三
「マリアお姉ちゃんは、最高の魔法使いなの」
こちらを見ているはずのマヤの視線は、俺を通り越して別のものを見ているかのように遠く感じた。
「マリアお姉ちゃんは、お母さんにたくさん叩かれていた」
その言葉に、俺はぎょっとしてマヤを見つめる。
「でも、マリアお姉ちゃんは、『痛くない痛くない』『平気平気』って言って、いつも自分で傷を癒していたの」
「……それって、虐待じゃないか。っていうか、いつの話だよ? 子供の頃か?」
「わからないわ」
「なんでわからないんだよ。どれぐらい前だったかぐらい、わかるだろ」
マヤは、またもきょとんとした表情でこちらを見ている。
『……話す内容は知恵遅れって感じじゃないんだけどなあ』
俺は、何度目かわからないため息をもらした。
「お父さんに蹴られて苦しそうにしていた時も、マリアお姉ちゃんは私の頭を優しく撫でてくれた」
「……」
「ご飯を与えられない日が続いた時にも、『世の中にはもっと苦しんでいる人がいるんだよ』って、笑っていた」
「……マヤは、殴られたり蹴られたりしなかったのか?」
「しなかったわ。いつも、マリアお姉ちゃんが守ってくれたから」
「……そうか」
「ただ、一度だけ、殺されそうになったことはあるけれど」
俺は、息を呑んだ。
「でもね、マリアお姉ちゃんが私を隠してくれたの。『ここに隠れていて。絶対に出てきたらだめだよ。あとで、必ず迎えにくるからね』って、そう言っていた」
「……それで?」
「それきりよ」
「え……?」
「マリアお姉ちゃんは、迎えにきてくれなかった。マリアお姉ちゃん……私の前から消えてしまったの」
何を思い出しているのか、遠くを見つめていた焦点がようやく俺で結ばれる。
「私は、ずっとマリアお姉ちゃんを探しているの」
しばらくの沈黙ののち、
「……家出でもしたのか?」
俺はようやく言葉を絞り出した。
「違う。マリアお姉ちゃんは、私とずっと一緒だって言っていたもの。私を置いて行くなんて、そんなことないわ」
「でもさ……子供の頃の話なんだろ? どうにもならないことだって、あったんじゃないか? 家出でなくても、たとえば、施設に入れられた……とか」
「……施設?」
「近所の人が虐待に気づいて、親元から引き離そうとしたとかありそうだろ? それなら、児童養護施設に入れられても不思議じゃない」
舌が上顎に張りつきそうなぐらい、喉がからからに渇いている。俺の脳裏に嫌な考えがちらついた。
「……なあ」
なんとか声を絞り出す。
「……生きて、いるのかな……」
マヤがまっすぐにこちらを見つめる。
「虐待、されていたんだろ? それで、気がついたら消えていたって……。事件とかには、ならなかったか?」
「事件?」
「刑事がきたりとか……。何か聞かれたりとか、しなかった?」
「わからないわ。私に話しかけてくれるのは、マリアお姉ちゃんだけだもの」
「マヤはどうしていたんだ? マリアお姉ちゃんがいなくなってからさ」
「……わからない」
「わからないって、何でだよ? どこかに引き取られたんじゃないのか?」
「私は、気がついたら一人だったの」
俺は、言葉を失った。
『もしかして、知恵遅れに加えて記憶喪失なのか……?』
もしもそうなら……と思う。
『マリアお姉ちゃんが消えた……いや、もしかしたら、殺された……その瞬間を目撃してしまったことで、そのショックで……その時の記憶を失くしたのかな……』
「マリアお姉ちゃんは優しかった」
唐突に、マヤが言った。
「優しくて、いつもみんなの幸せを願っていた」
「……なんでだよ」
つい、舌打ちが出る。
「虐待されていたんだろ? 酷い目にあっていたんだろ? なのに、みんなの幸せを願う……? 意味がわからないよ」
――おい、ガリ勉。
――なんで学校にいるんだよ。くる必要ないだろ。
――友達の一人もいないくせに。なんで生きていられるんだよ。
――お前、誰からも必要とされていないんだぜ。いいかげん、気づけよな。
――邪魔。お前の存在が迷惑なんだよ。早く死ねば。
「……うわあああっ!」
ひとしきり叫んだあと、はっと我に返った。マヤを見る。マヤは、相変わらずの無表情で俺を見ていた。
「……願えるかよ……」
俺のつぶやきに、マヤがまた小首を傾げた。
「みんなの幸せ? 願えるわけがない! 俺があいつらに何をした? 俺は、あいつらが遊んでいる時間で勉強を頑張っていただけだ。成績が落ちれば怒られるから」
「タケルは、褒めてほしかったの?」
「褒めてなんてくれないよ、うちの親は! いい成績をとるのが当たり前だと思っているから」
「……そう」
「俺は、ただ……努力して、いい成績をとろうと頑張っていただけなのに……」
「タケル……」
「何の努力もしないで、好きなことをして、ただ自分勝手に遊んでいて、それでいて誰からも咎められることもなくて……そんなヤツらに、なんで、俺が追い立てられないといけないんだよ!」
「……」
「そういうヤツらはたいてい人気者で、友達も多くてさ、教師だってみんなそいつらの言いなりさ。俺の話よりも、そいつらの話を聞くんだ」
「でも、タケルは勉強ができるんでしょう? なら、先生たちだってタケルの話を聞いてくれるんじゃないかしら」
「……言ったことはあるよ。でも、いじめがあるなんて不名誉な話、あの人たちは認めたがらない。……思えば、当然だけど。ただの喧嘩ってことにされて、親まで呼ばれて、親に散々怒られた挙句にあいつらの家を一軒一軒謝って回ることになった。……最悪」
「偉かったわね」
俺は顔を上げた。何のことを言っているのかわからず、じっとマヤを見据える。マヤは、その顔に何の表情も浮かべることなく、
「よく頑張ったわ」
と言った。
「は……何言ってんだよ……」
言葉が続かなかった。喉が渇き、舌が上顎に張りついている。唇がわなわなと震え出した。目頭が熱い。
まったくの不意に、熱い滴が瞼を濡らし、頬を伝った。
「タケルは、ただ頑張っていただけ。タケルは、何も悪くない」
「……何も、知らないくせに……」
「タケルの周りに、タケルの理解者がいなかったことはわかるわ。……マリアお姉ちゃんもそうだった」
「……マヤがいただろ?」
「私の理解者はマリアお姉ちゃんだけ。でも、マリアお姉ちゃんの理解者に、あの時の私はなってあげられなかったの」
「……」
「私は、マリアお姉ちゃんに言ってあげたかった」
「……なんて?」
「偉かったね、頑張ったね……って。それから、いつも一緒にいてくれてありがとうって」