第四話
「痛い」
碧はとぼとぼと宿まで歩いて帰ってきていた。もう早くも日が暮れている。
美月に蹴られた脇腹が痛む。背中も打ったので、あちこち痛い。
「いきなり初対面の男を蹴るとは、なんと言う暴力的な少女だ……」
自分のやった痴漢行為を棚に上げて、碧は溜息をついた。
悪態を吐きながら宿に辿り着くと、主から来客を知らされた。
「俺は機嫌が悪いので、美少女ないし美女以外とは会わない……」
「やあ」
碧が言葉を継ぐ前に、来客が姿を現した。
「ハジメと申します。はじめまして」
辞儀をした男は、年は碧より少し年上か。
清潔そうな癖のない黒髪を短めにしていた。身長や体格は碧と同じ位。つまり、すらりとした長身のモデル体型である。
日が暮れても暑い夏場だと言うのに、黒のスーツを着込んでいて、それが涼しげにさえ見える。
切れ長の目は男にしてはいやに睫毛が長く、神経質そうな細い眉が弧を描いている。
そこに野暮ったい黒縁の眼鏡をしているが、全体的に洗練された雰囲気は片田舎には珍しい。
何処か、直近に見たような気がした顔立ちで、嫌気が差した。
「美月に振られたのでしょう、先生」
「美月?」
「叶美月です。離れの幼子」
「ああ」
応、とも否、とも答えなかったが、ハジメは苦虫を噛み潰したような碧の表情から状況を読み取ったらしい。苛立たしい碧の心情を煽るように唇を歪めて笑った。
「私は此処の高校の教師をやっていて、美月の生まれる前から知っているんですよ。所謂、幼馴染ですね」
「ふぅん」
ああ、そうか。
この男と美月は似ているのだ。と碧は納得した。
幼馴染となると、雰囲気が似る物なのだろうか。兄妹のようにそっくりだった。
「美月はね、私以外の大人の男は嫌いなのですよ」
「何故だ」
「興味がおありなら、どうです。一杯。飲める年でしょう?」
ハジメは手酌をする手つきをして見せた。
つまり、情報提供する代わりに何か奢れ、と暗に示しているのだ。
「……奢る」
「向こうの道に、良い飲み屋がある。少々高いが、人も少ない。そこにしましょう」
いけしゃあしゃあと言ってのけたハジメに、碧は嫌そうな顔を隠しもしなかった。
それを見て、ハジメは楽しそうに笑った。
「ああ、亭主。冷やで二杯。それと何かつまみを」
ハジメは勝手に注文すると、奥の席へと碧を手招いた。
「小説家先生」
「碧で良い。お前も学校の先生だ」
「では、碧さん。私の事はハジメで結構です」
「元からそのつもりだ」
ハジメは口元に手を当てて、けらけらと笑った。女のようで気持ちが悪いな、と碧は思った。
「碧さんは、美月に興味がありますか」
「……別に」
「あの美少女に一目惚れした、と顔に書いてありますけれど」
にやにや笑うハジメと、眉を顰めた碧。対照的な表情の二人の前に酒とつまみが運ばれてくる。
あの少女に似ている男と一緒に居る事に苛々する。早く用事を済ませて、帰りたい。
「美月が村の離れにいる理由ですけれどね。どうせ、誰かに訊けばわかる事です。余計な尾ひれが付く前に、私から話してしまいましょう」
ハジメはくい、と冷や酒を呷った。碧は手をつけないまま、じっとハジメを観察している。
「飲まないんですか?」
「酒は飲めない。十九歳だ」
「最初から言えば良いのに。意地っ張りな子ですね」
はあ、とハジメは溜息をついて、それから碧の酒を奪って飲み出した。
碧はじっと、それを眺めている。
「――酒が入らないと、話しづらい話か」
ぽつり、と碧は言った。それに、ハジメは苦笑いする。
「大人の逃げ口、って奴です」
肯定するハジメに、成程。と碧は頷いた。
ハジメはハジメで、碧がただの自称小説家でも無いと思う。
少しの沈黙の後、ハジメは話し始めた。
「……美月の母親はね。殺人者です」
「ん」
「それだから、美月は村八分にあっている」
「そうか」
だから、村の外れに一人で住んでいるのか。あんな幼い少女が、たった一人で。
「母親が殺したのは、美月の父親です。浮気がばれてね。妻に殺された」
「痴情の縺れか」
よくある話ではある。
しかし、あくまで都会では、の話である。都会ですら居づらくなる話。この小さな村では猶の事、居づらくなるだろう。そこまでして。
「居づらくなっても、美月はこの村に執着するのか」
「違いますよ。出られないだけです。貴方は村と言うのが分かっていない」
そうなのか。と碧は思う。都会で自由に生きて来た碧と違って、この小さな村の事を知っているハジメが言うのならそうなのだろう。
「碧さん。お願いがあります」
ぺこり、とハジメは頭を下げた。
「美月を、私の妹のようなあの子を。この村から連れ出してやって下さいませんか。美月は、このままだと苦しいだろうから」
「……お前がすれば良いのに」
「出来なかったんです。私が村を離れている間に起きた事で。……私には、傍にいてやる事しか出来なかった」
「……」
「あの子を守れなかった……。そして、今更村から出る勇気も私にはない。美月と二人、知らない場所でやり直す。何度考えた事か。それでも、私には失敗する未来しか見えなかった。――きっと、私達は、『家族』過ぎたから……」
「家族、では駄目なのか?」
「私は『知っている』事を、美月は『知っている』から。美月は村での出来事を思い出して苦しむだけです」
「……」
そんなものか。
碧にはわかった気がした。気がしただけかもしれない。
「村の外から来た貴方だけがあの子を救えるんです」
ハジメは泣きそうになりながら言った。
「お願いです。救ってやって下さい。可哀想なあの子を」
「……だからか」
碧の紡いだ言葉に、不審そうにハジメが眉を顰める。
「スーツ。上着は普段脱いでいるんだろう。皺一つない上に、樟脳の香りがする。しまっていた上着を着こんで、正装で俺に頼みに来る程、お前は美月に対して本気で思っているのだな」
「……」
ハジメは絶句した。その通りだったからだ。
碧は曖昧に頷いて、つまみの刺身をつついていた。
まだ碧は、あの少女に本気になるかどうか、決めかねていた。




