第3話
外へ出ると、浴衣姿の人間が多くいた。葵達と同じく、このホテルに泊まっていて、火事から避難してきた人達だろう。
「大丈夫?私降りるよ?」
はぁはぁと荒く息をする葵を見て、彼女はそう言った。
葵はそれに答えず、救急車の方へと歩く。消防署には既に連絡がされており、何台も消防車や救急車が来ていた。
「すいません、この人、足を怪我しているんですけど……」
葵は救急隊員に声を掛ける。
「……わかりました。後はこちらで対処しますから」
怪我の状態を見て、女の子を葵の背中から降ろし、救急隊員はそう言った。そして、彼女を連れて、別の場所へと向かう。応急処置をする場所が用意されているのだろう。
「あなたは大丈夫ですか?怪我とかしていませんか?」
彼女を連れて行った救急隊員とは別の隊員が、優しそうな表情で、葵に問いかけた。
「僕は……」
大丈夫です、と言いかけたところで、葵の視界は揺れた。
「大丈夫かい!?」
救急隊員の反応は早く、ふらついた葵をきちんと支える。
「君、大事を取って病院に行ったほうがいいよ。乗って行くかい?」
救急隊員は言ってから、救急車のほうを見た。
「いいえ、僕は……両親を探さなくちゃいけないので」
「ご両親はどこに?」
「多分、まだホテルの中です……。子供とはぐれたっていう母親と一緒に男の子を探すって言うので、僕だけ先に逃げてきたので……」
逃げている途中で追い越されたりしていなければ、間違いなくまだホテルの中だろう。
「そうか……。まだ中にいるなら、後は消防隊に任せなさい。君じゃ危険すぎるからさ」
「でも……!」
反論しようとする葵に、救急隊員は少し厳しい口調で言った。
「なんて言おうと、俺は君を止めるよ。人の死にに行くのを救急隊員として止めないわけにいかないからね。このまま行かせちゃって、後で君が重傷になって俺の元に運ばれてきたら、俺はきっと悔やんでも悔やみきれないから」
そこまで言うと、さっきまでの優しい表情に戻り、言葉を続ける。
「それに君も一応病院に行っておいたほうがいいと思う。何か脳に悪影響が出ているかもしれないし、な?夏だって言ったって、夜中になるともう冷えるし、寒空の下待つよりはいいだろう?ご両親が逃げてきたら、ちゃんと君の居場所を伝えるからさ」
「……わかりました」
ようやく葵は納得して、救急車に乗り込んだ。
病院に運ばれ、とりあえず重篤な状態でないことを確認するため、脳の検査だけを受けた。残りの検査は翌日の昼に行うという医師の指示だった。葵が落ち着いて病室のベッドに横になった時には既に日付をまたいでいた。普段と違う落ち着かないベッドに眠れるか葵は少し心配だったが、肉体的疲労と精神的疲弊が勝ったのか、葵はあっさりと眠りに落ちた。
翌日。葵は照明の点灯という今までにあまり経験したことのない方法で覚醒させられた。
「体調どう?」
病室を見て回っている看護師が、葵のもとに来て訊いた。
「大丈夫です。特におかしなところはないです」
「そう。よかった。朝食は食べれそう?」
葵はうなずく。看護師がベッドのところまで食事を持ってきてくれた。
朝食は、いかにも病院食といった薄味のものだった。食べながら葵は小学校低学年の時に盲腸の手術で入院した時のことを思い出していた。
あの時は、退院した日に母親がケーキを買っておいてくれて、そのケーキがとてもおいしかったのを覚えている。
(今回も、退院したらケーキ買ってくれないかな……)
そんなことを何となく考えながら、顔を上げると、葵の向かいのベッドで、食事を摂りながらテレビを見ている六十歳くらいのおばさんの姿が目に入った。
そっか、テレビ見れば暇を潰せるなーー。そんなことを考えながら、テレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。
テレビの電源は入らなかった。原因はすぐにわかった。テレビカードがないからだ。病院のテレビは、テレビカードが無ければ見ることが出来ない。
「あっ……」
声をあげたのは、所持金がないことに気がついたからだ。財布も、携帯も忘れてきた……あのホテルの中に。
葵はため息を吐いた。
あまりにも暇すぎるので、対面のおばさんの見ているテレビを盗み見る。食事中のおばさんは、イヤホンをつけることをせず、テレビを消音にして視聴している。食事中にイヤホンのコードが邪魔になるからだろう。
葵は食事を終えても、正面のおばさんのテレビを見続けていた。理由は一つ。退屈だったからだ。だが、それももうじき終わりそうだ。眠気に襲われ、意識を手放しかけている。
あと、十分。その映像を見るのがあと十分遅ければ、葵は完全に眠りに落ちていただろう。
その映像一つで、葵の意識は完全覚醒状態までに引き戻された。
何かを考える前に、葵はベッドから降り、サンダルも履かずにおばさんのテレビへと駆け寄った。
「ちょっと……なに?」
あまりの出来事に、おばさんは嫌悪するというよりも、驚愕している。
「テレビ……」
「え?」
「テレビの音、出してもいいですか?」
おばさんは同室の他の患者と視線を合わせる。視線を振られた人は首をひねったり、戸惑った表情をしている。
「周りの人に迷惑になるでしょ?」
怒りではなく、諭すように言ったそのおばさんは、懐が深い人だったと言えるだろう。
「昨日、僕、この場に居たんです……!」
おばさんの視線は、葵からテレビへと移り、その眼は見開かれた。
「本当に?」
テレビには、火事になった、葵が昨日利用したホテルが映し出されていた。
『昨日、市内のホテルで火災がありました。消防隊が駆けつけましたが、建物は全焼。ホテルからは、このホテルの支配人夫妻の遺体と、女性二人の遺体が発見されたということです。行方不明者も二名いるということで、警察は行方を捜索しています』
葵の耳に、キャスターの声がはっきりと届く。
昨日の晩に、楽しそうに酒を煽っていた人が死んだというのも葵にとって衝撃的な事実だったりするのだが、それ以上に、不安が芽生えた。
女性二人の遺体――。そのどちらかが、自分の母親ではないか。
行方不明者二名――。その二人が、自分の両親ではないか。
「あなた……。大丈夫?」
葵の動揺がはっきりと伝わったのか、おばさんは心配そうな表情で葵を案じた。
「いえ、大丈夫です……。テレビ、ありがとうございました」
おばさんに必要最低限の感謝を伝え、葵はベッドへと戻る。
ニュースの映像とニュースキャスターの声が何度も脳内で再生される。
葵は心の中で、湧き出て来る最悪の想像と戦い続けていた。
「矢吹さん、検査行きますよー?」
しばらくして、看護師が葵を呼びに来た。
「はい……」
葵が初めて経験する検査も幾つかあった。本来なら不安を感じるところだろうが、そんなことはなかった、いや、正確に言うならば、不安はあった。しかし、それは検査に対する不安ではなく、先程から湧き出ている最悪の想像に対する不安だった。
そんな不安と闘っているうちに、検査は終わっていた。
「検査上は問題ないね。何か調子が悪ければ、また病院に来てください」
医者の言葉を聞き届け、葵は退院の運びとなった。
病衣から私服に着替えるため、病室に戻った葵のことを、待ち構えている人物がいた。
「矢吹葵君だね?僕は宮島智みやじまさとし。警察官だ。ちょっといいかな?」
私服へ着替え、退院手続きを終えて、葵は宮島に連れられ、警察署へと移動した。
「それで……逮捕……ですか?」
テレビドラマでよく見る取調室に案内され、椅子に座らされた葵は、開口一番そう言った。
「逮捕?どうして?」
真顔で訊き返す宮島だが、耐えられなくなったようで笑い始めた。
「違うよ。逮捕じゃない。少し話をしたいだけなんだ」
話を聞きたい、ではなく、したい、と宮島は言った。
「なんですか?」
平静を装うが、その声からは不安が滲み出る。
宮島は、言いづらそうに目をそらした後、呼吸を一度してから、言った。
「君のご両親……。行方不明なんだ」
「昨日の宿泊者の名簿と、発見した遺体の身元と生存者の名前を照合したんだけど、君のご両親だけが、見つからないんだよ。メディアには名前は公表しなかったんだけどね」
「そうですか……。ちなみに、女性二人の遺体って、誰なんですか?」
葵がそんなことを訊いたのは、両親が行方不明であるという現実から少しでも目を背けたかったからなのか。
「女性の遺体は、火元になった部屋に泊まっていた女性と、逃げ遅れた女性だよ。逃げ遅れた方の女性の名前は……橘っていったかな」
橘、その名に葵は聞き覚えがなかった。少しの間を空け、もう一つ訊いた。
「達也……。達也っていう名前の男の子は、どうなりました……?」
必死にあの時の記憶を思い出す。男の子の名前に間違いはない。
「達也くん……?亡くなった橘さんの息子さんのことかい?名簿では名字も一緒だし、確認も取った。ところで、どうしてそんなことを?」
橘さんの死は葵に衝撃を与えた。橘さんが亡くなったとなれば、一緒に橘の息子――達也のことを探していた自分の両親も、死んでいるのではないか。そんな予想が容易に立てられるからだ。葵はその衝撃に耐えながら、昨日の避難途中の出来事を話した。葵が両親と別れ、一人で逃げるまでの経緯を。
「そういうことだったのか。ご両親は、男の子を探すために……」
宮島は悲痛な表情になる。
「矢吹くん。ご両親の捜索はこれからも全力を尽くすよ。でもね、正直今すぐどうにかなるものではないんだ。君はこれからどうするつもりだい?頼れるなら親戚のところとか……」
親戚。この言葉に該当する存在は、葵には一人いる。叔母、母親の妹だ。
「叔母がいますけど、迷惑はかけたくありません。結婚が近いので」
「そうか。でも、一応は叔母さんのところに連絡しておいて欲しいんだ。その後の選択は君と、叔母さんの判断にまかせるよ」
宮島は言う。流石に叔母の家庭の事情までには口を出せないと思ったらしく、さらっと告げただけだった。
「一つ、お願いがあります。叔母の携帯の番号を調べて欲しいんです。携帯電話をホテルに置いてきてしまって……、連絡をしようにも番号がわからないんです」
電話帳機能の弊害ともいうべきか、携帯が無くなった途端、番号がわからず連絡もできないということになってしまった。
「わかった。確かにそうだよなぁ。住所はわかる?」
「大まかにはわかりますけど、正確には……」
叔母の住む賃貸マンションがある大まかな位置を告げた。宮島は聞くと、財布を取り出してその中から一万円を取り出した。
「ソコなら一万円あれば着けるはずだ。これを持って行きなさい」
言って、一万円を葵の手に握らせる。
「えっ……でも、申し訳ないですよ……」
「いいよいいよ。きっと経費で落ちる……と、いいなぁ……」
曖昧な発言に、受け取ることを躊躇ったが、何度かの問答の末、一万円と、宮島の連絡先と叔母の携帯番号を書いたメモを渡されて、宮島と別れた。
警察署前にタクシーを呼ぼうか、という宮島の提案を葵は断った。
叔母の家に向かう前に、行っておきたい場所があったからだ。
歩いて三十分。葵は全焼したホテルの前に居た。一度、見ておきたかった。
だが、結果として、心理状態は好い事にはならなかった。
鼻をすすり、涙を流す。止めようと思っても、それは止まらなかった。
生きているわけがない。そう思った。
全焼、という単語はニュースで何度も聞いたことがある。だが、現物を見たのはこれが初めてだ。骨組みしか残っていないその建物に、絶望以外何も感じなかった。黒焦げになった骨組。ホテル――だったもの――の背景には、海が広がっている。幼い頃にはその海に感動を覚えたが、今は絶望しか感じなかった。絶望の海がただひたすらに広がっている。
それを見ていれば見ているほど、心の中に重みが残されて行く。
両親の死。その想像が確信へと変わる。
逃げ出したい――。そう思って、建物に背を向けようとした時。
「キミっ!」
誰かが、誰かを呼ぶ声が聞こえた。
キミ、という人間を指し示す言葉。この場に、声の主以外の人間は葵しかいない。
自分が呼ばれていることを自覚して、葵が音源に振り向くと、そこには、火事の時に葵に背負われホテルから逃げた、彼女の姿があった。