べないけど、どういう音が【ゼグン】なのかはもう分かってた。
とても意思が強そうな音だった。
バリオラという音は、どこか落ち着く音。
これから、たくさんの音をこの体に押し込んで行きたい。
今まで分からなかった音を感じたい。
この身で理解して。
「この場へと生きていく 共に
貴方と前へ生きて行く
貴方には潤うべき 路
いつまでも生きて行く
航路に
灰色の気鬱が揺れる
今でも生きてゆく
貴方の空が生きてた頃に
いつまでも 微笑む
あなたには潤うべき 心を まだ行けるから
私は見据え合って行く
新たに 見据え合って行く
いつまでも生きて行く
まだまだ生きて行くには 辛過ぎても 生きてゆく
いつまでも飛びたてればいいのさ
いつまでも歩いてけばいいのさ
ああ
何処までも歩いて来た路よ
辿ってゆく灯火を求め
貴方のその目の前にある苦しみを
影を消す灯火を 共に越えて」
わたしは夜空を仰ぎ、【歌声】の在り処を見回した。
寂しげで、でも、何だか落ち着く音……。
いつもの屋上によじ登って行った。
遥か上の方では、武器を持った男の人が夜警をしていて、コンテナの積まれている陰のなかを、夜空の星を背景に、煙草の赤い火も小さく光っていた。
あの人たち、ああやって悪いことばかりしていて、幸せなのかな……。
わたしは屋上の暗いなかを見回して、ゼグンを見つけた。
煙草の匂いが、低い風音と一緒に流れて来て、ゼグンがいることを知らせた。
その風の音に交じって、彼が、歌ってたんだ。
何て歌っていたんだろう。
でも、驚く程耳にすんなり入って来た音の流れだった。
まるで、建築物みたいに、設計されて整っていた。
彼も音や音楽が好きなんだと思うと、うれしくなった。
言葉は通じないけど、こうやって言葉という音と音の関係じゃなくても理解しあおうと思ったのは、わたしは初めてだった。
ゼグンはわたしにノートパソコンを教えてくれた人だ。
彼の寝そべって夜空を見つめる横に、わたしも寝転がった。
「ミラン」
わたしは微笑んでゼグンの水色の瞳から夜空を見上げた。
生きて行きたい。
酷い目を見るよりも。
ママに捨てられてしまった諦めが、わたしを寂しくさせたけど、目を閉じて、風と海の音を聴き続けた。
地球が、鳴いているみたいだった。
綺麗な音で、低く鳴いている。
生命の悦びの歌だろうか……。
わたしは、いつか喋れるようになりたい……。
バリオラは言っていた。
魅惑の国に行けるんだ、ていうことを。
「海は吹き荒ぶ風を我に吹き付けるが
俺は心に決めたはずの迷いの糸口を探れずに
嗚呼 地球のなかに生きつづく生命が聴こえている
宇宙から銀河を落としてこの指に填めようか
微笑んだお前の顔を忘れられはしない」
話したい……叶わなくても、こうやって、わたしの耳が聴こえるようになった奇跡がめぐって来たから……。
信じることが出来るって思う。
今なら、信じたい。
自分の力を、みんなと一緒に。
■【奇怪なカレールー ゼグン】■
翌朝、ドアのなかを覗くと子供達は揃っていた。奇声を聞く事も無かった。
そんな朝方、皆が寝静まるなかを、ゼグンの耳に不調和音のような物が響いた。
神経を逆撫でされ、奥のドアのなかへ進んで行った。
酒瓶が割られ、そして零れた酒のきつい匂いがともなった。
そして、血の慣れたようなすえた匂い。
空気は淀んでいる。鼠の死骸は転がり、壁はいつも奴等がやたらめったらやっているダーツの矢がささったままだ。
散らばるカードにナイフが突き立てられ、不気味に光っている。
ゼグンはそのナイフを木のテーブルから取り持ち、異様な空気のなかを歩いて行った。
奴等も眠りこけているのか、動く気配も無く、ここの場所には誰も転がっていなかった。
耳障りな音が、響いている。
同じ人間を殴る音と、鎖の音と、そして呻き声、椅子やテーブルがガタッと動く音も混じる。
ゼグンは一つのドアを慎重に開けた。
薄暗いなかだった。
「……」
男が死んでいると傍目からも分かる状態で、転がっている。
他には女が一人、壁を背に煙管をくゆらせ、3人の男がいた。
ソファ-で見え無い向こうに、男が一人かがんでいるようだった。
そこから音が発されていた。
ゼグンは背を伸ばし、男達の背を睨み付けた。
ゆっくり進み、それは、バリオラでは無かった。
「何やってる」
男の一人は振り返り、気晴らしに嬲り殺している最中の男から顔を上げた。
その男は昼の顔をもうしていずに、顔を歪める機能も働かないらしかった。
今さら気付いたが、この部屋には音楽が流れていた。
綺麗な曲が、女のもたれかかる壁横の蓄音機から流されていた。
それらの規則正しい音と、こいつ等が立てるガタガタのリズムの音が混ざり合い、神経を逆撫でていたのだ。
虚ろな目をした男達が振り返り、薬で荒んだ目だ。女の目もそれで酔っては口端を緩く引き上げた。
一人掛けソファーにもう一人男が転がっていた。だが、生きていた。
その男はぐらんといきなり立ち上がり、大男だ。突如気が触れるような勢いで、二人の死んだ体を凄い勢いで引きずって行った。
ゼグンはその背後を睨み、空間に残った奴等を放って出た。
男は死体をテーブルの上に放り、鋭利な大振の包丁で切り刻みはじめた。
血が抜けて行くだけゆっくり抜けては、一層嫌な匂いと、不気味な音が空間を浸蝕した。男の冷め切った目は仲間を切り刻むというよりも、どこかレタスやキャベツを両断してるかのような顔だ。
肉を男は巨大な鍋にごたごたと入れて行った。まさかカレーでも作るでもあるまいし、彼が本当に火に掛け、バターも放り込み、横の野菜も突っ込んでは焼けきってもいない物をバケツで水を流し込み、カレーのルーを突っ込んでは蓋を閉めたから嫌になった。
これが次回の食事の正体のようだ。
わけのわからない毎度のスープがなんなのかは分からないが、カレーなどといった、ここでの高級料理が子供達の食卓に挙がることは今までありはしなかった。
「おい。お前も食うか」
ゼグンは口を歪めた。
「ったく、妙な野郎だなあ。あの街にいれば、良い思いしつづけられたってのによ。わざわざ抜け出すわガキ共に構うわ」
「あんたには関係ない事だ。飽き飽きしたのさ。あの街に」
「お前、これに加わるつもりはねえか?」
「今だけだ。乗り合わせるのはな」
「じゃあその分きっかりロサンゼルスに物資を運んで俺等を運ぶこった」
「……」
ゼグンは男の言葉に彼を見て、耳を疑ったわけじゃなかった。
「なんだって?」
「あ?」
「どこだって?」
「LAのことか?」
「なん……、」
男はまだ火に掛けたばかりの鍋の蓋を無意味に開け、それでも溶け始めたルーを勺でかき混ぜ始めた。
目的地が、LAだと?
LA?
ゼグンは瞬きが止まらなかった目をこすってから、足許を鼠が走って行った。
頭のなかがカラカラになる感覚だった。
何も変わらないじゃないか。
荒んだ奴等。
危険な街並み。
狂気の音が氾濫する……荒んだ街
ゼグンは走り、甲板に出て眩しさに目を痛め、そこにはミランが既に起き上がっていた。
そして、船の先に立っていた。
彼女は喜び零れる笑顔でゼグンを振り返った。
彼女の指し示す方向を、彼は見た。
陸だ。
………。
音に乗るように体を揺らし、目を閉じ、音楽を夢想するかのように揺れ、そしてゼグンを見た。
美しい音楽を、夢想するかの様に……。
魅惑の音の国を。
ゼグンは地面を見つめ、彼女の横に来て、腕を持ってその前にしゃがんだ。
彼は彼女の顔を見上げ、そして横に首を振った。
彼女は笑顔のまま彼を見下ろし、また大陸を指し示す。
違う。
違うんだ。
ここは、美しい魅惑の音楽は氾濫する国じゃ無い。
自由の旗を揚げてはいるが、それは極一部の人間にしか噛み締める事が出来ない国だ。
挫折者が多く、そして横にはアンダーグランドが転がっている。
軽薄な音楽。歴史の深いわけでは無い音楽。
多くの犠牲を強いてきた国。
ゼグンは「ナイン」と言い、ミランは笑顔を無くしていき、口を閉ざしてゼグンを見つめた。
何故? という言葉がミランの口からは出せなく、その理由を彼女に教える事が、今のゼグンには出来なかった。
希望など与えてしまったのだ。
魅惑の音の国に行くという事を。
だが毅然とゼグンは立ち上がり、これで奴等が子供達を売り飛ばす人間と合う前に、逃す手筈が取れると思った。
LAなら知り合いがいる。
もしもあの街のギャングの名前を出せば協力は断ってくるだろうが、うまく出さずにいけるはずだ。
一度逃してしまえば、いくらでも奴等の目を誤魔化す事が出来る。
場合に寄れば、LAで金を稼ぎ、ヨーロッパに渡る事も可能だ。
自分。バリオラ。ミランで。
子供達のこれからを考える必要があった。身寄りが無い子供はのたれる事になる。
それか街でオーナーに買われスリを働くようになる。孤児院に伝などなかった。
ゼグンは奴等が停泊し、物資を運び出す事を始める前にバリオラの元にミランと共に駆けつけた。
子供達に押しつぶされながらも、眠る子供達に歌を聴かせていた。目覚めている子供は数人、バリオラの歌を聴いてはうとうととしていた。
「その手を光りが差しては
その心に太陽の輝きが包むから
どこまでも飛んで行く
白の羽根を持ちつづけている貴方の様に
青空に溶け込んで全てを照らして
柔らかい雲の波に浚われて
煌く彼方の日が降りてゆく
ヴェールを翻し
空の彼方へ消え行く魂のように
飛び立てる時は来る」
ゼグンはドアの所に立ち、バリオラは顔を上げた。
朝陽が子供達やバリオラに差し、銀色に光っていた。
あの奥の部屋の状況は後から話すつもりだ。また吐くだろうが、そうも吐きつづけさせてもいられない。
「……バリオラ。話がある」
まだねぐずる子供達を横たわらせてからバリオラはミランに「グーテン・モルゲン」と挨拶し、ミランも微笑み彼を見上げた。
「お前、偉いな。ガキ共の面倒見るなんて」
彼は肩をすくめ、通路に出ると、ゼグンは奥へは促さずにそちらを覗っては小声で言った。
「この船、元々ヨーロッパなんかには行かないらしい」
バリオラは鳩のように口を開け、聴き返した。
「ロス直行便だったらしい」
「ロスだって? ロサンゼルスの事か?」
ゼグンは頷き、言った。
「奴等と共に降りたら最後だ。きっと、ガキ共を見晴らせている内にまずは物資を運び込むはずだ」
「その任を奴等が俺に任せる確率は低い。絶対に小さな金づる達を逃がす筈だって思うだろうから」
「俺も協力する」
「だが……」
「今更乗った船だぜ。俺等はイルカじゃねえ。自由に飛び込むにしても、どこにでもサバイバルは転がる」
「誰かにオーナーになってもらった方が危険じゃ無いんじゃないのか?」
「闇市にガキ共が売られれば、どこが買い手をつけるか分かってる筈だぜ」
「……。そうやって手順を踏む?」
その時だった。奥の例のドアが開いたのは。
男の手には、あの例の巨大な鍋が持たれていた。
男は子供達の眠るドアを蹴り開け、声を張り上げた。
「おらさっさと起きろ!! さっさと飯を食ってお前等にはばしばし働いてもらうんだからなあ!」
ゼグンは顔を引きつらせ、鍋を見た。
子供達は飛び起き、バリオラはゼグンに耳打ちした。
「もしかしたら、作業中に一人ずつ子供達を逃す事が出来るかもしれないな」
「ああ。場合によるがな」
第五章 船上からの移動
【貧困の食への恐怖の無さ ミラン】■
わたしはカレーを見下ろした。
おもむろに、指が入っていて、それをスプーンで退けてからカレールーを食べた。
ライスは無かった。今日のどろどろスープの内容だった。
皮もそのままの丸ごと入ったジャガイモは固くって、フォークも刺さらなかった。
「ボーノ!」
いつもわたしの横に座っている女の子が飛び跳ねる兎のような声でそういう言葉を発した。
わたしは彼女の横顔を見て、自分のカレーを見下ろした。
銀色のピアスが浮いていて、わたしはもう食べる気も無なってフォークを置こうと思ったけど、空腹でこれから動かされると思ったら、ピアスと指をお皿の横に出してからスープを流し込んだ。
聖書では、食人は禁止されている。
動物たちは、生きていくために共食いをする。
人間の世界では、感情と意思疎通が確立してるから、なおさら禁止されている。
でも、音を発さなくなって、血潮も渦巻かせることが無くなった体は、器だ。
死体への冒涜と取るか、糧と取るかは、全く違うことだ。
憂鬱な気分になって、わたしはカレーを食べ干した。
一体、何をやるんだろう。
でも、着いたのだ。やっとで船から降りられるんだわ。
食べ終わったところで、わたし達は男の人たちに凄い音で攻撃された。
怒鳴り散らしているんだと、バリオラが説明してくれた。
わたしは、全ての物や形あるものには音が存在すると分かったことから、色々な物の名称を耳に入れ続けた。
文字で書かれている者の音、人の名前の音、物の名称の音、風や海の擬音、人という個人の声、物を鳴らす時の音。
まだまだ、新鮮な音がたくさんあった。
言葉を理解出来たらと、思う。みんなが何に反応して、みんながどんな言葉の運びで感情を上下させるのか。
ここに、わたしは居るから……。
みんなと共に。
みんなが怒鳴り声に反応して、ドアから流れるように出て行く。
わたしはオーストリアドイツ語の音と、新しく英語も一緒に習っていた。まだ、挨拶や目に入る名称だけだけれど……。
ドアは、低い音の言葉だった。物を外敵から護ドア。固くて、確固とした音、ドア。
この世には、綺麗な音を発する物がたくさんあるって、バリオラは言っていた。
それを聴くまでは、わたし、諦めない。
わたしたちはみんな連れて来られた。
そこは船のなかの倉庫みたいな所だった。すごく広くて、天井も高くて、この船ほどあった。
コンテナが積んであって、昨日の男の人と女の人たちが揃っていた。
その人たちは昨日の悪い笑いの顔が嘘みたいに、真面目な顔をしてた。何かの紙を見ながら女の人が声を上げていて、わたしは不気味な音で振り返った。男の人たちが大きなトラックを運転して来て、その音。自動車って、こういう音がするんだ……。あんなに鉄の塊で重いんだもの。軽快に走ってくから、可愛い音なんだとばっかり思っていた。
コンテナに乗った男のひと達が、ここまで巨大なトラックを手招きして来させて、甲高い音が耳の鼓膜を突いた。
男の人が吹いたあの小さな笛なんだと分かると、わたしはすごく興味を持った。
オーストリアでも交通整理の警官が、あれを口にくわえていた。
あんなに小さいのに、何であんな凄い音が?
男の人たちは中身を見下ろす毎に女の人に言って、女の人はそれ毎に表に書いて、コンテナがトラックに運び込まれる毎に彼女は頷いて紙に書いていた。
わたしたちは二人の男の人たちに連れて行かれて、わたしは背後を振り仰いだ。
トラクターの低い音。振動。甲高い笛の音。耳に浸蝕してくる。どこでも……音楽が鳴り響いてるんだわ。
風と海の歌。人工物と笛の歌。空間までもそれに反応してる……わたしは、ターンをするりと踏んでいた。
回って、ステップ。
そして、みんなと共に走っていった。
そんなわたしを、女の人が一瞬見て来た気がした……。
■【トレーラー ゼグン】■
子供達は四つに分けられたトレーラーに其々、四人ずつほど乗せられ、共に四人ずつ例の犯罪者達が乗り、四人の男達が運転席に乗り込んだ。
バリオラとゼグンは其々が別々に、ミランのいないトレーラーに乗るように言われた。
ミランの状況は不明だった。女のなかの一人がミランのトレーラーに乗り込んだ。物資の確認表に記入していた女だ。
ゼグンは子供達がトレーラーのなかで男達に指示され、コンテナのなかのものを広げ、この港から乗ったトレーラーのなかに元から積まれていた物を交互に並べるように言われ、それに従っていた。
その二つを其々結合させるのだが、それは武器だった。八歳から十二歳までの子供達が十八人も家族に売られては、浚われてきて、今からこれを手始めにどこに売られ、何をしなければならないのかが分からなかった。
黒い鉄の塊は重たく、子供達は落とすときっと蹴りつけられるだろうと思い、男達の目を気にしながらたどたどしい手で組み立てている。
男はその組み立てられていく武器の点検をしては、他の男はトレーラーに積まれていた木箱のなかの銃弾を素早くセットしていた。誰もが無言であり、武器を組み立てる鈍い音のみが無気味に響いた。
武器が終ったと思えば、今度は次の物はまた物資が違った。
トレーラーのなかにあった木箱のなかの物はよく分からない美術品であり、それには血が付着していた。
それを今度は布と薬剤を渡され、綺麗に取るように言われ、子供達は二人が拭き取り、二人が見回す担当になった。
今度はまたコンテナのなかの物資を男達が運び出してくる。
犯罪者グループの人間が他の街で敵対していたギャングの人間達を殺した死体だった。
子供達はびっくりし、揃ってゼグンの顔を見た。
子供は、ミランの横にいつも座っているイタリア人の少女、黒人の少年、ドイツ語圏内の少年が二人だった。英語が通じる子供はいなかった。
男達は子供達には何もさせずに、遺体の切り刻みに掛かっていた。誰もが子供達は、なんで船のなかで航海中にやらなかったんだと、虚ろな目で肩を寄せ合って行為を見ていた。
それは船のなかは鼠が多かったためだった。その為に船から出るまで蓋は閉ざされていた。
切り刻んで行く死体は、何に使うのかは知りたくは無かった。頭を、積まれていた木箱から出した瓶のなかに入れていく。ホルマリンのきつい匂いが鼻をついた。
男はゼグンにノートパソコンを出せと言い、彼はそれを出すと男に指示されるままに、生首の名前、肩書きを入力して行き、闇市で売る為の記載事項を打って行った。
バリオラが乗るトレーラーでは、男に子供達が歌うのをやめさせろと怒鳴られている所だった。
まだ雨が止まずにまだ夏は終らずに
透明の光が雨を縫って輝く緑を光り充ちさせる
まだまだ空は鳴り止まずに 雷が灰色の空をかけてく
雲の切れ間から差し込む光とヴェールを縫って
まだまだ貴方の元に雨を降らせる
まだまだ わーわーわー
これから出会う秋は恵の時期だと
貴方は知っているはずです
続けよう全てを
さよならは十年後にとっておいてよ
出会いは大切にしようよ
雨と海が出会った場所に僕等も駆けつけて
抱き合おうよ
雨が海に帰ってゆくよ
バリオラは肩をすくめるだけで、訛のきつい英語で「歌くらい良いだろう。形の無いものだ」とだけ言っていた。
女のなかの一人が荒くれる男を落ち着かせ、煙草を投げ渡した。
子供達はコンテナのなかに入り、掃除をさせられていた。だから、適度に歌声が響いていた。
男達と女、そしてバリオラはコンテナのなかの物資を細かく点検していた。
ガスマスクを付けたい程キツイ匂いだ。見え無い子供達が歌っていた方が、この匂いにやられていないかが分かって良かった。
それらは木箱に入れられた生の大麻で、驚きべき量だ。子供達が匂いだけで中毒にならなければいいのだが。一応、バリオラは子供達にマスクとして彼等が着ていた服で口と鼻を押さえさせているのだが。
大地を駆けゆくあの子の影
貴方は追いかけてはつかめずに
貴方の声を聴きながら笑いを描いて響く心
風の駆け行くその瞳は光をめぐって立つ
光が充ちてゆく貴方は行くのならば
そんな日には何かが起きたって立ち向かう
子供たちの純粋な歌声が響いた。
男はへどを吐き捨て、ただただ作業を続けていた。
一方、十二歳の子供が五人乗ったトレーラーでは、男が一人、とにかくペラペラとずっと喋り続けていた。カレーを持って来た男で、とにかく煩かった。彼自身がやかましく大声で歌を歌いつづけていて、うるさかった。
そのため、甲板で子供達の前に出た二人の男は揃ってその男の頭に鉄の塊を投げつけ、黙れと言われていたが、煩さは変らなかった。
子供達は揃って黙り、黙々と作業を続けていた。視線を合わせあうと、大人達に何かを企むんじゃないかと思われるために下手な行動は取らないように視線も大して動かさないようにしていた。
煩い男は英語とロシア語を話し、色が白く背がでかく、らくだの様な顔だが、綺麗な顔をしていた。声が本気で煩かった。
彼は勝手に菓子をポケットから出し、食べ始めていた。年齢は二十一,二といった位に思え、若い青年だ。
ばしばし働けとばかり言った割に、一切手を動かさなかった。
だから子供達は彼をそのままに、自分の作業を進めていた。
ゼグンは窓の無い荷台のなか、耳を済ませ続けていた。
このまま、四つのトラクターがばらばらの経路にされたら面倒だ。微かに響く低音を耳に入れ、その音の情報を保ちつづける。軋轢の四重奏を。
■【魂の叫び ミラン】■
わたしはトラックのなかで、終わった作業の手を止めた。
もうやることはなくなっていた。だから、床に寝ころがり、目を閉じて耳を床に当てた。手や、体の側面とか、足に伝わる鼓動。耳や頭を揺らすゴゴゴゴゴという音。耳を引きつけるザーーという音。
音は耳から左の耳に抜けてくみたい。振動はわたしの体に残ってくみたい。
手の平から伝わる音と振動が、心臓に繋がって、安心させる。
わたしの心臓が、ドク、ドクと体を脈打つことを知っていた。
それが、トク、トク、と音がするってこと、初めて知った。
わたしだけ聴ける、わたしの音。
生きている音。
わたしの体が発信する音。
わたし自身が、わたし自身に聴かせている、わたし自身のための音楽。
ずっと、あなたは鳴っていたんだね……。
ママから産まれた時から、今の今まで。音楽なんか、音なんか嫌いだって、言っていたわたしだけれど、そんなわたしのなかで、ずっと唯一発しつづけていてくれた生命の音楽だったんだね。
飽きずに鳴り続けてくれていて、ありがとう。
なのに自分のからだ傷つけてしまっていて、ごめんなさい。
あなたは一生懸命、生きようってしていたんだね。
それが、分かったんだ……。
地球が、音が、耳が、わたしの体が、みんなの存在の生命が、教えてくれる。
命や個人の存在、個人の紡ぎ出す【音】の大切さを……。
音って、……魂なんだね。
魂の叫びだったんだ。
ああ、なんて、素晴らしいことだろう。
感謝いたします。
わたしは背を叩かれて目をひらいた。
女の人がいて、とっさに体を小さくした。ゼグンは、下手をすると目を付けられると教えてくれた。恐いことしてくるに決まってる。
「あんた、名前は。どこから連れ去られて来た? どうやら、身なりが良いねえ。あたしはね、同じようにガキの頃は売られた身だったのさ。色々な事やらされて覚えてきたもんだよ。女だからって、下町じゃあ馬鹿にされて来たが、今じゃあこうさ。生きる気力があったからね。這い上がった。あんたにも、何だかそういうのを感じるよ。なんていうか、状況にも揺るがないっていうか、度胸あるっていうか。あんた年齢は。あたしは二十四」
女の人が何て言い続けているのかは分からないけど、今は何かしてくるわけじゃ無いという事はわかった。
わたしは女の人が持っていた、転がる万年筆を手に取って、自分の手の甲に書こうと思った。
でも、口が利けない事とかを、変に悟られるべきじゃないかもしれない。
わたしは自分の手の甲に、どうせオーストリア語も通じないだろうから、結局はキリンの絵を書いた。
女の人は煙草の煙を吐き出していたのを、気付いて顔を向けてきた。
「え? なんだい? 化け物?」
わたしの横の男の子がくすくすと笑って、女の人が顔を向けたら黙った。
「この子が書いたこれ、キリンだよ」
「このアナコンダみたいなばけもんがかい?」
「おい生ぬるい話は止めろ。胸糞悪い」
「はっ。じゃああんたソファー代わりにでもなりな。この細身のケツが痛くて仕方ないのさ」
「言ってろよ痩せ女が」
「上等だね」
女の人は唾を吐き、寝ころがって歌を口づさんだ。
わたしは右耳にトラックの走る音、左に女の人の歌を聴きながら、目を閉じていた。
貴方へと続く光がある
太陽は鳥を照らしてゆく
緑と木漏れ日輝くとき
僕等はいつにか戻るはずの日々
君と手を繋いで歩いた路に煌く海を臨んで
遥か遠い空が僕等を吸い込むように待っている
君と歩くあの路の先の紫陽花の紫
君と歩いたあの路の菖蒲の紫
君と歩いたあの路の零れるような紫式部
ぼくの目の前に広がる紫色の夕日は
君を横におきとても優しくて
とても優しくて
世界を取り巻きぼくと君は何処までも夢を描けたね
戻っておいでよこの場所へ
そっと包み込むから
わたしは言葉は理解出来無かったけれど、掠れた女の人の歌う声はなんだか悲しくて、寂しくて、目を閉じながら泣いていた。
ママに捨てられて、悲しくて、耳が聴こえた事が、ママは知らない。
なんで、ママの元で聴こえるようになれなかったんだろう。
なんで、わたしは耳が聴こえなくなって、口が利けなくなったんだろう。
ずっと、トラックの軋轢を聴き続けた。
夢見心地になって、ゆらゆらと揺れて、悲しくて、心寂しくて、苦しくて、仕方無くて、わたしは顔を覆って泣き始めていた。
他の子たちも、泣き出したのが分かった。
そんななかで、女の人の歌声が聴こえなくなって、わたしは目をあける事が恐くて、閉じながら涙が流れ続けていた。
いきなり浚われて、恐怖が広がって、小さな体は怖さで引き裂かれそうだった。
引き裂かれそうな体と、体を打つ振動、鳴りつづける、音……
暗闇に、落とされて行くみたいだった。
手を差し伸べたって、何にも手が触れない恐怖が、わたしを独りにした。
独りにして、誰かの叫ぶような泣き声が、泣き声が、トラックの泣き声のような低い音に混じって、わたしの体のなかに響き渡った。
わたしは目をうっすら開いた……。
「……」
目を見開いて、広がる空間を見つめた。
ママ。
ママが泣いてる。
泣き叫んでる。
泣き叫んで、何かを持ってる。
耳からは絶えず、なにかの鈍い音が鳴り続けてた。
イタイ
いたい、
痛い……痛い!!!
わたしは飛ばされたように体を起こして、耳を押さえいた。
押えて、ガタガタ震えていた。
「何よどうしたっていうの?」
わたしは耳から入る言葉を、音を、掻き出すように目を閉じた。
闇が広がって、ひらけた視界の世界が揺れる。
何がなんなのかわからなくて、怖くて、震えがとまらなくて………
わたしは、声もだせずに、狂乱したみたいに、……何か手に取ったもので
血が温かく舞った
■【発狂したミラン ゼグン】■
ミランはぐったりしていた。ゼグンは彼女を抱き上げ、バリオラはその髪を撫でた。
「演技だかなんだか知らないけど、いきなり発狂したのよ。いきなり万年筆で自分を切り裂いて、なんなの? この子、ちょっと危険なんじゃない?」
ゼグンはミランを横たえさせ、包帯の巻かれた細い腕を撫でた。
「一言もしゃべろうともしないし、いきなりよ」
煩い青年がトラックから飛び降り、気絶したミランのところまできた。
ゼグンも彼女になにが起きたのかは分からなかった。
いきなり耳が聴こえるようになり、今ショックが出たのだろうか。この所、ストレスもたまっていた筈だ。ここの子供達全てにも。
ミランは苦しそうに目を固くとじていた。時たま、いやいやをする様に首をふるふると振り、ガタガタ震える手足は冷たかった。
「こいつはひきつけの持病でも持ってるのか?」
「そんな事知るわけ無いだろう」
凶暴な態の男が煙草を吐き捨て、酒瓶を地面に投げつけ荷台から言った。
「おいいつまでのろくさしてやがる。そんなガキ捨てて行け。のんびりしてる暇はねえんだよ」
「誘拐がばれるけどな」
煩い青年がそう言い、男は「それならばらして硫酸で溶かすまでだ」そう言った。
ゼグンは男を睨み、男はゼグンを睨め付けそこまで来てミランの細い腕を掴み持ち上げた。
「おい!!」
その瞬間だった。
ミランが目を開き声も無く、口を大きく凄まじい顔で叫びを上げた。
男は驚き彼女を落としそうになり、バリオラが受け止めた。
男は舌を打ち、ミランは尋常じゃ無い程、それはぞっとするような無声の叫びであり、その場にいた者達は血の気が引いた。
生命の、必死に生きようとする、必死に死に抵抗しようとする、それは、小さな体から発する魂の叫びに、耳には聴こえた。
「おいミラン? 落ち着け。聴こえるだろう。落ち着け」
ミランは小さな耳を必死に押え、乾いた地を見つめる目は充血し、青のカラッと晴れた空は彼女を連れ去ってしまいそうだった。
バリオラは高熱のミランの額に手を触れ、ゼグンに言った。
「この子、トラウマがあるんじゃないのか? もしかして」
耳が聴こえなくなったり、口が利けなくなった理由に、という様に彼は首を傾げた。
ゼグンはミランを見下ろし、空を見上げた。
昼の白い月が、宇宙の存在を、昼のうちにも発信しているように思えた。
こいつの家族は、今は夜や夕日のあがる時間帯かもしれない宇宙を意識するか、一切思い浮かばない時間帯、何をしているんだ。
■【忘却したい心 ミラン】■
わたしは頭が働かなくて、嫌な夢で体が重くてがナメクジになってしまったみたいだった。
本当に嫌な夢だった。
「なんだこのガキ共は。どこからぽこぽこ産んできやがった。物資だけ運んでりゃいいんだよ」
悪い人たちの仲間の建物にわたしたちみんなは着いていた。わたしはずっと喋り続けている男の人に抱き上げられ続けていた。
ゼグンはその男の人に任せている事が気になるらしくて、ずっと睨むように見てた。カレーとか、いつもどろどろスープを持ってきてた元気で若い人だった。今も「ぽこぽこ、ぽこぽこ、」と言い続けて笑っている。
男の人たちは、トラックからコンテナを運び込んでいた。
嫌な夢は、男の人がずっと喋り続けていたからそのまま忘れたかった。
ママの夢。
虐待の、夢だった……。
耳に、ずっと鈍い音が、響いてた。
わたしはもっと小さくて、泣き叫びつづけてた。
そんな記憶無いもの。
嫌な夢……。
わたしはママが悲しそうに泣くところに、帰ってあげたいと心から思った。
そして、変な悪い夢をみてしまったことを謝りたかった。
ママも今、泣いてるんだ。
ミランを売ったのは、暮らして行くお金に困ったからよ。ママ一人でわたしを育ててくれて、病院費だって、高かったと思うもの……。
口も喋れるようになったら、ママの所に帰りたいよ……。
ママは独りぼっちだもの。今、ミランを手放すことになって……。
この建物の男の人達は、みんなを興味も無さそうにみおろしてから、コンテナを奥に運び込むように指示してから、十八人に減っている男の人たちと女の人たちと歩いて行った。
だから、煩い人もわたしを降ろして、わたしの頭をぽんぽん撫でて歩いて行った。
わたし達は、わたし達をさらって来た三人の男の人を怖がって身を固くした。
ゼグンはバリオラと目を合わせていた。頷き合っていた。
みんなを逃すって、バリオラは教えてくれていた。
そんなこと、本当にできるの?
分からないけど、信じないと、何も出来ないんだわ。自分たちで信じないことには。
歌、うたいたいな……
第六章 船から降りた場所
■【闇の街並み ゼグン】■
彼は弾丸を避け、夜闇を駆け抜けた。
ミラン達の頭を低くさせ、子供達は死に物狂いで走って行った。
夜闇を暖色の照明が照らし、雨で冷たく濡れる煉瓦壁が鈍く光り、路地裏は入り込んでいた。
走るうちに生ゴミのアルミ缶を転がし派手に響き渡った。
ゼグンは舌打ちし、追手の弾丸と怒鳴り声に打ち返し、泥の水溜りを黒く跳ねさせ銀の光を玉のように跳ねさせる。
「おいお前らいるか」
子供は十八人、暗い闇に白目と黒や色のついた瞳を浮かせ、半身を琥珀に染めては小さくなっている。
糞、ここでのたれてたまるか。
「行くぞ……。魅惑の音の国に絶対にな」
そう囁く様に言い、建物の合間に見える夜空を見上げた。そしてすぐに角から目を覗かせ、バリオラはつかった事も無い銃を渡され子供達を出来る限り抱き寄せていた。
走って行き、雑踏が聴こえてきていた。
ダンサーや娼婦達が、香水と酒の匂いと色香と妖しげな灯火と共に氾濫し、その一角に迷い込み艶やかな笑みは悪魔の様に思えた子供達は小さくなり、バリオラやゼグンに色目を使い顎に手を滑らせては、低い声で誘ってくる艶めいた女達は子供達には見向きもせず、煙管がくゆっては紫や銀のスパンコールやシルクが蛇の様にうねった。
そこを弾丸が通過し、女達は一気に各々の看板の下がる娼婦館に猫の様にマニキュアの爪を立て引っ込んで行った。
ゼグン達は走り、転びそうになった子供達を支え走って行く。
ミランは十二才の少年に手を繋がれ必死に走って行き、ちらばるチラシなどに小さな足を取られないように走りつづけた。
この場所に掛かる官能的な蓄音機からの曲、神経を撫でてくる音楽のゆるく響く空間。まるで頭に回る回る。
ゼグンはやられそうになる頭を振り、走りつづけた。
まるで、悪魔の回し悪戯にぐるぐるに回転させる観覧車に乗ったかの様だ。ドアが目の前を回り、曲は周り、暖色の灯火は周り、弾丸だけがまるで幻惑を打ち壊す現実のようだった。
女達はドアのなか。
走って行き、老人達が薄汚れた路地壁を背に、水煙草をやっては虚ろな目で彼等の疾走をそのままに、彼等はいずれ、暗闇に再び閉ざされた。
水煙草を吸っていた東洋の老人達のしわがれた低い歌声が、幽霊の様に暗闇に響きまわった。
北風に負けるなと海の原に云う
颯爽と歩くカモメの羽を見上げ
嗚呼 日本海 空に降るその曙
鴉が飛べば空が青き
雲の高みに純白の色が逆撫でまでに響く
嗚呼 黒影の道を歩む白鬼門の前に立ち尽くす
天への黒き荒れに世は
目を上げ匙を投げれば
嗚呼 まだまだ行くだけが遠き路よ
いと厳しい 降り積もった桜の花
古き故郷
諦めてはならぬと 魂は云う
子供達は自分達に掛かった女達が慌てて放って行ったシルクの布だとか、ストールを頭や肩から取り、幽霊館に迷い込んでしまった風で怯えた。
泣き出す子も多かった。
嗚呼 まだまだ行くだけが遠き路よ
いと厳しい 降り積もった桜の花
嗚呼 まだまだ行くだけが遠き路よ
子供達を抱き寄せ、弾丸と走って行く足音が遠のいて行った。
ゼグンは、すぐにこの場所からも離れなければならなかった。
ロスの知り合いにも会う必要がある。連絡を取らなければ。そいつはあの街には一切かかわりが無い。あのギャングとの一切かかわりは無い。万一捕まる事も無い。
ゼグンは彼等独特の足音が聴こえなくなると、まだ近くに潜んでいる可能性が高い。
闇のなかを、そのまま進んで行った。
雨がサラサラと細かく降るなか、進んで行った。
様々な物が捨てられた一角に出て、袋小路に入り込まないように辺りを見回した。
建物に切り抜かれた四角い空。不気味に野外階段などがあり、佇んでいる建物は存在を音で知らせる代わりに、何がしかをまとっていた。
影が動いた。
ゼグンは撃ち、男達が踊り出てきた。
ガイイ~ン、と、間抜けな音が暗闇のなか響き渡り、それはミランがこの場所に落ちた廃材の鉄板で、男の頭を思い切り打っ叩いた音だった。
男は目を回して倒れ、ゼグンは背を伸ばし子供達は一斉にきゃあきゃあと手を叩き合った。
「でかしたミラン!」
ミランはにっかり笑い、他の男達が来たのを子供達は石を投げつけたり十二才の子達は鎖で首をぐるぐるに巻きつけたりぼこぼこと蹴りつけたりして、二人に十八人で掛かって来たものだからゼグンに鉄パイプで武器を払われ、バリオラに思っても見なかったパンチを受け倒れ込んだ。最も驚いたのはバリオラ自身だったのだが。
「やるじゃねえかボンボン」
「さっさと逃げよう!」
またすぐに目覚める前に彼等は走って行き、ゼグンは転がる男に足を掴まれた。
彼はぎらついた充血する目をゼグンに向け、彼は彼の頭を蹴りつけ、撃った。
子供達は背後も振り向かないように走って行った。
息を切らし、バリオラはもみ合っているうちに負った流れ弾に腕を押えては冷や汗紛れに、追手がこない事を見てから野外階段の下で子供達はそれぞれ手を無邪気に叩き合っていた。
「見せろ。大丈夫か」
「掠っただけだと思う。だが、痛いんだな」
「当然だ馬鹿が」
ミランは心配そうに彼を見上げ、十才の少女は香水の香りの染み込んだストールをバリオラに渡した。彼は感謝して微笑みそれをきつく巻いた。
「なんだか、ちょっといろいろと吹っ切れた」
バリオラはそう言い、落ち着いてきた声はどこか、ぬくもりがあった。銘木で出来た弦楽器の様に。
蒸し暑いなかただただ眠っていた熱帯夜の夜
貴方とわたしはジャングルのなかで見つめあって
泉のように澄んでいたその瞳
厳粛と輝く星のなか
生命体の
全ての音が
全ての声が
全ての存在が
巡り回る刻のなかで艶の様な泉のなかへ全てを潜らす
水面に映る星たち
空高くから星影がゴクラクチョウが踊っている
貴方とわたしはジャングルのなかで抱きあって
深い緑に重なり合うその手に
夜鳥の鳴く暗闇のなかに
生命の彩り
全ての愛が
全ての音楽
全ての感情が
空回る時のなかで艶の様な空のなかの全てを潤すジャングル
緑の葉を一掴み
そんな間隔で二人でいる
■【一時の安堵 ミラン】■
逃げた先のゼグンの知り合いの人の住処。
みんなは温かくて美味しいスープを飲んでいた。
焼きたてのパンは熱くて、サラダは新鮮だった。
溶けたチーズに揚げたチキンをつけて食べて、黒コショウが利いてて美味しかった。
トマトを取り合いっ子して、みんなもうお腹ぺこぺこだった。
「あたし、おうちに帰りたい……」
わたしの隣の子が、ぼそっと何かを言った。
彼女が泣き出したから、わたしはその子の頭をなでた。
「ミラン。もう大丈夫なのか?」
バリオラがそう言って、紙に書いた。
わたしは頷いた。お昼にトラックのなかで気絶しちゃって、みんなに心配させちゃったのだ。
バリオラはわたしの頭を優しく撫でてくれた。
ゼグンが知り合いの女の人と一緒にダイニングに来た。まるで、モデルみたいに綺麗な人。
ストリップダンサーなんだってゼグンが教えてくれた。綺麗で、格好良い女の人だ。
「子供十八人くらい、面倒見れるけど。元々ここらへんは身元も家も無い子達が多いしね。それに、身の保証もそこそこ守れる所で仕事だって与えてやれるわ。まあ、掃除だったり食器洗いだったり下働きだとか、ダンサー達の衣装縫ったり、メイクの手伝いとかになるけれどね」
女の人はゼグンと同じ言葉を喋っているんだと思う。ゼグンとバリオラは頷いていた。
英語っていう言葉が分からない子たちが多くて、わたしみたいに首を傾げていた。
ここではみんな、ミランと同じなんだ。
言葉が分からなくて、それでも状況は進む。ゼグンたちがいてくれて、本当に良かった……。
わたしは感謝を込めて、ゼグンとバリオラの首に腕を回して抱きついた。
バリオラはわたしにメモと口で言った。
「ミラン。それにゼグン、みんなも、ここでまずは【音楽】をやるつもりはないか?」
その言葉に、ゼグンもわたしも彼を見た。
「俺が音楽や歌を教えるよ。ゼグンも音には繊細だ。良い音を作り出す事が出来ると思う。ミラン。自分を信じてみてくれ。自分の力をだ。耳が聴こえるようになった。その力を信じるんだ」
ゼグンは女の人を振り返った。
「歌えるステージのあるバーならたくさんあるけれど、それは目に付くことじゃないの?」
「客のいるステージに立たなくてもいいんだ。ゼグン。環境によって、自分の求める最高の音を作ることが出来るんだぞ。自分の追い求めるままに、形に出来る物がある」
わたしは、信じる力の持つ、それ自身の【力】を、もう信じて良いんじゃないかって、思った。
今までは、恐怖しかなかったから。
知ること、音が嫌いなこと。色々なもの……。
人は産まれてからも、産まれるものなんだわ。
いくらでも……。
バーは照明が染みわたってた。
客席には一人掛けとか、ソファーとか、スツールがあって、それが重厚なテーブルを囲っていた。
広く無い店内。同じくらい広いステージ。そのステージは黄金の照明が琥珀色と混ざり合ってた。
これから、みんなで生きて行く場所なんだって、見回した。
わたしは夜外に出て、ゼグンとバリオラと一緒に、黒く濡れる雑居ビルの谷間で、銀の降りしきる雨を見上げた。
わたしは口をあけ、空を仰いだ。横にいるゼグンを見上げて、雲の氾濫する夜をみあげた。銀の照明が壁を少し照らす。
わたしの脳裏に、詩が浮かんだ。
いつか、曲を思うままに付けて、歌いたいって、思う……。
わたしは、声も無く、それらの言葉の口の形だけをかたどった。
空はペガサスが飛ぶ鏡のよう
まだ夢見ていることを知るのが怖くて
あなたが見えない現実が待つということだから
夢のなかという唯一の童話のなかに
浸っていたくて
目を閉じて、雨は優しく頬を撫でる。
歌えたらいいのに……。
夢現 やわらかな枕に頬を寄せる
怖くて 瞳をあけられない
貴女が横にいないことを知りたくなくて
優しかった手 優しかった笑顔
優しかったはずの貴女が
文字の羅列が、わたしの頭に溢れ浮かんで、夜の闇に飛び出して、雨のささやかな音と共に踊ってるみたい。
歌えたなら……。
わたしは純白のペガサスの背に乗り
眠って微笑み続ける
全てを飲み込む黒の星が存在することを
気付かないほうが良い
まだまだ 目覚められない
もう少し夢のなかで甘えていたい
現実を夢に変えられるなら
小夜曲を聴き続けられるから……
目を開いて、わたしはゼグンのお腹に頬をつけて、雨を見つめた。
バリオラはその横に座って、遥か高い、流れた雲が見せた合間の星の瞬きの粒を、見上げ見つめた。
私は知らなかったの
この世は美しい物で溢れているのだという事を
この世は輝いているという事を
光りのなかだと言う事を知らなかったの
私は知っていた
この世は単純などでは無いと言う事を
人は悩みそして笑い泣いては
いずれ輝く粒となる
恋をして心ときめき 熱くなり今の心は
いつまでもまだ永久が見え無い
空の星のなか……
奇跡を待つなんて遠い日の事
でもね……私は知ってる
心は待ってはくれない事を知ってる
わたしは、いつの日か、全てに感謝したい。
最終章 ファイナル サウンド
■【心の感謝 ミラン】■
お姉さんたちが、ミランを呼んだ。
わたしはみんなと顔を見合わせて、そして走って行った。ガヤガヤと、ステージの向こうは男の人達がお酒を飲んでいて、みんなはステージの裏でパンを食べていた時だった。
最終ステージの役割のお姉さんたちが妖艶に幕のなかに入って来る。
熱気を含んで、笑顔で引いて行っては、渡されるタオルとかで汗を拭いては、みんなの頭を撫でて微笑み歩いて行く。
わたし達はステージの裏から、バックラウンドに歩いて行った。
「こっちよ。来なさい」
わたしは頷き、ゼグンは今いなかった。
「部屋に入って」
女オーナーのカレンラがわたしの肩を持って、暗闇の部屋のなかに促した。
みんなは顔を見合わせ、なんだろうねと言い合っている。
いきなり灯りが灯った。
それは、お姉さんたちが一斉に数あるキャンドルに灯りを灯したからだった。
「わあ!」
イタリア人のレッラがわたしの横で声を上げた。
「ミラン。あんた、今日誕生日でしょ? 十才のお祝い」
今日は、あの日、あの時、耳が聴こえるようになった航海の日から、二年が経った日だった。
わたしはケーキや、たくさんの料理、それに、キャンドルのなかに揺れる綺麗な飾りを見回して、そしてそれらの横で微笑むお姉さんたちを見回した。
「やったねミラン!」
レッラがそう言って、わたしは大きく頷いて顔に微笑みが広がった。
「さあ。こっちに来てミラン。みんなも今日のお手伝いありがとう。さあ、座って」
とっても美味しそうな料理は、キャンドルの光にともされて、この世の物とも思えない格別さをもって見えた。
音が聴こえるようになって、わたしの心は様々な音楽が滞ることなく流れ続けた。
美しい音。
ゼグンのあやつり作り出す音の世界。
バリオラがみんなを指導する、お姉さんたちに聴かせるための昼のステージ。子供達の唄会。
さまざまな言葉達。
包まれて、わたしは嬉しくて、感動をしつづけた。
音の魅惑の世界は、どこにでもあるんだわ。
それを、知ったのだ。
みんなはわくわくして、待ち焦がれて顔を見合わせた。
わたしはバースデーケーキの蝋燭をそっと、吹き消していった。
「わー! ミランおめでとー!」
「おめでとうミラン!」
わたしは嬉しくて、みんなに出会えたこと、全てのこと。
ありがとう。
おめでとう。
おはよう。
こんにちは。
最高だね。
よくやった。
頑張ったな。
おやすみ。
ミラン。
みんな。
親友。
お友達。
みんなで頑張って来た、そしてこの場所の全て……。
心のなかで、ありがとう。そう、言った。
目をとじて、レッラの手を、オーナーの手を握って、口が象った。
【ありがとう】
その言葉……。
「……ミラン?」
わたしは顔を上げて、聴きなれない、掠れた高い声に顔を振り仰いだ。
みんな、わたしの顔を見ていた。
ドアが開いて、ゼグンが勢い良くバリオラと一緒に入って来て、みんな驚いた。
「バカ引っ掛かるなよ!」
「いって……」
バリオラが転んで、お姉さんたちが抱え起こし、彼は「ありがとう」とはにかんでゼグンは飽きれたように首を振って、わたしを見た。
「ハッピーバースデーミラン」
そう、微笑んだ。
「……あ、」
わたしは口を押えて、目を瞬きさせた。
だから、誰もがわたしを見た。
「……ミラン」
ゼグンはバリオラと一緒にここまで来て、わたしは止まらない瞬きの目でゼグンを見た。
「きゃあ! 信じられないミラン!」
リダがそう高い声を上げた。
「ミラン?」
わたしはみんなが騒ぐなかを、揺れる空間を見渡した。そして、ゼグンを見つめた。
「さっきの聴いた?! ミラン! なんてこと?! 私たちへの最高のプレゼントじゃないの!」
わたし……。
「ゼ……、」
……わたし、声が出る……。
わたしはゼグンの首に抱きついた。押えきれなくて、わたしは泣いていた。
ゼグンはわたしの背を、ずっと撫で続けくれた。
みんなの悦びの声が、体のなかにこだまし続けた。
■【俺の求めていた音 ゼグン】■
一年後。
あの日、あの時。
ゼグンは最高の音を凶悪な音と共に失い、逃亡し、そして辿り付いたバー。
最高の音を探し求め、見つけたくて模索し、美しい音を聴きたくて、それに包まれていたく……。
ゼグンは闇のなか、ステージ上のパイプ椅子に座り、目をとじた。
様々な音に出会い、そしてこれから、いつかは皆で行けるだろうオーストリアを思い描く。
ゼグンは見つけていた。
最高の魅惑の音を。
ミランを。
彼女は美しく高いソプラノで歌い、幸せそうにスポットライトを受けた。
髪を撫でる貴方の手が心の奥までも手を差し伸べて撫でてくれるの
貴方の目がわたしのなかに愛情を生んで輝くその目をさらさらと流す
どこまでも流れてどこまでも流れて行く旅路の果てはどこか熱を持ち寂しさを隠してるの
貴方と共に生きて行くこの路を
時代は変り行くでも愛は変らずにいて
貴方のその手を忘れるのは辛くて
どこかに置き忘れた天の光のなか雲を切り裂き太陽の様に
大きく照らし付ける愛情はどこまでも貴方の幻を見せる
彼女の声が、探し求める最高の音楽だったんだ。
彼女自身が、繊細な音の調べを、忠実に発するに値した声だったんだ。
たどたどしかった一年前までの高い声が、彼の誕生日にメロディーとして、美しく聴かせてくれた日の事を思い出す。
『練習したのよ』
そう、微笑んで嬉しそうに照れ笑って、暗闇のステージのなかを、スポットライトに照らされ、聴かせてくれたミランの唄は、まるでクリスタルで出来た鐘のように繊細なメロディーだった。
ゼグンはその時、涙が流れた事を忘れなかった。
今までの悔しい涙じゃ無い。
辛くて流した涙じゃ無い。
救いを求めて流した苦痛の涙じゃ無い。
絶望し流した涙じゃなく。
初めて喜びで流した水分が、心を洗った瞬間だった。
ミランは俺の頭を小さな手で抱いてくれ、そして囁いた。
『今ならわたしは、ママに会いに行ける。オーストリアに、みんなで行こうよ……』
ステージで照れながら歌うミランが美しくて、誰もが彼女の姿に見入っては、幸せそうな顔をした。
浚われてきた奴等。
バリオラ。
ここで世話になっているダンサー達。
彼女の歌う姿が、幸せの象徴のようだった。自由の象徴のようだった。
彼は、彼女の唄を聴くたびにただただ流れ止まらない涙を、そのままに聴き入ったことを覚えている。
絶対に、自分たちは揃ってオーストリアの土を踏む。
■【オーストリア、ウィーン ゼグン】■
あれから、二年の歳月が経過していた。
「ようこそわが国オーストリアのウィーンへ!」
バリオラが空港から降りた皆にそう言い、ミランはくすくすと笑って俺の手を引っ張った。
皆はバリオラがギャグのように掲げる「麗しき踊り子達と美歌団御一行」の旗を振りながら歩く背を、くすくす笑いながら歩いた。
「最高ねオーストリア! いつ来ても美しいわ!」
ダンサーの一人がそう言い、バリオラの腕を取って、彼は耳を赤くしながらも微笑み歩いて行った。
どやどやと子供達は口々にここを回る、あそこを回ると言い合いながらも歩いて行く。
宿泊するホテルへはタクシーで行く。みんなが何台かに分かれて乗り込み、走らせていくうちにも、ゼグンの前に広がって行く街は、ゼグンを魅了した。
なんて綺麗な街だ……。
さまざまな物が押し寄せ、ヨーロッパの建築物が彼等を出迎えた。
バリオラは彼に言った。
「何年ぶりだろうな。まさか、こうやって帰ってこられるなんて思ってなかった部分がまだあった」
それでもバリオラの横顔は、懐かしむ顔で輝いて思えた。
「ありがとうなバリオラ。俺たちをこの国に導いてくれたのはお前なんだぜ」
彼は嬉しそうに笑い、それに返した。
「お前にも感謝してる。みんなを救うって、三年前に決心したとき、俺の心がどんなに救われたか。俺は今まで何かに逃げつづけてきたんだと思う。思っていても、恐怖で立ち向かえなかった。お前が俺を誘ってくれて、子供達を奴等から救ってくれて、俺はそのお礼をしたかっただけだ」
ゼグンは感謝された事に戸惑ったが、それでも以前の様に、その言葉から逃げることは無かった。
「共にここまで来た仲だぜ。これからも進もう」
他のタクシーでは、子供達が声をそろえ歌っては、美声を響かせていた。バリオラとゼグンの指導の元、歌いつづけてきた彼等の歌声は、実に美しかった。
楽しそうに歌う彼等に、ドライバーは楽しそうに聴き入っていた。
それでも、どこか寂しげな風もにじみ出る彼等の魂の歌声が、空に向って吸い込まれて行く。
ホテルからみんなが出ると、レストランで腹ごしらえを終えた。
「ゼグン」
ミランはゼグンの椅子の横に来て、彼に耳打ちした。
「教会? それって、確かバリオラが最大の教会だって言ってたところか?」
彼女は頷き、その目は屈折する事無い透明さがあった。
「おねがい。行きたいの」
■【想いの教会 ミラン】■
そのゴシック様式の教会は、天高く塔がそびえていた。
威圧感は心地良く彼等を安堵させてもいた。
彼女はせきを切ったかの様に、いきなり走り出し、ゼグンは追いかけた。
エレベータがある事には驚いたが、彼もそれに乗り込み、気が急いて焦ったように見えるミランの顔を見た。
彼女は斜め掛けにしたポシェットの紐を握り締め、扉が開く事を見つめていた。
開いた瞬間、彼女は駆け出した。
「おい!」
彼女は青の空が高い屋上から、素晴らしいウィーンの街並みを見渡した。そして、屋上を見回す。
風を受け、目をとじ、天を仰いだ。
「……どうした?」
「ママとの……思い出の場所……」
天を仰いだままとじられた目からは、涙が流れて来ていた。
透明で、太陽の陽を受けて煌いていた。
ゼグンは美しい街並みを見渡し、ミランの頭を抱き寄せた。
「いるんじゃないかなって……思ったの」
ゼグンは頷き、泣くミランの頭を撫でつづけた。
ミランはゼグンから離れ、教会を見つめ、街を共に彼等は見渡した。
ミランが、自然に歌いだした。
大地を駆け行くあの子の影
貴女は追いかけては掴めずに
貴女の声を聴きながら 笑い声が響く心
風の駆け行くその瞳は 光を巡って立つ
光が充ちてゆく 貴女が行くのならば……
ミランは徐々に顔を歪め、涙が流れ泣き、ゼグンの肩に額を付けた。
「会える筈だ。ミラン。きっと……」
「ママに会いたい……。ママに会いたいよ。ミランが話せるようになった事、知らせたい。今はみんなで頑張っていること、伝えられる」
地面に涙が落ち、教会の一部になっていった。
「ママの声が、聴きたいよ……」
ミランにとっては、一番の最高の【探し求める音】が、彼女を生んでくれた【母親の声】だったのだと、ゼグンは初めて分かった時だった。
音の美しさに囲まれた世界。
美音の世界のなか、ただ一つの、彼女の母親しか発する事の出来ない唯一の【音】。
ミランは顔を上げ、涙を拭うと輝くような憂いの微笑を渡した。
「ママはいつも泣いていたの。わたしが耳も聴こえずに、口も利けずに悲しい顔しかしなかったから。わたし、笑った事ってこの国では無かった。今では、笑える様になったのよ……」
この同じ国で、そうできて地を踏める事、幸せだった。
何時間も経ち、夕景が優しくウィーンを包んだ。
太陽の音はしないが、街の方々から微かに、鐘が響く……。
これが、夕日の太陽の音なんだと、ミランは思い目をとじ、優しく包みこむ黄昏の光を見つめた。
音と共鳴し、美しい光。
「しください……」
ミランは消え入りそうな声に振り返り、夕影のなかの一人の影を見つめた。
「神よ……。私をどうか……」
その声は闇に消え入りそうで……、彼女は、いつものように、空を見上げていた。
涙を流し、そう、言っていた。
「おゆるしください……。大いなる神よ……」
ミランは目を見開き、その女性の影へと歩いて行った。
いつものように、彼女は三年前のように、天を見上げ、涙を……。
「……あの、もしもし」
その女性は、涙で染まる赤の頬をそのままに、声を掛けてきた方向を見た。
「……」
青年と立ち並ぶ少女。その子は、信じられない事だった。
ミランはママ、という言葉がなかなか出なくて、ゼグンの手を細い指で握り締め、彼女を見つめていた。
その瞳からは涙が止め処なく流れていた。
彼女は少女を見つめ、口がわななき、両手で口を押えた。
「……ママ、」
ミランは母親に駆けよりしがみついた。
「……ああ、まさか、ミラン……? あなた……」
母親はその子の頭を間近で見つめ、目から熱い涙が溢れ出し、青年を見た。彼は所帯なさげに手を腰に当て、口をつぐんだ。
その子は母が最後に窓のなかから見た姿よりも、背が伸び、足も長く、そして変らないだろう金髪は、紅色に染まっていた。
あの時、闇の庭で、男に連れ去られて行く娘は、いきなりの事に暴れていた。
必死に暴れていた。
暗い家の窓のなかを振り返り、母は声を押し殺し、カーテンの開けられる窓際に背を付け口を押え泣いた。
娘を育てて行く金がすでに底をつき、家も立ち退くように言われていた。
九年前、彼女の再婚した夫が彼女の娘に暴力を振るいつづけ、自分は泣き叫び夫の暴力を止める事も出来ずに彼にしがみつき、『私の子を離して!!』と金切り声を上げることしか出来ずに、幼いミランは泣き叫んでいた。痛くて泣き叫んでいた。
自分は『こんな男と再婚するんじゃ無かった』と、酷い夫を、重たい蓄音機を持ち上げ、殴りつけていた。レコードが飛び割れ、奏でられていた女の声が途切れ、自分の息切れと、夫の呻き声と、ミランの泣き叫ぶ声が暗い空間に響いたとき、絶望を感じた。夫はそのまま、動かなくなった。ミランを抱き上げ、彼女は気絶していた。真っ青になり、気絶していた。
夫の遺体を台所の貯蔵庫の床に隠し、娘を抱き上げ病院に連れて行った。あんな男と結婚した自分を呪い、判明したミランの後遺症に絶望し、自分のした過ちを呪った。
一生ミランと生きていくことを決めたのに、先立つものが底をついて行き、女手一つで育てなければならなかった年月にも、限度が着ていた。
娘を手放したと共に、家も失い、そしてギャングが契約書の変りに渡してきた金しか、彼女には残らなかった。
彼女は娘を力強く抱きしめていた。
暴力で耳の聴こえなくなった娘。
恐怖から口が利けなくなった娘。
さっき、……ママ、と、聴こえた……。
待ち望んだ声。
本当は手放したくなかった娘。
人を殺してしまった私の手で、今まではしっかり抱き寄せる事に躊躇していた腕だった。
「ミラン……」
泣き声が彼女の声を震わせた。
「ごめんねミラン、ごめんねミラン。ごめんね……」
ミランの顔が見れなかった。
幻なのではないのかとさえ思った。
三年も前、この場所で、娘を手放す事を神に言った日の青空が、視界のなかに駆け巡った。
「ママ、わたし、耳が聴こえるようになったの。話せるようになったのママ。ママに会いたくて、わたし……」
彼女の母親はその時全てを悟り、目の前にいる子が紛れも無い自分の娘である事と、その娘がいま此処に居るという事実に、その場に泣き崩れ、低く声に出し泣き続けた。
それらが夕陽に混ざり、どこまでも続いた。
愛するミラン。
そんな事を言う資格はもう、無いんだと彼女は思った。
それでも言いたかった。
言いたかった……。
ゼグンはミランの髪を撫で、ミランは呆けたように夜の窓外を見つめていた。
ゼグンは煙草の煙の方向を見つめ、暗闇と青の夜空の先には星が瞬いていた。
母親は今、昼をパン屋で働いていた。なんとか生活をしていた。
ミランは彼女に、命を救ってくれたゼグン達と共に生きていっているのだと伝えた。
あの時浚われた子供達と生活しているのだと伝えた。
彼等は歌を歌い、そして必死に生きているという事。
バリオラはミランに温かいミルクを渡し、ミランは受け取っては白を見つめた。
「わたし、オーストリアに残れないのかな」
「なあミラン。もう少し大人になったら、そうしよう。成人して、しっかり働く場所を見つけて、そして母親と共に生活できると思う」
バリオラはそう言い、ミランは彼を見上げた。
「本当?」
「ああ。もうオーストリアの国籍じゃなくなってアメリカの国籍になっているが、場合に寄ってはまたオーストリアの国籍になれるよ」
「わたし……、ママといつか、暮らせるようになりたい」
夜。
彼等は夜空を見上げた。
青年二人は冷たい風を見上げ、子供達は煌く星に手をかざした。
奴等に殺された二つの命に手を、かざすかの様に。
バリオラはその場に座り、肩を震わし顔を押えた。
子供達は小さな高い声で、彼等へのレクイエムを歌った。
その声が徐々に涙声に変って行き、歌が泣き声に変って行った。
彼等は肩を寄せ合い、目をとじて手を組んだ。
彼等の安静を祈った。
一緒に旅立つ事が出来なかった命……。
■【小さな合唱隊】■
街角で、一団が歌っていた。
少年少女達は歌い、幸せそうだった。
高い声が天に響き、青年の指揮に乗り歌っていた。
それを聴く人々のなかには、ミランの目元によく似た女性が立っては、聞いていた。
一人のオーストリア人の少女が一歩進み出て、声を一人、響かせた。他の子供達がバックコーラスを唄い、妖艶な女達がリズミカルに手を打ち鳴らした。
いつまでも、彼等の声が人々の心に染み込んでいった。
天を昇り行く光りの渦が
あなたの目の前を飛んで行くわ
光りの波が あなたの元に 愛情を降ろして
その海の彼方に たくさんの望みを……
いつかは、彼等少年少女も、待ち焦がれる時を迎えられることを、それらに聴き入るゼグンは願った。
彼等と出会った全ての音の世界は、奏でられた彼等の音楽だったのだ。
魂の音だったのだ。
海で出会い、そして唄い、自然の音を耳に入れ、彼等の歌声。彼等の笑い声。様々を垣間見た。
今までの三年間が、彼等の音楽でもあったのだとゼグンは思った。
そして、これからも……。彼等の尊い歌声と共に。
おわり