3_名前
兵士はそっと扉の隙間から外を覗いた。
周囲を警戒するように視線を左右へ走らせる。
しばらくしてから、ゆっくりと首を引っ込めた。
そしてアルディスへ向き直ると、小さくこくりと頷く。
「アルディス殿下、早く行きましょ! 全く……肝が冷える。しかしこの毛むくじゃらどこから忍び込んだんだ? 神獣様の神殿内で猫を飼ってるなんて……良かったら私が捨てておきます」
そう言って、兵士は腕を伸ばした。
アルディスの腕の中にいる小さな獣を受け取ろうと、遠慮のない手が近づいてくる。
(え、ちょ……捨てるって⁉︎)
思わず身体が反応した。気づけば、アルディスの腕に小さな爪を立てていた。
はっとする。
しまった、と慌てて力を抜く。だがアルディスは痛がるどころか、眉ひとつ動かさなかった。むしろ兵士の手から遠ざけるように、ほんのわずか腕を引く。
「アルディス殿下?」
兵士が首を傾げる。アルディスは短く答えた。
「……いい」
「はい?」
「こいつはこのままでいい」
「え……このままって」
一瞬の沈黙。そしてアルディスは何でもないことのように言った。
「俺の猫だ」
「えぇ⁉︎ いつそんな猫拾ったんですか?」
「……」
アルディスは答えない。
兵士はしばらく唖然としていたが、やがて深く息を吐いた。
「……はぁ……わかりました。あとで侍女に子猫用の食べ物でも用意させます」
どこか諦めたような顔で、兵士は扉へ手を掛ける。ぎぃ、と小さな音を立てて扉が開いた。
その向こうには、長い廊下が伸びている。
兵士が先に外へ出ると、アルディスも続いた。腕の中の自分は、自然とその胸に身を預けたまま廊下を見渡す。
どうやらここは神殿の内部らしい。
白い石で作られた廊下は広く、天井は高い。柱には古い紋様が刻まれ、壁には神聖な光を宿したランプが一定の間隔で灯されていた。
静かで、ひんやりとした空気が流れている。
歩いていると、何人かの兵士とすれ違った。
だが──。
誰一人として、アルディスへ声を掛けない。明らかに気付いている。
それなのに、視線を合わせようとしない。
気まずそうに顔を逸らし、わざと道を空けるようにして通り過ぎていく。
(この方は殿下と……呼ばれてたよな。なぜみんな挨拶しないんだ)
不思議に思いながら、周囲を観察する。すると、あることに気付いた。
アルディスを迎えに来た兵士の甲冑と、廊下に立っている兵士の甲冑。
それが、明らかに違う。
迎えに来た兵士の鎧は黒を基調としており、胸当てには鋭い紋章が刻まれている。
装飾は少ないが、実戦を想定した頑丈な造りだ。肩当てには傷跡があり、実際に戦場を経験してきたことがうかがえる。
一方、廊下に立つ兵士たちの鎧は銀色だった。
胸元には王家の紋章が大きく刻まれ、金の縁取りまで施されている。
装飾が多く、どこか儀礼的な印象を受けた。
そして――。
その兵士たちは皆、アルディスを避けるように道を空けている。
(……なにか、おかしい)
胸の奥に小さな違和感が残る。
だが、それを確かめる方法はない。アルディスに聞くこともできない。結局、腕の中で大人しくしているしかなかった。
しばらく歩くと、神殿の奥にある小さな廊下へ入る。
そこは先ほどまでの場所とは明らかに雰囲気が違っていた。
照明は暗く、壁の石も古びている。
そしてたどり着いたのは、ひどく質素な扉だった。
兵士がそれを開ける。
中に入った瞬間、小さな獣は思わず目を丸くした。
部屋が狭い。
神殿の立派な造りとはまるで釣り合っていない。ベッドは簡素な木製。机は小さく、椅子も一脚だけ。窓はあるが、薄い布がかかっているだけで装飾もない。
それどころか、部屋の隅には古い箱が積まれ、壁の漆喰は少し剥がれている。王族の部屋とは思えないほど、見窄らしい。
(王子……なのにこんな部屋を使ってるの?)
だがアルディスは、何の感情も見せなかった。慣れているように部屋へ入り、そのまま奥へ進む。
兵士が振り返った。
「では、アルディス殿下……あまり出歩かないでくださいね。この後、レグナス殿下がどう動くかわかりませんし」
「あぁ、わかってる」
「本当にお願いしますよ! わかってるなら神獣様の広間に行かないでくださいよ」
「……先に向こうが勝手をしたんだ」
その言葉に、兵士はぐっと言葉を飲み込む。
「……っ。とにかく、今は神官たちが神獣様と共に祝福の儀を行なってるはずです。その間に馬の用意をして参ります。絶対レグナス殿下の事だから、アルディス殿下の前に得意げな顔で神獣様を連れてくるはずです。その前にとっとと、黒の領土に戻りましょう」
そう言うと、兵士は慌ただしく部屋を出て行った。ばたんと音を鳴らし、扉が閉まる。
部屋には、静寂が戻った。残されたのは、アルディスと小さな猫だけ。アルディスは簡素なベッドに腰掛ける。
そして腕の中の小さな猫を、静かに見つめた。
「こんなとこで放り出したら、神殿の奴らに見つかった時酷い目に遭わされる」
小さく呟く。その声に、思わず目を丸くした。
優しい手が、そっと頭を撫でる。ゆっくりと、毛並みに沿って。
胸の奥に、ぽかぽかとした温かさが広がる。
こんなふうに撫でられるのは──初めてだった。
「お前が良かったら……俺についてくるか?」
静かな声音だった。問いかけるように。その声を聞いた瞬間だった。
「ニァ」
思わず声が出た。
自分でも驚くほど、はっきりとした鳴き声だった。
まるで──本当に返事をしたみたいに。
アルディスが目を見開く。一瞬の沈黙。
そして、ほんの少しだけ目を細めて笑った。
「そしたら名前をつけてやらないとな」
胸がどきりとする。
名前。そうだ。自分には名前がある。
今は赤毛の猫の姿だが、本来は神獣だ。それに──前世では貴族の娘だった。
名前も、ちゃんとある。……はずなのに思い出せない。
(名前……そう、私の名前は……)
目覚めた時から、不思議な感覚だった。前世の記憶はある。
自分がどんな人間だったのかも覚えている。なのに、どこか空白がある。
そして今。
アルディスの腕の中で抱かれている自分。
男の人にこんなに密着しているのに、不思議と緊張しない。それどころか、安心している。
──神獣として生まれた影響だろうか。
それなら、なぜ前世の記憶が残されたのだろう。まだ目覚めたばかりだ。
神獣という存在であることは理解している。だが、今の状況はほとんど分かっていない。
──私が生きていた時代から、どれくらい経ったのか。
──ここは、あの国の近くなのか。
──妹や、両親……そして、彼は……。
「よし」
突然、アルディスの声が響いた。その瞬間、思考が真っ白になる。アルディスは腕の中の小さな獣を見つめる。仮面の奥の瞳が、真っ直ぐに。
そして静かに言った。
「イグニア……お前の名はイグニアだ」
その名前が耳に届いた瞬間だった。胸の奥で、何かが強く鳴る。アルディスの声が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
──イグニア。
──イグニア。
──イグニア。
その瞳に吸い込まれそうになる。
──イグニア。
そうだ。
それが、私の名前だ。




