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神獣の在るべき姿は〜不遇の王子に懐いたら、とことん溺愛されました〜  作者: 白凪珠希


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6_焚き火

 神殿の外へ出ると、夜だった。


 石造りの階段の先には、広い空が広がっている。高く澄んだ夜空には星が瞬き、冷たい風が神殿の柱の間をすり抜けていた。静まり返った境内には、遠くで揺れる松明の火がぽつぽつと灯っている。


 イグニアは胸元からそっと顔を出した。転生してから、初めて見る外の世界だった。


 暗闇に目を凝らし、周囲を見回す。建物の造り、石の積み方、遠くに見える城壁の輪郭。ほんの少し眺めただけでも、すぐに分かった。


(……やっぱり)


 ここは、自分の国ではない。

 空気が違う。匂いが違う。肌でわかるのだ。


(別に期待してた訳じゃないけど……)


 そう思いながらも、胸の奥がわずかに沈む。


 神獣として生まれ変わった今の姿を、前世の家族や部下たちに見せられるはずもない。それでも――一目だけでもいい。


 彼らが無事に生きている姿を、確かめたかった。

 小さく息を吐くと、イグニアは視線を前へ向けた。


 神殿の出口のそばには、二頭の馬が繋がれている。どちらも立派な体格の軍馬で、月明かりを受けて黒い毛並みが静かに光っていた。


「……やっと帰れる」


 ぼそり、と兵士が小さく呟く。


「まったく、神殿なんてろくな場所じゃない。あのレグナス殿下の顔見せだの儀式だの――更にはこっちをゴミカスのように見る目……嫌になるぜ」


 ぶつぶつと文句を垂れている。


 そこでイグニアは、ふと気づいた。


(……あれ?)


 視線を周囲へ巡らせる。兵士の姿は他に見当たらない。


(アルディスの護衛……この人だけ?)


 さっきまで神殿の広間には、レグナスの周囲に大勢の兵士がいた。神官や騎士も含めれば、軽く十人以上はいたはずだ。


 だが、アルディスのそばには――この兵士しかいない。


(そういえば……)


 思い返してみる。


 神殿の中でも、アルディスのそばに他の兵士は見かけなかった。

 イグニアは小さく眉をひそめる。

 兄弟の立場が違うとはいえ、あまりにも差がありすぎる。


(いくら兄弟仲が悪いって言っても……)


 あれは明らかに「仲が悪い」程度の問題ではない。


(どうしてあんなに弟ばっかり優遇されてるんだろう)


 疑問を抱きながら、イグニアはアルディスの顔を見上げた。


 その表情は――冷たい。


 先ほどイグニアに向けていた、あの柔らかな表情はもう消えている。仮面越しの紫の瞳は静まり返り、まるで何の感情も浮かんでいない。


 別人のようだった。


 その時。


「エイダン」


 低い声が響く。


「口を閉じろ。耳障りだ」


 ぶつぶつ文句を言っていた兵士が、びくりと肩を震わせた。


「は、はいっ!」


 慌てて背筋を伸ばす。

 さっきまでの不満げな態度は跡形もない。


 アルディスの声音は、驚くほど冷たかった。

 その一言で、空気がぴたりと凍りつく。イグニアの耳がぴんと立った。


(……さっきと全然違う)


 胸元の中で小さく身を丸める。

 だが次の瞬間、アルディスの手が胸元へ差し入れられた。


「……馬に乗る」


 淡々とした声だった。


「外は寒いからな」


 指先が、そっとイグニアの体に触れる。冷たい夜風を遮るように、柔らかい布で優しく覆われ、布の温もりがふわりと体を包んだ。


 そのまま再び胸元へ戻される。


 位置を整えると、アルディスの指がイグニアの頭をゆっくり撫でた。


 その手つきは、驚くほど優しい。まるで壊れ物を扱うようだった。


「暴れて落ちるなよ」


 小さな声。誰にも聞こえないほどの、低い囁き。


 イグニアだけに向けられた言葉だった。思わず瞬きをする。


(……この人)


 さっきまで兵士に向けていた冷たい声と、今の声はあまりにも違う。

 アルディスは何事もなかったかのように馬の手綱を取る。

 その背中は相変わらず静かで、近寄りがたい雰囲気をまとっていた。だが、胸元の中のイグニアは知っている。


 この人が、ほんの少しだけ――優しいことを。


 イグニアは布の中で小さく体を丸めた。


(……不器用な人)


 そう思いながらも、胸の奥がほんのり温かかった。


 神殿を去ってどれほどの時間、馬を走らせただろうか。


 最初のうちは、イグニアも胸元の中で必死に踏ん張っていた。だが、やがて身体を揺らす規則的な振動と、布に包まれた暖かさが妙に心地よく感じられてくる。


 馬の蹄が夜の道を叩く音が、遠くから響いてくるようだった。


 ドッ、ドッ、ドッ――。


 揺れは決して小さくない。それでもアルディスの胸元は思いのほか安定していて、時折、彼の腕がそっと布越しに支えてくれる。

 その度に揺れが和らぎ、イグニアの身体は自然と力が抜けていった。


(……案外、快適)


 そんなことをぼんやり思ったのを最後に、イグニアの意識はゆっくりと沈んでいった。




 ――パチ。


 小さな音が、闇の中で弾ける。

 パチ、パチ、と続くその音に、イグニアはゆっくりと目を開いた。


 薄く目を開くと、視界の端で赤い光が揺れている。

 焚き火だった。

 乾いた薪が弾けるたび、小さな火の粉が宙に舞い上がる。

 どうやらアルディスたちは途中で休憩を取っているらしい。

 夜の森はしんと静まり返っていた。遠くで虫の鳴く声が微かに聞こえる。冷たい夜風が木々を揺らし、葉擦れの音がかすかに耳に届く。

 イグニアはそっと布の隙間から顔を出した。

 焚き火の向こう側に、アルディスとエイダンの姿が見える。


 馬は少し離れた場所で休ませているようだった。草を食む音が、静かな夜に溶け込んでいる。

 エイダンは焚き火の前にしゃがみ込み、薪を突きながら小さく息を吐いた。


「アルディス殿下……」


 少し躊躇うように声を出す。


「黒の領土に戻ったとして……また王都から呼び出されるんじゃないんですか?」


 焚き火の光に照らされたアルディスの横顔は、相変わらず静かだった。


「……だろうな」


 短い返事。

 感情はほとんど乗っていない。エイダンは悔しそうに顔を歪めた。


「今回だって……やっと前線から抜けられるように調整して、ようやく神殿に辿り着いたんですよ」


 焚き火の薪を乱暴に突く。


「それなのに、レグナス殿下が決まりを破って、神獣様の広間に先に入っちまった」


 火の粉がぱっと弾ける。


「もしかしたら……先に目にした王家の人間を選ぶとか、そんな決まりだったのかもしれないじゃないですか」


 エイダンは苦々しく続けた。


「じゃなきゃ……」


 拳を握り締める。


「あのレグナス殿下が選ばれるなんて……」


 声が低くなる。


「あんな人が王になったら……」


 その先の言葉は、飲み込まれた。だが、悔しさは隠しきれていない。

 エイダンの顔は、はっきりと歪んでいた。


 アルディスは何も言わない。

 ただ焚き火の向こうから、エイダンを静かに見つめている。


 仮面に隠された顔から、表情は読み取れない。

 だが、その沈黙は決して怒りではなかった。


 むしろ――。


 どこか諦めたような、静かな空気だった。しばらくして、アルディスは小さく息を吐く。


「エイダン」


 低い声だった。


 エイダンがびくりと肩を震わせる。


「……その話はもういい」


 焚き火の火が揺れる。

 アルディスの声は相変わらず淡々としていた。


「王が誰になるかは、俺が決めることじゃない」


 静かな夜に、その言葉だけが落ちる。エイダンは悔しそうに唇を噛んだ。


「ですが……!」


 思わず声を上げる。しかしアルディスは、ゆっくりと首を横に振った。


「それより」


 小さく視線を落とす。

 イグニアが胸元から顔を出しているのに気づいたのだ。

 ほんの一瞬だけ、声が柔らかくなる。


「起きたのか」


 焚き火の光の中で、アルディスの指がそっと伸びた。

 優しく、イグニアの頭を撫でる。

 エイダンはしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。


「……殿下、前から思ってましたけど」


 焚き火を見ながら言う。


「人には冷たいのに、動物には優しいですよね」


 その言葉に、アルディスは何も答えなかった。

 ただ、もう一度だけイグニアの頭を撫でる。その手つきは、相変わらず驚くほど優しい。


 イグニアはその手の温もりを感じながら、小さく目を細めて再び眠りに落ちた。


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