一、侍と少年
-ブラッドムーンと怪しい男-
2019年1月21日、月曜日。
朝のニュース番組では、キャスターが「今日はスーパー・ブラッド・ウルフムーンです」と興奮気味に報道していた。
「スーパームーン」とは、月が地球に最も近づき、通常よりも大きく見える現象の事のようだ。その「スーパームーン」に加えて、皆既月食の際に月が赤く見える「ブラッドムーン」と、1月に見える最初の満月である「ウルフムーン」が重なって、「スーパー・ブラッド・ウルフムーン」と呼ぶらしい。
なんでも詰め込めばいいと思っているのか知らないが、その名前はかっこよくて、ぼくは少し胸が躍った。
そんな胸の高鳴りに水を差すような発言を、キャスターは至って冷静に報道する。
「ブラッドムーンは、昔から不吉とされる言い伝えがあり、旧約聖書には、『血のような赤い月』が見えた後に巨大地震が起きたと記載されています。また、スーパー・ブラッド・ウルフムーンが見られるのは、北米・南米・欧州・アフリカ西部と言われており、残念ながら日本では見られないようです。
あまり期待はしていなかったが、高鳴った胸に水を差されたのであまりいい気持ちはしなかった。「普通の満月じゃないか」と思って、家をでた。
その日は委員会活動で帰りが遅くなったため、早足で帰路についていた。冬至を過ぎたとはいえ、18時を回った頃には、真っ暗だった。
一条神社前の交差点で信号を待っているとき、ぼくの右横を1台の白いバンが通り過ぎた。驚くことに、その車を運転していたのは父だったのだ。
10年ほど会っていないとはいえ、あの鬼のような形相は忘れもしない。ぼくは、幼き頃の恐怖の思い出を忘れて、不意に走り出していた。幸い、バンは次の信号でも赤信号に捕まっていたため、ぼくは距離を縮めることに成功する。
追いついてどうするのか、そんなことは考えていなかった。
ただ、父との思い出が詰まった一条神社の近くで、約10年ぶりに父に会えたということに何か大きな意味を感じたのだ。神様のいたずら、いや、プレゼントのようなものかもしれない。
あと少しのところで、バンに追いつくところだったが、信号機はぼくの気も知らないで、バンにいいよと告げた。青い印を確認したバンは再びエンジン音を吹かす。
しかし、ぼくは諦めなかった。「あとで取りにくるからちょっと待ってて」と、言って、学生カバンを道の端っこに置いた。
身軽になったぼくは、再びバンを追って、ひた走った。
はるか先に見えたバンは、教会を右折し中村城のほうへ向かったようだった。
こんな夜中にどうして中村城に向かうのだろうか、何かきな臭かったが、ぼくもそのあとを追い、中村城の細いコンクリート道を登っていった。
走り疲れてペースを落とした時、コンクリート道の横の森にトラックの轍があることに気付いた。舗装されていない道無き道は、森の奥へ通じているようだったが、真っ暗であまり見えない。
この道には、何か大きな違和感を感じた。一歩足を踏み入れると、このままついて行ってはいけないような気がした。肢体が強張り、思うように体が動かない。
しかし、この先に父がいるかもしれない。もう一度、父に会いたいという思いが、恐る恐るではあるが、ぼくを前に進ませた。
スマートフォンのライトを頼りに、木々の中をゆっくりと進んだ。300mほど進んだだろうか、提灯で照らされた広場のような場所があったのだ。そこには、墓石とは少し違った石碑がいくつも並べられていた。ここは一体なんなのかと思い、石碑に近づこうとしたとき、横から大きな声がした・
「誰だ!お前は!」
「ひっ!」ぼくは情けない声をあげて尻餅をついた。そして、男はこちらに向かって歩いてくる。
そのときは、恐怖以上に、期待が混じっていた。
歩いてくる男が、もしかしたら父かもしれない、と思ったのだ。
しかし、その期待はあっさりと裏切られた。その男は、父ではなかった。ただれた皮膚に包まれた卑しい表情は、とてつもなく小物のようだった。
男は、「なんだこのガキ?なぜ、ここがわかった?」と吐き捨てた。
その奥では別の男が、「バレたらまずい。早く始末して、奥に棄てちまえ」と叫んでいた。
どこかで聞いたような三流のワルの台詞だったが、いざ自分が殺されるかもしれないとわかると恐ろしく怖かった。尻餅をついていた体を持ち上げて、言葉にならない声を上げて、走った。
しかし、木の枝で足をつまずき、今度は正面から転んでしまった。転んでいる間にぼくに追いついた男は、ぼくの胸倉を掴むと、地鳴りのようなアッパーを鳩尾に打ち込んできた。
ドゴッ、という鈍い音が骨の髄まで染み渡り、その場に倒れ込んだ。
男は倒れたぼくを眺めながら、「チャカはまずいからな、どうやって仕留めようか」と思案していた。
ぼくは、最後の力を振り絞って、四つん這いになって、前に進んで、ほんの少し男から距離をとったところで、この絶望的な状況に大差はなかったが、このまま倒れておくよりはましだった。
匍匐前進のようにほんの少し前に進んだとき、ぼくの手は何か固い物体に突き当たった。ざらついた表面から察するに、どうやら石碑のようだ。
その瞬間、男の蹴りがぼくの臀部を捉えた。軽い体はいとも簡単に吹き飛ばされたぼくは石碑に正面からにぶち当たった。
意識が朦朧とする中、ぼくは最後にこの男の顔を眼に焼き付けておこうと思った。
そして、力を振り絞って、体を反転させ、石碑に背中をおしつけた。
石碑を背に瀕死の状態で倒れこむぼくを眺めこむ男の顔は、極まりなく醜かった。「チャカを使ったら発砲音が目立っちまう。じゃあ、この落ちていた棒で殴るしかねえよな...」と言う彼は、人を痛めつけることに抵抗がないらしい。
ぼくは、覚悟を決めた。もう最期かも知れない、と。
母さん、ごめんね。ぼくのせいで、父さんと別れさせてしまって。そして、さんざん苦労させて、先に死んじゃうし。でもぼくがいなくなったら、母さんは新しい人生を生きてよ。
雪、ありがとう。君が幼馴染で、本当によかったよ。ただ、たまに見せる物憂げな表情が少しだけ気になっていたんだ。けど、きっと大丈夫だよね。
父さん、あなたの望む、強い男になれなくてごめんなさい。けど、ぼくなりに頑張ったんだ。ぼくが死んじゃったら、もう一度母さんとやり直して、母さんを幸せにしてあげてよ。
最期にもう一度、父さんに会いたかったな。
ぼくは、みんなへの思いを祈ると、そっと目を閉じようとした。
目の前の男は、そばにあった大きな木の枝を手にして、それを振り下ろそうとしていた。
その木の棒から目を背けようと、顔を横に振ったとき、石碑に張り付けられたお札のようなものに気付いた。そして何も考えずに、そのお札を引きちぎった。
その瞬間、何か大きな`ナニカ`が、口の中に入ってきた、その`ナニカ`は、食道を通って、体の奥底に入ってくる。しかしそれは決して、禍々しいものではなく、瀕死の状態の体に活力を与えるものであったのだ。
そして、薄まっていく意識の中で、日本では赤みがかるはずがない月が、赤く染まっていたのを視認した。
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「殿、近江守がいる限り、一条は倒せませんぞ」
「わかっておる…儂に考えがあるのじゃ」
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-憑依の刻-
「お主は!長宗我部のモノかぁ!?」
立ち上がった少年は、男の持つ木の棒を即座に奪った。
「なんだ、この小僧、雰囲気が変わったぞ?」
棒を奪われた男は、少年の突然の豹変に、恐れおののいていた。
少年は、「積年の恨みじゃ!覚悟!」と叫び、男にあざやかな片手突きを呉れた。
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靄がかかったような感覚を振り払うと、うっすらと意識が戻ってきた。
ゆっくりと目を開けると、ぼくの目の前に、白い初老の侍の姿が浮かんでいたのだ。
侍の顔は、顔の下半分が全て髭に見えるほど、髭に覆われていた。
「お、お前はなんだ!?」
「なんだとはなんじゃ!?儂のおかげで奴を倒せたのに」
「奴ってあの男のこと?」
「そうじゃ。一突き呉れてやったら、逃げていったよ。小物じゃったわい」
「あ、あなたが男を倒してくれたんだね、助かったよ…」
「正確に言えばそれは違うのじゃ。実際に手を下したのはお主じゃからな」
「ど、どういうこと?」
ぼくは、質問の返事を待つより先に、侍の立派なその髭をそっと触ろうした。
髭があったら触りたいというのは、人間の本能ではないだろうか。
ちくっとした髭の感触が、ぼくの手に…
いや、感触はなかった。髭を触ることはできず、ぼくの手は、侍の髭を貫通したのだ。
ぼくは、目の前の侍の存在が信じられず、鈍い痛みが残る全身に鞭を打って、這うように逃げた。
しかし、逃げても逃げても、ぼくの目の前には侍の姿が浮かんでいたのだ。
「なんだよ、お、お前は…」
恐怖に震えたぼくは、せせりなくようにつぶやいた。
「お主は儂から逃げられんよ。儂はもう、お主に憑依しておるからな」
「ひょい?」ぼくはゆっくりと聞き返した。
「違う。`憑依`じゃ」
「ひょんい?」再度ゆっくりと聞き返した。
「違う。`憑依`じゃ」
「ひょひょいのひょい?」少しふざけてしまった。
「お主、ふざけておるのか!?」バレた。
「ヒェッ!ごめんなさい」怒鳴る侍は、威圧感があり、とてつもなく怖かった。
ぼくの体は、ブルブルと震えていた。
「そんなに怯えなくてもよい。儂も怒りすぎた」
「ごめんなさい。ぼくも悪かったよ。
それで、侍さんの名前はなんと言うの?」
「儂の名は…
いや、今は一条兼定様の家来とだけ伝えておこう。兼定様は亡くなってもう何百年も経つがのう」
「一条兼定?誰それ?」
ぼくはそう言って、ポケットの中に入っていたスマートフォンを手に取った。
「なんだそれは?」侍は訝しがる。
「これは、スマホだよ」
「スマホ?」
「なんでもわかる機械だよ。母さんが、連絡用に買ってくれたんだ」
そして、ぼくは一条兼定を調べた。ネット上には、決して良くはない評価が並べられていた。
「侍さん、言いづらいんだけど、兼定さんの評価、低すぎるよ」
「やはりそうか。しかし、あれは仕方がなかったのだ。長宗我部の...」
「長宗我部って、土佐の大名?」
「そうじゃが…これ以上、お主に話しても仕方があるまい」
「そっか…」
ぼくはそれ以上、侍さんに質問をしなかった。いずれ、侍さんの方から話してくれそうな気がしたからだ。
少し緊張感が解けると、ぼくはもう一度、宙に浮かぶ侍さんの顔をまじまじと見つめた。
厳しい目つきと、見事にくくられたちょんまげ頭と妙に見合う、髭、髭、髭。
ぼくはついつい、笑ってしまった。
「ふへへ…」
すると侍は、怒鳴ることはせず、柔和な表情で語りかけてきた。
「お主、笑えるじゃないか?」
「え?」
「この石碑に封印されているときから、お主の言動を見てきたが、お主はずっと険しい表情をしておったからな」
「けど、笑ったのは久しぶりかもしれない。ぼくの人生、あまりいいものじゃないから」
「何も寂しいことを言っておるのじゃ?
まだお主は若い。とにかく笑えばいいのじゃ。どんな時でも笑っておればよい。」
「でも、ぼくは、竹刀もろこうに握れないし、からっぽだし。イサミ、じゃなくてイセミだし…」
「周囲からの戯言を気にせずともよい!
お主は、自分の信じる道を貫ぬけばいいのじゃ。そんなお主を評価してくれる人はきっとおるのじゃから」
「ほんとかなあ?」
「ほんとじゃよ。
自分を信じて、支えるべき人を見つけるのじゃ。
たとえ、裏切られても、な。」
そう告げたときの侍さんの顔は、少し憂いを帯びていた。
その意味は、わからなかったが、侍さんは何か重いものを抱えているように思えた。
重いものを抱えていないと、何百年後に現れたりしないだろう。
そうして、ぼくと侍さんの奇妙な日々が始まった。