7_神獣のいない国
──……夢だ。
ぼんやりとした意識の奥で、イグニアはそう思った。
身体が軽い。地面に立っている感覚もない。まるで水の中に浮かんでいるように、意識だけがふわりと漂っている。
どこか遠くから、かすかな音が聞こえてくる。
最初は何の音か分からなかった。
だが次の瞬間、それは空気を切り裂くような叫びとなって響き渡った。
『いやぁぁーーーーッ‼︎』
胸の奥が、強く揺れる。今の声は――知っている。
『嘘よ……そんなの、嘘よ……』
震える声が続く。
『姉さま……姉さまはどこなのッ⁉︎』
あれは──……私の妹だ。
視界がゆっくりと形を持つ。
見慣れた屋敷の広間。高い天井、大きな窓、厚い絨毯。幼い頃から何度も見てきた景色だ。
その中央に、妹──リゼリアがいた。
床に崩れ落ちるように膝をつき、肩を震わせている。長い髪が乱れ、涙で頬が濡れていた。
『嘘よ……姉さまが……そんな……』
声はかすれ、ほとんど息のようだった。
その隣で、母もまた床に崩れ落ちている。
『あぁ……そんな……』
母の声は震えていた。いつも凛としていた姿はどこにもない。両手で顔を覆い、ただ泣いている。
そして、その少し後ろに――父が立っていた。
動かない。
ただ一枚の書状を見つめている。
王家の紋章が押された、黒い封蝋の書状。
王都からの使者が持ってきたものだ。
父の手が、かすかに震えていた。
『イグニアは……』
低く、かすれた声がこぼれる。
『我が娘は……』
その言葉の先を、父は続けられなかった。代わりに答えたのは、使者だった。
黒い礼服の男が、静かに一礼する。
『……ご立派な最期でした』
その言葉が落ちた瞬間、妹の嗚咽が弾けた。
『そんな……そんな……ッ』
母は声を上げて泣き崩れ、使者は淡々と続ける。
『イグニア様は多くの民を救われました』
まるで事務的な報告のような口調だった。
『絶望的だった戦況を、ご自身の身をもって変えられたのです』
父の手から、書状が滑り落ちた。
乾いた音を立てて床に転がる。だが父は拾おうともしない。
ただその場に立ち尽くし、何かを失ったような目で虚空を見つめていた。
イグニアはその光景を見ていた。
手を伸ばす。
リゼリアの肩に触れようとする。
だが――触れられない。
指先は、空気をすり抜けていくだけだった。
(……やめて)
胸の奥で呟く。
そんな顔をしないでほしい。泣かないでほしい。
私は――
ちゃんと覚悟して、戦場へ行ったのだから。
それなのに。
目の前で、リゼリアが泣いている。
母が崩れ落ちている。
父が立ち尽くしている。
その全てが、あまりにも痛かった。
(……やめて)
声にならない声が胸の奥でこぼれる。
(そんなに悲しまないで)
だがその願いは、誰にも届かない。
リゼリアの涙で濡れた瞳が、王家の使者をまっすぐに睨みつけると、広間に悲痛な叫びが響いた。
『どうして姉さまを戦場に送ったの⁉︎』
『リゼリア』
母が慌てて妹の腕を掴む。
だがリゼリアはそれを振り払った。
『そもそも……この国に神獣様がいれば、こんなことにはならなかったのに‼︎』
『おやめなさい! リゼリア!』
母の声は震えていた。
それでもリゼリアは止まらない。
胸の奥から溢れ出る怒りと悲しみを、もう抑えきれないのだ。
『それか、神獣様がいらっしゃる国に援軍を求めておけば……!』
声が掠れる。
『姉さまが……姉さまが帰って来られなくなるなんて……』
唇が震える。
『返してよ‼︎』
叫び声が広間に響いた。
『姉さまを返してよ‼︎』
涙がぽろぽろと溢れ落ちる。
『神獣様がこの国にいないのは王家の――』
『それ以上言うな! リゼリア!』
鋭い声が広間を震わせた。
父だった。
これまで一言も口を挟まなかった父が、初めて声を張り上げたのだ。
その声には、怒りというよりも――必死に何かを押し殺しているような響きがあった。
リゼリアの言葉が、そこで止まる。
だが涙は止まらない。
大粒の涙が、ぽろぽろと頬を伝い落ちていく。
イグニアは、その光景を見ていた。
──……やめて。
胸の奥で声が漏れる。
──……もう、悲しまないで。
手を伸ばす。
リゼリアの肩に触れようとする。
だが指先は空気をすり抜けるだけだった。
届かない。何もできない。
リゼリアは涙で歪んだ顔のまま、力無く呟く。
『王家の方々のせいよ……』
その声は、怒りよりも――
ただ、どうしようもなく悲しかった。
────……
意識がふっと浮かび上がる。
身体を揺らす規則的な振動に、イグニアはゆっくりと目を覚ました。布に包まれたまま、胸元の中で小さく身じろぎする。馬の蹄が地面を叩く音が、夜の静けさの中に重く響いていた。
どうやら、また馬を走らせているらしい。
眠っている間に、かなりの距離を進んだようだった。アルディスの胸元からそっと顔を出し、イグニアは周囲を見渡す。
そこで、すぐに気づいた。
(……ここが)
胸の奥で、言葉が浮かぶ。
(黒の領土)
その名は、神殿でエイダンが口にしていた。
黒の領土。
名前を聞いた時点で、ある程度の想像はしていた。だが、実際にその土地を目にしてみると――それは見慣れた光景だった。
大地は痩せている。
月明かりに照らされた地面はひび割れ、ところどころ黒く焼け焦げたように変色していた。かつては森だったのだろう。枯れた木々の幹が、まるで墓標のように立ち並んでいる。
葉のない枝が、夜風に揺れてきしむ。
遠くから、低い唸り声のようなものが聞こえた。
イグニアの耳がぴくりと動く。
(……魔獣)
その気配は、すぐに分かった。
完全に近くにいるわけではない。だが、この土地には確かに魔獣がいる。闇の中に潜み、どこかでこちらを窺っているような気配だった。
普通の土地ではあり得ない空気だった。
冷たい風が吹き抜けるたび、乾いた土の匂いと、どこか焦げたような臭いが混ざる。
イグニアは黙ってその光景を見つめた。
(……そうか)
胸の奥が、重く沈む。
この土地を見れば分かる。
神獣のいない国が、どれほど過酷な場所になるのか。
神獣はただ王を選ぶだけの存在ではない。神の加護を宿すその力は、魔獣を退け、土地を守り、人々に安寧をもたらす。
そして――この国にも神獣はいなかった。
だからこそ、この土地は魔獣に侵されている。
だからこそ、兵士たちは命を賭けて戦わなければならない。
だからこそ――
自分は、戦場に立った。
『この国に神獣様がいれば、こんなことにはならなかったのに‼︎』
リゼリアの叫び声が木霊する。
(……あれは)
本当にあった出来事なのだろうか。
胸の奥で、静かに痛みが広がる。
その時だった。
「……起きたのか」
アルディスの低い声が降ってきて、はっとしてイグニアは顔を上げる。
アルディスは前を見たまま馬を走らせている。仮面に覆われた横顔は相変わらず表情が読めないが、その声はどこか落ち着いていた。
「着いたぞ」
短く言う。
その言葉に、イグニアは前方へ目を向けた。
暗闇の向こうに、ぼんやりと影が浮かび上がっている。
城壁だった。
岩山の斜面を削るように築かれた、巨大な石の砦。黒ずんだ城壁は夜の闇と溶け合い、まるで大地そのものが牙を剥いているようだった。
高い見張り塔には松明の火が揺れている。
砦の周囲には粗い木の柵が幾重にも張り巡らされ、その外側には魔獣避けの杭が打ち込まれていた。長く鋭い鉄の槍が、地面から斜めに突き出している。
明らかに戦場の前線だった。
王都の華やかな城とはまるで違う。
守るための場所。
戦うための場所。
そんな砦だった。
アルディスは視線を前に向けたまま言う。
「砦に戻ったら」
ほんの少しだけ声が柔らぐ。
「温かいミルクを用意させる」
イグニアは思わず瞬きをした。
砦までは、まだ少し距離がある。
だが月明かりの中で、その巨大な砦は確かにそこにあった。
黒の領土を守る、アルディスの砦が。




