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神獣の在るべき姿は〜不遇の王子に懐いたら、とことん溺愛されました〜  作者: 白凪珠希


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8_戦場の砦

 夜の空を背にしてそびえるその砦は、まるで大地から生えた岩の塊のようだった。高く厚い城壁は煤けた黒い石で積まれており、無骨で飾り気がない。美しさよりも、防御と戦闘を第一に作られたことが一目でわかる造りだ。


 近づくにつれ、城壁の上に立つ見張りの姿が見えてくる。


 松明の炎が揺れ、甲冑の輪郭を照らした。

 やがて、鋭い声が夜の空気を切り裂いた。


「アルディス殿下のご帰還だ!」


 その声は城壁の上を走り、砦の奥へと伝わっていく。


 重い鎖の音が鳴った。

 ぎり、ぎり、と軋む音を立てながら巨大な門がゆっくりと開いていく。厚い鉄板で補強された門は、まるで獣の顎のように口を開けた。


 門が完全に開いたときだった。


 砦の内側に並ぶ兵士たちの姿が、松明の光に照らし出された。


 黒い甲冑。

 同じ紋章。

 そして、揃った姿勢。


 二列に並んだ兵士たちが道を作り、その中央がぽっかりと空いている。


 帰還する主を迎えるための通路だった。

 屈強な兵士たちは微動だにしない。槍を持つ腕も、視線も、ぴたりと揃っている。

 その圧迫感に、イグニアは思わず息を呑んだ。


(……強い)


 戦場に立っていた騎士だったからこそ分かる。

 ただの兵ではない。

 訓練の質が違う。

 アルディスはその通路を、当然のような顔で馬を進めた。

 兵士たちの間を静かに通り抜けていく。

 その間、誰一人として声を出さない。

 ただ、主の帰還を見送るだけだ。

 砦の中に入ると、空気が変わった。

 石造りの建物が並び、地面は踏み固められた土だ。装飾などほとんどない。武器庫、鍛冶場、訓練場、兵舎。戦うために必要なものだけが整然と並んでいる。


 遠くでは、まだ夜だというのに鍛冶場の火が赤く燃えていた。


 鉄を叩く音が、低く響いている。


(……戦場の砦)


 思わずそう思う。


 騎士だった頃、いくつもの砦を見てきたイグニアでも、この場所の空気は特別だった。


 実戦を前提に作られた砦。

 無駄がない。

 その造りを、もっとよく見たくなった。


 気づけば、イグニアはアルディスの胸元から顔を少しだけ出していた。


 ふわりと夜風が毛を揺らす。

 その瞬間だった。


 近くを通った兵士の一人が、ぴくりと肩を揺らした。


 さらにもう一人。

 そしてまた一人。


 さっきまで微動だにしていなかった兵士たちが、明らかに視線をこちらへ向けている。


「……猫?」


 誰かが小さく呟いた。


「……猫だな」


 別の兵が返す。


 ひそひそと囁きが広がる。


 だが、それでも声は小さい。

 この砦の兵士たちは規律が厳しいらしい。

 それでも戸惑いは隠せない。


 ──なんなんだ、あの猫。


 そんな視線が、あちこちから向けられていた。

 アルディスは何も言わない。

 ただ馬を進める。

 やがて砦の中央へと辿り着いた。

 そこには、すでに人影が並んでいた。

 年配の侍女たちだ。


 十人ほどの女性が整列し、静かに頭を下げている。その中央には、白髪の老人が立っていた。

 背筋は伸び、所作は静かだ。

 仕立ての良い黒衣を身にまとい、落ち着いた眼差しでアルディスを迎える。

 老人はゆっくりと一歩前に出た。


 そして深く頭を下げる。


「ご無事のお帰り、何よりでございます。アルディス殿下」


 その声は穏やかで、年齢を感じさせる低い響きを持っていた。

 アルディスは馬から降りる。

 動きは無駄がなく静かだ。


「ああ」


 短く答える。

 老人は顔を上げた。

 その目は、主を確認するようにアルディスを見つめる。


 そして――ほんのわずかに、安心したように息を吐いた。


 その変化は、ごく小さなものだった。

 だが、長い年月を共に過ごしてきた者だけが見せる安堵のようにも見える。


 それを見た瞬間、イグニアは胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。


(……あ)


 この人は、アルディスの無事を本当に心配していたのだ。

 弟には嘲られ、その兵たちの前でも侮辱されていた。


 だからこそ、思ってしまう。


 この砦にも、きっと同じように冷たい目ばかりが向けられているのではないかと。


 けれど違った。

 少なくとも、この老人は――

 本当に、この人の帰りを待っていた。


 その事実に、なぜかイグニアの胸が少しだけ誇らしくなる。


 まるで、自分のことのように。


(……良かった)


 胸元の布の中で、イグニアは小さく身体を丸めた。


 アルディスは何も言わない。

 いつものように静かな顔のままだ。


 それでも。


 ここには、彼の帰りを待つ者がいる。


 そのことが、なぜだか――少しだけ嬉しかった。


 安堵するイグニアが視線を背後に並ぶ侍女たちへ移すと、そこでふと気づく。


 彼女たちの視線が、アルディスとエイダンの間を行き来している。


 まるで、何かを探しているようだった。

 そして。

 その表情が、ほんの少しだけ曇る。


 落胆。

 そんな感情が、わずかに浮かんでいた。

 どうやら、何かを期待していたらしい。


 イグニアは小さく首を傾げる。


(……まさか)


 神獣。

 その言葉が頭に浮かんだ。

 ここにいる人間たちは、きっと期待していたのだ。

 アルディスが神獣を連れて帰ることを。


 しかしそこでアルディスは淡々と告げる。


「神獣は、レグナスを選んだ」


 空気が止まり、誰も声を出さない。


 老人の眉が、わずかに動く。しかしすぐに元に戻った。


「……左様でございますか」


 ただ、それだけを言った。

 侍女たちの表情がさらに沈む。それでも誰も口を開かない。


 沈黙の中、アルディスは続けた。


「王都は騒がしくなる」

「……でしょうな」

「そのうち呼び戻される」


 老人はゆっくり頷いた。


「ですが今は、こちらが優先でございます」


 その言葉に、アルディスはほんのわずかだけ目を細めた。


「ああ」


 短い返事だった。

 しかしそこには、王都に対する諦めと、戦場への覚悟が滲んでいた。

 イグニアはそのやり取りを、胸元からそっと覗きながら聞いていた。


(警戒するような心配がなくて安心した……。まぁ、魔獣の気配が近いからそれはそれで警戒しなきゃならないけど)


 心配していたような事がなくて、安心したイグニアは胸元の布の中で小さく身体を伸ばした。

 ふわりと尻尾が揺れる。


 思わずアルディスの胸元に額をこすりつけてしまう。

 ぐり、と甘えるように顔を押しつける仕草だ。

 そんな自分の行動に、イグニア自身はっとする。


(か、身体が自然と……本物の猫のような行動をしてしまう)


 焦るイグニアだが、そもそも猫の姿をしているので今の行動に何の問題もないのだ。しかし、イグニアにとって男性に額を擦り付けるなど、貴族の娘として有り得ない行動に抵抗感がある。


 イグニアが一人悶々と頭を抱える中、額を擦り付けられた本人であるアルディスはわずかに視線を落とすが、何も言わない。


 ただ、そのまま歩き続ける。


 だがイグニアの小さな動きは、周囲の誰かの目に留まっていた。


 ふと、視線を感じる。


 顔を上げると――白髪の老人が、じっとこちらを見ていた。


 そして。


 イグニアと、目が合った。


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