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青へ還る夜

作者: 七宮叶歌
掲載日:2026/04/03

 私は今から、貴方の所へ行きます。


 海の中で藻掻く、藻掻く。酸素を求めようと両手を伸ばしても、空気に触れることはない。赤いドレスが海月のように戯れている。

 何故、私はこんな目に遭ったのだろう。最後に見たのは、確か私の恋人――レイシスの笑顔と星空だったはずだ。酷い睡魔の中でぼんやりと見ただけだから、定かではない。

 手足を動かす力もなくなり、水中を漂う。ああ、私はここで死ぬらしい。狭まっていく視界はホワイトアウトで幕を閉じられた。呼吸しなくても苦しくない。水の冷たさも感じられない。

 

 そうして目を開けてみれば、眼前にはレイシスの顔があった。


「アクシア、どうした?」

 

 柔らかな青の瞳は、あの時の彼ではないかのようだ。心臓が掴まれたように苦しくなり、両手で胸を押さえ付けてその場にうずくまる。


「誰か! アクシアが!」


 上手く呼吸ができない。何度も深い息を繰り返し、涙目で歪む床を見詰める。

 気が付けば、私はベッドの上で天井を眺めていた。


「大丈夫か……?」


 その声はレイシスのものだ。彼を信じてもいいのだろうか。返事をしていいのか分からず、口を噤む。


「今夜が……怖いのか?」


 言っている意味が分からない。震える肩を抱くと、私の額にレイシスの手が触れた。


「そう……だよな。あれを怖がらない人なんていない」


 レイシスは顔を歪め、もう片方の手で黒い横髪をクシャッと握り潰す。


「ごめんな。俺も後でアクシアを追いかけるから」


 その声は震えていて、今にも泣き出しそうだ。

 もしや、私が殺された当日に戻ってきてしまったのだろうか。それなら、私はまたレイシスの手で海に――。

 そんなのは嫌だ。心は拒絶するのに、身体が動いてくれない。身体がベッドに張り付いているようだ。何とかレイシスに背を向け、深呼吸を繰り返す。


「アクシア。眠っていれば怖くないし、苦しくないから。だからこれを飲んで」


 レイシスは錠剤を手に取ると、私の口元へと持ってくる。これを飲めば、もう後戻りできない。

 首を大きく振り、目を思い切り瞑る。しかし、男性の力には敵わず、口の中に異物が入るのが分かった。それは唾液に触れると一瞬で溶けていく。


「おやすみ、アクシア。愛してる」


 甘い言葉と共に、意識が朦朧としてくる。

 レイシス、私も貴方を愛しています。無意識のうちに、そんな言葉が頭を過ぎった。


 次に目を開けると、私は自室のベッドに寝かされていた。まだ殺されていない。不思議に思うと同時に、怖くなる。巻き戻る時間に終わりはあるのだろうか。いや、どちらにしろ私はずっと死の恐怖に取り憑かれたままだろう。

 拳を握り、奥歯を噛み締める。


「アクシア様」


 この声は私のメイド――サリサのものだ。私がむくりと身体を起こすと、サリサは青いドレスを翳してみせる。


「美しい青ですよね。私も見惚れてしまいました」


 まるで、深海のような青だ。一瞬だけ呼吸が苦しくなり、咳き込んでしまった。


「アクシア様、大丈夫ですか!?」


 サリサはドレスが床に広がるのを顧みず、私の背中を撫でる。そのドレスのひだが美しいと思ってしまった。

 この青を見ていると、心が穏やかになるのは気のせいだろうか。


「アクシア様?」


 サリサを困惑させてしまっただろうか。微笑んで首を横に振ってみせると、彼女はほっと片手を胸に当てた。

 ドレスに着替え、くるりと一回転してみる。青い裾が広がり、まるで魚のヒレのような軽やかさだ。


「朝食の準備ができています。レイシス様もお待ちですよ」


 レイシスの名に、心臓が飛び跳ねた。愛しているのに怖い。相反する感情に、自分でも戸惑ってしまう。

 時計を見ると、針が逆回転をしていた。想像を超えた事態に頭がふらつき、膝ががくりと折れる。頭が床と衝突する前に、意識は海の中へと潜っていた。


 青い中で、私は呼吸ができる。声も出せる。


「レイシス様、どこ?」


 手を伸ばしても、誰もいない。遠い昔に、私はこんな孤独に身を置いていたような気がする。命を落とそうとしている場所なのに、今は何も怖くない。


「レイシス様……?」


 やはり、私は海の中に置き去りにされてしまったのだろうか。胸が押し潰され、目頭が熱くなる。感情を引き裂かれるように、視界は灰色へと変わっていく。

 

「アクシア!」


 目を開けると、そこは薔薇園の中だった。異様に赤い薔薇に、思わず息が漏れる。春風が心地よく頬を撫で、甘い香りが鼻をくすぐる。

 心配そうに揺れる青い瞳が私の心を貫いた。


「痛むところはないか?」


 この光景には見覚えがある。薔薇を見ようと立ち上がった時に、テーブルに足をぶつけて躓いてしまったのだ。頭は打っていないし、膝もすりむいていない。

 何度か頷いてみせると、レイシスはにっこりと微笑んだ。


「怪我がなくてよかった」


 この頃、私は不安になったものだ。この幸せがいつまで続くのか、レイシスの瞳はずっと私を見てくれるのか。胸がざわつく理由は分からないのに、焦燥感ばかりが押し寄せていた。

 躊躇いながらもレイシスの片手を両手で握り締めてみる。すると、レイシスもまたその手を握り返してくれた。


「俺はアクシアの傍を離れないよ。君が何者であったとしても」


 私が何者か、そんなに重要なことなのだろうか。私はアクシアであって、それ以外の者ではないのに。首を傾げてみせると、レイシスは小さく声を上げて笑った。


「やっぱり、何でもないよ」


 その儚い笑顔が今にも消えてしまいそうで、胸がピリッと痛んだ。

 そこで眩暈に襲われ、頭を抱えてしまった。


「アクシア?」


 返事をしてあげたいのに、声が出てくれない。水に引きずり込まれるかのように吐き気を覚え、その場に突っ伏してしまった。


 時間は反時計回りする――。


 私は砂浜に倒れていた。波の音が聞こえ、青い空が目に映る。レイシスと出会った、全ての始まりの場所だ。


「人が……!」


 遠くから叫び声が聞こえ、足音も近付いてくる。


「大丈夫ですか⁉」


 身体を抱き抱えられ、ぼんやりとその人を見遣った。艶やかな黒髪に、海の底のような青い瞳――不思議と懐かしさを感じる。

 「大丈夫です」と口を動かした。それなのに、声が出てくれない。そうだ、私はあの時に声を奪われたのだ。

 遅れてやってきたもう一人の男性は、私の足に付いた大きな鱗を摘まみ上げた。


「人魚……?」


 虹色に輝く鱗を見詰めるその人の瞳は、怪訝そうに揺れている。


「人魚って……御伽噺の中だけでしょう」


 笑って軽くあしらうレイシスに、男性は首を捻る。


「君、名前は?」


 「サフィーです」そう言おうとして、口を動かす。しかし、喉は氷のように固まって動いてくれない。

 男性は眉間にしわを刻む。


「……とりあえず、屋敷に連れ帰るか」


「はい」


 この人はレイシスの家族なのだろうか。私の事情に家族のいるレイシスを巻き込んではいけない。決めたはずだったのに、想いは止められなかった。


 木の葉のような緑色のドレスを纏い、リビングに戻る。そこには何やらこちらに背を向けて話をしているレイシスと、先ほどの男性がいた。


「人魚だとしたらマズいぞ」


「どうしてです?」


「人間でいられるのは一年ほど、御伽噺の中ではな」


 そこで一度、間が置かれる。


「その後はどうなるんです?」


「海に戻らなければ死んでしまうらしい」


 そんな話は、私は魔女から聞いていない。ずっと人間でいられると、そう思っていた。

 ゆっくりと歩みを進めると、ヒールの音が鳴る。その音でようやく二人は私の存在に気付いたらしい。


「あ、君!」


「いつからいたんだ?」


 答えようにも声が出てくれない。口を結び、俯くしかなかった。


「……すまない」


 男性の声が響き、時計の音だけが鳴る。気まずい。私が何か喋れたらいいのに。それも叶わず、両手を握り締める。

 そこでレイシスが話を切り出した。


「君の名前を考えたんだ」


 名前と言われても、もともと私にはサフィーという名がある。新しい名前なんていらない。そう言おうとしたのに、レイシスは話を止めようとはしない。


「水を意味する『アクア』と、青を意味する『シアン』を混ぜて、『アクシア』。可愛い名前だろ?」


 だから、私の名はサフィーなのだ。反発しようと頬を膨らませると、レイシスが泣きそうな瞳で微笑むのだ。これでは納得する以外にないではないか。小さく頷いてみせると、レイシスはようやく晴れやかな顔で笑ってくれた。この時、私の中のサフィーは一度消えたのだ。


 私は人間に憧れていた。地上を自由に歩き回り、美しい足を持ち、誰とでも恋愛ができる。

 人魚はそうはいかない。地上では呼吸ができないし、足は鱗に覆われている。絶対数が少ないため、恋愛だってままならない。人間が羨ましい。唯一、身近にいた母の声も聞かずに、一人で魔女の元へと行った。


「声を出せなくなるけど、それでも人間になる?」


 声は人魚の武器だ。人間なんて、一声で恋に落とせると聞いたことがある。

 そうであったとしても、人間に会えなければ意味がない。

 私は迷うことなく了承した。人間という生物に幻想を抱きすぎていたのかもしれない。

 声の出せない私に、容赦なく噂話が飛び交う。


「あの人、砂浜で倒れてたらしいよ」


「えっ⁉ 不気味ー!」


 わざと私に聞こえるように言ってみせる。嫌味な瞳、上がった口角、どれもが私の頭を沸騰させた。

 その中で、レイシスだけが私に優しく接してくれたのだ。


 海の中に放り出され、足は鱗のついた赤いヒレへと変化していく。呼吸もできるようになり、視界も広がっていく。見慣れた海の中だ。


「レイシス様は……どこ?」


 彼は言っていた。「俺も後でアクシアを追いかける」と。きっと、海の中に身を投げたに違いない。

 必死にヒレを動かし、海の中を探す。すると、海面付近に人の姿があったのだ。


「レイシス様……!」


 このままではレイシスが呼吸できずに死んでしまう。涙を流しながらその身体にしがみつき、キスを落とす。

 すると、レイシスの足が青いヒレへと姿を変えたのだ。瞼がゆっくりと開き、青い目は私の姿を映す。


「アクシア?」


「よかった……!」


 改めて抱き着き、わんわんと声を上げて泣いてしまった。レイシスは私の髪に軽く触れ、震える声を絞り出す。


「俺も人魚に?」


「ごめんなさい。助けるには、こうするしか」


「……いや、これは俺が望んだことだから」


 レイシスは小さく笑い、私の身体を抱き返してくれた。私たちは、もう人間界には帰れない。魔女も、二度も魔法はかけてはくれないだろう。

 レイシスは家族を手放してまで、私を救ってくれたのだ。私も母の元へは帰らない。


「私の本当の名前は……ううん、何でもありません」


 親がくれたサフィーという名も、レイシスがくれたアクシアという名もどちらも捨てられない。首を横に振り、ようやく身体を離した。


「海の中を案内しますね」


 レイシスの手を取ると、前へと泳ぎ出す。サンゴや熱帯魚も心地よさそうに揺れる。泡の立ち上る音が私たちを優しく包み込んでいた。

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