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○Dos
あの場所。
そんな風に呼ぶ特別な場所が僕にはある。『あの場所』と呼ぶのは名前を思い出せないから。そう。僕はあの場所の名前を知っているはずなのだ。そんな風に知っていると確信していても思い出せないことがたくさんあった。
例えば、自分の名前。ディノというのは僕を産んだ両親が付けてくれたもの。ディノと呼ばれることに違和感があるわけではないのだが、ふとした瞬間それは自分の名前ではないのだと強く感じる。では何という名前なのかと聞かれても答えられないのだから困ったものだが。
冬が来た。リコマー村に雪は降らない。冷たい乾いた風が吹くだけ。山の上の方には少し雪が積もるけれど、平野部には風の向きによって山頂で降った雪が舞う程度。積もることは殆どなかった。
冬の冷たい風は好きだけれどその乾いた風は咳を促すから苦手だ。でも乾いた風によって空が澄んだように見えるのは好きだった。特に夜。夏でも空いっぱいに星はあるけれど、空が高くなる冬はもっと鮮明に美しく星が輝く。
好きと苦手で季節を評価すれば、僕は冬が一番良いと思う。春のように美しく花は咲かないけれど、夏のように緑は生い茂らないけれど、秋のように豊かな実りはないけれど、それでも冬という季節は安らかだ。
僕は何より冬の昼の空が好きだった。知らない筈だけれど知っている、でも思い出せない故郷を望めるから。
「見つけたわよディノ」
冬の空に望郷の意を馳せていると、いつの間にか耳に馴染んで振り返らなくても誰のものかすぐに分かるようになってしまった声が響いた。また君か、なんて穏やかに思いつつ空を見つめたままに返事をした。
「今日も来たのかい。君も懲りないね」
「当たり前じゃない。ねえディノ、あの場所へ連れて行ってちょうだい」
「それはできない。今日は特に冷える。風邪をひく前に早く家に帰ったほうがいいよ」
空から目の前まで来ていた彼女ーーカルディナに視線を移した。寒さで赤くなった鼻。肌が白いため尚更に目立つそれも、彼女の笑顔とともにあるとなんだか可愛らしい。
「わたしは健康優良児だから心配ないわよ。わたしのことより自分のこと心配したら?どうせ咳嗽の病治ってないんでしょ。ああ……ほら、こんなに冷たいじゃない。空を見るの好きなのは分かるけど自分の体も大切にしてよね」
「……!」
そっと触れられたのは左の頬。カルディナの手はとても温かくて、自分の冷たさに驚いた。でもそれ以上に触れられたこと、気遣いの言葉をかけられたことにひどく焦りを感じた。
「僕に、触れないほうがいいよ。僕の、僕は、悪魔だから。……ひとをふこうに、するんだ」
喉の奥がキュッと締まってうまく喋れない。言葉が震えた。なんて情けない姿だろうか。目の奥が熱くなって、言葉だけじゃなく全身が震えだした。
怖いこわいーーお願いだから僕を否定しないで……!
「馬鹿ね!ディノったら本当にお馬鹿!人は人を不幸に出来ないのよ。人は勝手に不幸になって、自分の不幸を認められなくて他人のせいにするの。わたしはわたしの意思で、ディノに会いたくて会いにきてるの!ディノの都合でわたしを勝手に不幸にしないで!!」
「カル、ディナ……ぼく、は」
ボロボロと涙が溢れる。頬を伝う涙は冷たくなりながら顎まで伝って、そして服に地面に落ちていった。
泣いたまま下を向いていると彼女の手が頬を包みこんだ。やっぱり温かい手。ゆっくりと顔を上げてカルディナと向かい合う。
「名前、久々に呼んでくれたわね。ああ、もう。そんな情けない顔をしないでちょうだい」
カルディナが優しく紡ぐ言葉の全てが僕の心を温かくする。
「大丈夫よディノ。わたしはあなたを否定しないから」




