第49話 勇者ヴィリー
ハンクがコルナフース城を出て、リン達の気配を頼りに広場へ向かおうとしたその刹那。城から少し離れた所にあるその広場で、漆黒の稲妻が一筋、天に向けて駆け上った。
どっしりと重く、そして劫火の如き怒りの感情をまき散らしながら上昇するそれが、ハンクの足を地面に縫い付ける。
(リンの気配が…… 最悪だろ! まさか、これがアルタナの言ってた暴走だってのか?)
普段のリンとはあまりにもかけ離れた気配に、ハンクは音を立てて唾を飲み込んだ。
つい先ほどまで、リンの気配はいつもと同じものだった。飄々として掴み処がない。そんな印象だ。
なのに、今は違う。
劫火の様な怒り放つリンを、強い憎しみと殺意が禍々しく飾り立てている。彼女の周囲は黒くべったりとした何かで塗りつぶされており、まるでコールタールの沼だ。もし、一歩でもそこに踏み込めば、何十倍にも増幅した重力によって、沼の底まで引きずり込まれてしまうだろう。
そんな印象を受けるその気配に、ハンクは1つだけ心当たりがあった。それは、ドルカスで戦った”冥王竜”ラダマンティスである。
もちろん、その時のハンクは気配感知を修得していなかったが、もしそれが出来ていたならば、きっと今と同じ感想を持ったはずだ。
それほどまでに、今のリンの気配は冥王竜と酷似している。だからこそ、ハンクにはこれが暴走だとすぐ解ったのだ。
――呆けている場合じゃないだろ! 急げ!
ハッとなったハンクが全力で駆け出した。
その脳裏に、リンの周囲にいるであろうハッシュ、シゼル、エルザ、イザークの顔が次々と浮かぶ。
彼等は普通の人間だ。当然、彼らがあの場所にいて命を保てる保証は無い。なにせ、リンを暴走させているのは、あの”冥王竜”の生命核なのだから。
もし、リンがその力に完全に飲み込まれていたなら、既に人の形は保っていないだろう。
なぜなら、その時はリンを核とした新たな冥王竜が顕現する時だからである。
とはいえ、今のところ広場へ向かって走るハンクの視界に、冥王竜の姿は映っていない。その事にハンクは胸を撫で下ろしてから、気配感知で周囲の状況を探った。
だが、ハンクはその結果をにわかに信じることが出来なかった。
気配感知は覚えたての技能なのだから、きっと間違っている。
そう思って、ハンクは再び気配感知を試すが、何度そんな事をしたところで結果は変わらない。
暴走したであろうリンから少し離れた所に感じるシゼルとイザークは、無事なようだが五体満足かどうかは不明。別の方向に感じるエルザの気配は、今にも消えそうだ。
信じたくはないが、彼女の命は危機的状況にあるのだろう。きっと、瀕死の状態だ。それでも、まったく希望がないわけではない。エルザの傍らに、見知らぬ清らかな気配――ヴェロニカの存在を感じる。
もちろん、ハンクはヴェロニカに会ったことなど無い。
しかし、先ほどハンクが自らに取り込んだイレーネは、ヴェロニカの双子の姉である。かすかに残るイレーネの意識が、それはヴェロニカだと教えてくれたのだ。
そして、最後はリンのすぐ近くで白く輝く気配。夜空で輝く北極星の様なそれは、勇者ヴィリーで間違いない。もちろん、この元凶も彼であるはずだ。そうでなければ、リンが暴走するはずなど無い。
きっと、リンが正気を失うような出来事があったのだろう。
とはいえ、それはハンクにとっても、1番認めたくない事実なのだ。なにせ、何処をどう探っても、ハッシュの気配を感じる事が出来ないのだから。
――だから危ないとあれほど言ったのに!
あの時、大森林でさっさと姿をくらませてしまえば、こんなことにならなかったかもしれない。よろしく、といって差し出された手を、冷たく払う事が出来ていれば…………
……でも、ハンクにはそれが出来なかった。
自分の甘さの所為だ。きっと大丈夫と、どこかで高を括っていた。
押し寄せる後悔に、ハンクはギリッっと奥歯を強く噛みしめた。
目の前に広がる市場だった瓦礫を回り込めば、リン達がいる広場に到着する。だが、悠長に石畳の上を走ってなどいられない。ハンクは舗装された石畳の上を走る事を止めて、広場のある方へ視線を向けた。
そこには、視界を遮るほどの瓦礫がうず高く散乱していた。
ハンクは、足場になりそうな瓦礫に目星を付けてから、一直線に瓦礫の上へと移動していく。
瓦礫の一番上まで駆け上ってから、ハンクは眼下に広がる広場へ薙ぐように視線を走らせて、状況を確認した。
……気配感知で得た情報と同じ光景だ。
最悪の状況を目の当たりにして、ハンクの胸の中でざわり、と怒りが膨れがった。同時に、それと同じくらいに膨らんだ罪悪感に伸し掛かられて、吐き気を催しそうになる。
「……勇者だから? 正義の為だから? ふざけんな! 正しかったらなんでも許してもらえるわけないだろうがっ!」
ハンクは怒りのままに叫んでから、広場の中央へ向かって全力で瓦礫の上を駆け下りた。彼の視線の先では、巨大な漆黒の狼が白髪の青年と、今も戦闘を繰り広げている。
そこでは、両者が激突するたび、ドス黒い殺意が黒い雷撃となって周囲へまき散らされていた。
何度目かの激突の後、巨大な漆黒の狼が大きく咆哮を上げた。それに合わせて、黒光りする雷を纏った何本もの小型の竜巻が出現し、白髪の青年を引き裂くべく大地を抉りながら彼に殺到していく。
だが、白髪の青年はそれらの竜巻を腕の一振りで掻き消すと、先ほど自身を拘束した黒い鎖で、今度は巨大な漆黒の狼を拘束した。巨大な漆黒の狼の身動きを完全に封じたところで、白髪の青年は上段に構えた幅広の直剣をその首元めがけて振り下ろした。
――刹那。甲高い金属音が響いて、ハンクの長剣が白髪の青年の幅広の直剣を受け止めた。
「……お前がヴィリーだな。リンは絶対に殺させない。もちろん、生命核を奪わせたりなんてさせない。イレーネだって、お前のために命まで差し出す必要なんて無かったんだ!」
青白く輝く燐光が周囲を満たす中、ハンクは2本の剣越しに白髪の青年を睨みつけた。
白髪の青年が周囲を満たす魔力の光を見て一瞬目を瞠り、その後、薄く笑いを浮かべて「その通りだ」と唇を動かしたのを確認すると、ハンクは怒りにまかせて全力で長剣を横に薙いだ。金属同士が擦れ合って、盛大に火花を散らしながら、ヴィリーを後方へと押し返す。
そのまま連続攻撃に移ろうとハンクが剣を握り直した瞬間、ヴィリーが剣を少し下して口を開いた。
「初めまして、といえばいいだろうか、現守護者よ。私の名前はヴィリー。ずいぶん前にアルタナとは袂を分かつ事になった元守護者だ」
ヴィリーは、目を見開いて驚きの声を漏らすハンクをその視界に収めて、くくっと喉を鳴らすように嗤ってから、左手に青白い燐光を纏わせた。
そして、これ以上の説明は必要ないとばかりに、ヴィリーはハンクに向かって一気に距離を詰める。
鋭い剣戟の音が何度か響いて、再び両者の剣が文字通り火花を散らす。
「お前と私は同じだ。ならば、解るだろう? アルタナ自ら、神に歯向かってもいいといったのだからな」
「そんなのが……大量の人間の命と引き換えにしていい理由になんかなるわけないだろ!」
怒りに任せて振るったハンクの斬撃は、隙だらけの大振りなものとなった。そこへ、狙いすましたかのようにヴィリーの蹴りが叩き込まれ、ハンクが後方に大きく吹き飛ばされる。
この世界へ転生して初めて感じる激痛に、ハンクが短く呻いて脇腹を抑えた。急いで態勢を立て直さなければ格好の的だ。追撃を貰うわけにはいかない。
ハンクは脇腹の激痛を堪えて起き上がり、正面のヴィリーを視界に収める。
だが、既に目と鼻の先にいて、幅広の直剣を振り被っていていてもおかしくないはずの彼は、そこにはいなかった。
ヴィリーは先ほどの場所で、拘束を破った巨大な漆黒の狼――リンと再び刃を交えていた。
「ダメだ、リン! 暴走したまま戦えば、生命核に全部飲み込まれるぞ!」
リンが未だ狼のような姿であるのは、彼女の生命核が冥王竜の生命核に完全に飲み込まれていない証拠である。それならいっそ、これ以上暴走が進まないように鎖で拘束されていてほしかったが、当人にそのつもりはないらしい。
直感でそのことを感じ取ったハンクが、リンに向かって叫んだ瞬間、青白い燐光が目の前をふわりとよぎった。
ハンクはそれに向かって反射的に手を伸ばし、触れる。
「ハンク! 騙されてちゃだめじゃないのさ!」
「彼はあくまでも勇者。守護者じゃない。剣をよく見て」
ハンクが青白い燐光に触れた瞬間、ビリッとした刺激とともに、ハッシュとリンの声が聞こえた。
――どうして?
ハンクは思わず虚空を呆然と眺めてから、ハッとなって漆黒の狼の気配を探った。すると、べったりとしたドス黒い気配の奥に、リンとハッシュの気配を感じる。
……どうしてかは解らないが、あの中にハッシュも混じっているらしい。
(暴走した魔王の懐に飛び込むとか、どこまでお人好しなんだよ……限度ってモンがあるだろ!)
ハッシュとリンは、消えてなどいなかった。まだ間に合うかもしれないのだ。
安堵と喜びの入り混じった感情が、胸に込み上げるが、今は彼らの助言を無駄にするわけにはいかない。
絶対に二人とも元に戻してやる。だから、今はヴィリーを何とかしなければ。
ハンクはヴィリーを見据えて、彼の気配をゆっくりと探った。
白く輝く北極星のような気配。もちろんそれは変わらなかった。だが、不思議なことに、それはヴィリーの手に持つ幅広の直剣から感じる。その幅広の直剣は、強大な力を持つ何かとつながっていて、ヴィリーはそのなにかから絶え間なく力を受け取っている。
――つまり、ヴィリーの持つ幅広の直剣は神器だ。
そして、その神器から感じる白く輝くような気配に、ハンクは覚えがあった。
「……そういうことかよ。 神様自ら”勇者”を動かしてたのかよ」
ポツリとつぶやくように言ってから、ハンクの心に再び怒りの感情が膨らんだ。それとともに、イレーネの言った、ヴィリーは現人神になろうとしているという言葉がすっと腑に落ちた。
”勇者”というくらいだから、きっと中身は天上神なのだろう。だとしたら、今までのことはすべて、”勇者のヴィリー”の仕業ではなく、”とある天上神”の仕業だったということだ。
正義の為なら、大勢の人の命など簡単に犠牲にする。大方、その理由は依代であるヴィリーに悪魔やドラゴンの生命核を吸収させて絶対的な神の器とすることだろう。だからこその”現人神”だったのだ。
……タチが悪いにも程がある。これでは、善神どころか立派な邪神だ。
「そこまでして地上に顕現したいのか……? お前らの居場所なんてここにはない!」
いったいどんな天上神かは知らないが、これ以上の問答は時間の無駄だ。持てる最大の魔法で、存在そのものを消し去ってやる。
ゆっくりと一つ深呼吸をしてから、ハンクは魔法を使うべく集中に入った。
――本当を言うと、この魔法を使うのには少し抵抗がある。
なぜなら、アルタナの試練によって、アイアタルへと姿を変えたラーナの体を灼いた時のことを思い出すからだ。とはいえ、自らの為に町一つを犠牲にし、イレーネの体を平然と串刺しにするような天上神を、このまま地上にのさばらせるわけにはいかない。
……人間は、彼らの戦争の駒ではないのだから。
ハンクはすっと目を細めて、対象を見つめた。狙うはヴィリーただ一人。
前回使用使用した時は相手の大きさに合わせて巨大なドーム状になったが、今回は違う。彼の周囲を何重にも張り巡らせた小型の結界で覆って、すべての事象変化をその中で完結させる。
完全に閉じられた場所の中で発生する魔力同士の対消滅は、結界内部のエントロピーを無限大まで増加させて、時空を歪めるだろう。
当然、そうなれば結界は内圧に耐え切れずに崩壊する。だが、ヴィリーがその手に持っているのは神器だ。
神器とは神の神威を現世に顕現させるための器である。
それはつまり、神器こそが神の世界への入り口にもなるということだ。結界内部で行き場をなくしたエネルギーは次元の歪みを通って神の世界へ送られ、あちら側にいる天上神本体を灼き尽くす。
魔法の構成は完了した。あとは、多重結界型対消滅魔法と魔法起動するだけだ。
慎重に狙いを定めて、ハンクが右手をヴィリーに向かってかざした。それと同時に、ハンクの足もとから青白く輝く燐光が周囲を満たしていく。
「自らの正義に泥酔したまま消え果てろ! 天上神!!」
ハンクがヴィリーに向かってそう叫んだ、その刹那。ハンクの目の前に白い神官服の女性が躍り出た。プラチナブロンドの髪を後頭部で纏めた彼女の双眸と目があって、ハンクは息を飲んだ。
色素が欠乏した紅い光彩――アルビノである。
彼女の容姿は、つい先ほど悪魔王としてハンクの前に立ちはだかり、最後には自身の生命核をハンクに託したイレーネ・フリージアと瓜二つだ。
つまり、彼女はヴェロニカ。イレーネの双子の妹で、エルザの姉。
呆然とその姿を見つめるハンクに、ヴェロニカが両手持ちの杖をかざして叫ぶ。
「ヴィリー様は絶対にやらせないわ! 彼はまだ、消えちゃったわけじゃないんだから!」
鬼気迫るヴェロニカのその言葉に、ハンクは頭部を金づちで叩かれたような衝撃を覚えた。
彼女はヴィリーが天上神に支配されていることを知っていて、その上で一緒の行動している。しかも、ヴィリー本人の人格はまだ消えておらず、ヴェロニカはそれを取り戻そうとしている。きっと、そういうことなのだろう。
状態だけのことを言えば、ラーナの体をアルタナが支配しているのとまったく同じだ。
このまま≪アナイアレイション≫を発動すれば、天上神もろとも、ヴィリー本人も消滅する。
圧倒的な力でもってすべてをすりつぶしても、そこのに残るものは後悔でしかない。
……これではラーナの時と一緒だ。
「じゃあ、どうしろっていうんだ! 自分の為に街一つ犠牲にして、イレーネまでもその手にかけて生命核にしようとした! そんな神様、存在する価値なんてないだろ!」
それは、と言葉に詰まったヴェロニカの顔が暗く沈んだ。
――最低だ。いい考えが浮かばないからといって、ただ当り散らしただけだ。
突き刺すような罪悪感に、ハンクが顔を歪めてヴィリーの方を見ると、彼は巨大な漆黒の狼に牽制の魔法を放ってから、ヴェロニカの隣へと移動した。
「よく彼を足止めしてくれた。さすがは我が聖女だ。あの魔法を食らえば、さすがに私といえど耐えられなかっただろう」
「……ありがとう、ございます」
ヴィリーは、苦しげに言葉を絞り出すヴェロニカを満足そうに見てから、ハンクの方へ視線を向けた。
「さて、守護者よ。貴様の言うとおり私は天上神だ。名をフレイという。主神が崩壊し、この世界での再構築に失敗した今となっては、私が天上神の長だ。ゆえに、今度こそラグナロクを勝ち抜き、冥界神どももアルタナも排除して、この世界を天上神のものとする。残念だが、この街もイレーネもそのための生贄なのだ。われらの礎となることが出来て、きっと彼女らも満足だろう」
「……そういうことを平気でいう正義の神様ってのには、心底吐き気がする。二度とその口を開かないでくれ」
憎々しげなハンクの視線を受け止めて、フレイと名乗った天上神が、ヴィリーの咽喉をくくっと鳴らして嗤う。
「それは残念だ。……最後に一つだけ教えてやろう。私はこれでも神だ。下らぬ嘘はつかぬ。この依代、ヴィリーが元守護者だというのは本当だよ。なあ、アルタナ」
フレイがにやりと顔を歪めて、ハンクの後ろへ向かって声をかけた。すると、ハンクの後方から聞き覚えのある少女の声が響く。
「ああ、その通りだ。ヴィリーは我が700年前に守護者とした男。出来れば、そいつも我に返してもらいたいのだがな」
咄嗟に振り返ったハンクの視線の先には、漆黒のバトルドレスを纏ったアルタナと、心なしか顔色の悪いアリアがいたのだった。




