第62話 エルマ
薄暗い室内では、ところどころ漆喰が剥がれ落ちて、わずかに石造りの壁が露出しているものの、それ以外に目立った損壊や劣化は見当たらなかった。
その為、ラーナは”箱庭”の住人がいなくなってから数か月ほど経過していると予測を立てたが、実際には7か月の時が経過していた。
つまり、”箱庭”から住人達が姿を消したのは、ラーナが大森林へ向かうためにここを訪れた日の直後であった。
この事実を、アリアは”箱庭”に住まう家の精霊達から聞いた。臆病な彼らは、人外の気配を纏って帰って来たラーナから隠れるように、別の部屋の隅っこで身を寄せ合っていた。
正直、仕方のないことだと思う。いくらラーナが元この家の住人だったからと言っても、見た目ではなく、存在そのもので個人を特定する精霊たちからしてみれば、彼女は全くの別人なのだ。むしろ、”守護者”と呼ばれる彼女は、厳密な意味で人ではない。半神半人の存在だ。
でも、怯えた家の精霊達が部屋の隅で身を寄せ合っていたのには、もう一つ理由がある。
それは、アリア達の目の前に出現した、死と破壊の精霊の存在だ。
少女の姿をしたそれが、小首を傾げてラーナを見る度に、肩に触れるか触れないかという長さの髪が揺れる。時折肩に触れる濃い紅色の髪は、3分の1ほどの場所から毛先に向かって徐々にその色を失くし、先端にたどり着くころには完全な白髪となっていた。
ラーナはそれをエルマと呼び、それはラーナのことを”お姉ちゃん”と呼んだ。
悲痛な面持ちのラーナとは対照的に、うれしそうに微笑むエルマと呼ばれた死と破壊の精霊。通常では起こり得ないその光景にアリアが言葉を失っていると、ラーナがゆっくりと精霊語で口を開いた。
『……先生がいってた。死と破壊の精霊は決まった姿を持たない。なのに、なんでエルマなの?』
『それはね、ボクがそう願ったから。一つになろうって求めたボクは、この身体を精霊に与えたんだ』
安いものでしょ、とエルマが微笑む。その笑顔を直視できずに、ラーナは下を向いてギリッと奥歯を噛みしめた。
そんな二人を見つめながら、アリアは目の前で起きている事態を冷静に観察していた。ラーナも言った通り、死と破壊の精霊は決まった姿を持たない。しかし、だからと言って、人間が精霊をその身に降ろすなど自殺行為も甚だしい。
そんなことをしようものなら、宿主となった人間は死の恐怖に心を蝕まれ、恒常性を破壊されたその体は常に崩壊を繰り返す。通常であれば、数分と持たず宿主は消滅するはずだ。
だが、現実はどうだろう。エルマと言う少女は、死と破壊の精霊にその身体を明け渡してから7か月間、ずっとここにいた。想像を絶する恐怖と苦痛を常にその身に浴びながら。
――一刻も早く、この少女を解放しなければ。
ラーナも、死と破壊の精霊に身体を与えたエルマも、自分と同じサラの弟子だ。サラ先生の下で精霊魔法を習ったのならば、死と破壊の精霊の危険性も聞いているはずだ。だとしたら、エルマが自分を犠牲にしてこんな事をする理由など、一つしかない。
ゆっくりと呼吸を整えるアリアの脳裏に、過去の記憶が蘇る。
『アリア。死と破壊の精霊と言っても、別に悪いものじゃないのよ』
『どうしてサラ先生? 死と破壊の精霊は近くにいるだけで心を壊すんでしょ? とても怖いよ……』
『そうね。でも、彼等はあくまで精霊。具現化した自然現象なのよ。だから、恐怖の対象ではあるけれど、決して恐怖そのものではないわ。心を壊すのだって、それを受け取るこちら側の問題なの』
『う~ん。難しくてよくわかんないよ』
『姉さん、なんとなくなんだけど……死と破壊の精霊は誰かが死んで悲しいとか、大きな災害が起きて怖いってその感情を増幅させるのかもしれない。だから、その感情に心を飲まれてしまうかどうかは、わたし達次第なんだと思う』
『へええ……イーリスすごいわね。ちょっとだけど解った気がするわ!』
アリアとイーリスが幼いころ、予言者候補としてサラの下へ弟子入りさせられてから程なくして、幾人もの死者が出る事故が起きた。突然の自然災害に、アリアは恐怖を覚えるのと同時に、犠牲者たちの死を悼んだ。
……つまり、そういうことだ。
この場所で、命を失うような事件が起きたのだろう。勿論、何があったかは分からない。でも、深い悲しみと恐怖は死と破壊の精霊を呼び寄せた。それはサラなのかもしれないし、孤児達なのかもしれない。
――やるべきことは決まった。でも、その前に。
アリアは、目の前で見つめあうラーナとエルマに注意を向けつつも、軽く後ろを振り返ってシゼルとエルザの状態を確認する。精神汚染――悲しみと恐怖の伝播――が2人を蝕んでいたら大変だ。
見れば、エルザの顔は心なしか青ざめており、苦し気に眉をしかめてはいるものの無事な様だ。シゼルはというと、暖炉の付近に視線を彷徨わせており、まったく何も感じていないように見えた。
「シゼル! よく目を凝らして。黒い靄みたいなものが見えると思うわ。それが見えたら、私の影に入る様にエルザを連れて移動して」
「うむ。まかせろ!」
数秒の後、シゼルの「む!」と言う声が聞こえる。同時に、シゼルがエルザを支えるようにして、移動を始めた。
「ラーナ。死と破壊の精霊を自然に還すわ。……エルマって子も一緒に消えると思う。恨んでくれて構わない。その代わり、アルタナにはしっかりエルザにレクチャーするよう言っといて」
「感謝こそあれ、恨みなどしない。早く、エルマを解放してあげて。こればかりは、全ての精霊を支配下におけるあなたのほかに頼める者はいない。……あとは、”守護者”だなんて大見得を切ったんだ、私がエルマを抑えていよう」
それだけ言うと、ラーナは構えを解いてエルマの方へゆっくりと歩きだした。距離にして、ほんの数歩。瞬く間にラーナはエルマの正面に立つ。
――そして、黒髪の少女は慈しむように赤毛の少女を抱きしめた。
「よく……頑張った。エルマが逝くまで私が付いてる。さっき、遅いよって言ったけど、ホントだね。死と破壊の精霊をまき散らさない様に、ずっと一人で抑え込んでくれてたんでしょ?」
「あれ? バレちゃったんだ…… 悪い精霊になったつもりだったんだけどな」
「当たり前でしょ……私はエルマのお姉ちゃんなんだよ?」
「へへ……ありがと」
見上げるように言ったエルマが、ラーナの胸に顔をうずめて両腕をその背中に回した。刹那、ビクンとエルマの身体が震える。
「エルマ! もう何も言わなくていいから! このまま、待ってればいいから……」
「ダ……ダメ。もし、ラーナお姉ちゃんが……助けに来てくれたなら、伝えなきゃ、いけないことがあるの」
「私に……伝える?」
ラーナに抱きしめられたことで、緊張の箍が緩んでしまったのだろう。これまで抑え込んできた激痛がエルマの全身を襲う。精霊との繋がりに於いて、大事なのは精神状態の在り様だ。強力な意思で抑え込んでいた痛みと恐怖は、ほんの僅かな綻びから術者に牙を剥いた。
「死と……破壊の精霊を、呼んで、しまったのはサラ先生なの。どうしてかは、分からないけど、それはずっとサラ先生の中に……潜んでた。ラーナお姉ちゃんが大森林に行ってくるって言って、旅に出た次の日……うぁっ!……
「もういい! いいから……もうやめて!」
「ここからが、大事、……なんだよ。ヴィリー様の所へ、ヴァンが、お願いに行ってくれたんだ。ラーナお姉ちゃん、を、連れ戻してって。そしたら、突然、サラ先生の雰囲気が変わって、気が付いた時には、ヤンとグラードが……死んでた。そしたら、サラ先生が余計におかしくなって……ボクの目の前に、死と破壊の精霊がいたの」
息も絶え絶えに話すエルマは、既に自分の足で立っていられらない状態にあった。ラーナがエルマを抱き締めているからこそ立位を保てているだけだ。
一目でそうだと解りながらも、サラの名前が出た途端、アリアはエントの召喚を躊躇ってしまった。
もっとサラのことを聞きたい。今、あの人はどこで何をしているのか知りたい。アリアは自らの手を止めたその欲求に罪悪感を覚えながらも、それに打ち勝てないでいた。
「アリア! もう限界だ。エルマが消滅する前に早くエントを呼んで……お願い……」
ラーナの悲痛な声が響いて、ビクッとなったアリアが顔を上げた。涙目のラーナと目が合う。
エルマとして最期を迎える事が出来るチャンスをふいしようとしてまで、何をしてるんだ私は……
7ヵ月も前からこの状態のエルマに、一体これ以上の何を期待していると言うのだろう。
「ごめん。サラ先生の名前を聞いたら手が止まってた……」
一言詫びてから、アリアはゆっくりと両手をラーナとエルマにかざした。
そして、今度こそ精霊王エントを召喚しようとしたその時、エルマが再び口を開いた。
「あなたがアリアさん? あなたのことは、一度だけサラ先生から聞いたことがあるよ。もし、会うことがあったら、サラ先生から伝えてほしいって言われてることがあるんだ――
息を飲んで再び動きを止めたアリアを見て、エルマは苦悶の表情に、無理矢理笑顔を覆い被せた。
――すべての始まりは、”あの時”。ノルンに気を許さないで。……全部背負わせて、ごめんなさい」
言い終わると同時に、エルマの体が跳ねる様に痙攣を始めた。ラーナのエルマを抱く腕に、自然と力がこもる。
彼女がエルマでいられる時間は、もう殆ど残っておらず、一刻の猶予もない。
半ば叫ぶ様に、アリアは精霊語で呼びかけた。
『精霊王よ力を貸して! 死と破壊の精霊を自然に還すわ。光の精霊達! 彼女を……エルマを輪廻の輪に導いて……』
ラーナとエルマの足もとがじわりと光った後、2人を包む様に光の大樹が現れた。その中でゆらりと浮いたエルマの姿が、徐々に希薄になっていく。エルマの周りを光の精霊たちが踊る様に囲い、しばらくすると、その胸から黒い靄が浮き上がって霧散した。
黒い靄がすべて掻き消えた後、エルマからは苦悶の表情が消えて、ゆっくりと目を開いた。エルマは半透明の身体でラーナを抱擁すると、言葉にならない何事かを呟いて霞のように消えた。
嘘のように静かになった室内で、嗚咽しながら崩れ落ちるラーナをぼんやりと見つめながら、アリアはエルマの残したサラからの伝言を反芻した。
……まるで遺言だ。
そう思えてしまえば、否が応でも7年前の出来事がアリアの脳内にフラッシュバックする。
何度思い出し、なんの力もない自分に自己嫌悪したことか。全部忘れて、ただの冒険者として暮らしていけたなら、どれほど楽かと現実逃避もした。
でも、”あの時”のサラの言葉が耳から離れない。彼女が、ノルンの命令に背いて予言者ではなくなったあの日、サラはヴィリーに連れられて大森林を去った。
『最後に見た予言よ、アリア。どうしてかは分からないけれど、いずれ私はヴィリーを殺してしまう。その所為で、ヴィリーが世界を脅かす存在になった時、あなたと、あなたの”守護者”が私達を殺すわ。だから、お願い。私を許さないで』
つっ、とアリアの頬に一筋の涙が伝った。手の甲で乱暴に拭ってみるものの、涙は止まる気配を見せない。気が付くと、涙はとめどなく溢れて形の良い顎を伝って床に落ちた。
……こんなのは、自分がかわいそうな涙だ。過去に何度流したか分からない。
サラがいなくなった後、ノルンと交わした取引。新たに予言者となった妹、イーリスの身に関わるそれは、エルフを依代とする天上神ノルンによって口外を禁じられている。
本当は、天上神ノルンに気を許してはけないことなど、いまさら言われなくとも解っているのだ。
――なのに、私は何一つハンクに打ち明けてない。
大森林を出て冒険者になった本当の理由も、どうしてサラを探しているのかも、なんで出会ったその日に帝国へ行くといったハンクに付いていこうとしたのかも。全部。
だからこそ、ハンクに対して同じ思いを抱いていたラーナの言葉が、胸に刺さった。薬屋で聞いた彼女の言葉は、アリアがハンクに対して思った事とそのまま同じなのだ。
ハンクならば、サラもヴィリーも助けてくれる。そんな風に思わせる何かを感じるのだ。
「ホント、肝心な時に誘拐されていないだなんて、キミはバカよ。…………私を助けて、ハンク」
涙で歪む視界の中で、アリアが力なく呟いたその刹那。床一面に出現した巨大な魔法陣によって、アリア達4人はとある場所へと強制的に転移させられたのだった。




