2_第一王子
静まり返った神殿の中に、足音が響いた。
重くはない。だが確かな足取り。石の床を踏む音がゆっくりと近づいてくる。
突然のことに、思わず身体を固くした。
先ほどまで兵士たちが大勢いた場所だ。再び見つかれば、どうなるかわからない。逃げようかとも思ったが、足が動かなかった。
扉から入ってきた青年が、こちらへ視線を向けた。
黒い髪。背の高い体躯。顔の半分は仮面で覆われている。そして──静かな気配。
男はゆっくりと歩み寄ってくる。足取りは無駄がなく、重心も安定していた。
それを見た瞬間、胸の奥にふと懐かしい感覚がよぎる。
──この人、強い。
かつて剣を握っていた頃の感覚が、かすかに蘇る。
あの歩き方。あの姿勢。重心の置き方。すべてが洗練されている。戦場を知る者の身体だ。
騎士として鍛えられていた彼女には、それがはっきりと分かった。
そして男は目の前で足を止めた。
仮面の奥の瞳が、小さな獣──自分をじっと見下ろす。
「……おい、どこから忍び込んだんだ」
低く落ち着いた声だった。
耳に届いた瞬間、自分の耳がぴくりと動く。
その声は、不思議と耳に心地よかった。
鋭いわけでも、威圧するわけでもない。ただ静かで、柔らかい響きがある。
小さな耳が、思わずぴんと立つ。
(なぜかわからない……でもすごく安心する声……)
自分でも理由が分からない。
先ほどまで感じていた警戒心が、わずかに和らぐ。
戸惑っている間に、男はゆっくりと膝を折った。
聖樹の根元にしゃがみ込む。
動きは慎重だった。急に近づけば、動物は逃げる。そう知っている者の動きだ。
男はゆっくりと手を差し出す。指先がこちらへ向けられる。
触れるか触れないかの距離で、静かに止まった。
まるで「怖くない」と伝えるように。
恐る恐ると、その手を見つめた。逃げようと思えば逃げられる距離だ。
だが、なぜか足が動かない。
「レグナスに気付かれずにすんで良かったな。運のいい奴だ……だが、いつまでもここにいたら危ないぞ」
青年の声は穏やかだった。
仮面の下で、ほんのわずかに目尻が下がる。
優しい表情だった。
その指先が、そっと頭に触れる。
ふわりと毛並みを撫でる。
一度。二度。三度。
指はとても優しく、力加減も絶妙だった。獣の身体を扱い慣れているのか、嫌な感触がまったくない。
あまりにも心地よく、思わず目を細めた。
自分でも驚くほど、身体が力を抜いている。
撫でる手が止まり、男は小さく息をついた。
そして今度は、両手をそっと差し入れる。
驚くほど慎重な動きで、小さな身体を抱え上げた。軽々と持ち上げられ、視界がふわりと高くなる。
青年の胸元が近くに見えた。
衣服は質の良い布で仕立てられているが、装飾は多くない。王族のような派手さはないが、身分の高さを感じさせる落ち着いた装いだった。
抱き上げられても、不思議と恐怖はなかった。
青年の腕はしっかりとしていて、安心感がある。
「確かにここは寝床には快適だな。でも……神聖な場所だからここにいちゃ駄目だ。まぁ……お前だけの話じゃないんだがな」
青年は小さく苦笑した。わずかに肩が揺れる。
その言葉の意味が、すぐには分からない。
きょとんとした顔で青年を見上げた。
どうしてだろう。
なぜこの男は、ここに来たのだろう。
どうして、自分はこんなにも落ち着いているのだろう。
胸の奥に、言葉にできない感覚が広がっていく。
そんな時だった。
「アルディス第一王子殿下!」
突然、神殿の静寂を破る声が響いた。
その声は切羽詰まっていて、半ば悲鳴に近い。思わず小さな獣の耳がぴくりと動く。
抱き上げていた青年も、わずかに眉を動かし、ゆっくりと振り返る。
神殿の扉の隙間から、一人の兵士が顔を出していた。鎧の肩当てが扉にぶつかり、小さく音を立てている。どうやら急いで駆けつけてきたらしい。息が少し上がり、周囲をきょろきょろと落ち着きなく見回していた。
神殿の最深部という場所の重みを思い出したのか、兵士は慌てて声を潜める。それでも焦りは隠しきれていない。
「見つかったら、面倒なことになりますよ! ただでさえ神獣様がレグナス殿下をお選びになったのですし……」
兵士の言葉に、青年は小さく鼻を鳴らした。
仮面の奥で目が細められる。明らかに、面倒くさそうな顔だった。
青年──アルディスは、腕の中の小さな獣を軽く抱え直しながら、短く言い放つ。
「わかっている」
それだけだった。
あまりにもあっさりとした返事に、兵士は一瞬言葉を詰まらせる。
「……いや、だって頼みの綱の神獣様がレグナス殿下を選んじゃったんですよ⁉︎」
声は小さいが、動揺ははっきりと表れている。
神殿の中に、ほんの一瞬の沈黙が落ちた。
アルディスは何も答えない。
仮面の奥の視線が、わずかに床へ落ちる。だがその表情から感情は読み取れない。
「……」
兵士は困ったように頭を掻いた。
「これから我々はどうしたら……」
言いながら一歩踏み込んだその時、ふと視線がアルディスの腕の中へ向く。
そして、目を丸くした。
「……なんですか、その汚い猫」
沈黙。
小さな自分の耳がぴくりと動く。アルディスは、ちらりと腕の中を見下ろした。
そして何事もない顔で言う。
「……なんでもない」
だが兵士は納得しない。
「いやいやいや!」
声を抑えながらも必死に首を振る。
「こんなとこ見られたら酷い難癖つけられるじゃないですか! 更には神獣様の広間にそんな毛むくじゃらまで入れちゃって!」
兵士は両手をばたばたと振り回しながら、ひどく焦っている様子だった。
その言葉に、むっとして固まる。
(毛むくじゃらって……私のことですか?)
思わず自分の身体を見下ろす。
確かに毛は生えている。
ふわふわだ。
でも――。
(汚いとは思わないんだけど……)
むしろ、綺麗な毛並みだと思う。
そんなことを真面目に考えてしまう自分にも、少し戸惑う。
腕の中でじっとしている小さな獣を見て、アルディスはわずかに目を細めた。
その仕草は、ほんの一瞬だったが、どこか楽しそうにも見えた。
兵士はまだ慌てている。
「本当にまずいんですよ殿下! 今は特にレグナス殿下の機嫌が良いんですから! こんなところ見られたら絶対に――」
そこまで言いかけて、兵士はようやく口を閉じた。
アルディスが静かにこちらを見ていたからだ。仮面の奥の視線は、決して強くはない。
だが、それ以上言うなと告げている。
兵士はごくりと唾を飲み込んだ。
そして、小さく肩を落とした。
「……とにかく、早く戻りましょう」
諦めたようにそう言う。
神殿の中に、再び静かな空気が流れ始めていた。
その中で、自分がまだ混乱していた。
(猫……毛むくじゃら……)
どうやら自分は、完全に猫だと思われているらしい。
しかも、あまり綺麗な猫ではないらしい。
胸の奥に、なんとも言えない気持ちが広がる。
(……いや、別に猫じゃないんだけど)
だがそれを説明する方法は、当然ながら無かった。




