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悪役令嬢は、黒猫だけを助けたはずだった

作者: くるみ
掲載日:2026/06/02

 義弟が屋敷に来た日、雪が降っていた。


 玄関広間の暖炉は赤々と燃えていたが、扉のそばに立つ少年の指先だけは、雪よりも白かった。

 濡れた黒髪。痩せた頬。薄い外套。泥のついた靴。

 そして、誰にも助けを乞わない目。


 その少年の名は、ルカ・アーヴェント。

 かつて王都で名を馳せたアーヴェント伯爵家の、最後の生き残りだった。


 私は知っている。

 この世界は、前世で読んだ小説によく似ている。


 私はエレオノーラ・クラウゼン。

 美しく、高慢で、冷酷な公爵令嬢。

 王国の第一王子、アルベルト殿下の婚約者でありながら、聖女に心を奪われた殿下を取り戻そうとして罪を重ねる、物語の悪役。


 そして目の前の少年は、やがて王国随一の魔術師となり、私を破滅させる義弟。


 小説の中の私は、彼を虐げた。

 食事を与えず、寒い部屋に閉じ込め、使用人たちに見下させ、ことあるごとに「裏切り者の血」と呼んだ。

 その結果、ルカは復讐のためだけに生きるようになる。

 そして最後には、夜会の場で王太子と聖女の側に立ち、私の罪を暴くのだ。

 それが、悪役令嬢エレオノーラの破滅だった。

 けれど、その未来を知っていたとしても、今の私には何も言えなかった。

 なぜなら、ルカが私を憎む理由は、あまりにも正当だったから。


 彼の両親は、反逆の疑いをかけられて処刑された。

 その摘発を主導したのは、私の父、クラウゼン公爵だった。

 真実がどうだったのか、幼い私には分からない。父は王命だったと言った。国家のためだったと言った。けれど、ルカの両親が死んだことだけは、紛れもない事実だった。

 そして父は、残されたルカを屋敷へ連れてきた。

 慈悲か、罪悪感か、それとも反逆派の残党をおびき寄せるための餌か。


 誰も、はっきりとは言わなかった。

 ただ、屋敷の者たちの目が語っていた。

 この子は客人ではない。

 家族でもない。

 敗者の血を引く、危うい火種なのだと。


「……その子を、いつまで玄関に立たせておくつもり?」


 私は扇を開き、わざと退屈そうに言った。

 使用人たちが、はっと顔を上げる。


「お父様が連れてきたのでしょう。ここで凍え死なれたら、クラウゼン家の外聞に関わるわ。湯を用意して。部屋も暖めなさい」


 ルカがこちらを見た。

 怯えではない。

 憎しみだった。

 幼い少年の目に宿るには、あまりに重い憎しみ。

 私は、その目を正面から受け止められなかった。


 窓の外へ視線を逃がすと、中庭の雪の上に、小さな黒い塊があった。


 黒猫だった。

 足を鉄の罠に挟まれ、噴水の陰で丸くなっている。白い雪の上に、赤い血がぽつぽつと落ちていた。

 庭師が眉をひそめる。


「鼠取りの罠にかかったようです。縁起の悪い黒猫ですし、すぐに始末いたします」


 その瞬間、ルカの指がかすかに震えた。

 私はそれを見てしまった。

 罠にかかった黒猫を、彼は自分のように見ていたのかもしれない。

 逃げられず、傷つき、誰にも惜しまれないものとして。


「馬鹿ね」


 私は扇を閉じた。

 庭師がびくりと肩を揺らす。


「この家の庭で血を流されたら、掃除が面倒でしょう。獣医を呼びなさい。罠を外して、治るまで納屋にでも置いておきなさい」


「ですが、お嬢様、黒猫は不吉だと」


「二度言わせないで」


 広間が静まり返った。

 黒猫が、かすかに鳴いた。

 そしてルカもまた、私を見ていた。

 その目には、まだ憎しみがあった。

 けれど、ほんの少しだけ、別の色が混じっていた。

 私はそれが怖くて、すぐに背を向けた。


 その夜、私は夕食を半分残した。

 銀の皿には、白いパンと、肉の煮込みが残っていた。


「口に合わないわ。下げて」


 料理長の顔が青ざめる。

 けれど私は、皿を下げるメイドにだけ聞こえる声で告げた。


「捨てるくらいなら、あの子にでも与えなさい」


 メイドが目を丸くする。

 私は不機嫌そうに付け加えた。


「ただし、床に置くのはやめて。犬ではないのだから」


 翌朝、ルカは礼を言わなかった。

 廊下ですれ違ったときも、ただ静かに頭を下げただけだった。

 その顔には、感謝などなかった。

 あるのは警戒と、憎しみと、困惑。


 当然だと思った。

 私の父は、彼の両親を死に追いやった。

 私の家は、彼の家を奪った。

 そんな家の娘が差し出す食事など、毒と変わらない。


 それでも彼は食べたのだろう。

 生きるために。

 憎むために。

 復讐するために。


 私は、彼の服に目をやった。

 袖は短く、肩は擦り切れている。靴も大きさが合っていない。


「その服、見苦しいわ」


 ルカの肩が、かすかに跳ねた。


「……申し訳ありません」


「謝罪など求めていないわ。公爵家の屋敷にいる者がそんな格好をしていると、私まで貧しく見えるの。誰か、この子の採寸を。今日中に仕立屋を呼びなさい」


 ルカは何も言わなかった。

 ただ、私をじっと見ていた。

 その目が言っていた。


 なぜだ、と。

 なぜ、お前はそんなことをするのだ、と。


 私は答えなかった。

 優しくする資格など、私にはない。

 謝る資格もない。

 ただ、彼をこれ以上傷つける側に回りたくなかった。

 それだけだった。


 数日後、黒猫は包帯を巻いた足で中庭を歩いていた。

 ルカは噴水のそばにしゃがみ、パン屑を差し出している。

 黒猫はしばらく警戒していたが、やがて小さく口をつけた。

 その姿は、ひどく似ていた。

 傷ついていて、飢えていて、それでも簡単には誰も信じないところが。


「その猫に情を移すのはやめなさい」


 私が声をかけると、ルカは立ち上がった。


「申し訳ありません。すぐに追い払います」


「誰が今すぐと言ったの?」


 ルカが瞬きをする。


「足が治る前に追い出して、また庭で死なれたら迷惑でしょう。治るまでよ」


 黒猫が、にゃあと鳴いた。

 まるで、私の言葉の裏側を見透かしたような声だった。

 ルカは少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


「猫に言われても困るわ」


「猫ではなく、僕が」


「聞こえなかったわ」


 そう言って、私は歩き出した。

 背中の向こうで、黒猫がもう一度鳴いた。

 そのあとに、ほんのかすかな笑い声が聞こえた。


 ルカの声だった。

 私は足を止めなかった。

 けれど、その声だけは、胸の奥に残った。


 それから、黒猫は屋敷に居座るようになった。

 使用人たちは追い払おうとしたが、そのたびに私は言った。


「鼠が出るよりはましでしょう」


「絨毯に毛が落ちる? なら絨毯を替えなさい」


「中庭で鳴くのがうるさい? あなたたちの噂話よりは静かだわ」


 そうして黒猫は、いつの間にか公爵家の中庭の主になった。


 名前はノワールになった。

 名付けたのはルカだ。


「安直ね」


 私が言うと、ルカは少し困った顔をした。


「では、姉上なら何と?」


「黒いのだから、黒猫でいいでしょう」


「それも十分、安直だと思います」


 思わず言葉に詰まった。

 ルカは初めて、私の前でほんの少し笑った。

 その笑みは、雪の日の彼とはまるで違っていた。

 けれど、笑ったあと、彼はすぐに目を伏せた。

 まるで、笑ってしまったことを恥じるように。

 まるで、私の前で気を許した自分を許せないように。


 私は気づかないふりをした。

 ルカが私を憎むのは当然だった。

 だから、私に笑った自分を責めるのも当然だった。

 それでも、私はずるかった。


 その一瞬の笑みを、嬉しいと思ってしまった。


 年月は静かに過ぎた。

 ルカは背が伸びた。

 声も低くなり、魔術の才は誰の目にも明らかになった。


 教師たちは彼を褒め、父はようやく彼を利用価値のある者として見るようになった。

 それでも、屋敷の空気は変わらなかった。


 ルカは家族ではない。

 クラウゼン家に置かれた、アーヴェントの生き残り。

 いつか牙を剥くかもしれない獣。


 使用人たちは、口には出さずともそう思っていた。

 だから私は、いつも命じた。


「ルカの部屋の火を絶やさないで。風邪でもひかれたら、こちらの管理不足になるわ」


「食事を運びなさい。育ち盛りの子どもが倒れると面倒よ」


「その本を禁書扱いにする必要はないでしょう。知識を奪えば、余計に愚かなことを考えるわ」


 全部、冷たい言葉だった。

 それ以外の言い方を、私は知らなかった。


 その頃の私はすでに、王太子アルベルト殿下の婚約者として、たびたび王宮へ呼ばれるようになっていた。


 茶会、式典、王妃教育。

 貴族たちは私を未来の王太子妃として扱い、父もまた、その立場をクラウゼン家の栄誉として誇っていた。


 けれど私は知っている。

 いつか殿下の隣には、私ではなく聖女が立つ。

 そして私は、婚約者という立場にしがみつく悪女として、すべてを失うのだ。


 王宮へ向かう朝、ルカは玄関広間で私を待っていた。


「姉上、今日も王宮ですか」


「ええ。王妃教育よ。退屈な礼法と、もっと退屈な歴史の講義」


「王太子殿下もいらっしゃるのですか」


「たぶんね。婚約者だもの」


 ルカは少しだけ目を伏せた。


「姉上は、殿下をお好きなのですか」


 私は手袋をはめる手を止めた。


「好き嫌いの問題ではないわ。婚約とは、家と家の約束よ」


「では、姉上の心は関係ないのですね」


「貴族の婚姻に、心ばかり持ち込んでも仕方ないでしょう」


 そう言った瞬間、ルカはなぜか痛ましそうな顔をした。

 それから、静かに言った。


「姉上は、ご自分のことにはいつも冷たいですね」


「私に温かくする必要がある?」


「あります」


 即答だった。

 私は驚いて、彼を見た。

 ルカはまっすぐに私を見ていた。


 雪の日の少年とは違う。けれど、傷の残った瞳は同じだった。


「僕には、あります」


 その声を聞いたとき、胸の奥がほんの少しだけ揺れた。

 けれど私は、いつものように扇を開いた。


「変な子ね」


 それだけ言って、馬車に乗った。



 ある冬の夜、ルカが高熱を出した。

 知らせを聞いた私は、寝間着の上に外套を羽織り、廊下を走った。


 彼の部屋は暗かった。

 暖炉の火は弱く、ベッドの上のルカは荒い息をしていた。

 そばにいたメイドが震えながら言う。


「お嬢様、医師を呼ぶほどでは」


「黙りなさい」


 自分でも驚くほど鋭い声だった。


「すぐに医師を呼んで。火を強くして。湯を。清潔な布も。今すぐよ」


 ルカが薄く目を開けた。

 熱に浮かされた瞳が、私を捉える。


「……どうして」


 かすれた声だった。


「どうして、そんな顔をするのですか」


 私は息を止めた。

 そんな顔。

 いったい私は、どんな顔をしていたのだろう。


 私は扇を持っていなかった。

 隠すものが何もなかった。


「あなたに死なれたら、寝覚めが悪いだけよ」


 ようやくそう言った。

 ルカは熱に浮かされたまま、かすかに笑った。


「やっぱり、姉上は嘘が下手です」


「熱で頭がおかしくなったのね」


「そうかもしれません」


 彼は目を閉じる。

 私はその額に濡れた布を置いた。


 手を離そうとした瞬間、彼の指が私の袖を掴んだ。


 弱い力だった。

 けれど、離れなかった。


「行かないでください」


 その声を聞いた瞬間、胸が痛くなった。


 私を憎んでいるはずなのに。

 憎まなければならないはずなのに。

 彼は熱にうなされながら、私を引き止めた。

 私は何も言わず、彼のそばに座り続けた。


 翌朝、ルカは熱が下がると、私を見てひどく気まずそうな顔をした。


「昨夜、何か失礼なことを言いましたか」


「いいえ」


 私は紅茶を飲みながら答えた。


「うなされていただけよ」


「そうですか」


「ええ。寝言で、黒猫の名前を呼んでいたわ」


「……ノワールを?」


「たぶん」


 本当は違う。

 彼が呼んでいたのは、私だった。

 けれど、それを告げるほど私は優しくなかった。

 いや、残酷になれなかったのかもしれない。


 ルカは窓辺に丸まっているノワールを見た。

 黒猫は何も知らない顔で尻尾を揺らしていた。


「姉上」


「なにかしら」


「僕は、あなたを憎むべきです」


 紅茶の香りが、急に遠くなった。

 ルカは窓の外を見たまま続ける。


「あなたの父は、僕の両親を殺した。あなたの家は、僕の家を奪った。僕はこの屋敷で息をするたびに、それを思い出します」


 私は何も言えなかった。

 言い訳など、できるはずがなかった。


「なのに、あなたは僕を飢えさせなかった」


 ルカの声は静かだった。


「寒い部屋に火を入れさせた。服を仕立てさせた。本を与えた。熱を出した夜には、医師を呼ばせた」


「……外聞のためよ」


「知っています」


 彼は苦しそうに笑った。


「僕は、その嘘が嫌いでした。優しいなら優しいと言えばいいのに、あなたは絶対にそうしなかった」


「だって」


 言葉がこぼれた。


「あなたは、私を憎むべきだもの」


 ルカがこちらを見た。

 その表情が、少しだけ歪む。


「そうです。憎むべきでした」


 彼はゆっくりと立ち上がった。


「今でも、憎めたらよかったと思うことがあります」


 胸が痛んだ。

 それは、私が聞くべき言葉だった。

 聞かなければならない言葉だった。


「それなのに」


 その声には、怒りがあった。

 私に向けられたものではない。

 彼自身に向けられた怒りだった。


「両親に申し訳ないと思いました。僕は、仇の娘を憎みきれなかった」


 私は彼を見上げた。

 少年だった彼は、いつの間にか私より背が高くなっていた。

 けれど、その目の奥には、あの日の雪がまだ残っている。


 消えない傷として。


「ルカ」


「はい」


「私を許さなくていいわ」


 ルカの瞳が揺れた。


「あなたが私を憎むことも、私の家を恨むことも、当然だもの。だから、無理に許そうとしなくていい」


 私は扇を握りしめた。


「でも、あなたが生きていることだけは、間違いではないわ」


 ルカは何も言わなかった。

 ただ、泣きそうな顔で私を見ていた。

 その顔を見て、私はまた後悔した。

 もっと上手に言えたらよかった。

 もっと優しい人間だったならよかった。

 けれど私は、悪役令嬢だった。

 だから、できることは限られていた。


「……それに」


 私は目をそらした。


「あなたが死ぬと、ノワールが鳴くでしょう。うるさいのよ、あの子」


 窓辺の黒猫が、抗議するようににゃあと鳴いた。


 ルカはしばらく黙っていた。

 それから、肩を震わせて笑った。

 泣いているのか、笑っているのか、分からない声だった。



 さらに数年が過ぎた。


 王宮で夜会が開かれる日が来た。

 私は知っている。

 この日は、小説の中で私が断罪される日だ。


 王太子アルベルト殿下は、聖女と呼ばれる娘を隣に立たせ、私に婚約破棄を告げる。

 私は嫉妬に狂った悪女として糾弾される。


 そして、ルカがその場で証言するのだ。

 エレオノーラは、かつて自分を虐げた女だと。


 それが、私の破滅の始まりだった。

 けれど今、ルカは私の隣にいた。

 黒い礼服をまとい、静かな目で広間を見渡している。


「姉上」


「なにかしら」


「怖いですか」


「まさか」


 私は扇を開く。


「私が怖がるように見える?」


「見えます」


「失礼ね」


「手が震えています」


 私は扇を握る手に力を込めた。

 ルカは少しだけ身をかがめ、私にだけ聞こえる声で言った。


「大丈夫です。僕がいます」


 その言葉に、胸が苦しくなった。

 小説の中で、彼は私を破滅させるはずだった。

 その彼が今、私を守ろうとしている。

 運命とは、なんて残酷で、なんて曖昧なのだろう。


 やがて、王太子が聖女を伴って現れた。

 広間の空気が変わる。

 アルベルト殿下は私を見て、高らかに言った。


「エレオノーラ・クラウゼン。君との婚約を破棄する」


 ざわめきが広がる。

 聖女が不安げに目を伏せる。

 王太子の側近たちが、勝ち誇ったように私を見る。


「君は聖女を害そうとした。嫉妬に駆られ、数々の嫌がらせを行った。公爵令嬢として、いや、人として許される行いではない」


 私は静かに息を吸った。

 何もしていない。

 そう言おうとした。

 けれど、その前にルカが一歩前へ出た。


「証拠を」


 低い声が、広間に落ちた。

 王太子の顔がこわばる。


「何だと?」


「クラウゼン公爵令嬢が聖女様を害したという証拠を、この場で提示してください」


 広間が静まり返った。

 ルカは淡々と続けた。


「侍女への買収。証言のすり合わせ。公爵家を失脚させるために作られた偽の書簡。すべて調べてあります」


 側近の一人が顔色を変えた。

 聖女が震える。

 王太子が怒鳴った。


「貴様、何の権利があって」


「権利?」


 ルカが微笑んだ。

 冷たい笑みだった。


「僕はアーヴェント伯爵家の最後の子です。かつて、証拠も曖昧なまま反逆の罪を着せられ、両親を処刑された家の生き残りです」


 広間がざわめく。

 ルカの声は揺れなかった。


「だからこそ、冤罪がどのように作られるのかを知っています」


 私は息を呑んだ。

 彼は、自分の傷を刃に変えていた。

 私を守るために。


「僕はかつて、クラウゼン家を憎んでいました」


 ルカは言った。


「今も、その罪が消えたとは思っていません。けれど、だからといって、今ここで無実の人間が悪女に仕立て上げられるのを見過ごす理由にはならない」


 彼の視線が、王太子を射抜く。


「あなた方が裁こうとしている人は、少なくとも僕を飢えさせなかった。僕が死にかけた夜、医師を呼んだ。罠にかかった黒猫すら見捨てなかった」


 こんな場所で、そんなことを言わないでほしかった。

 私はそう思った。

 けれど、喉が詰まって何も言えなかった。


「その人を悪女と呼ぶなら、証拠を出してください」


 ルカは静かに言った。


「出せないのなら、黙るべきです」


 その後のことは、よく覚えていない。


 偽証は崩れ、書簡は暴かれ、王太子の側近たちは次々に膝を折った。

 聖女は泣きながら、自分も利用されていたのだと訴えた。

 王太子は青ざめ、貴族たちはざわめき、夜会は断罪の場ではなく、醜聞の場となった。


 ただ一つ、小説と違ったのは。

 断罪されたのが、私ではなかったこと。


 夜会のあと、私は王宮の庭園に出た。

 冷たい夜風が頬を撫でる。

 足が震えていた。


 助かった。

 生きている。


 その事実が、なぜかすぐには信じられなかった。


「姉上」


 振り向くと、ルカが立っていた。

 月明かりの下で、彼の黒髪は夜に溶けている。

 その足元には、なぜかノワールもいた。


「どうしてこの猫まで王宮にいるの」


「馬車に乗っていました」


「あなたが乗せたのではなくて?」


「ノワールが勝手に」


 黒猫は当然のような顔で、私のドレスの裾に頬をすり寄せた。

 私はため息をついた。


「本当に、図々しい猫ね」


「姉上に似たのかもしれません」


「何ですって?」


 ルカは少し笑った。


 けれど、その笑みはすぐに消えた。


「姉上」


 彼は私の前に立つ。


「僕は、あなたを憎むべきでした」


「……ええ」


「今でも、両親のことを忘れたわけではありません。クラウゼン家の罪を、なかったことにするつもりもありません」


「ええ」


「それでも」


 ルカの手が、私の指先に触れた。

 ためらうように。

 けれど、逃がさないように。


「あなたが傷つくのは、耐えられない」


 胸が痛んだ。


「それは、愛ではなくて、混乱かもしれないわ」


「そうかもしれません」


「罪悪感かもしれない」


「それもあると思います」


「私に救われたと思い込んでいるだけかもしれない」


「思い込みでも構いません」


 ルカは苦しそうに笑った。


「僕は、ずっと自分を許せませんでした。仇の娘を憎みきれないことを。あなたの声を聞くと安心することを。あなたが僕を見てくれるだけで、生きていていいと思ってしまうことを」


 彼の声が、かすかに震えた。


「両親に申し訳ないと思いました。復讐だけを考えていれば、もっと楽だったのに」


 私は何も言えなかった。


「でも、姉上」


 ルカは私の手を握った。


「僕はもう、あなたを憎むためだけには生きられない」


 月明かりが、彼の瞳に揺れていた。


「あなたが僕の憎しみを消したわけではありません。罪を許したわけでもありません。ただ、その隣に、別のものを置いてしまった」


「別のもの?」


「生きたいと思う理由です」


 ノワールが、にゃあと鳴いた。

 まるで、その言葉に頷くように。

 私は思わず目を伏せた。


「私は、そんな立派なものではないわ」


「知っています」


「知っているなら、なぜ」


「立派だから好きになったわけではありません」


 ルカは静かに言った。


「あなたはいつも、不器用で、意地悪で、嘘ばかりでした」


「ひどい言い方ね」


「でも、その嘘で僕は生き延びました」


 彼の指が、私の手を包む。


「だから僕は、あなたの嘘ごと愛しています」


 息が止まった。

 逃げるべきだったのかもしれない。

 彼の感情は、きっと綺麗なものだけではない。

 憎しみも、罪悪感も、執着も、救われたことへの依存も、全部混ざっている。


 けれど、それは私も同じだった。

 殺されたくなくて、彼を助け始めた。

 でも本当は、雪の日の少年を見捨てられなかった。

 黒猫を助けるふりをして、彼の傷を見ないふりができなかった。

 私は悪役令嬢の顔をして、ずっと逃げていたのだ。


「ルカ」


「はい」


「私は、あなたの両親を返せないわ」


「はい」


「あなたの憎しみを消すこともできない」


「はい」


「それでも、そばにいると言うの?」


 ルカは私を見つめた。

 まっすぐに。

 逃げ場のないほど静かに。


「憎しみごと、そばにいます」


 私は小さく息を吐いた。


「重いわね」


「自覚はあります」


「直す気は?」


「努力はします」


「嘘ね」


「姉上には、隠し事ができません」


 私はとうとう、少しだけ笑ってしまった。

 ルカの目が見開かれる。

 それから彼は、泣きそうなほど嬉しそうに笑った。

 足元でノワールが丸くなる。

 黒猫は、まるで最初からこうなることを知っていたかのように、満足げに目を閉じていた。


「……本当に、黒猫だけを助けたつもりだったのに」


 私がつぶやくと、ルカが首を傾げた。


「僕は?」


「あなたは助けていないわ」


「そうですか」


「ええ。外聞が悪いから、死なないようにしていただけ」


「では、これからも外聞のために、僕をそばに置いてください」


「都合のいい解釈ね」


「姉上に教わりました」


 私は言い返せなかった。

 ルカは私の指先に、そっと唇を落とす。

 小説の中で、彼は私を殺すはずだった。

 私を憎み、裁き、破滅させるはずだった。


 けれど今、彼は私の手を取っている。

 憎しみが消えたわけではない。

 罪が赦されたわけでもない。

 ただ、その暗い感情の隣に、どうしようもなく温かなものが生まれてしまった。


 それは、きっと幸福と呼ぶには歪だった。

 けれど、不幸と呼ぶには、あまりにも優しかった。


 私は扇で口元を隠し、いつものように言った。


「別に、あなたのためではないわ」


 ルカは微笑む。

 私の嘘など、とっくに見抜いている顔で。


「はい、姉上」


 黒猫が、にゃあと鳴いた。

 白い月の下で、黒い尾がゆっくり揺れる。

 こうして、悪役令嬢として死ぬはずだった私の物語は終わらなかった。

 義弟に憎まれ、殺される運命も。

 義弟に愛され、赦されるだけの都合のいい結末も。


 どちらも、私たちには似合わなかった。

 私たちはきっと、これからも互いの傷を見ないふりなどできない。

 憎しみも、罪も、優しさも、愛も、すべて抱えたまま生きていく。


 それでも。


 あの日、雪の中で罠にかかった黒猫が鳴いたように。

 あの日、凍えた少年が私を見たように。

 私はもう、見なかったことにはできないのだ。


 だから私は、彼の手を握り返した。

 ほんの少しだけ。

 本当に、ほんの少しだけ。

 ルカはそれだけで、世界をもらったように笑った。


 困った人だと思った。

 困った愛だと思った。


 けれど、手を離す気にはなれなかった。

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― 新着の感想 ―
王太子一味も聖女も馬鹿だなぁ 冤罪ふっかけてる時点で詰んでるのに馬鹿だなぁ
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