逃亡者
「はあ、はあ…」
俺は息を切らせながら走り続けていた。もうどのくらい走っただろう。
俺は数時間前からしつこい輩に追われていた。捕まったら金を取られて一巻の終わりだ。現在200mくらい間を空けているが、敵もさるもの、引き離されぬよう見失わぬよう後を付いてきていた。
電車にも負けない勢いで走る俺に対し、奴も恐ろしい形相で蒸気機関車のように追いかけてきた。駅前に差し掛かると人の数も増えてくる。俺はその流れに沿って、商店街や飲み屋街がある方へ駆け抜けた。
「待てっ」
後ろからそんな声が聞こえてくるが、逃げている時に「待て」と言われて待つ奴はいない。俺は全速力で人の群れの波に飛び込んだ。あまりの人数で歩道から溢れた人間の波は、本当の波の如く俺を後ろへ押し返そうとする。しかし、その効果は追っ手にも降り掛かり、奴も窮屈そうに前に進もうとしている様が見て取れた。俺はクロールの腕の振りで人を掻き分け、何とか隙間を確保した。目の前には横断歩道があり、白線の後ろに停車中の車が列を成している。歩行者用信号機が点滅し、赤に変わろうとしていた。俺は再度追っ手のもがいている姿を確認すると、横断歩道を駆け抜けた。渡っている最中に信号は赤に変わり、車が走り抜けて行く勢いが背中に伝わる。道路を挟んで奴が悔しげな表情をしているのを見て、爽快な気分になる。そのまま別の人混みに紛れ込み、身を隠した。
俺はようやく一息吐いた。尿意を催していたので、眼前のビルに入り、階段を上がって3階のゲームセンターのトイレに向かった。店内は混んでおり、機械音と人間の騒ぎ立てる音で耳が痛くなる程だった。俺は騒ぎには目もくれず、トイレの扉を押す。中には誰もいなくて、安心して小便器に体勢を構えた。
「ふう〜」
膀胱の荷も下りてすっきりした俺は、出口へ向かった。その時だった。
「見つけたぞ」
前方10m程の所に俺を追っていた男が立っていた。これではここを出る事など出来ない。俺は再度中へ駆け戻った。広いビルなので、ゲーム機を障害物にして、逃げ回る事は可能だ。何とか奥へおびき寄せ、隙を見て出口から抜け出るのが得策だろう。
作戦通り、奴は全速力で追って来る。俺は立っている人間にぶつかりながらも、慎重に奥へ逃げる。そして途中の大型ゲーム機を利用して方向転換。一気に出口目指して走った。
タッチの差で俺は出口を抜けた。しかも幸運なことに、奴は前につんのめって転倒した。俺はこの隙に階段を駆け下り、ビルの出口を目指した。幅広い階段を二段飛ばしで下る。
だが突然、眼前に何かが降ってきた。俺は慌ててそれをかわし、階段に尻餅をついた。
「何だよ…」
それは鉄製のゴミ箱だった。投げたのは奴だろう。隙間のある幅広の階段なので、上階から下の方が見て取れるのだ。そして物を落とす事も可能だ。呆然としている俺の耳に、階段を下りる音が聞こえてくる。俺は慌てて腰を上げ、再び階段を駆け下りた。
ビルを出た俺は駅を目指した。電車に乗ってしまえば、撒くことが出来ると思ったからだ。俺は駅前通りをひた走った。しばらく奴の気配は感じられず、走る内に駅が見えてきた。ラストスパートをかけようとしたその時、
「ハッハッハ〜ッ」
笑い声と共に一台の自転車が現れた。追っ手は自転車を盗んで先回りしたらしい。俺は自分の足に急ブレーキをかけ、反転して逃げた。だが相手は自転車、すぐに距離を詰めてくる。
「野郎、盗みまでして…」
俺は奴の執念に驚かされた。俺と奴との差はもうほとんどない。切羽詰った俺は、賭けに出た。車の流れを読み、横断歩道ではない車道を急いで横切った。
「うわっ!」
だが、死角からバイクが突っ込んできた。俺は何とかこれをかわそうと、身体をひねるが、バイクも同じ方向に避けようとして、我々は交錯した。
気付いた時、俺の周りに人だかりが出来ていた。そこにふらりと現れたのは追っ手の男。
「バカな奴だ。何にでもムキになる奴だったが…」
奴は呟くと、俺の身体に軽く触れた。
「それはお前だ。この野郎っ」
俺はすぐにやり返そうとしたが、奴に当たらない。
「鬼ごっこで死ぬなんてバカだよ…」
奴の目には涙が浮かんでいた。実は奴は俺の友人なのだ。そして俺達は街中で金を賭けた鬼ごっこをしていただけなのだ。それより死とは?
俺は自分の身体を改めてよく見た。なんと身体が透けているではないか。いや正確に言えば、俺の本当の身体は血塗れになって眼前にあった。俺はバイクに轢かれて死んでしまい、霊魂として浮いていたのだ。今の俺の存在に気付かぬ素振りで、奴は言う。
「でもこれでお前が永久に鬼だ。もう俺には触れないだろうからな…」
立ち去る奴の顔は心なしかにやけているように見えた。そんな奴に対し、俺は霊魂となった手で何度もタッチを繰り返すが、虚しく空を切るだけだった。
以前、新聞に投稿してボツになった、かなり昔に書いた作品です。




