ニ
「……?」
不思議に思って空を見上げる。
雨が、やんでいた。
さっきまでの薄暗さが嘘のように、辺りが明るい。陽が射してきているようだ。
驚いていると、
「何をしているの?」
背後から声が聞こえた。
「……え?」
振り向いた先にいたのは、まるで見覚えのない女だ。
年齢は二十歳ぐらいだろうか。少なくとも、俺よりは明らかに年上に見えた。
教師かなとも思ったが、見たことがない。
パーマをかけているのか、もともとそういう髪質なのか、肩まで伸びたくるくるの癖毛をひとつに結わえている。髪色は赤っぽくて、大きく開かれた瞳の色は茶色に見える。睫毛が長く、鼻筋がよく通った美人顔だ。背も高く、パンツルックの似合うスタイルは、モデルの仕事でもやっているのかなと思うほどだ。
『……ハーフっぽい』
もしかして、英語の先生だろうかと思い見つめる。けれども、少なくとも、俺の知っているどの先生でもなさそうだった。
「何をしているの?」
女が、また口を開く。
「……べつに、何も」
「べつに? 何も?」
いつまばたきをしているのかと思うほど、女はじっとこちらを見つめ続けていた。
「……この学校の先生じゃないですよね? 見たことないし。部外者は立ち入り禁止ですよ」
「そうね。立ち入り禁止ね。屋上の入り口に、そう書いてあったわ」
俺は言葉を詰まらせた。
『……立ち入り禁止なのは、俺もだって言いたいのか』
「何をしているの?」
三度目の問いかけに、
「先生でもないあんたには関係ないだろ! 誰なんだよ、あんた!」
俺は、無性に腹が立って喚き散らした。
こんなのは、八つ当たりだ。
わかっている。
『……だっせえ……』
そう思っていると、
「私は、マヤ」
平然として女が答えた。そして、続ける。
「マリアお姉ちゃんのふたつ下の妹なの」
俺は、苛立っていたのも忘れて、まじまじと女を見つめた。
マヤという女。
どう見ても二十歳そこそこ……どんなに幼く見ても、高校を卒業するぐらいの年齢に見える。
『もしかして、知恵遅れ……ってヤツか?』
「私はマヤ。マリアお姉ちゃんのふたつ下の妹なの」
繰り返す女に、
『……俺にも名乗れって言っているのか……?』
思った俺は、
「俺は、タケル」
と名乗ってやった。
「タケル……」
マヤが、俺の名をつぶやく。
「タケル、何をしているの?」
四度目の問いかけだ。俺は、答えてやることにした。
「飛び降りようとしていた」
「飛び降りる? どうして?」
「死ぬつもりだったんだよ」
「死ぬ? どうして?」
「こんな世界、生きる価値がないから」
「どんな世界なら、生きる価値があるの?」
「……俺を、必要としてくれる世界……」
「タケルを、必要とする世界……?」
「もしも、そんな世界があるなら……」
「あるわよ」
俺は、打たれたように目を見開き、目の前の女を見つめた。マヤは、まるで何でもないと言うように、表情を変えることなく俺を見据えている。
「私には、タケルが必要よ」
そう告げるマヤを、俺は激しく睨みつけた。
「いいかげんなことを言うなよ! たった今会ったばかりのあんたが、俺の何を知っているって言うんだ!」
「私、タケルのことを知らないわ。でも、私にはタケルが必要なの」
マヤが続ける。
「みんなが幸せになることを、マリアお姉ちゃんが望んでいたから」
『また、マリアお姉ちゃん、か……』
俺はため息をつくと、屋上の手すりから離れた。そのまま、貯水タンクの方へと歩いて行き、錆びついた梯子に腰かける。
「あんた……本当に、いくつだよ」
「あんた? いくつ? それは何?」
「いや……だから、マヤは何歳なんだ?」
「私は、マリアお姉ちゃんのふたつ下の妹なの」
「なら、マリアお姉ちゃんって何歳なんだよ」
首を傾げるマヤを見て、俺はまたため息をついた。
「ねえ」
マヤの声に振り向く。
「どうして、死にたいの?」
さっきの話の続きらしい。
「言っただろ。生きる価値がないからだよ」
「死んだら、解決できるの?」
「……少なくとも、この世界からは離れられる」
「離れて、どこに行くの?」
「どこにも。無に還るんだよ。何にもなくなる。ただ、それだけだ」
「無に還る? 無って何? タケルはここにいるのに。どうして、死んだら無になれるの?」
「どうしてって……。こうして思っていることも考えていることも、すべては脳の作用だから。体がなくなって、脳が止まれば、何もなくなるんだ」
「どうして?」
「どうして、どうしてって……」
俺は、苛立って声を荒げた。
「知らないよ! テレビで学者がそう話していたんだ!」
「どうしてか知らないのに、それを正しいと信じられるの? もし、学者の話が間違っていたらどうするの? 何もなくなると思って死んだのに、この世界よりももっと酷い世界が広がっていたら、どうするの?」
「……それは……」
「学者の人は、一度死んで蘇ったの? 何もなくなるという世界を体験したのかしら?」
「……」
「タケル、なくならないのよ」
俺は、うつむいていた顔を上げた。
「だって、タケルはちゃんと存在しているのだもの。有が無になることなんか、ないのよ」
「……」
「でも、逆はあるの」
マヤが、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「マリアお姉ちゃんには、それができた」
「逆って、無から有にってこと? 何かを作るのがうまかったのか?」
「マリアお姉ちゃんは、魔法使いなの」
「……はあ?」
「それも、最高のね」
「その歳で、中二病か?」
やっぱり知恵遅れか……そう思っていると、マヤがきょとんとした表情で首を傾げている。
「中二病?」
「漫画やゲームの世界と現実世界がごっちゃになっているような浮ついた発言をする、痛いヤツのことだよ」
「ふうん。タケルは、何歳なの?」
「……は?」
「何歳?」
「……十四」
「十四歳? ふうん。それじゃあ、中学二年生ね」
俺は、いたたまれなさに目をそらしてうつむいた。