5_災い
アルディスはゆっくりと顔を上げ、紫の瞳を細める。その瞳からは一切の温度が消えていた。
そして、扉がゆっくりと開き始めていた。
扉が軋み、外から眩しいほどの光が差し込む。
そこに立っていたのは、金の髪を持つ青年だった。陽光を受けて輝く髪。整いすぎた顔立ち。透き通るような碧眼。
誰が見ても「美しい王子」と呼ぶだろう容姿だった。だがその顔には、嘲りの笑みが浮かんでいる。
「兄上」
軽やかな声だった。
レグナスはゆっくりと室内へ足を踏み入れる。その背後には、神官や兵士たちがぞろぞろと続いていた。
そして――
その中心に、ひとりの女がいた。
エメラルドのような瞳。淡く輝く髪。
白い肌にはところどころ鱗があり、神秘的で、幻想的で、そして恐ろしいほど美しい。
まるで神話の存在だった。
イグニアはアルディスの胸元に身を潜めたまま、その様子を見ていた。
(……神獣)
胸の奥がざわつく。
確かに美しい。
確かに神秘的だ。
そして、イグニアはある事に気がついてしまう。先ほど広間で彼女を見た時は気づかなかった重要な事──。
(どうして)
イグニアの耳がぴくりと動く。
(どうして……この人が神獣なら、私は何故こんな猫の姿なの?)
そもそも、姿の差がありすぎる。
あちらは神殿の兵士たちが跪くほどの、美しく神秘的な存在。人の姿をした、しかもとんでもない美女だ。
それに比べて、かたや自分はどうだ。
兵士に「毛むくじゃら」と言われた、小さな猫。アルディスの腕の中にすっぽり収まるサイズ。
(いや、ちょっと待って)
どう考えてもおかしい。
同じ神獣なら、せめてもう少し――こう……。
イグニアは思わず自分の前足を見下ろした。
ふわふわの赤い毛。
丸い肉球。
どう見ても猫だ。
(……神獣って、こんな感じだったっけ?)
イグニアはそっと顔を上げ、美しい女をもう一度見た。
そして心の中で、小さく呟く。
(……いや、絶対おかしいでしょこれ)
そんなイグニアの不満を周囲が知る由もなく、レグナスはゆっくりとアルディスの前まで歩み寄った。
その顔には、隠そうともしない優越の笑みが浮かんでいる。
「兄上」
わざとらしく周囲を見渡す。
「随分と……惨めですね。わざわざ辺鄙で化け物が多い黒の領土から、僅かな希望を求めてこの神殿までやってきたと言うのに。まぁ、私はこうなる事がわかってましたが」
兵士たちの間に、くすくすと小さな笑いが広がる。
アルディスは何も言わない。ただ立っている。
その無表情が、かえってレグナスの神経を逆撫でした。
「これでその傲慢たる勘違いに気づいた事でしょう」
レグナスは肩をすくめる。
「どうやら神獣は、私を選んだのですから」
わざとらしく声を張る。
「これで証明されましたね」
碧い瞳がアルディスを見下ろす。
「王位継承に相応しいのは、この私だということが」
沈黙。
アルディスは何も言わない。
視線すら向けない。まるでそこに誰もいないかのようだった。
レグナスの笑みがぴくりと引きつる。
「……聞こえていないのですか?」
アルディスは何も答えない。
レグナスのこめかみに青筋が浮いた。
「兄上」
声が低くなる。
「その醜い顔のせいで耳まで悪くなりましたか?」
周囲の兵士たちが笑う。
「まったく」
レグナスは肩を震わせて笑いながら、自分の左頬を指先で軽く叩いた。
アルディスの仮面をなぞるような、露骨な嘲りの仕草だった。
「その顔を見るたびに思いますよ」
そう言って、今度はその指をアルディスの仮面へ突きつける。
「よくもまあ、そんな火傷面で人前に出られるものだと」
嘲笑が広がる。
「醜いにもほどがある」
イグニアの胸の奥で、怒りが爆発しかけた。
(こいつ……!)
思わず飛び出しそうになる。
今すぐこの場で姿を現し、この男を黙らせてやりたい。
自分も神獣として。
今この場で姿を現せば──しかし。
胸の奥で、何かが強く警告した。
(……だめ)
理由はわからない。だが頭の中で警告音がが響く。
(今、出てはいけない)
イグニアはぐっと爪を引っ込めた。その時だった。
静かだった女が、口を開いた。
「アルディス殿下」
それは鈴のように澄んだ声だった。
先程、イグニアが聞いた彼女の苦しみの声とは全く似つかない。美しい音。
『痛い……痛い……くそ』
あの声は本当に彼女のものだったのだろうか。それほどまでに、目の前の彼女は美しい。
神殿の空気が静まり返る。
エメラルドの瞳がアルディスを見つめる。
「あなたは――災いです」
ざわり、と兵士たちがざわめく。
「あなたが魔獣を呼び寄せるのです」
空気が凍った。
アルディスの表情は変わらない。だが、その眉がほんのわずか動いた。
レグナスは満足げに笑う。
「聞きましたか? 神獣の言葉ですよ、兄上」
アルディスは何も言わなかった。そして――突然、歩き出した。
目を丸くしているレグナスの横を颯爽と通り過ぎる。兵士たちが一斉に身構えるが、アルディスは、誰にも目を向けない。
そのまま扉へ向かう。
「……兄上?」
眉をひそめるてレグナスがアルディスの姿を追うが、アルディスは振り返りもせずにただ静かに言った。
「ならば」
見窄らしい部屋を出ると、廊下にはひとりの兵士が待っていた。先ほど馬を用意すると言って去っていった、あの兵士だった。
アルディスは兵士に視線を送ると、兵士もそれに頷く。
そして、アルディスは淡々と告げる。
「災いは去りましょう」
皮肉の滲んだ声だった。そしてそのまま歩き出す。
レグナスの顔が怒りで歪む。
「……神獣にも選ばれず、それがどういう事かわかってるのか⁉︎ もう貴様は終わりなんだよ‼︎」
レグナスの叫び声を尻目に、アルディスは一度も振り返らず、神殿の廊下を進んでいった。
イグニアは胸元から、そっと振り返る。
遠ざかる神殿の広間。
そこに立つ、美しい女。
神獣と呼ばれる存在。
その姿を見つめながら、イグニアは眉をひそめた。
(……あの人)
胸の奥が、ざわざわと騒ぐ。
あの女性。
あの女性は、本当に――神獣なのか。
その違和感だけが、イグニアの胸に残り続けていた。
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