四
俺は、頬をごしごしとこすった。涙の跡が頬に張りつき、引き攣ったようになっている。瞼の熱はすっかり引いていた。
「みんなの幸せなんて、どんなことを願っていたんだ? その、マリアお姉ちゃんはさ」
尋ねると、
「お母さんがあまりいらいらしませんように。お父さんがお酒を飲みすぎませんように。マヤを傷つけませんように。みんなが仲良く、元気で平和に暮らせますように」
そうマヤは答えた。
「理解、できないな。そんな目にあいながら、なんでそんなことを願えるんだよ。自分を虐げたヤツらに、仕返ししてやりたいとは思わなかったのか?」
「タケルは、思ったの?」
問い返されてうつむく。
「……思ったよ。何もできやしなかったけど」
「タケルは、悪くない」
その声に、俺は顔を上げた。
「きっと、それが普通なの。やられたら、やり返したいと思う。当然よ」
「……」
「でも、マリアお姉ちゃんは思わなかったし、そうしようともしなかった」
「なんで……」
「だから、マリアお姉ちゃんは最高の魔法使いなの」
魔法使い……。
初め、その言葉を聞いた時、俺は笑った。馬鹿にした。
いい歳をして中二病かよ……と、そう思った。
でも、今は、なぜか受け入れている。
初めはかなり胡散臭いと思っていたこの女を、マヤを、俺が受け入れ始めているからかもしれない。
マヤがそこまで慕うマリアお姉ちゃん……。
たぶん、子供の頃の話だとは思うけれど、その時点で、俺よりもずっと優れた人格者だったのではないだろうか。
たいへんな境遇の中にあっても物事をプラスに転化できる……。
マリアお姉ちゃんとは、そういう人物だったのではないだろうか。
そのことをもって、マヤはマリアお姉ちゃんを「最高の魔法使い」と呼んだのかもしれない。
「マリアお姉ちゃんの魔法は凄かった」
マヤが口元を緩めた。目尻が、少し下がっている。
「どんな魔法だ?」
魔法なんか信じていない。
そんなもの、あるはずがない。
けれども、この時の俺は、形式なんかじゃない。本当に興味を持って、そう尋ねた。
「マリアお姉ちゃんは、いろんな物を出してくれた。ポケットからビスケットを出したり、綿飴をくれたり」
「……それのどこが魔法なんだよ? ポケットからビスケットって、もともとポケットにビスケットを入れていただけだろ?」
マヤは、ふるふると首を振った。
「違う。マリアお姉ちゃんのポケット、穴が空いていた。マリアお姉ちゃんのお母さん、マリアお姉ちゃんに服を買ってくれないの。いつも、サイズの合わない服をきつそうに着ていたわ」
俺は、マヤの物言いに違和感を覚えた。
「このポケットは魔法のポケットなんだよって言いながらポケットを叩くの。そうするとね、ビスケットがポケットの穴から落ちてくるの。それも、たくさん! それで、マリアお姉ちゃんは飢えを凌いでいたわ」
「……」
「空の雲を綿飴に変えてくれたこともあるわ」
「……」
「マリアお姉ちゃんが『なれ』と言うとね、そうなるのよ」
「……本当かよ」
「タケルは、信じないの?」
「だって、信じられないだろ? 普通は信じないよ、そんな話」
俺は、人間的な心の強さのことをもって、マリアお姉ちゃんのことを「最高の魔法使い」と呼んでいるのかと思っていた。それなのに、これじゃあ、おとぎ話などに出てくる魔法使いそのものじゃないか。
「信じることができないから……」
マヤが、険しい表情で俺を見ている。
「タケルには魔法が見えないし、使えないのよ」
一瞬、マヤの大きな目に哀しみの色が滲んだ。
「なら、本当に穴の空いたポケットからビスケットが出てきたのか? それを食べたのか?」
「出てきたわ。食べたわ。おいしかった」
「空の雲を、綿飴に変えて食べたのか?」
「そうよ」
「食べるフリじゃなくて?」
「フリじゃないわ。本当に食べたの。ふわふわで、甘くて、おいしかったわ」
「……」
「それだけじゃない。マリアお姉ちゃんは命を吹き込むことだってできるのよ」
「……命を吹き込む?」
「ぬいぐるみを動かすことができるの」
「……生地の内側に機械が入っている、ロボットじゃなくて……?」
マヤが睨んでいる。視線が痛い。
「マリアお姉ちゃんが名前をつけてあげるとね、ぬいぐるみや人形がみんな動き出すの。言葉も話すの。マリアお姉ちゃんは、私にたくさんの友達を作ってくれたわ」
俺は、話についていけず、かと言ってマヤの言葉を否定することもできず、押し黙ってしまった。