第五話
「よう。美月」
反射的に美月は振り向いた。その名前を呼ぶのは今までただ一人だったから。
しかし、振り向いた先には、予想した男ではなくて。
「……誰?」
警戒心を剥き出しにした美月は乱れた浴衣のまま後退る。
「つれないな。この前、その綺麗なおみ足で庭に蹴っ飛ばした男だ」
「……ああ、この前の。変態小説家先生」
これでもかと言う程冷たい視線を碧にぶつける叶。真夏なのに、凍えそうな程の冷ややかさだった。『雪女か』と碧は思った。
「誤解だ。ちょっとパンツが見えそうになったから直そうとしただけで……」
「変態」
美月は変わらず冷たい視線で碧を見た。
碧は苦笑いして畳に座ると、紙袋を置いた。
「何?」
碧と距離を置いて、美月は訊いた。
「干菓子。和三盆。田舎では珍しいと思って」
訝しげな様子で美月は視線をやった。平然とした様子で碧はその視線を受け止める。
「甘い餌付けが効く程、私は子供ではないですよ」
美月は紙袋に手を出しかけて、引っ込めた。
それをどうしようか迷っている様子だった。菓子に興味はあるようだったが、碧の意図が読めないらしい。
「食えないなら、食わせてやろうか。口移しで」
「変態。私は、貴方みたいなのは嫌い」
「ハジメより俺の方が良い。。金もあるし、都会には詳しい」
少しの間。
じっと、互いに交した視線の力が、先程とは逆転した。碧は自信満々に。美月は弱気そうに。
「……ハジメ、が、あれを話したのですね?」
震える声で美月が問いかける。
「何、小説の取材にでもいらしたの? それとも、慈善事業?」
「どうだろうな?」
碧ははぐらかした。実際、自分でもまだどうしたいのかわからないでいた。
確かにこの少女に惹かれてはいる。しかし、都会に連れて行く程の価値があるかどうか。まだ、わからないでいる。
「和三盆、食べるかい?」
「……はい」
諦めたような様子の美月が、薄く唇を開くのに碧は気を良くした。紙袋の中の干菓子を一つ、指で摘まんで、その赤い口中に放り込んだ。ふいに触れた唇が熱くて柔らかい。
とろりと舌の上で溶けていく甘味を、美月は受け止めて瞼を閉じた。
「……甘い固形物は久し振りです」
「ジュースばかり飲んでいたのか?」
「……アイスは食べていました」
ぺろり、と美月の唇に触れた指を舐めて、碧は言った。
「お前の唇は、柔らかくて、温かい。お前は雪女のように冷たそうに見えたから」
「人間ですよ」
「知っている」
真っ赤になって俯く美月に比べて、平静そのものの碧。
碧は柔らかく微笑んだ。
「お前に一目惚れした。俺のものにしたいと言ったら、お前は笑うかな?」
「笑いますね」
「……はい」
どうやら、美月には、まだまだ警戒心があったようだった。
まあ、これから時間はたっぷりある。
と、碧は小説の〆切の事も忘れて、この少女をどう落とすかを考えていた。後は野となれ山となれ。なるようになるだろう。
それはまだ、碧にとって、一夏のアバンチュール(ただのゲーム)』のつもり、だった。
「やあ、美月」
「碧……また、来たの?」
面倒臭そうに美月は水を張った盥に脚を突っ込んでいた。その水をぱしゃり、と蹴って碧に掛ける。
碧は、軽く体をねじって避けた。くす、と笑って。ジャケットを正す。
「俺のお召し物は、随分と高い。田舎の子供のお前では弁償出来ない。気をつけろよ」
碧が軽口叩くのに、嫌そうな顔をする美月。
冷たい態度に関わらず、碧は薄く自信有り気に笑っていた。
そして、碧はさっと後ろ手に隠した手を前に差し出した。
一本の赤い薔薇の花。
それは、凛、と華やいで輝くようだった。
薔薇を見ても、美月の表情は変わらない。
「何。薔薇は食べられないから嫌いよ」
にべもなく、美月は一笑に付した。
「お前の雰囲気からすると、菊か百合だと思ったのだが、生憎、時期が外れている」
「それで、薔薇?」
ふん、と鼻を鳴らして小馬鹿にした表情を浮かべる。
「薔薇で口説けるのは、夢見る可愛げのあるお嬢さんだけ。私のような可愛くない子に薔薇など贈って、楽しい?」
「割と楽しい」
「馬鹿」
美月は吐き捨てるように罵倒したが、その声には、多少の含み笑いがあった。
これはいける、手ごたえがある、と碧は思った。ただの直観であるが、碧の直観はよく当たる。
「赤い薔薇は、お前の生き様だと思って」
「私の何がわかるの。貴方如きに」
嫌そうに言いながら、美月は白い手で薔薇を受け取る。
軽く弄んで、薔薇の花をくしゃりと握り潰した。
はらり。はらり。
水を張った盥の中に薔薇の花弁を浮かぶ。
美月は優雅とすら言える仕草で、盥の中の水を白い脚で掻き混ぜていた。
「薔薇の浴槽を好んだのは、誰でしたっけ?」
「クレオパトラだったかな。お前は、充分鼻が高い。経国の美女に劣らない。それとも、真珠を飲む趣味でもあるのか?」
「馬鹿」
「お前は、馬鹿としか言わない」
「ば、馬鹿!」
真っ赤になって馬鹿馬鹿と連呼する美月。年相応の少女らしく、ぷい、と不機嫌そうにそっぽを向いた。そんな事を言い合いながら、学はそれなりにあるのだな、と碧は美月を評価した。
恐らくは、教師を生業としているハジメの影響だろう。美月は学校にもろくに通えなかっただろう環境の割に、知識もあり、気品もある。
クレオパトラが真珠を飲んだ、程度の雑学はあるのだとわかれば、良いところのお嬢様のように扱ってやろうかと思う。実際、美月は深窓の姫君の様な所がある。
碧は何気なくを装って縁側に腰を下ろし、のんびりと手で自身を煽った。
「毎日、薔薇を贈って、夏祭りの頃には一つの豪華な薔薇のブーケに、と思ったのだが。お前は薔薇の砂糖漬けの方が良さそうだな。今度、都会から取り寄せようと思うが、なにせ時間がない」
は、と美月は花で笑った。
「女性に贈るのが薔薇だけしか思い浮かばないとか、馬鹿ではないですか? 今どき流行らない。古臭い。気障ったらしい。虫唾が走ります」
美月は、薔薇の浮いた水盥で涼みながら、つんと澄ました顔でそう言う。気紛れな猫、あるいは異国のお姫様のようだな、と碧は思った。
それとも、『高野聖』、とも思った。きっと、傾城の美女は、野生の中に洗練された魔性を秘めている。
やはり、この少女はこんな田舎に似合わない。此処から連れ出したい、と。碧は一瞬考えて、首を振った。
ああ、駄目だ。この少女に酔う。くすり、と碧は笑った。それが美月のお気に召さなかったのか、む、と頬を膨らませて、少女は白い脚を盥から蹴り出す。ばしゃり、と水が跳ねて、碧のジャケットに掛かった。それより目を惹くのは、柔らかそうな白い脚に張り付いた、薔薇の花弁。血のように生々しく。紅玉の様に艶やかに。美月の気品を損なう事無く、一種の装飾品の様に彩っていた。
「笑わないで」
と、美月は不機嫌そうに言った。「ああ、悪い」と、脚に見惚れていた碧は上の空で言う。
薔薇の香りのしそうな白い脚に、そっと口付けでもすれば、このお姫様は笑ってくれるだろうか。と、考えていた緑の顔面に水が掛かった。美月が蹴り飛ばした水だった。
くすくす。と美月は笑った。意外に、少女の表情は、笑うと酷く幼く変化する。
知的で上品かと思うと、年齢相応の幼さを見せるアンバランス。
美月の変化する容貌に、夢中になっているのに碧は気が付いて、はっとした。まさか、本気でこの少女に心を奪われ始めているのだろうか、と自問自答して。まだ、と心の中で答える。
そんな葛藤を誤魔化す様に、努めて碧は静かにしていた。
美月は淡々と言う。
「今度は、生菓子を持ってきて。それか、ジュース」
「また来て良いのか?」
虚を突かれた碧が呆然としている中、降ってきた美月の言葉に、反射的に笑顔で答えてしまった。
「私に言わせないで。馬鹿」
美月は長い脚でぱしゃり、とまた水を蹴った。
笑った顔が無邪気な子供みたいで、可愛いな、と碧は思った。
『いけない、これは本気になる』
そんな予感がする麗しい少女の笑み。お伽噺の王子が姫君に恋するのはこんな心境かと、内心舌打ちした碧だった。




